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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 33

2009年12月16日 | 福神漬
福神漬物語 33
上野・池の端酒悦さんのホームページから
『福神漬は十五代酒悦店主野田清右衛門によって発明されるのですが、彼は一風変わった人で明治4年に断髪令(ヘアースタイルの自由化)が出たにもかかわらず、77歳で没する迄ちょんまげをつけていました。又、一方では山岡鉄舟、五代目菊五郎などと交友のあった文化人でもありました。』これはどの様な意味があるのでしょうか。
明治の中頃まで東京の人達は文明開化に最も早く接していながら長い江戸幕府時代の生活に慣れていて新しい文明に接することが慣れない人がむしろ多かった。考えてみれば当たり前のことだが明治20年頃までは江戸時代に生まれた江戸っ子と維新後日本各地から上京してきた新しい時代の担当者となっていく人と明確に区分できていた。東京人となった江戸っ子は御一新とも呼んでいた。なじめない政権と文明開化という現実に対応できない人の20年でもあった。そして明治新政権の恩恵を受けない人たちが下谷つまり上野浅草方面に居住していた。
特に明治15年頃からの大蔵卿松方正義が行ったデフレ政策によって経済が不況になり、かなり生活に苦労したようである。そんな時代が福神漬創生の背景にあるとは調べている間に気がついた。漬物なんかは文献にもなく後で事実が残るだけで、残れば良い方で一時的なものは消えていってカスだけ言い伝えとして残っていく。
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福神漬物語 32

2009年12月15日 | 福神漬
海軍は輸入缶詰、陸軍は購入 田中正造全集第7巻522頁
明治29年1月24日田中正造の質問書に対しての明治政府の答弁書
 缶詰肉について海軍省は東京市の営業者買い上げをせず、これに反して陸軍省は東京市民より買い上げをしているのは、即ち海軍糧食は現品給与なるがゆえに平時に於いて航海のために缶詰肉を使用しており,航海日数が長きわたるし、また熱帯地方を通過する場合は従来内地製造品は到底保存に耐えず、常に舶来品を購入せざるを得ず、また貯蔵品もある。ただ僅かに試験用として内地製造品を買い入れたのみである。要するに海軍において需用の缶詰肉は主として外国品を購入していて、陸軍と比較することは出来ない。この答弁から、日清戦争時には福神漬の缶詰が海軍船には積まれていないことがわかる。もしこの当時から海軍カレーがあったとしても福神漬が添付されていなくて沢庵が付いていただろう。


明治28年2月10日都新聞
第八期帝国議会 衆院(2月9日)
 改進党の栃木鎮台田中正造は開会第一に壇上に現れて虎の吼ゆる如きの大声を放ちて缶詰買い上げに関して政府に質問の要旨を述べた。例の木綿の黒紋付を着た大男の壇上に現れたのは(今国会に)始めてである。
 途中略
征清の軍隊が凱旋の暁には(不正な行為をした)姦商の首が飛ぶかも知れないと罵り、原稿用紙を巻き演壇を叩きて、満面を赤くして意に任せて怒鳴ったのは田正君(田中正造)近来の痛快なる演説なりき。

 挙国一致でなければならない状況で日清戦争の勝利の目途も見え、世間でささやかれている軍用缶詰購入に関しての不正行為を糾弾していた。しかし、この時点では「石の缶詰」の話は出ていない。田中の演説では軍人は馬を尊ぶので消えた2600頭余の馬肉を軍人に食べさせたのは許さないと締めくくっている。この後政府の答弁が出てくる。

明治時代の食べ物の文献で西洋から始めて入った食物とか肉食のように
急に政府が奨励した習慣などの文献は多いが漬物のように江戸時代も明治時代もあまり変わらない物は記述されることも無く中々見つからない。



明治28年2月の田中正造の国会質問『牛肉缶詰買い上げに関する件』に対しての政府答弁は日清戦争当時の食品業界が良くわかる。田中正造全集第7巻513頁
『軍隊用牛肉缶詰買上等に関する質問に対する答弁書』 明治28年3月2日
第一 陸軍は牛肉缶詰を購買する場所は東京の外に仙台・名古屋・京都・和歌山・大阪・神戸・広島・長崎等あって,質問者の言うように決して専ら東京のみに限ってはいない。
 昨年(明治27年)6月朝鮮のこと(日清戦争)起こり,兵食用として牛肉缶詰の需用を生じるや,当時営業者中資力確実・製法完全と認める者が甚だ少なく,とっさの間この需用に応じる者なきを以って、舶来品を普通の商人から在庫品を購入していたが,(輸入品から)8・9月に至ると東京その他各地において缶詰製造に従事する者が続々と出,需用に緩急に応じて,これらを営業者より供給させていた。内地の製造額は次第に増加し,ついに外国品の供給を必要としないようになったが然るに内地の製造品はなお幼稚にして完全なる物でなく、酷暑に際し往々腐敗する缶詰があると聞き、一時製造所を官設にする議論があったけれど、民間業者がようやく缶詰製造業を興さんとするとき、官設工場によって,需用を途絶することは缶詰製造業の発展を妨げることになるので、むしろ缶詰製造業に従事する者を奨励誘導することによって改良を計るほうが良いとの議論が決まった。
 よって本業に従事する者を集めて協議せんと,10月15日を期してこれ(缶詰営業者)を本省に集めたが当日来会する者40名に達し,この際本省において専門の官吏を以って委員を組織し,営業者に指示する製造の方法,監督の範囲,検査の順序及び価格の如何等を調査し,さらに11月10日を期して見本缶詰を提出することを要請した。また東京府下を始め日本各地に委員を派遣して工場に就いて具体的に検査して製法の良く無い者は,懇切丁寧に指導した結果、今日あるように各地の製造者がその製造能力に応じて,軍需をまかなうようになった。今その製造所を述べると、東京は18,仙台3、名古屋1、京都3、和歌山1、大阪神戸岡山各4、広島6、長崎1を合わせて全国45箇所。
 而して,陸軍省が供給を独り関西地方に頼らないのは協議の結果で、牛肉缶詰の製法がよく、価格の適正なものであるならばどの地方でも購入しても良いとしている。

日清戦争時は軍用食料の確保まで準備が十分でなかった。輸入の缶詰から国産に替えたのは表向き国内産業の育成と述べているが、当時においては外貨が軍艦購入に費やされ食料購入に外貨を使うことは嫌われていた。これは綿花の輸入と砂糖の輸入と同じ状況である。綿花は綿布となって外貨を稼ぐが砂糖は専ら国内消費で嗜好品で無駄と思われ、戦費をまかなうため酒税と共に課税された。



