(坐摩神社)
坐摩(いかすり)神社は神功皇后が新羅より帰還した際、淀川南岸の大江田簑島の渡辺の地に奉祀させられたことに始まる。天正十年(1582)、秀吉の大阪築城の際、替地を命じられ、寛政年間に現在地に遷座した。神社の目の前の通りは「渡辺筋」というが、元の地名が移されたことによる。この神社は、全国の渡辺・渡部姓の発祥の地と称されている。
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坐摩神社
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明治天皇聖躅
明治元年(1868)、明治天皇の大阪行幸の折、この神社境内で相撲を天覧した。境内には明治天皇聖躅碑が残されている。
この石碑は先の大戦の戦火によって砕けてしまったが、その後石片を繋ぎ合わせて復元された。
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佐久良東雄先生寄寓奉仕之處
佐久良東雄は弘化四年(1847)、坐摩神社の神官渡辺資政との縁で来阪し、境内に住んでいた。その後、桜田門事変の首謀者を庇護した疑いにより幕府に捕らえられ、獄中で亡くなった。
嘉永五年(1852)坐摩神社では明治天皇の御生母中山慶子の懐妊に際し、中山家より祈祷の依頼があり、安産祈願が行われた。佐久良東雄が祈願を行い、「天照らす日嗣のみこの尊ぞと深く思へば泪し流る」と詠んだ。
(靭公園)
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靭公園
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大塩平八郎終焉の地
大塩平八郎の乱が鎮圧されると、平八郎・格之助父子は、靭油掛町の美吉屋五郎兵衛宅に潜伏したが、天保八年(1837)三月二十七日、幕吏の包囲のうちに自焼して果てた。民衆に呼びかけた檄文は、密かに書き写され、全国にその挙が伝わった。大塩平八郎終焉の地の碑は、平成九年(1997)、大塩平八郎の乱160周年記念事業として、終焉の地にほど近い天理教飾大分教会(西区靱本町1丁目18)の前に建てられた。その後、令和三年(2021)に飾大分教会の建て替えに伴い、靭公園内に移設された。