史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

名古屋 守山

2022年02月12日 | 愛知県

(利海寺)

 利海寺(最寄り駅は、名鉄瀬戸線瓢箪山駅)には、若井重斎の墓があるという。「名古屋名家墓地録」(日比野猛著)によれば、墓石には「若井重斎之墓」と刻まれているらしいので、直ぐにみつかると高をくくっていたが、墓地を歩き回って発見したのは、若井家の小さな墓石だけで、重斎の墓に出会うことはできなかった。

 

利海寺

 

 若井重斎は、文政六年(1823)の生まれ。天保年間、小納戸詰となる。安政五年(1858)、「攘夷戯議」一巻を著わし、撫民安国ののち攘夷を決行すべきと説いた。藩主徳川慶勝の幽閉とともに職を辞したが、その赦免後、藩政に復帰した。上京して公家諸藩士と交わり、国事に奔走した。長州征伐の際には西郷隆盛を慶勝に紹介し、善後処置を協議させ、自身も岩国に吉川経幹を訪ねて、長藩服罪の説得に成功。藩校明倫堂主事、留書頭、一の宮間清田神社祠官兼権大講義、判事補、勧解吏を歴任した。明治二十三年(1890)、年六十八で没。

 

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名古屋 Ⅴ

2022年02月12日 | 愛知県

(西杉公園)

 

八王子神社・春日神社

 

明治天皇清水御小休所

 

 名鉄瀬戸線清水駅から徒歩で六~七分というところに西杉公園がある。隣接して八王子神社・春日神社がある。その片隅に「明治天皇清水御小休所」石碑が建っている。

 明治十三年(1880)六月三十日、明治天皇はこの場所にあった林栄助宅で休憩をとり、宿泊地である東本願寺別院へ向かった。

 

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西尾 Ⅳ

2020年02月01日 | 愛知県

(源徳寺)

 当社では仕事納めの日はいわゆる半ドンである。本当はこの日は休みをとって朝から移動に当てるつもりであったが、結局仕事がこの日までずれ込んでしまって、半日というのに休むことができなかった。

 仕事を終えて、昼食も取らずに新幹線に飛び乗った。名古屋で下車したときには午後三時に近かった。名古屋から名鉄に乗り換え、吉良吉田行きの急行で約一時間。名鉄西尾線は単線で、列車が行き交うために何度も駅で停車した。目的地である源徳寺は、上横須賀駅から歩いて十分である。

 

 

尾崎士郎・吉良上野介・吉良仁吉の吉良三人衆のモニュメント

 

 上横須賀駅を下りるとコンパルふれあいホールの前に吉良三人衆モニュメントが建てられている。吉良三人衆とは、「人生劇場」で知られる作家尾崎士郎、赤穂浪士の敵役吉良上野介と吉良仁吉のことである。ほかの二人と比べると吉良の仁吉の知名度は低いと言わざるを得ないが、私がこの場所を訪ねたのは吉良仁吉の墓を訪ねることであった。

 

源徳寺

 

 源徳寺本堂の脇に吉良仁吉の立派な墓がある。

 吉良仁吉は本名太田仁吉。天保十年(1839)一月一日、三州吉良横須賀御坊屋敷内に太田善兵衛の長男として生まれた。祖父太田佐治兵衛は江戸の武士であったが、故あって浪人となり吉良に流れ着き、大小を捨て当山の寺男となった。吉良仁吉は通称。身長六尺近く、体重は二十四貫(約九十六キロ)。横笛を好み、よく近くの矢作古川で一人笛を吹くこともあった。生来無口で丸顔で「だんまり地蔵」という仇名があった。また、相撲も強く、草相撲の大関だったと伝えられる。

 その相撲に勝ったため喧嘩となり、寺下の間之助の世話になった。これが侠客になる第一歩であった。のち間之助の紹介で清水次郎長に三年厄介になり、兄弟分の盃を交わすことになった。清水からの帰郷後「吉良一家」をかまえ、西三河一帯の縄張りを預かった。ときに仁吉二十六歳。義理と人情をわきまえ、義理のためなら身命を惜しまず、おきてを守り「男の中の男」と呼ばれた。慶應二年(1866)、伊勢・神戸の長吉が桑名の穴太徳に荒神山の縄張りを奪われ、仁吉に助勢を求めた。三か月前に嫁となったキクは、穴太徳の養女であったため、女房を離縁し、長吉に加勢することになった。清水一家の大政・小政をはじめ十八人衆が加勢することになり、総勢二十四人が寺津港から荒神山に向けて出船した。喧嘩は仁吉側が勝利したが、仁吉、法印大五郎、幸太郎は戦死。仁吉二十八歳。