第二 陸軍省が缶詰の買い上げを為すにはこれを従来の経験のある営業者から求めず専ら新設の業者から求めたことは無い。その供給者の中には間々新設創業の者、廃業再興の者無きにしも非ずといえども、これらの業者は皆適当な技術者を有する者にして,専ら新設の業者から購入するのでなく,資力・技術力の適否を問わず購入することは断じて無い。
 また質問者(田中正造)は製靴商・タバコ商が缶詰商となって缶詰を製造するごときといえども,陸軍省の指定した供給者はいろいろな業を営むといえど必ず適当な缶詰製造技術者を有し,製造の指揮・監督に欠けるところは一つもない。往々缶詰業のごときは資本家にして技術者を兼ねる者は稀で資本家は技術者を雇用するか共同経営となる者である。陸軍省は常に資本と技術の欠けることなきを調査していて、この点において資本家の専業者か兼業者かを問うことは無い。

 新規参入の業者がふえて、不正行為のウワサが出ていた。この年(明治28年)5月に陸軍省経理局員は広島への出張の途中自殺している。



第三 陸軍省が牛肉缶詰を買い上げを為すにあたり、その取捨選択する方法は協議会に参加し、陸軍省が指定する方法に従い誠実堅固に製造するものを選んでいて、今後もし粗製濫造に流れるかもしくは不正の行為あるものは拒絶するは勿論である。また納品された缶詰は製缶・精肉より荷造りに至るまで陸軍省の指定の方法に適しているか否かを点検し、かつ若干開缶実検品する手続きである。こうしてその製造能力を検定し製品の良否を判別するがごときはみな委員の任せ、その需要を各供給者に分割注文するごときはすべて購入責任者に与える。もし不良の品が発見された時は委員より検査の状況を購買主任者に通知し、事情軽きものは倉庫官吏によって処分し、事情重きものは購買主任者の指揮を待たせ、即ち取捨選択の処分は委員と購買責任者とを待って初めて実行する者であって一人二人の吏員によって左右されるべきことではない。
 終わりに一言すべきことは陸軍省は常に弊害の起こるところに注意しており、弊害を防ぐ方策を採っており当初の方針を変更して一方に利のあるように製造の方法・検査の規定を設ける等の事実は無いことを断言する。

田中正造は足尾鉱毒事件の告発で知られているが「牛肉缶詰購入」の件でも国会にて何回も質問している。しかし当時の衆議院の議事録からは「石の缶詰」の件には触れていない。むしろ消えた2600頭余の馬肉を問題としている。当時は乗り合い馬車が人力車と共に普及していて、馬に対して虐待ともいえるくらい酷使していて、弱った馬が馬肉となって缶詰に入っても判らない状況であった。このことは田中の演説で明治27年の頃は東京には二箇所の屠畜場があった。浅草と芝にあり半年で浅草では4~500頭の馬を処理していた。日清戦争が始まると2600頭余の馬が処理されたが、馬肉販売業者が増えず、何処に消えたかうわさになっていたのだろう。

 奸商と購買の癒着は日清戦争時からあって,『死の商人』とわれた大倉喜八郎は弁解することなく、風評に対して黙していて,かえって自伝で『上野戦争』のときに彰義隊に監禁され、幕府方に鉄砲を売らないことを理由にしたものだったが、喜八郎は「前に銃を納めたときの代金が未納だ。横浜のガイジン相手に現金商売をやっている者の立場も考えてくれ。」と物怖じせず主張し、開放された逸話のみ強調されていたので、『石の缶詰』事件も何時の間に大倉組の仕業になってしまっても彼は言い訳していない。『サンヨー堂85年史』より
 しかし、石の缶詰事件はどうして大倉喜八郎と結びついたのだろうか。その答えは田中正造全集第7巻529頁に答えが書いてある。それは日清戦争時(明治27年10月)に合名会社大倉組が東京・大阪支店・広島支店で販売者になっている。40匁牛肉缶詰は297万個陸軍が買い上げているが、その内大倉組は約28万3千個、240匁牛肉缶詰は総数約100万個のうち大倉組(東京・大阪・広島)全体で9万個納入している。田中正造の演説と大倉組の陸軍への納入額が多いから風評が立ったのだろう。なお海軍は別の統計と思えわれるから輸入缶詰は更に大倉組から納入されていたかも知れない。

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駿東紀行 その後 2

2009年12月14日 | 福神漬
駿東紀行 その後 2
100年前1909年10月26日伊藤博文が中国で暗殺され、その国葬の準備が日本で用意されている頃、明治42年11月初めに大阪朝日新聞によって日本醤油醸造㈱の不良醤油が報道され始めた。はじめは単に食品偽装の問題から株式市場の問題となり(東京では帝国商業銀行・大阪では北浜銀行)融資している銀行の問題となっていった。
 サッカリンの問題から金融問題になったのは日露戦争後に戦費のため財政危機になった日本政府は砂糖消費を抑えるため、サッカリンという人工甘味料を禁止し、日本領土となった台湾に精糖業を振興し、砂糖輸入を抑止し外貨を節約することが目的であった。当時の外貨の浪費として一番槍玉に上がっていたのは砂糖の消費だった。

 11月後半となると日本醤油醸造の経営問題となり、緊密な関係だった北浜銀行の岩下清周の名前が出てくる。そして翌年尼崎の工場から火災が出て日本醤油醸造が破綻した。鈴木藤三郎は債権者に全財産を提供し、質素に暮らした。明治32年に鈴木の手に入った、裾野市の農場は北浜銀行のものとなり、北浜銀行が破綻した後、刑事被告人だった岩下清周に友人が抵当流れとなった鈴木農場をプレゼントしたという。これが不二農園となり、その中の従業員のため小学校を作った。これが色々な経過を過ぎ、今の不二聖心女子高等学校となったという。

 このような歴史を単独で見たら、食品偽装史、明治金融史とか学校史としか現れないだろう。その中を貫いてゆくのは福神漬とは不思議な感じがする。
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駿東紀行 その後

2009年12月13日 | 福神漬
駿東紀行 その後
東京に戻って資料を確認する。『斯民』は立川市にある都立の図書館に所蔵されている。本当に必要な部分は大正2年10月のところだが余分に借り出したところに鈴木農園のいきさつが書いてあった。多分サッカリン入り醤油事件がなければ、今の不二聖心女子高等学校は存在しなかっただろうし、小林一三はサラリーマン経営者で終わってしまっていただろう。つまり阪急百貨店の福神漬無料提供もすべては日本醤油醸造のサッカリン事件から始まっている。今から百年前の話だがそれぞれの経緯が断片的に伝えられ、今となっては誰も知らない話でカレーライスと福神漬の話が独り歩きしてしまっている。

