日本の軍隊と缶詰
大日本洋酒缶詰沿革史より
日清戦役の後、陸軍省は糧秣廠を移設し需要の拡大に応じる方針を立て、海軍は指定工場を定めて平時・有事の供給を確実にして再び外国の缶詰の輸入をしない方針を立てていた。(外貨の節約)
日清戦役の後、一時的に缶詰需要が落ちたが、明治30年前後には日本人の海外活動が増加し、移民、航海の船舶用に需要が増大した。
陸軍に於いては一時糧秣廠で福神漬の缶詰を製造していた。
明治27年(1894)の日清戦争以後、広島には陸軍の施設がたくさん造られました。明治30年(1897)、陸軍の糧秣の調達と補給を行う専門の常設機関として、宇品陸軍糧秣支廠の前身を広島市宇品海岸に設置されました。日清戦争時、民間調達の缶詰に石が入るなどの不良品が多く軍直轄の製造工場を建設する事にしたという伝説もあります。広島市郷土資料館の建物は陸軍中央糧秣廠宇品支廠で缶詰工場だったものです。大正12年7月「第九回開缶研究会」に陸軍糧秣廠の人が参加していたのはこのような理由で、海軍の人たちは参加していないようである。
兵食としての福神漬 海軍
写真で見る海軍糧食史 藤田昌雄著
日本海軍の始まりといっても良い『咸臨丸』の訪米時には船に搭載した食料の中には醤油7斗5升、みそ5樽、漬物6樽、梅干5壷となっている。
また下士官、兵の一日平均糧食は脚気対策時期の漬物の量は明治17年230g、明治18年240g、明治19年220g、明治20年120g、明治21年80g、明治22年90gとなっている。海軍カレーは良く知られているが初期はタクワンが付いていたと思われる。
明治22年になると日本国内における缶詰産業の技術能力の発達により陸軍による缶詰の多用により普及する。海軍に福神漬の缶詰が積込まれたのは陸軍より遅れていたと思われる。海軍では初期の日本製の缶詰食品の不良品が多く、多くは輸入品を使用していた。日本製に切り替わったのは日露戦争であった。
明治21年広島市缶詰製造業者逸見勝誠(現サンヨー堂創始者)が海軍の指定缶詰工場として『牛肉缶詰』『野菜缶詰』を製造納入していた。
敷島漬(福神漬)
大正12年に表彰を受けたサンヨー堂の敷島漬は「サンヨー堂85年史」によると「野菜缶詰」から福神漬に向かったようでどうして「敷島漬」と命名したか書いてありませんでした。福神漬が商標登録してあって避けたのだろうか。
同封してあった缶詰ラベルには目方が書いてあって、中身は340g(13オンス・90.7匁)つまり現在の缶詰規格では4号缶となる。多分この規格が広島の軍隊に納入されていたのだろう。
「85年史」を読むと社業の発展の歴史と「石の缶詰」事件に目がいく。日本缶詰協会の事件の顛末から「大倉喜八郎は冤罪」となるのだがどうして喜八郎の事件になってしまったのだろうか。
「人間大倉喜八郎」 横山貞雄著93頁
翁の一言
日清戦争が終わって間もない頃、ある人が横須賀からの上り列車に乗ると大倉喜八郎も乗っていた。その人は当時すでに世間に伝わっている風説を話し、大倉喜八郎をなじった。
「貴下は実にけしからんやつだ、日本国民ならばそんなことは出来ることでもない。貴下は自分のやったことをどう思う。恥ずべきことだと思わんか?」と興奮して詰め寄ったが、けれど大倉は怒りもせず彼の経歴を話した。ますますある人は怒り「私は貴下の経歴など聞きたくも無い。貴下はそういう行いを恥じないのかということを聞いているのだ」大倉の答えは「私はそのことに関して何も申し上げない。言えば弁解となる、言ったとしても貴下の疑いは晴れるものではないのです。ただ、大倉は決してウワサのような国家のためにならぬようなことをする人間ではないと言っておきます。長い目で見てください、今に解ります。大倉は国家を思う人間であると言うことがわかる時が来ます。それまで何も言いません」それでもある人は新橋に着くまで大倉に暴言をしていた。汽車が新橋に着くと大倉はある人に向かって「人間は何でも辛抱が肝腎ですよ」といて別れた。
大倉喜八郎が日清戦争後、樽入り福神漬を献納したのは風説「石の缶詰」を避けたのであろうか。日清戦争後間もなく「死の商人」のウワサが出ていたのだろうか。
