史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

八代

2017年04月15日 | 熊本県
(春光寺)


春光寺

 春光寺は、八代城主松井家の菩提寺で、裏山には松井家歴代の古廟がある。
 辺見十郎太率いる薩軍がここに本陣を置いた。明治十年(1877)四月、特に激しい戦闘となった。寺の神道碑、御次の間の板襖、達磨象に弾痕が残っているらしいが、確認することはできなかった。寺域は初め薩軍の陣地となり、大砲二門を据えて発砲を続けたが、官軍の猛攻で両軍とも多くの戦死者を出した。

(桜馬場戦場跡)


激しい攻防戦のあった桜馬場戦場跡

 春光寺の門前の道を真っ直ぐ川に向かって進むと、左手に桜馬場戦場跡碑がある。
 薩軍の熊本城包囲を解くために衝背軍が八代に上陸し、出町の光徳寺や塩屋町の古麓一帯に陣を構え、激しい攻防戦が展開された。薩軍は宗覚寺に本陣を置いた。銃砲撃戦となったのは、植柳、高田、萩原、坂本村小川、宮地、猫谷と広がったが、この桜馬場でも薩軍兵力二千余人と官軍との激しい攻防戦があった。

(八代神社)


八代神社

 八代神社の大楠の幹には多くの銃弾が撃ち込まれているという。境内の樹木が台風で斃れたので製材に出したところ、銃弾が入っており鋸の歯がつぶれたという。


大楠

(宗覚寺)


宗覚寺

 薩軍が本陣を置いた宗覚寺である。山門には撤退する薩軍が斬りつけたという刀痕が残されている。


山門の刀痕

(萩原堤)
熊本城を目指して進軍する衝背軍に対して、薩軍は辺見十郎太をもって当たらせた。辺見十郎太は兵力の不足を補うために、淵部群平(高照)らと一時薩摩に戻り新たに兵員徴募をしていた。その新戦力千五百が、今度は背後から衝背軍を突いた。辺見らは疾風の如く衝背軍に迫り、戦線が北に伸び切って手薄になっている八代の官軍と接触した。


球磨川・萩原堤

初めは薩摩軍優勢であったが、やがて援軍が投入され形勢は逆転する。
この戦で民権運動家の宮崎八郎が落命している。宮崎八郎は、桐野利秋から衝背軍の背後から攻撃しろという命を辺見十郎太に伝えるため、熊本協同隊を率いて南下しそのまま合流したのである。宮崎八郎は、西郷隆盛の政論に賛同していたわけではなく、ただ薩軍の力で政府の転覆を実現し、しかる後新政府を倒して自分の理想を実現しようとしていたという。無念の死であった。


宮崎八郎戦没ノ碑

揮毫は司馬遼太郎先生による。無念の死を遂げた宮崎八郎であったが、稀代の文章家である司馬先生によって生き生きと描かれ、読者の脳裏に鮮明に蘇った。最高の鎮魂であろう。

(大手町)
 大手町には、西南戦争に殉職した警視局員の墓地が明治十一年(1878)八月に造られた。平成十一年(1999)、区画整理事業に伴う発掘調査が実施され、石垣や暗渠、墓列が発見された。現在、官軍墓地は若宮に合葬されている。


横手官軍墓地跡


明治十年西南戦争警視局員墓地参道跡

(光徳寺)


光徳寺

八代の光徳寺には、衝背軍の本営が置かれた。


官軍(衝背軍)本陣跡

(若宮官軍墓地)


若宮官軍墓地

 平成十年(1998)の塩屋若宮官軍墓地発掘調査(四百二体)および平成十一年(1999)の横手官軍墓地発掘調査(百六十六体)において遺骨が出土したため、この碑に合祀した。
 墓地の前には中塩屋町老人会の皆様により、西南戦争の錦絵が展示されている。なかなか嬉しい趣向である。


(慈恩寺)