『斯民』中央報徳会 明治40年3月23日 第12号
鈴木農園の所在地は静岡県駿東郡富岡村定輪寺字桃園
総面積は78町9反1畝13歩
内訳 田 8背3歩
   畑 14町7反1畝21歩
   宅地 1反19歩
   山林 63町9反2畝22歩
買い入れ価格 一万八千円 経費を入れれば三万一千円という。
鈴木藤三郎氏の話によると、幕臣黒田久綱氏他4名と共同し明治6年頃から開墾が始まったが、黒田氏が東京武官として就職し、他の人達は努力して開墾し、さらに黒田氏の援助にもかかわらず、次第に困窮した。されとてこの地を分割して売却するには忍びずといっていたところ、駿東郡長の斡旋でこの地を買い入れたという。桃園にあった鈴木藤三郎の自宅には山岡鉄舟の書による扁額があり『桃園』と書いてあった。
 この農園には小作人が10戸、農繁期には他より10人ほど雇って経営していた。小作人には4間半2間の家屋建築し無料にてこれを貸与し、鍬・鍬等の農機具を与えていた。農場については5町歩ばかりリンゴ・ブドウ・柿等の果樹を栽培していた。野菜は小山にある富士紡績と交渉して、職工のために新鮮な野菜を提供して喜ばれているという。製茶については年一千貫産しているという。目下牛舎を作っていて、肥料をこれによって作るという。その他にアヒル・ニワトリ等を飼っているという。
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年末の情報交換

2009年12月12日 | 築地市場にて
年末の情報交換
一年も終わりの頃となると訪れる客との今年の反省と来年の予想を話すこととなる。昨年の今頃は世間の不景気を見ながら国産嗜好のため結構良かった。しかしこの反動が一年後現れて、大幅税収不足を見たように予想を上回る不景気となった。訪れる経営者も最近入社した社員の学歴が高く、古くから居る社員と釣り合いが取れないという。それだけ地方には仕事が無くなっているということで、親とかを面倒見ない人達は家があるので安い給料でも地方に残ることとなる。通信環境とか道路の整備が済んだとはいえ、東京に比べれば選択の余地は少なく夢がもてそうでもない。そのような漬物業も海外原料で国内製造から海外製造に向いつつある。そうすると地場産業が又消えることとなる。恐ろしい。
 いつか中国の元の為替変動が自由となった時、国内製造に向っても造る工場は塩分で使い物にならなくなって、消えてしまうこともありうる。
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福神漬物語 31

2009年12月11日 | 福神漬
福神漬物語 31
日清戦争時の缶詰御用
牛肉缶詰に石が入っていたと伝えられた事件 

日清戦争が明治27年8月に始まって、11月には難航不落といわれた旅順要塞がたった1日で占領したころ、一隻の陸軍兵士の食料を積載した船が広島から大連に向かった。大連で積み替えた時、荷崩れがあり牛肉缶詰の中から石が出てきた。後で調べたら途中で石と牛肉缶詰とすり替えられたのだったが、事情がわからず当時は新聞記事で納入業者が糾弾されていた。
 足尾鉱毒の告発で知られている衆議院議員田中正造は明治28年2月第8回国会において質問状を出して論争に向かった。(田中正造全集第7巻)
軍隊用牛肉缶詰に買い上げに関する質問書
日清戦争が起こるや軍隊の需要は頗る増加し1日1万個を超えるようになっている。そして牛肉缶詰のごときはその一つである。これを見て投機商人は,製靴商が缶詰を造ったり,タバコ商が缶詰を造ったりしていた。これ等の人々は缶詰製造の経験無く一時の利益を得ようとして粗製濫造になり腐敗して用を成さないものがあった。混ぜ物もあり驚くことは無い。その買い上げ価格も品質によった値段でなく、世間では非難の声が満ち満ちている。
 中略
質問第一 政府が軍隊用牛肉缶詰を原料安価、輸送便利、低価格の地の缶詰を買い上げず価格の高い東京産の買い上げするのはどんな理由か?
質問第二 政府が軍隊用牛肉缶詰の買い上げをするのに経験のある業者のでなく新設の業者から買い上げるのはどんな理由か?

質問第三 政府が軍隊用牛肉缶詰の買い上げをするにあたって取捨選択の方法の順序はどのようなものか?

このような質問状を出していた。明治27.年28年当時において福神漬はまだなじみが無いから(前例が無い)軍隊に採用されるまで大変だっただろう。


今は(日清戦争中)戦時中なればこのような質問はしたくないのだが、軍事費は幾ら国家の負担といえども、彼の姦商と言う輩は官吏をごまかし、軍人の健康に関係あること、総じて衣食住に関係あることの問題を聞くと政府に忠告せざるを得ない。たとえ兵站部の不正という質問するも海陸軍を攻撃することでなく、その軍隊のためと思って質問しているのである。
 さて缶詰の質問は些細なことであるがよく全体の問題を現している。諸君、缶詰というのは生産地で造って、需要の多い所に販売する物である。然るに昨年(明治27年)7月頃から東京で缶詰屋が俄かに増えて,そこから缶詰を軍隊用に買い上げるということは訳のわからない事である。議員諸君、食用の牛肉は兵庫がよく、関東は牛乳用である。兵庫県では明治16年缶詰の技師を雇用し、指導して、10年を経てようやくよいものが出来てきた。
 ところが東京はよその余りものの肉が来るし,なお品が少ない。従って缶詰製造業者がいなかったので、製造経験者もいないのである。しかし昨今の状況を見ると、全国の缶詰業者の十中八九は東京の業者で占領している。


田中正造の演説はまだ続く。演説によると日清戦争が始まると急に東京での缶詰業者が急増したことが解る。

 昨年(明治27年)6月、朝鮮に兵を出すと俄かに東京にて牛肉缶詰の投機的業者が増えている。東京は神戸の牛肉より二割高く、更に品が悪いから、実際は3~4割悪いことになる。(日清戦争)開戦以来7月より10月まで東京も何処も(缶詰の)評判が悪く、特に東京の評判が悪いので改革を行なったが、改革することで気が付いたのは良かったのだけれど、しかし改革する前より悪くなった。それは陸軍経理局が缶詰の評判が悪いからと言って、日本中の缶詰営業者を東京に集めた。参加資格を設けて、資格に応ずるものが東京に出て来いというものであった。ところがこの資格調査をするのに、東京の缶詰屋が60人以上あったので、経理局で調べるといつの間に消えてしまったのである。消えてしまったので関西の熟練した業者の御用を命じれば良い筈であるがところがそうでないのである。田舎も東京も御用を仰せつかったのである。
 缶詰製造の方法を一定にして11月10日までに納入せよと決まったのである。缶詰を検査する技師が1人いて11月一ヶ月かかって東京を検分し、関西へは12月一ヶ月かかって検分終え、1月20日にまた東京に全国の缶詰営業者を呼び出したのであります。度々東京に呼び出されるのも東京の業者は近いから良いけれど全国の業者を東京に呼んで御用を命じているのである。また東京の方は一ヶ月検分が早いから御用の規格が知れており対応が出来ているので買い上げの量が多いのであります。
 缶詰の肉は正しい物でもないものがあるある。牛肉の中に馬の肉や臓物を混ぜても判らないのである。軍人は馬を尊ぶので馬を食べると言うことは好まないので、政府にあえて忠告するのである。今は政府と国民が一体となって敵国と当っているので,姦商の御用商人をけん制し、制裁しなければならないのであります。政府や軍人のため4割も安い神戸の立派な牛肉缶詰業者があるのになぜ頼まないのか。神戸は輸送に便利な港があるのに御用の8~9割を東京の業者に任せると言うことは当局に何か悪い考えがあるのではないだろうか。東京より安く出来る神戸に缶詰の製造所を設け自ら官吏を派遣し監督すれば安く出来るのではないか。


