(源徳寺)
当社では仕事納めの日はいわゆる半ドンである。本当はこの日は休みをとって朝から移動に当てるつもりであったが、結局仕事がこの日までずれ込んでしまって、半日というのに休むことができなかった。
仕事を終えて、昼食も取らずに新幹線に飛び乗った。名古屋で下車したときには午後三時に近かった。名古屋から名鉄に乗り換え、吉良吉田行きの急行で約一時間。名鉄西尾線は単線で、列車が行き交うために何度も駅で停車した。目的地である源徳寺は、上横須賀駅から歩いて十分である。
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尾崎士郎・吉良上野介・吉良仁吉の吉良三人衆のモニュメント
上横須賀駅を下りるとコンパルふれあいホールの前に吉良三人衆モニュメントが建てられている。吉良三人衆とは、「人生劇場」で知られる作家尾崎士郎、赤穂浪士の敵役吉良上野介と吉良仁吉のことである。ほかの二人と比べると吉良の仁吉の知名度は低いと言わざるを得ないが、私がこの場所を訪ねたのは吉良仁吉の墓を訪ねることであった。
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源徳寺
源徳寺本堂の脇に吉良仁吉の立派な墓がある。
吉良仁吉は本名太田仁吉。天保十年(1839)一月一日、三州吉良横須賀御坊屋敷内に太田善兵衛の長男として生まれた。祖父太田佐治兵衛は江戸の武士であったが、故あって浪人となり吉良に流れ着き、大小を捨て当山の寺男となった。吉良仁吉は通称。身長六尺近く、体重は二十四貫(約九十六キロ)。横笛を好み、よく近くの矢作古川で一人笛を吹くこともあった。生来無口で丸顔で「だんまり地蔵」という仇名があった。また、相撲も強く、草相撲の大関だったと伝えられる。
その相撲に勝ったため喧嘩となり、寺下の間之助の世話になった。これが侠客になる第一歩であった。のち間之助の紹介で清水次郎長に三年厄介になり、兄弟分の盃を交わすことになった。清水からの帰郷後「吉良一家」をかまえ、西三河一帯の縄張りを預かった。ときに仁吉二十六歳。義理と人情をわきまえ、義理のためなら身命を惜しまず、おきてを守り「男の中の男」と呼ばれた。慶應二年(1866)、伊勢・神戸の長吉が桑名の穴太徳に荒神山の縄張りを奪われ、仁吉に助勢を求めた。三か月前に嫁となったキクは、穴太徳の養女であったため、女房を離縁し、長吉に加勢することになった。清水一家の大政・小政をはじめ十八人衆が加勢することになり、総勢二十四人が寺津港から荒神山に向けて出船した。喧嘩は仁吉側が勝利したが、仁吉、法印大五郎、幸太郎は戦死。仁吉二十八歳。
源徳寺の墓は、慶応三年(1867)四月八日、仁吉の一周忌に次郎長が仁吉の仁侠を偲んで建立したものである。
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吉良仁吉の墓
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勘蔵、兵太郎、次郎長系の子安伝次郎らの墓
傍らに置かれた石臼は、仁吉が荒神山に出陣する際に祝餅をついたといわれるものである。
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石臼
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「義理と人情」
尾崎士郎「人生劇場」の一節
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遺品 (道中合羽)
本堂前に「義理と人情」の碑、本堂内には仁吉の遺品が展示されている。
本堂内の仁吉の遺品を見ようと中を覗くと、町内の老人が集まって何やら会合の真っ最中であった。邪魔をしてはいけないと思って立ち去ろうとすると、その中のお一人が「どうぞ中に入ってください」と言ってくださったので、展示を拝見することができた。
往復二時間をかけて、源徳寺滞在時間はわずかに十分。吉良町には三十分しか滞在できなかった。名古屋駅に近づいた時には街は夕やみに包まれていた。