慈恩寺


官軍(衝背軍)別働旅団本営跡

 明治十年(1877)三月、征討軍と薩軍が田原坂で悪戦苦闘を繰り返していた最中、官軍では別働三旅団を編成し、衝背軍として南方から攻撃することとした。三月十九日、別働第二旅団(のちの別働第一旅団)は須口(現・二見洲口町)と八代から上陸し、光徳寺を本営とした。同二十五日、山田顕義少将率いる別働第三旅団(のちの第二旅団)が八代に到着。山田少将らは、塩屋町慈恩寺に本営を置いた。このあと衝背軍は、鏡、松橋、宇土へ進撃して熊本城に入ったが、この間に坂本、宮地、宮原、小川などで一進一退の激戦があり、四月十七日、八代来襲の薩軍は壊滅した。

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八代 日奈久

2017年04月15日 | 熊本県
(日奈久州口)


衝背軍上陸の地

薩軍が熊本城攻城を開始して約一ヶ月後、政府は衝背軍を編成し八代の南方、日奈久洲口から上陸させた。これは、薩摩出身の高島鞆之助陸軍大佐の献策を陸軍卿山県有朋が容れたものであった。

日奈久は古くから温泉町として栄えたが、衝背軍の上陸したのはひっそりした洲口という集落である。海岸線を警戒する薩軍に備えたらしいが、難なく上陸に成功した。日奈久の南、約三㎞である。先発隊は黒木為楨中佐率いる二個大隊と警視隊五百名である。


日奈久洲口

 八代を訪ねたのも二十年振りである。日奈久洲口の衝背軍上陸地を示す碑は、すっかり錆びついてしまって文字が一切読み取れない。


(鳩山)


鳩山

 日奈久洲口に上陸した衝背軍は、鳩山に陣取る薩軍と戦闘となった。鳩山は北上する官軍を迎え撃つには絶好の位置にあり、海上からの砲撃をしのぐにも唯一の場所であった。しかし、官軍の圧倒的な兵力を前に薩軍はあえなく敗走した。

(日奈久温泉)
 日奈久温泉は発見されてから六百年以上の歴史を有する古い温泉である。日奈久温泉観光案内所から港の方に行くと官軍上陸之地を示す立派な石碑がある。
 三月十九日、日奈久南方の洲口に官軍数百の兵が上陸し、その援護のために日奈久に向かって艦砲射撃し、これに前後して数隻のボートにより日奈久港に上陸を敢行した。


官軍上陸之地

(八代屋旅館)
 八代屋旅館は、日奈久地区において最も古い旅館である。官軍が上陸した際の銃弾の痕が、八代屋旅館の二階の柱に残っている。


八代屋旅館


十年戦争の時、軍艦から発射された弾痕

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芦北

2017年04月15日 | 熊本県
(峰崎官軍墓地)
 芦北高校の裏手の山の中に峰崎官軍墓地がある。この官軍墓地は明治二十三年(1890)、西南戦争における政府軍の戦没者八十六名を葬ったものである。


峰崎官軍墓地


峰崎官軍墓地

(田浦官軍墓地)


明治十年戦役従軍戦死者之墳墓

 芦北町の峰崎官軍墓地と田浦官軍墓地については、芦北町役場の商工観光課に問い合わせ、正確な住所をご教示いただいた。田浦官軍墓地は「私有地の果樹園に隣接した道を通りますので町民の方等に会われた際は「官軍墓地を見学に来ました」などの声掛けをされた方がよろしいかと思います。」とのご助言も合わせていただき、間違いなく行き着けるという確信を持っていたが、墓地への参道を示す石碑(上写真)のほか発見することはできなかった。

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水俣

2017年04月15日 | 熊本県
(城山公園)
水俣が西南戦争の際、戦場になっていたというのは少し意外かもしれない。大口を守る辺見十郎太は来襲した官軍を迎え討つべく、なんと大口から三十キロメートル以上も離れている水俣まで遠征しているのである。


薩軍慰霊碑

水俣城跡は現在公園となっており、その一角に薩軍慰霊碑が建つのみである。因みに水俣城は、加藤清正が薩摩の島津氏に備えるために整備されたが、慶長十七年(1612)、幕命により廃城となった。