田中正造の考えが後に陸軍に於いて牛肉缶詰を製造する端緒となったのだろうか。この時点ではまだ「石入り牛肉缶詰」の風評は出ていない。
田中正造の国会での追及は東京の俄かに増えた牛肉缶詰業者に御用のほとんど注文が行き、不正・不良品が出回っていることを政府に向かって注意している。
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駿東紀行 3

2009年12月10日 | 福神漬
駿東紀行 3
裾野市鈴木図書館で司書の人と裾野市の話をしながら、江原素六の史料が揃っている沼津市明治資料館にむかう。丁度12月から特別展「沼津兵学校のすべて」を開催していた。
 大正2年9月に鈴木藤三郎が亡くなったとき、森町で彼の資金で作られた周智農林学校において葬儀が行われた。大日本報徳社長岡田良平、貴族院議員江原素六が葬儀に参加している。素六はわざわざ静岡県周智郡森町での葬儀に東京より参加している。何か行かねばならない事情があったのだろうか?しかし沼津明治資料館には具体的な資料がなく二人が並んで写っている写真しかなかった。ただ江原素六が明治33年麻布中学を創立する際に静岡県の人達からかなりの寄付金が集まったという。
 素六と藤三郎の接点は何処にあったのだろうか。明治32年鈴木は裾野市桃園に報徳思想を実践する農場を開いている。ほぼ同時期に江原は地元の人達のため、愛鷹山山麓の払い下げの許可を得ている。明治39年鈴木は周智農林学校を創立している。何か江原から得るものがあったのだろうか。
 結局沼津では調査の進展はみられず、大正二年十月『斯民』を読むしかないだろうか。報徳思想とカトリックの関係が不二農園から気になる。結構明治幕臣のキリスト教は今の信者の考えととずいぶん異なる。

士族授産事業は旧幕臣幹部の明治に入って最も関心のあることの一つだった。軍隊用の製靴業とか牧畜、北海道開拓、海外移民など旧来の農民と衝突しない産業の育成を考えていた。明治に入って創られた福神漬の発展の背景にこのような複雑な事情が隠れている
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福神漬物語 30

2009年12月09日 | 福神漬
牛肉缶詰に石が入っていたと伝えられた事件
明治27年12月31日読売新聞
商人の奸計
御用商人徒、軍事に託して思いがけない利益を得ようとする者がしきりに不正の行動をする由を聞いていたが、さきの名古屋丸にて戦地に送りたる缶詰の箱に過半大石を埋め合わせありと言えり。これを上納せし商人はまだ詳細は知るらねども製造元は東京○○町某であると聞いている。嗚呼姦商。

これだけの記事が年末に出た。田中正造全集第7巻によると陸軍に牛肉缶詰納入業者は明治27年10月では東京の業者のなかには大倉組があり、逸見勝誠(サンヨー堂創始者)の名は東京には無く広島にある。東京○○町某と報道され大倉組が大倉喜八郎と思われてしまったかも知れない。年明けに詳細の記事が出るのだが「姦商」の印象は消えなかったのであろう。


日清戦争が明治27年8月に始まって、11月には難航不落といわれた旅順要塞がたった1日で占領したころ、一隻の陸軍兵士の食料を積載した船が広島から大連に向かった。大連で積み替えた時、荷崩れがあり牛肉缶詰の中から石が出てきた。後で調べたら途中で石と牛肉缶詰とすり替えられたのだったが、事情がわからず当時は新聞記事で納入業者が糾弾されていた。
 足尾鉱毒の告発で知られている衆議院議員田中正造は明治28年2月第8回国会において質問状を出して論争に向かった。(田中正造全集第7巻)
軍隊用牛肉缶詰に買い上げに関する質問書
日清戦争が起こるや軍隊の需要は頗る増加し1日1万個を超えるようになっている。そして牛肉缶詰のごときその一つである。これを見て投機の人は,製靴商が缶詰を造ったり,タバコ商が缶詰を造ったりしていた。これ等の人々は缶詰製造の経験無く一時の利益を得ようとして粗製濫造になり腐敗して用を成さないものがあった。混ぜ物もあり驚くことは無い。その買い上げ価格も品質によった値段でなく、世間では非難の声が満ち満ちている。
 中略
質問第一 政府が軍隊用牛肉缶詰を原料安価、輸送便利、低価格の地の缶詰を買い上げず価格の高い東京産の買い上げするのはどんな理由か?
質問第二 政府が軍隊用牛肉缶詰の買い上げをするのに経験のある業者のでなく新設の業者から買い上げるのはどんな理由か?
質問第三 政府が軍隊用牛肉缶詰の買い上げをするにあたって取捨選択の方法の順序はどのようなものか?

このような質問状を出していた。明治27.年28年当時において福神漬はまだなじみが無いから(前例が無い)軍隊に採用されるまで大変だっただろう。

軍隊用牛肉缶詰に買い上げに関する演説 要約
今は(日清戦争中)戦時中なればこのような質問はしたくないのだが、軍事費は幾ら国家の負担といえども、彼の姦商と言う輩は官吏をごまかし、軍人の健康に関係あること、総じて衣食住に関係あることの問題を聞くと政府に忠告せざるを得ない。たとえ兵站部の不正という質問するも海陸軍を攻撃することでなく、その軍隊のためと思って質問しているのである。
 さて缶詰の質問は些細なことであるがよく全体の問題を現している。諸君、缶詰というのは生産地で造って、需要の多い所に販売する物である。然るに昨年(明治27年)7月頃から東京で缶詰屋が俄かに増えて,そこから缶詰を軍隊用に買い上げるということは訳のわからない事である。議員諸君、食用の牛肉は兵庫がよく、関東は牛乳用である。兵庫県では明治16年缶詰の技師を雇用し、指導して、10年を経てようやくよいものが出来てきた。
 ところが東京はよその余りものの肉が来るし,なお品が少ない。従って缶詰製造業者がいなかったので、製造経験者もいないのである。しかし昨今の状況を見ると、全国の缶詰業者の十中八九は東京の業者で占領している。

