年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

台湾の梅雨入り 2021

2021年05月08日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
今半導体のもの不足が世界の企業で問題となっていて、特に自動車が一番目立って減産しているようだ。そこにコロナによって自宅で仕事や学習をするようになりIT機器が急に個人まで必要になり、さらに工場の火災・停電等によって、安価だった低機能の半導体にも需要が急速に伸び、それが無理な稼働で火災を招くという結果をもたらしているようだ。さらに台湾では半導体工場の洗浄用の水が渇水で不足していて、今年の梅雨入りは例年より期待感が強い様だ。この時期は直撃する台風も少なく、一気に満水となることは無い様だ。
 終戦の年、1945年の5月の台湾の天気情報は今でも日本では収集できないし、米軍の情報でも現地に観測所はないので平年の推計で行くしかない。コロナの自粛解禁が終われば台湾協会で天気情報を入手したいが、今年は天気アプリでチェックしてみた。日本陸軍の台湾八塊基地から叔父らの沖縄嘉手納沖に集結していた米軍艦船に特攻したのは5月20日の夕刻で沖縄では午後7時20分頃となっていた。晴れていたら西日の夕日だろう。台湾は沖縄から見ると西に当るので、梅雨の雨雲の下を低空で飛行し、レイダーに感知されなければ特攻は成功すると計画されたようだ。同日夕刻から九州鹿児島知覧基地から台湾と同型の戦闘機隼で振武隊の十数機飛び立ち、これは米軍に感知されていたかもしれない。東西からの特攻と雲の下を飛行した叔父たちによって、この時期としては米軍に多大な被害を与えた記録となっている。(米軍の記録でも数隻の被害が記録されている。)
 叔父たちの特攻のあと米軍は台北に5月31日に大空襲をかけ、焼き払った。台北大空襲は戦後の記録でもあまり調べる人はいないようだ。この空襲が叔父らの特攻の十日ほど後だったので、もしかすると米軍の報復攻撃だったかもしれない。

アメリカ軍による台北空襲で最も被害の出た1945年(昭和20年)5月31日の空襲である。フィリピンのスービック湾に駐留するアメリカ第5空軍は、5月31日の午前10時より午後1時まで台北を目標とした空襲を加えた。
目標となったのは台北の軍事施設を3,800発の強力な爆弾が投下された。この空襲で多数の台湾在住の人が死去した。後にわかったことだがこの日の台湾全体の攻撃で日本の台湾航空隊(陸軍・海軍)の航空戦力が消えた。7月20日に叔父たちの陸軍飛行204戦隊の隊員が沖縄に特攻したのだが、飛行機は被害を受けた機体をかき集め4機にして特攻したが戦後に帰国した同期の隊員証言によると悲惨な特攻で部品をかき集めた機体はやっと飛行に耐える程度で自殺飛行と思える。記録によると途中に撃墜されたようだ。台湾陸軍の他の本土等の飛行隊が特攻しているのに何もしていないと言われるのを恐れたのだろうか。この後一月で戦争が終わった。この事実を今調べている人の話ではメンツだけの特攻のような気がする。最初から戦果は予定されていない特攻のようだった。

 あの世で叔父の霊魂はまだ成仏していないようで、しばしば生きている子孫に忘れるなと指示している気がする。
コメント
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