明治十年役十軍戦死者墳墓地


陣内官軍墓地

 陣内官軍墓地の墓碑数は四十二基。その大半は、明治十年(1877)六月十八日、大口の高隈山の戦闘で戦死した東京、名古屋、大阪の各鎮台および近衛所属の将兵の墓碑である。

(久木野)


寒川水源

 寒川水源地のある久木野の集落は、国道268号線から十キロメートルほど入った山の中にある。
 寒川水源は、夏場は流しそうめんなどを楽しむ観光客で賑わうらしいが、私が訪れたのは全くの季節外れ。水源地の食堂「水源亭」も閉鎖されており、人の気配はなかった。食堂の中にイチイガシの御神木が生えている。


御神木

 この御神木は、樹齢約二百年と推定されている。西南戦争の戦火は、久木野にまで及んだ。寒川地区も全ての家屋が焼失する被害を受けたが、この木だけが奇跡的に燃え残った。
 水源亭を改築するに当たり、この木は切りたくないという地元の意向を尊重し、建物の中央に残すことになったという。

(深川)
 この周辺が西南戦争の戦場となったのは、五月から六月にかけてのことである。国道沿いに「古戦の跡」という看板が建てられている。


古戦の跡

(徳富蘇峰記念館)
 水俣を訪ねたのもほぼ二十年振りである。水俣というと水俣病のイメージが強いが、そのイメージとは程遠い本当に美しい街である。公害の元凶となった海の濃い藍色を見る限り、この場所で悲惨な公害があったとは想像ができないくらいである。
 水俣市では悪いイメージを払拭するために全国に先駆けてゴミの分別に取り組み、環境保全では先進的な自治体である。
 鹿児島県大口市(現・伊佐市)に勤務していた時、大口には産婦人科医がなかったため(現在は産婦人科医院ができたらしい)、出産のために隣県の水俣市か宮崎県えびの市まで行かねばならなかった。県境を越えるといっても、大口から水俣まで自動車で三~四十分くらいである。この道を何度も通ったものだ。
 末娘が生まれたのは水俣の総合医療センターである。その娘も今春高校を卒業し、大学に進学する年齢になった。


徳富蘇峰記念館

 医療センターのすぐ近くに市立蘇峰記念館がある。蘇峰、蘆花の兄弟は、父一敬(淇水)が明治三年(1870)熊本藩庁出仕に伴い、熊本に移り住むまで、それぞれ七歳と二歳までの幼少期を水俣で過ごした。


徳富蘇峰翁像

 水俣市立蘇峰記念館は、昭和四年(1929)に蘇峰の寄附をもとに建てられた図書館(淇水文庫)だったものを、蘇峰・蘆花の資料を収集、展示施設として整備したものである。

(徳富蘇峰・蘆花生家)


蘇峰・蘆花生家

 水俣市浜町に蘇峰・蘆花の生家が保存されている。その近所には蘆花の顕彰碑のある蘆花公園がある。

(蘆花公園)


蘆花公園


徳富健次郎先生顕彰之碑

(源光寺)


源光寺

 源光寺は、官軍第三旅団の本営が置かれた。
 薩摩藩では近世を通じて浄土真宗(一向宗)を禁制し、激しい弾圧を加えていた。しかし、信仰は根強く、肥薩国境近くの信者たちは、国境を越えて源光寺や西念寺に抜け参りに訪れていた。寺の仏壇裏の床下に薩摩部屋といわれる秘密の部屋を設けてあり、今もそのまま残されているという。

(牧ノ内)


徳富蘇峰夫妻の墓

 牧ノ内の墓地に徳富蘇峰夫妻の墓がある。
 徳富蘇峰は、文久三年(1863)、徳富家第八代一敬の長男として水俣に生まれた。熊本では四つの私塾と熊本洋学校、さらに東京英語学校等を経て、京都の同志社英学校に学んだ。十七歳で熊本に戻り、十九歳にして大江義塾を開校し、自ら塾長として塾生を指導した。明治十九年(1886)、二十三歳のときに出版した「将来之日本」がベストセラーとなり、一家を挙げて東京に移り、民友社を起して雑誌「国民之友」を創刊した。二十七歳のとき、「国民新聞社」を創立。明治、大正、昭和の三代にわたり言論界の重鎮として活躍した。五十五歳のとき「近世日本国民史」の修史に入り、八十九歳のとき実に三十四年かけて全百巻を完成させた。
 郷土水俣を愛した蘇峰は、昭和三十二年(1957)、九十四歳で逝去したが、「死後、一片の骨にても郷土水俣に埋めたい」という希望に従って、当所に分骨埋葬された。
 なお静子夫人は、十七歳のとき蘇峰の許に嫁ぎ、八十一歳で逝去するまで六十五年、蘇峰の伴侶として支え続けた。