田中正造の演説はまだ続く。演説によると日清戦争が始まると急に東京での缶詰業者が急増したことが解る。
 
 昨年(明治27年)6月、朝鮮に兵を出すと俄かに東京にて牛肉缶詰の投機的業者が増えている。東京は神戸の牛肉より二割高く、更に品が悪いから、実際は3~4割悪いことになる。(日清戦争)開戦以来7月より10月まで東京も何処も(缶詰の)評判が悪く、特に東京の評判が悪いので改革を行なったが、改革することで気が付いたのは良かったのだけれど、しかし改革する前より悪くなった。それは陸軍経理局が缶詰の評判が悪いからと言って、日本中の缶詰営業者を東京に集めた。参加資格を設けて、資格に応ずるものが東京に出て来いというものであった。ところがこの資格調査をするのに、東京の缶詰屋が60人以上あったので、経理局で調べるといつの間に消えてしまったのである。消えてしまったので関西の熟練した業者の御用を命じれば良い筈であるがところがそうでないのである。田舎も東京も御用を仰せつかったのである。
 缶詰製造の方法を一定にして11月10日までに納入せよと決まったのである。缶詰を検査する技師が1人いて11月一ヶ月かかって東京を検分し、関西へは12月一ヶ月かかって検分終え、1月20日にまた東京に全国の缶詰営業者を呼び出したのであります。度々東京に呼び出されるのも東京の業者は近いから良いけれど全国の業者を東京に呼んで御用を命じているのである。また東京のほうが一ヶ月検分が早いから御用の規格が知れており対応が出来ているので買い上げの量が多いのであります。
 缶詰の肉は正しい物でもないものがあるある。牛肉の中に馬の肉や臓物を混ぜても判らないのである。軍人は馬を尊ぶので馬を食べると言うことは好まないので、政府にあえて忠告するのである。今は政府と国民が一体となって敵国と当っているので,姦商の御用商人をけん制し、制裁しなければならないのであります。政府や軍人のため4割も安い神戸の立派な牛肉缶詰業者があるのになぜ頼まないのか。神戸は輸送に便利な港があるのに御用の8~9割を東京の業者に任せると言うことは当局に何か悪い考えがあるのではないだろうか。東京より安く出来る神戸に缶詰の製造所を設け自ら官吏を派遣し監督すれば安く出来るのではないか。

田中正造の考えが後に陸軍に於いて牛肉缶詰を製造する端緒となったのだろうか。この時点ではまだ「石入り牛肉缶詰」の風評は出ていない。
田中正造の国会での追及は東京の俄かに増えた牛肉缶詰業者に御用のほとんど注文が行き、不正・不良品が出回っていることを政府に向かって注意している。

海軍は輸入缶詰、陸軍は購入 田中正造全集第7巻522頁
明治29年1月24日田中正造の質問書に対しての明治政府の答弁書
 缶詰肉について海軍省は東京市の営業者買い上げをせず、これに反して陸軍省は東京市民より買い上げをしているのは、即ち海軍糧食は現品給与なるがゆえに平時に於いて航海のために缶詰肉を使用しており,航海日数が長きわたるし、また熱帯地方を通過する場合は従来内地製造品は到底保存に耐えず、常に舶来品を購入せざるを得ず、また貯蔵品もある。ただ僅かに試験用として内地製造品を買い入れたのみである。要するに海軍において需用の缶詰肉は主として外国品を購入していて、陸軍と比較することは出来ない。この答弁から、日清戦争時には福神漬の缶詰が海軍船には積まれていないことがわかる。もしこの当時から海軍カレーがあったとしても福神漬が添付されていなくて沢庵が付いていただろう。

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福神漬物語 29

2009年12月08日 | 福神漬
日本の軍隊と缶詰
大日本洋酒缶詰沿革史より
日清戦役の後、陸軍省は糧秣廠を移設し需要の拡大に応じる方針を立て、海軍は指定工場を定めて平時・有事の供給を確実にして再び外国の缶詰の輸入をしない方針を立てていた。(外貨の節約)
 日清戦役の後、一時的に缶詰需要が落ちたが、明治30年前後には日本人の海外活動が増加し、移民、航海の船舶用に需要が増大した。
陸軍に於いては一時糧秣廠で福神漬の缶詰を製造していた。
明治27年(1894)の日清戦争以後、広島には陸軍の施設がたくさん造られました。明治30年(1897)、陸軍の糧秣の調達と補給を行う専門の常設機関として、宇品陸軍糧秣支廠の前身を広島市宇品海岸に設置されました。日清戦争時、民間調達の缶詰に石が入るなどの不良品が多く軍直轄の製造工場を建設する事にしたという伝説もあります。広島市郷土資料館の建物は陸軍中央糧秣廠宇品支廠で缶詰工場だったものです。大正12年7月「第九回開缶研究会」に陸軍糧秣廠の人が参加していたのはこのような理由で、海軍の人たちは参加していないようである。

兵食としての福神漬 海軍
写真で見る海軍糧食史 藤田昌雄著
日本海軍の始まりといっても良い『咸臨丸』の訪米時には船に搭載した食料の中には醤油7斗5升、みそ5樽、漬物6樽、梅干5壷となっている。
 また下士官、兵の一日平均糧食は脚気対策時期の漬物の量は明治17年230g、明治18年240g、明治19年220g、明治20年120g、明治21年80g、明治22年90gとなっている。海軍カレーは良く知られているが初期はタクワンが付いていたと思われる。
 明治22年になると日本国内における缶詰産業の技術能力の発達により陸軍による缶詰の多用により普及する。海軍に福神漬の缶詰が積込まれたのは陸軍より遅れていたと思われる。海軍では初期の日本製の缶詰食品の不良品が多く、多くは輸入品を使用していた。日本製に切り替わったのは日露戦争であった。
 明治21年広島市缶詰製造業者逸見勝誠(現サンヨー堂創始者)が海軍の指定缶詰工場として『牛肉缶詰』『野菜缶詰』を製造納入していた。
敷島漬(福神漬)
大正12年に表彰を受けたサンヨー堂の敷島漬は「サンヨー堂85年史」によると「野菜缶詰」から福神漬に向かったようでどうして「敷島漬」と命名したか書いてありませんでした。福神漬が商標登録してあって避けたのだろうか。
同封してあった缶詰ラベルには目方が書いてあって、中身は340g(13オンス・90.7匁)つまり現在の缶詰規格では4号缶となる。多分この規格が広島の軍隊に納入されていたのだろう。
「85年史」を読むと社業の発展の歴史と「石の缶詰」事件に目がいく。日本缶詰協会の事件の顛末から「大倉喜八郎は冤罪」となるのだがどうして喜八郎の事件になってしまったのだろうか。
 「人間大倉喜八郎」 横山貞雄著93頁
翁の一言
日清戦争が終わって間もない頃、ある人が横須賀からの上り列車に乗ると大倉喜八郎も乗っていた。その人は当時すでに世間に伝わっている風説を話し、大倉喜八郎をなじった。
「貴下は実にけしからんやつだ、日本国民ならばそんなことは出来ることでもない。貴下は自分のやったことをどう思う。恥ずべきことだと思わんか?」と興奮して詰め寄ったが、けれど大倉は怒りもせず彼の経歴を話した。ますますある人は怒り「私は貴下の経歴など聞きたくも無い。貴下はそういう行いを恥じないのかということを聞いているのだ」大倉の答えは「私はそのことに関して何も申し上げない。言えば弁解となる、言ったとしても貴下の疑いは晴れるものではないのです。ただ、大倉は決してウワサのような国家のためにならぬようなことをする人間ではないと言っておきます。長い目で見てください、今に解ります。大倉は国家を思う人間であると言うことがわかる時が来ます。それまで何も言いません」それでもある人は新橋に着くまで大倉に暴言をしていた。汽車が新橋に着くと大倉はある人に向かって「人間は何でも辛抱が肝腎ですよ」といて別れた。
大倉喜八郎が日清戦争後、樽入り福神漬を献納したのは風説「石の缶詰」を避けたのであろうか。日清戦争後間もなく「死の商人」のウワサが出ていたのだろうか。