 源徳寺の墓は、慶応三年(1867)四月八日、仁吉の一周忌に次郎長が仁吉の仁侠を偲んで建立したものである。

 

吉良仁吉の墓

 

勘蔵、兵太郎、次郎長系の子安伝次郎らの墓

 

 傍らに置かれた石臼は、仁吉が荒神山に出陣する際に祝餅をついたといわれるものである。

 

 

石臼

 

「義理と人情」

尾崎士郎「人生劇場」の一節

 

遺品 (道中合羽)

 

 本堂前に「義理と人情」の碑、本堂内には仁吉の遺品が展示されている。

 本堂内の仁吉の遺品を見ようと中を覗くと、町内の老人が集まって何やら会合の真っ最中であった。邪魔をしてはいけないと思って立ち去ろうとすると、その中のお一人が「どうぞ中に入ってください」と言ってくださったので、展示を拝見することができた。

 

 往復二時間をかけて、源徳寺滞在時間はわずかに十分。吉良町には三十分しか滞在できなかった。名古屋駅に近づいた時には街は夕やみに包まれていた。

 

 

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飛島

2019年12月07日 | 愛知県

(大宝)

 

                       

伊能忠敬測量之跡

 

 飛島村と弥富市の境に近い、鍋田大橋の北詰めに伊能忠敬測量之跡を示す石碑が建てられている。伊能忠敬が第四次測量隊を率いて中部地方に測量に訪れたのは、享和三年(1803)五十八歳のことであった。飛島には同年五月八日午後、大宝新田に到着し、長尾治右衛門宅に五月十一日まで宿泊した。滞在中は雨のため地図を作成していたことが「測量日記」に記されている。

 

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一宮

2019年12月07日 | 愛知県

(丹羽)

 京都の父が米寿を迎え、三連休の最終日に家族でお祝いを開くことになった。三連休の前に一日休みをくっつけて帰省することになった。初日は、名古屋で途中下車して、一宮、飛島、三重県の鈴鹿、津、松坂の史跡を巡ることにした。最初の訪問地は一宮市丹羽である。

 

                       

鷲津有隣堂之跡

 

 一宮市丹羽南屋敷の住宅街の中に鷲津毅堂を生んだ鷲津家の家塾有隣堂の石碑が建っている。特に説明板があるわけもなく、住宅街の中に石碑がぽつりと建てられているのみである。

 鷲津毅堂は、文政八年(1825)、尾張の丹羽郡丹羽村(現・一宮市丹羽)に生まれた。代々郷士であったが、曾祖父以来代々古学流の家学を継ぐ家であった。鷲津家は丹羽村に有隣堂を開き、諸生を教えていた。毅堂は、江戸に出て教授していたが、慶応元年(1865)、尾張藩の招きを受け奥儒者となり、藩校明倫館教授を経て三年で督学となった。藩主慶勝に従って上京し、国事を周旋、戊辰戦争では命を受けて隣藩の勤王勧誘に奔走した。同年徴士として京都に入り権弁官事となり、登米県権知事を経て明治五年(1872)には権大法官、明治九年(1876)五等判事。明治十四年(1881)には学士会員、翌年には司法権大書記官となったが、同年秋病死した。年五十八。

 

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西尾 Ⅲ

2019年11月09日 | 愛知県

(安休寺)

 

 

安休寺 

 

 この辺りは平成二十三年(2011)の合併により西尾市の一部となったが、それまでは一色町という独立した行政区であった。一色町の鄙びた住宅地の中に安休寺がたたずんでいる。我が国最初の幼稚園を開設した関信三の生家である。関信三に関する何かが残っているかと期待して、はるばるこの寺を訪ねたが、何も見つけることはできなかった。

 

 

真宗講師因明院?頌碑

 

 関信三の実兄雲英晃耀(きらこうよう)は、因明院と号した学僧。顕彰碑は、明治二十七年(1894)の建立。篆額は東久世通禧。

 

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知立

2019年11月09日 | 愛知県

(池鯉鮒宿本陣跡)

 

                       

池鯉鮒宿本陣跡

 

 知立(ちりゅう)駅前にはマンションやホテルなどが立ち並び、かつての宿場町の名残は感じられないが、この近くを旧東海道が走っている。本陣跡の小さな一角に跡地を示す石碑と明治天皇行在所聖跡碑が建てられている。

知立神社の御手洗池に鯉や鮒が泳いでいたことから、いつしか池鯉鮒宿と当て字されるようになり、これが定着したとされる。日本橋から数えて三十九番目の宿場町で、本陣、脇本陣が各一軒置かれていた。本陣職は、当初嶺家が務めていたが、寛文七年(1667)頃からは永田家によって引き継がれた。敷地三千坪、建坪三百坪という広大な面積を有していた。明治になって宿駅制度が廃止され、二百年以上続いた本陣も明治八年(1875)に取り壊された。