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人吉 Ⅱ

2017年04月15日 | 熊本県
(武家屋敷)


武家屋敷門

永国寺から歩いて数分。西郷隆盛が宿舎として利用した。但し、西南戦争時に焼失したため、現存の建物はその後ほかの邸を移築したもの。
屋敷の主、新宮嘉善は父親が官軍に属していたが、身の潔白を証明するため、住んでいた家族・親族をほかに移動させて屋敷を提供したという。


(官軍砲台跡)
薩軍が人吉に逃げ込み、永国寺に本拠地を構えたあと、官軍は村山に本陣を構える。


砲台跡から人吉市内を臨む

薩軍が市街地に堂々と陣を張ったのに対し、悪く言えば臆病な、良く言えば安全な場所を選んだ。現在は人吉西小学校が建ち、本陣を偲ぶものは無い。

高台からは市内が一望でき、薩軍の本拠地永国寺も指呼の間である。官軍はここから永国寺に向け砲弾を打ち込んだ。薩軍も応戦したが砲弾は届かなかったという。
人吉に退却して三十三日間。遂に薩軍は山中を壊走する。明治十年(1877)六月一日のことであった。


官軍砲台は山頂に在った

(瓦屋官軍本陣跡)


瓦屋町官軍本陣跡(政岡邸)

 六月一日、官軍は午前八時頃、村山からの砲撃授護のもとに、人吉市街に突入し激しい市街戦となった。この日、別働第二旅団司令長官山田顕義少将(新宮簡の上官)は、照岳にあって官軍を指揮しており、その後戦況が進むのをみて、山を下り村山に至って諸隊を督励した。既に大橋は薩軍によって落とされていて、球磨川を渡ることが不可能と悟り、北岸に陣を張り、翌日の攻撃に備えるため本陣を瓦屋の政岡邸に定めた。当時、使用された望遠鏡、燭台、火鉢、銃掛、鉛弾製造用手灼等が保存されているそうである。

(青井阿蘇神社)
JR人吉駅から徒歩数分の場所に青井阿蘇神社の大きな鳥居がある。創建は806年(大同元年)というから大変古いが、本殿や楼門といった建造物はいずれも華美で、桃山時代の気風を伝えている。

人吉に割拠した薩軍は、兵の補給を図るため士族千五百人と言われる人吉で募兵した。恐らく徴兵ははかばかしくなく、その焦りの反映であろう。薩軍は青井阿蘇神社の楼門前に断頭台を設置し、従軍を拒む者を見せしめに殺したと伝えられる。一種の恐怖政治である。このような乱暴な方法を思い付き実践したのは辺見十郎太辺りであったろうか。


青井阿蘇神社


教育勅語碑

 楼門脇に教育勅語碑が建立されている。教育勅語というと、今話題の森友学園が生徒にこれを暗唱させていたことで俄かにクローズアップされている。戦前、教育勅語が軍国主義に悪用されたことがあるため、教育勅語そのものを否定するような風潮があるが、よくよく内容を見れば「親孝行をしましょう」とか「友達と仲良くし、信じ合いましょう」とか、特に毛嫌いするようなものではない。
 教育勅語は、明治二十三年(1890)十月、明治天皇により渙発されたもの。この起草には熊本県出身の法務長官井上毅や明治天皇の侍講元田永孚らが大きな役割を果たした。

(大信寺)


大信寺

 大信寺は官軍の拘置所として使われた。本堂前に西南戦争の戦死者の慰霊塔である「戦死之碑」が建てられている。


戦死之碑

(願成寺)