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駿東紀行 2

2009年12月07日 | 福神漬
駿東紀行 2
神山復生病院をでて裾野市鈴木図書館に向う。鈴木図書館は地名とは思えないのでその由来を聞く。裾野市出身の鈴木忠次郎氏の寄付によって作られた図書館ということで図書館中央に銅像がある。
裾野市の中央図書館の役割を果たしている鈴木図書館にて郷土資料室の部屋に入り、鈴木農場、及び不二農園ことをしらべる。しかし地元の人もあまり知らないといわれて困ったがしばらくすると温情舎の本を探し出してくれた。
 『われらが学びや温情舎』という本だった。この本によると不二農園は明治8年静岡に移住した旧幕臣7名松平正修、御殿医者津田実、岡田三、古山欽三、高橋次郎、鈴木芳郎、和田正蔵。
 当時の静岡県初代県知事に払い下げを願い桃園の地を得た。苦労した開拓した土地で茶、杉、松、檜などを植えて生活していたが、明治中頃からの不況で生計を立てることが困難となり、明治32年10月精糖業で成功していた鈴木藤三郎が農場の負債を肩代わりし鈴木農場となった。しかし鈴木が日本醤油醸造のサッカリン混入事件で失敗し、大正3年に亡くなると岩下清周氏の不二農園となった。しかしその後まもなく岩下氏は北浜事件が起こり刑事事件の被告となり、岩下氏はこの農園で生活を送るようになった。この農園で働く人達のために小学校を作り温情舎と名付けた。
 この温情舎小学校の校歌は岩下清周の三井銀行時代の部下であった小林一三が作詞し、作曲は宝塚歌劇団だった。
 郷土資料はやはり地元の図書館に行かねばなかなか解らない事を深く感じた。ここから『成功に死し、失敗に生きた』といわれた岩下家族の道が始まり、今の神山復生病院と不二聖心女子中学校高等学校が始まる。全てはサッカリンという人工甘味料の悪戯かもしれない。
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駿東紀行 1

2009年12月06日 | 宅老のグチ
駿東紀行 1
例のよって1000円高速で御殿場インターから御殿場市神山にある財団法人神山復生病院に向う。日本で始めてハンセン病患者を収容した病院と知られているがここにある記念館を福神漬の関連で訪問する人はいまだかって一人もなかっただろう。これも小林一三の阪急百貨店の食堂の逸話がなければ無視しても良かったのだが資料調査が難航している以上無視はできない。
 大正4年北浜事件で岩下清周は有罪となり獄に入った。そのとき清周の長男であった岩下壮一は東京帝国大学哲学科を卒業後、欧米に留学をしており、教授を嘱望されたが、北浜事件の後、神山復生病院の六代目院長として活躍した。よほど酷い周囲の扱いの変化あったことが小林一三の随筆に現れている。岩下清周が北浜銀行事件に巻き込まれ、裁判で有罪判決を受け、不遇のうち死んでいくとき、岩下に面倒を見られた人たちを含め、関係者が岩下にどのような態度をとったかを見てから事業家としての小林一三が始まった。
 岩下一族と小林一三の人生を変えたのが日本醤油醸造事件である。そしてサッカリンは有害説が今でも日本ではびこっている。無害とは言えないが危険性はかなり低い。
 100年という年月は神山復生病院の周囲の環境を劇的に変化させ病院の隣にリゾートホテル等の施設がある。病院の方の案内で記念館を訪ねる。10時から開館だったが少し前だったので電気が点いておらず呼び鈴を鳴らして開けてもらった。手作りの略歴が時間を感じる。記念館の人と少し話してやはり、北浜事件で人生が変わったことを確認する。時折不二聖心女子高生が慰問に訪れるという。どうやら交流があるようだ。骨董品のような建物と時折時刻を知らせる大時計が心を清める。一時間ほどの見学ののち裾野市鈴木図書館に向かう。
 
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福神漬物語 28

2009年12月05日 | 福神漬
大倉喜八郎と缶詰
明治の死の商人といわれた大倉喜八郎
日清戦争時の『石入り缶詰』事件のいきさつと、その報道を探ってみよう。
大杉栄 自伝より
日露の間に戦雲がだんだんに急を告げて来た。愛国の狂熱が全国に漲(みなぎ)つた。そして唯一人冷静な非戦的態度をとつていた萬朝報(新聞)までが、急に其の態度を変へだした。幸徳秋水と堺利彦と内村鑑三との三人が、悲痛な「退社の辞」を掲げて、萬朝報を去った。
 そして幸徳と堺とは、別に週刊「平民新聞」を創刊して、社会主義と非戦論とを標榜して起った。
 雪のふる或る寒い晩、僕は始めて数寄屋橋の平民社を訪(と)うた。毎週社で開かれていた社会主義研究の例会の日だった。
 中略
 やがて二十名ばかりの人が集まった。そして、多分堺だったろうと思うが、「今日は雪も降るし、だいぶ新顔が多いやうだから、講演はよして、一つしんみりと皆んなの身上話やどうして社会主義に入ったかかと言うやうな事をお互に話しよう」と云ひだした。皆んなが順々に立つて何か話した。或る男は、「私は資本家の子で、日清戦争の時、大倉が缶詰の中へ石を入れたと云ふ事が評判になつてゐるが、あれは実は私のところの缶詰なんです。尤もそれは私のところでやつたんではなくって、大倉の方で或る策略からやったらしいんではあるが」と云つた。
「それぢや、やはり大倉の缶詰ぢやないか。どうもそれや、君のところでやつたと言うよりは大倉がやつたと言う方が面白いから、やはり大倉の方にして置かうぢやないか。」
 かう云つたのもやはり堺だつたらうと思ふが、皆んなも「さうだ、さうだ、大倉の方がいゝ」と賛成して大笑ひになつた。其の資本家の子と云ふのは、今の金鵄(きんし)ミルクの主人邊見(へんみ)何んとか云ふのだつた。

