(淀城つづき)
明治天皇御駐蹕之址
淀城跡の北端にある明治天皇御駐蹕之址碑。慶應四年(1868)三月二十一日、ならびに閏四月七日より翌日まで(一泊)の滞在。
(明親小学校)
天皇御駐輦之趾
学校の校庭に建つこの石碑を拝見するために明親小学校を訪ねた。インターホンを押すと一人の先生が応対してくださり、石碑の前まで案内していただいた。
「石碑を見たい」と申し出ると、けんもほろろに断られるケースもあるが、勤務時間中にもかかわらずご丁寧に対応していただいたことに感謝しかない。
明治十年(1877)五月七日に滞在。
(淀小橋跡)
淀小橋旧趾
京阪淀駅の近く、納所交差点から歩いて数分の場所に「淀小橋旧趾」碑が建てられている。
かつてここには宇治川が流れ、京都・伏見と大阪を結ぶ街道が走っていた。
慶應四年(1868)正月三日に鳥羽伏見の戦が始まった。その時、城主稲葉正邦は幕府の老中の職にあり、不在であった。
五日、宮ノ森、千両松の戦いで官軍に敗れた幕軍は、態勢を立て直すために淀城に入ろうとしたが、官軍側からの働きかけを受け、家老田辺治之助(権太夫)は、入城を拒んだ。そのため幕軍は、淀小橋、淀大橋を焼き落とした上で、さらに南の橋本まで退却した。この後、淀城は官軍に開城した。
淀小橋は戦後直ぐに再建されたが、淀川改良工事の一環として、明治三十六年(1903)に宇治川が付け替えられ、現在の流路へ変わると、橋も不要となり撤去された。
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