透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

― 戦争遺跡 空襲の弾痕がある火の見櫓

2017-08-15 | A 火の見櫓っておもしろい


(再)小川村高府の火の見櫓 手前は高府公民館 撮影日170815

■ 12日の信濃毎日新聞朝刊に長野県内各地に残る「戦争遺跡」を紹介する記事が掲載された。松代大本営地下壕や信濃町にある称名寺(しょうみょうじ)の石の鐘(鐘を供出させられ、代わりに石を吊り下げた)など10ヶ所の遺跡が紹介されていたが、その中に小川村の「弾痕が残る鉄塔」があった。

記事はこの鉄塔について次のような紹介をしている。長野市にあった長野飛行場で管制塔として使われていて、1945(昭和20年)8月に空襲に遭い、階段の手すり子(記事では手すりの柵と表現している)などに銃弾が貫通した跡が2ヶ所ある。戦後、小川村に移築され、今は火の見櫓として使用されている。

戦後72年、戦争当時のことを記憶している人は減少する一方だ。この火の見櫓のような戦争の痕跡・記録を継承していく責務があると思う。現在この火の見櫓の階段の登り口に扉が設置されていて関係者以外登ることができない旨、表示してあるが、年に一度、例えば長野空襲の日・8月13日に登ることができるようにしたらどうだろうか。

この火の見櫓を2015年7月に見ているが(過去ログ)、終戦記念日の今日、8月15日にまた見てきた。





記事で紹介されていた弾痕が確認できた。この痕跡は戦争の身近な「証言者」だ。

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改めてこの火の見櫓を観察する。



①の写真とは逆の方向から見た全形 太目の3角櫓、広い床面の上に6角形の屋根が載る。



櫓のブレースと階段の内側の側桁を兼用した合理的な構成。



管制塔の広い床をそのまま火の見櫓の見張り台の床として使っているのであろう。床面から上部は移築した際、追加設置したのではないか。



床外周の下地材に付けたガセットプレートに屋根を支える柱の下端をリベット接合で取り付けている。



銘板には昭和二十七年竣工とある。終戦の年から7年後にこの場所に移築したことが分かる。


 昭和20年8月13日の空襲で47人が犠牲になったとされている。


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