大杉栄 自由への疾走 鎌田慧著
雪の夜の会合は1903年(明治36年)12月15日夜としている。この会合後平民新聞は「石ころ缶詰」報道し始めた。事実の捏造は今でも訂正されず信じられている。
 大杉栄は大正米騒動の時、大阪において民衆に対して煽動行為を行なっていたが関東大震災で東京に戒厳令がしかれ、憲兵に虐殺された。米騒動は物価を安定させるため中央卸売市場法を作るきっかけとなり、関東大震災で日本橋魚河岸は戒厳令で立ち入り禁止となり、紆余曲折の経過を経て、昭和10年2月11日東京都中央卸売市場築地本場が開場した。
もし関東大震災と戒厳令が無ければ戦後まで日本橋に魚河岸があっただろう。
それにしても大倉喜八郎の「石の缶詰」は何時位から言われたのだろうか。福神漬の「樽」と関係あるのだろうか?
大杉栄 自伝の「大倉の石の缶詰話の捏造」は本当なのだろうか。
自伝は関東大震災で虐殺される少し前に書き始めたという。すると「石の缶詰」は日清戦争時であるのですでに25年近くは経っているし、平民社での会合も15年は経っている。大杉栄は自慢げに「大倉の石の缶詰」といっているがすでにある程度「大倉の石の缶詰」の話しは知られていたのではないだろうか。
 木下尚江の「火の柱」 明治37年1月1日横浜毎日新聞に連載し始め3月20日で終わる。この間2月10日に日露戦争開戦となる。
木下尚江全集第二巻「火の柱」77頁
松島「あの砂利の牛肉缶詰事件の時など新聞はやかましい」といいかかると、大洞利八(大倉喜八郎)はあわてて「松島さん、そんな古傷の洗濯はご勘弁願います。まんざらご迷惑の掛け放しという次第ででも無かったようでごわすか」「それからかの靴の請負の時はどうだ。のり付けの踵が雨で離れて,水兵が梯子から落ちて逆巻く波へ行方知れずとなる、艦隊のほうから苦情を持込む」云々となって大倉喜八郎の悪徳商人ぶりを書いている。日露開戦時には大杉栄が書いている頃よりもすでに喜八郎は「死の商人」と知られていたのだろう。平民社の人たちは大倉を悪役に仕立てようとしていた。
虚偽の話は真実が無いから,いか様にも変化して伝わる。
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福神漬物語 27

2009年12月04日 | 福神漬
缶詰編
参考品としての陸軍糧秣廠出品は大正9年製のラッカードした物としない物を見るに前者は少し黒味を加えており、また後者は少し著しく褐色しており、また著しく缶が腐食しており缶臭が強かった。
 従来、陸軍糧秣廠で造った福神漬は(近頃作っていない)の製品1000貫に対する主原料の割合は、漬大根178貫、漬カブ178貫、漬ナス140貫、干し大根140貫、漬なた豆39貫、漬紫蘇25貫で一缶120匁の固形分は90匁、さし汁30匁であり、その分析成分は次の通り。
水分 63.076%
灰分 12.010%
食塩 9.289%
窒素 0.978%
酸度 0.720%
純蛋白 1.349%
繊維 1.640%
糖分 2.40%
乾燥物 36.924%
参考 1貫は1000匁(もんめ)、すなわち3.75キロ
一缶固形分120匁の福神漬は全体の目方は500Gぐらいであったと思われる。
漬とは塩漬の原料と思われる。
缶詰時報より
上澤屋本店談
福神漬製造の動機
 このたびの福神漬の研究会にて弊店製造の福神漬が優秀品であると推奨を賜り誠に思いがけなく喜んでおります。
 2・3年前まである有名な製造家の福神漬を販売しておりましたが、ある夏顧客から沢庵漬の臭いがあるといって缶のフタを切ったまま返品されましたので、その品を売ることを止め真の優良品を販売する目的で福神漬の製造を始めました。
 しかし,良い物を造るにしても、飛び離れて高価の物は販売困難であるのでとにかく沢山という事でなく、少なくとも良い物を造るという考えで始めました。つまり、野菜は出始めの極若いものでそして生産地の確かなものを材料として、福神漬を製造することにしております。
 なお、缶詰(福神漬の)というものを一部の人はどれも皆悪いものと決めておりますし、また実際劣悪品の多いことから毎月この缶詰研究会で真面目な優良品を広く一般社会に推奨していただければ製造者は価格より品質に重きを置くようになれば、斯業のために結構な事と存じます。

不況が続いた平成の今でもこの考えが十分通用する。第一次大戦後の不況で不良漬物が出回っていたと思われる。
陸軍糧秣廠 丸本彰造氏の談を読んでいるとどうも一時は日本陸軍では福神漬の缶詰を造っていたようである。広島にある広島市郷土資料館は旧陸軍糧秣支廠(りょうまつししょう)は缶詰工場でした。日清戦争の時、民間調達の缶詰に石が入るなどの不良品が多く軍直轄の製造工場を建設する事になったが『日本缶詰史』によると石が入っていたということは全くの誤報であったということである。
 陸軍は日清戦争時には福神漬は納入されていると言うがはっきりと文献に出てくるのは日露戦争時である。海軍では日清戦争時はパン食のためか漬物は少ない。海軍は日清戦争後『海軍糧食条例』と『海軍経理規定』を改正し、それまでのパン食3回から1回となり、米麦食2回となった。(海軍おもしろ事典・高森直史著)


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福神漬物語 26

2009年12月03日 | 福神漬
福神漬物語 26
缶詰編
缶詰時報 ① 創刊は大正11年(1922)
日本缶詰協会はJR有楽町駅前の有楽町電気ビル北館12階にあります。そこに保存してある『缶詰時報』の中に大正時代の福神漬に関する記事は次のように記述されています。
第二巻
福神漬の昔と今
陸軍糧秣廠 丸本彰造
『なた豆はお胡子さんの耳たぶで、茄子は布袋さんのお腹を形どるなどと7種の野菜を集めて七福神、それを福神漬と名付けたもので,その昔江戸時代、上野東叡山寛永寺の坊さんが池之端の酒悦主人に廃物利用の漬物として教え、かくのごとく名付けたものである』と私は密かに伝え聞いておりましたが、今日の研究会で東京毎日新聞の鶯亭金升(永井総太郎)氏によってそれが誤りであることを初めて知りました。
 何でも氏のお話によれば福神漬の名付け親は○○(團團)珍聞(明治10年創刊,40年に廃刊した面白い新聞)の記者,梅亭金鵞先生(江戸時代名高い松亭金水先生の門人)であって先生が小石川指ヶ谷に住んで○○珍聞の編集をしたり、小説を書いたりしていたが、時は明治18年、時節は丁度夏の半ばころ、今から数えてまる38年前の昔、酒悦の主人が、なた豆と紫蘇と大根の三品をば、程よく味付けて缶詰にしたものを持ち来たり、これを売りたい、なんとか名付けを頼みますと開缶した。

梅亭金鵞先生試食一番『これはうまい,食を進める、栄養になる、そして本当に経済だ、これぞ誠に福の神に好かれる漬物で身体は丸々ふとり、お家繁盛万々歳』と福神漬と名付けたもので、なお酒悦主人は梅亭先生に頼んで木版の綺麗な引札を戸毎に配って広告したものであると。
 そしてこのことは鶯亭氏が梅亭先生の門人であって丁度その時試食し引札のすり方も手伝った確かな生き証人で、その時の引札を持ってこなかったのが残念であると鶯亭氏は回想的な眼差しで語られ、また酒悦さんが福神漬缶詰の祖先であることはこうした由来から起こっているが元来酒悦さんは江戸時代から香煎と屠蘇、その他祝儀の熨斗や酒の肴のウニやカラスミのような各国名産品売って居ったもので酒悦というお目出度い名前もそんなことから始まったのであろうと鶯亭氏は付け加えておられたが、福神漬が酒悦から出た、それが姓名判断から言って目出度いことのように思われるのであります。