 

 

明治天皇行在所聖跡

 

(ホテルクラウンパレス)

 本陣から少し離れるが、ホテルクラウンパレス前の駐車場の片隅に池鯉鮒宿問屋場の石碑が建てられている。

 

 

池鯉鮒宿問屋場之跡

 

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美浜

2019年11月09日 | 愛知県

(八幡神社)

美浜町まで来ると知多半島の先端に近い。天保三年(1832)、乗船していた宝順丸が遭難し、漂流してアメリカに上陸し、その後、イギリスから上海に渡り、米商船モリソン号で帰国しようとして果たせず、晩年をシンガポールで過ごした音吉の生まれ育ったのが、美浜町小野浦である。海水浴シーズンもおわり、静かでのどかな村であった。幕府の鎖国政策が立ちはだかり、漂流民音吉らはついに故郷への帰国を果たすことはできなかった。八幡神社の前には、洋装した音吉の銅像が建てられているほか、音吉、久吉、岩吉の顕彰碑(三吉の碑)がある。三名がドイツ人宣教師ギュツラフの要請を受けて聖書を和訳したものが我が国最初の和訳聖書といわれる。

 

                       

八幡神社

 

 

音吉顕彰碑

 

 

三吉の碑

岩吉 久吉 音吉 頌徳記念碑

 

(良参寺)

良参寺には、宝順丸の乗組員十四人の墓がある。この墓が建てられたとき、音吉はほかの乗組員と同じようにこの世を去ったものと思われていたのであろう。

 

良参寺 

 

安政元年(1854)、イギリス極東艦隊司令長官スターリングの通訳として来日した際に帰国の誘いもあったが、既に生活の基盤を構築していた音吉はそれを断って上海に戻っている。その後、シンガポールに渡り慶応三年(1867)、現地で没した。関係者の尽力により音吉の遺骨がシンガポールのキリスト教墓地にあることが判明し、シンガポール日本人墓地公園納骨堂に改葬されると同時に、平成十七年(2005)、分骨されて百七十三年ぶりに故郷に戻った。音吉の遺骨は山本家の墓に収められたそうだが、境内墓地にある山本家代々墓に音吉の名前は見つけられなかった。

 

 

寶順丸乗組員十四名の墓

 

 音吉の法名「満海寂圓信士」が刻まれる。側面には俗名「乙吉」とある。

 

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名古屋 鳴海

2019年11月09日 | 愛知県

(鳴海宿本陣跡)

野球大会の二日目、朝五時にホテルをチェックアウトして第一目的地名古屋市内の鳴海宿には七時過ぎに到着した。鳴海宿は、東海道四十番目の宿場である。名古屋市内の旧東海道はほとんどその面影を失っているが、鳴海宿についても同様である。本陣跡には駒札が建てられているのみで、その向かいに「問屋場」という名の居酒屋があることが数少ない名残である。

 

                       

鳴海宿本陣跡

 

 鳴海宿は、天保十四年(1843)の調査によれば、宿駅内の家数八四七軒、人口三六四三人、旅籠六八軒と記録され、当時の繁栄が推測される。脇本陣は二軒あった。

 

 

大名茶屋 善 鳴海宿食い呑み問屋場

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豊橋 Ⅱ

2018年08月26日 | 愛知県
(龍拈寺)


龍拈寺

 豊橋市街の龍拈寺(りゅうねんじ)は旧東海道沿いにあって、文久三年(1863)、徳川家茂が上洛途中に宿泊したという記録が残る。
 「王政復古」(久住真也著 講談社現代新書)によれば、文久三年(1863)将軍徳川家茂の上洛に際し、随従する行列は約三~四千人と過去に実施された将軍上洛と比べて格段に規模が小さく、大名迎列に近いものであった。宿泊所は、駿府城を除き、本陣もしくは寺院が使用され、新規に修繕することは制限する等、質素を標榜した。同年二月二十八日、宿泊予定であった桑名の本統寺が「陰気な様子」であるとして、宿所変更の要請が家茂の側近から老中水野忠精になされた。その理由としてあげられたのが、二十五日に宿泊した三河吉田の龍拈寺は、座敷内がひどく陰気であり、家茂が不快に感じ、善処するように命じたことがあったからとされる。結局、水野は寺側の準備にかかわらず、急に宿所を変えるのは将軍の「不徳」にもなるとして、要請には応じなかった。
 龍拈寺は昭和二十年(1945)の豊橋空襲で山門を覗いて全伽藍が炎上し、「陰気な様子」といわれた本堂はコンクリート製に建て替えられている。個人的には寺というのは、どこでも基本的に陰気で、そこに宿泊して愉快なものではなかろう、という気がする。

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