大日本洋酒缶詰沿革史より
日清戦役の後、陸軍省は糧秣廠を移設し需要の拡大に応じる方針を立て、海軍は指定工場を定めて平時・有事の供給を確実にして再び外国の缶詰の輸入をしない方針を立てていた。(外貨の節約)
日清戦役の後、一時的に缶詰需要が落ちたが、明治30年前後には日本人の海外活動が増加し、移民、航海の船舶用に需要が増大した。
陸軍に於いては一時糧秣廠で福神漬の缶詰を製造していた。
明治27年(1894)の日清戦争以後、広島には陸軍の施設がたくさん造られました。明治30年(1897)、陸軍の糧秣の調達と補給を行う専門の常設機関として、宇品陸軍糧秣支廠の前身を広島市宇品海岸に設置されました。日清戦争時、民間調達の缶詰に石が入るなどの不良品が多く軍直轄の製造工場を建設する事にしたという伝説もあります。広島市郷土資料館の建物は陸軍中央糧秣廠宇品支廠で缶詰工場だったものです。大正12年7月「第九回開缶研究会」に陸軍糧秣廠の人が参加していたのはこのような理由で、海軍の人たちは参加していないようである。
兵食としての福神漬 海軍
写真で見る海軍糧食史 藤田昌雄著
日本海軍の始まりといっても良い『咸臨丸』の訪米時には船に搭載した食料の中には醤油7斗5升、みそ5樽、漬物6樽、梅干5壷となっている。
また下士官、兵の一日平均糧食は脚気対策時期の漬物の量は明治17年230g、明治18年240g、明治19年220g、明治20年120g、明治21年80g、明治22年90gとなっている。海軍カレーは良く知られているが初期はタクワンが付いていたと思われる。
明治22年になると日本国内における缶詰産業の技術能力の発達により陸軍による缶詰の多用により普及する。海軍に福神漬の缶詰が積込まれたのは陸軍より遅れていたと思われる。海軍では初期の日本製の缶詰食品の不良品が多く、多くは輸入品を使用していた。日本製に切り替わったのは日露戦争であった。
明治21年広島市缶詰製造業者逸見勝誠(現サンヨー堂創始者)が海軍の指定缶詰工場として『牛肉缶詰』『野菜缶詰』を製造納入していた。
敷島漬(福神漬)
大正12年に表彰を受けたサンヨー堂の敷島漬は「サンヨー堂85年史」によると「野菜缶詰」から福神漬に向かったようでどうして「敷島漬」と命名したか書いてありませんでした。福神漬が商標登録してあって避けたのだろうか。
同封してあった缶詰ラベルには目方が書いてあって、中身は340g(13オンス・90.7匁)つまり現在の缶詰規格では4号缶となる。多分この規格が広島の軍隊に納入されていたのだろう。
「85年史」を読むと社業の発展の歴史と「石の缶詰」事件に目がいく。日本缶詰協会の事件の顛末から「大倉喜八郎は冤罪」となるのだがどうして喜八郎の事件になってしまったのだろうか。
「人間大倉喜八郎」 横山貞雄著93頁
翁の一言
日清戦争が終わって間もない頃、ある人が横須賀からの上り列車に乗ると大倉喜八郎も乗っていた。その人は当時すでに世間に伝わっている風説を話し、大倉喜八郎をなじった。
「貴下は実にけしからんやつだ、日本国民ならばそんなことは出来ることでもない。貴下は自分のやったことをどう思う。恥ずべきことだと思わんか?」と興奮して詰め寄ったが、けれど大倉は怒りもせず彼の経歴を話した。ますますある人は怒り「私は貴下の経歴など聞きたくも無い。貴下はそういう行いを恥じないのかということを聞いているのだ」大倉の答えは「私はそのことに関して何も申し上げない。言えば弁解となる、言ったとしても貴下の疑いは晴れるものではないのです。ただ、大倉は決してウワサのような国家のためにならぬようなことをする人間ではないと言っておきます。長い目で見てください、今に解ります。大倉は国家を思う人間であると言うことがわかる時が来ます。それまで何も言いません」それでもある人は新橋に着くまで大倉に暴言をしていた。汽車が新橋に着くと大倉はある人に向かって「人間は何でも辛抱が肝腎ですよ」といて別れた。
大倉喜八郎が日清戦争後、樽入り福神漬を献納したのは風説「石の缶詰」を避けたのであろうか。日清戦争後間もなく「死の商人」のウワサが出ていたのだろうか。