 この缶詰時報は大正12年の頃で、記事によると酒悦の主人は最初から福神漬を缶詰にしていたことが解る。この当時でも上野東叡山寛永寺の話がでているので了翁禅師の話も知られていたのだろう。廃物利用とは寛永寺勧学講院で寮生に与えられたおかずは野菜クズの漬物であった。


 鶯亭氏は東京毎日新聞の記者であったためこの話はかなり広まっている。引札とは今のチラシ広告のことであって、福神漬を宣伝する必要があったためで、漬物は自給自足の時代では購入させるのは何か目新しいことが必要であったためである。

今日の(大正12年7月)開缶研究の福神漬はすべてで101品,他に参考品数点あったが、その中でチョッと変わった一品があった。それは従来福神漬と海苔の佃煮とを折衷したようなものであって,すなわち瓜が5割,その他は割き干し大根,沢庵、蓮根の順序に少々づつ、これに色彩的に蕗を極めて少量加え、調味液をドロドロの海苔にて仕上げた物である。材料は大切りである。ことに割き干し大根は長さ一寸くらいに切ってある。
 元来福神漬の最初は前記の通り,なた豆と紫蘇と大根の三品であって,畑作品のみであったが、この掘り出し物は畑のもの、田の物、海の物を配して造りあげたものであって,食料資源の趨勢と変化する人の嗜好から考えて,係る物が出来たということは偶然でない,そして従来にとらわれないという点に私は興味を痛くわかしたのであります。

大正12年頃は第一次大戦後の不況で福神漬の生産者が各種の工夫をしていたことが分かる。101品の福神漬の缶詰が品評会に出ていたことから考えると出品してない福神漬もあるのでかなり多くのブランドで出ていたのだろう。
 注意すべきは『敷島漬』『日本橋漬』のブランドで売られていた福神漬で『敷島漬』は今のサンヨー堂(東京都中央区日本橋堀留町1丁目)の製造していた福神漬で、『日本橋漬』は今でも販売されている福神漬の缶詰で、国分㈱(東京都中央区日本橋1-1-1)が製造していた。

それから,福神漬の切り方が日露戦争頃はすべて、細切であったが、近頃は大切の傾向になった。また味が塩味よりもあま味が勝ってきたようだ。そうして当時と比べれば材料が若干劣っているけれど,味は現代向きになって製缶技術は頗る進んできた、ことにラベルは非常に進歩して目を覚ますような如何にも食欲をそそる美術的なものの多いのに感嘆した、そして印刷缶が8割を占めていたも、余程ラベルに重きを福神漬においているように思われたのであります。
 元来缶詰は中身を食するので,中身がよければラベルに意匠を凝らし,費用かけることは無益のようであるけれど、福神漬はそのまま食卓にのせ、ラベルを眺めつつ,賞味することが他の缶詰に比べた場合が多いゆえに特に食味をそそる審美的であることがふさわしいことでこの意味において私は福神漬のラベルということには重きを置きたいと思います。

 すでに販売競争が激しくなっていて、缶の表面に美しいラベルを巻いたのでしょうか。ブランドによって味や品質にかなり差があったと思われます。 
ラカード即ち内面塗料を施した福神漬の缶詰は出品数百個のうち26品ありました。陸軍糧秣廠から参考品として出した明治45年4月製造の福神漬(ラッカードしない)は非常に黒色を呈して居ったが食べられないことはなかった。しかし普通から言えば食用不適という程度であろう。

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福神漬物語 25

2009年12月02日 | 福神漬
福神漬物語 25
缶詰編
缶詰と福神漬

 幕末にアメリカに向かった咸臨丸の荷物には漬物として梅干・沢庵しか積込まれておらず、日本郵船の船舶に明治の当時としては高価な漬物「福神漬」がどんなきっかけで積まれたかなかなか解らなかった。
多くのカレーライスに関する本に福神漬の関する記述がある。その由来を書いてある本を辿ってゆくと昭和9年ころに出版された『明治屋食品事典』から引用しているものが多い。また『明治屋食品事典』から次の本が原典として挙げられている。
大日本洋酒缶詰沿革史 42頁 1915年刊(大正4年)
福神漬は東京・下谷池之端野田清右門(商号酒悦)の創造に係わる。明治19年のころ蔬菜7種を醤油にて加味したる漬物を造り店舗にて販売したり、当時あたかも上野公園内に大日本水産会第一回品評会の開会があり、同会の陶山清猷が試みて、その着想と食味を覚え、同品評会の売店にて販売広告しても良いと許可を与えた。店主も直ちに同意して出品した運びになったが当時はまだ出来たばかりで田中芳男、河原田盛美等の案として七種の材料よりなる漬物ゆえこれを七福神に擬し,福神漬にすべしという説に賛成多く、店主もこの命名に喜びついに福神漬という名称に至った。

陶山清猷(すやませいゆう)とは著書に『有用藻譜 第1編』がある。
田中芳男とは1875年、博物館、動物園などをもつ上野公園の設立に尽力した。1881年、大日本農会1882年、大日本水産会の創設に尽し、日本での農学と農林水産業の発展に貢献した。
河原田盛美(かわはらだもりよし)農商務省漁業技師として全国に近代漁業の啓蒙に努める。農業、漁業関係で多くの著作を残す

水産博覽會報告 事務顛末ノ部   ― 抜 粋 ―
( 明治十六年九月二十九日出版届、 農商務省農務局藏版、  国立国会図書館蔵 )
三月三日 太政官より 水産博覧会規則 地方官心得書 並 売店店規則の布達あり」但 品物販売店は之なくして 塲内に食堂茶店を許すも 5軒のみ  農商務より 本会適当の者を選び 事務を担任せしめ 其人名を農務局ヘ通報すべき旨を府県に通達す

第一回水産博覧会
明治16年3月1日より明治16年6月8日まで上野公園にて開催。
明治16年3月27日
明治天皇が水産博覧会に行幸。 3月28日東京日日新聞記事より

明治16年6月10日・11日 時事新報
水産博覧会の来観の人数は22万9236人と報道されている。

この博覧会で水産缶詰が出品されていたと思われる。
明治16年の上野公園で開催された水産博覧会は国内の水産業の振興をはかったものだが福神漬の歴史に多大な影響があったと思われる。
 一部の資料には水産博覧会に水産物でなかった福神漬が出品され評判になったというが新聞記事の様子ではそのような感じではないようである。ただ酒悦は香煎茶屋で水産博覧会場内の食事を出す店が5店舗あったようである。そこで福神漬が出されていた気がする。また明治の初めに日本に入った缶詰の技術が徐々に定着して行き水産物に応用していった時期にあたったともいえる。そこで上野にあった酒悦主人は福神漬に缶詰の技術を導入することを考えたのだろう。

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