願成寺

 願成寺は相良氏の菩提寺であり、初代長頼から三十七代頼綱に至る歴代城主の墓地がある。九州には大村氏や鍋島氏の大名墓があって、いずれも圧倒的な迫力であるが、この人吉の相良家墓地も負けていない。


相良長頼の墓

 初代相良長頼は、藤原鎌足の子孫とされ、平安末期に遠江国相良荘の地頭をしていた武家である。元久二年(1205)に人吉庄の地頭に任命されて以来、相良氏と人吉の関係が始まった。長頼は建長六年(1254)、七十八歳で亡くなった。長頼の遺骨は金堂須弥壇の下に埋葬されていたが、西南戦争で金堂が焼失すると、その後金堂跡地に長頼の墓を建設する運動が起こった。現在の石塔は明治二十一年(1888)の完成。碑文は第三十六代頼紹(よりつぐ)が記したものである。


相良頼基墓

 相良頼基(よりもと)は、天保十二年(1841)、相良頼之の四男に生まれた。相良藩最後の藩主となる。安政三年(1856)、兄の急死により家督を継いだ。慶応元年(1865)、丑歳騒動と呼ばれる、新旧兵制採用に関する悲劇があり、このため多くの人材を失った。西洋流(佐幕派)の後退により藩論は統一され、頼基は一隊を率いて上京しようとしたが、熊本藩の向背を恐れて薩摩藩の蒸気船によろうとして延引した。慶応四年(1868)二月上京、八月の会津戦争には日光口より参加。翌年六月には人吉藩知事となり、明治四年(1871)、免じられほどなく隠居した。明治十八年(1885)年四十五で没。


相良長福墓

 相良長福(ながとみ)は、相良頼之の長男。父の隠居に伴い天保十年(1839)家督を継いだ。藩の財政再建のため軋轢を生み、茸山騒動や一揆鎮圧に苦慮した。安政二年(1855)江戸からの帰国途中に発病し、間もなく病死した。三十二歳であった。

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人吉 Ⅰ

2017年04月15日 | 熊本県
(人吉城)


史蹟 人吉城

 人吉市内の史跡探索は、人吉城からスタートする。人吉城は、北と西を球磨川と胸川を天然の堀として利用し、東と南は台地状の地形となっている。伝承によれば、元久二年(1205)、人吉荘地頭に任命された、遠江国相良荘の御家人相良長頼が、平家の家臣矢瀬主馬佑を追って入城したという。現在の城郭は、二十代長毎(まがつね)の時、文禄二年(1593)の造営で、文禄・慶長の役などのため一時中断したあとも1630年代まで順次築造されていった。寛永十六年(1639)に工事が終了し、天守閣は建築されなかった。城は二度の火災と西南戦争の戦火により荒廃したが、石垣や石段を見るだけで往時は見事な城郭だったことが想像できる。


人吉城

 相良氏は江戸時代も変わらず人吉藩二万二千石の大名として君臨し、そのため平安末期からの文化遺産がよく継承されている。

(林鹿寺)


林鹿寺

 人吉城に隣接する林鹿寺の山門を入って左手に西南戦争の戦死者慰霊碑がある。
 西南戦争において、明治十年(1877)の五月のほぼ一か月間、薩軍は人吉に滞在した。人吉隊が結成され、人吉に迫った官軍との攻防戦が続き、市街地が焼失するなど、この山間ののどかな城下町が騒動に巻き込まれた。両軍とも多くの戦死、病死、獄死者が出た。戦後、その両軍戦死者を供養するため、城内に慰霊碑が建立された。勝海舟の筆。のちに道向かいの林鹿寺に移転した。


明治十年戦死者之碑

(老神神社)
 老神神社は、霧島神社を勧請したといわれるが、創立年代は不明。現在の本殿は、寛永五年(1628)、人吉藩主相良長毎とその子の頼尚によって相良氏一族の産宮として再興されたものである。


老神神社


天満宮


弾痕

 老神神社本殿横にある小さな祠は、天満宮である。明治十年(1877)六月一日、官軍は、球磨川北側の村山台地や、願成寺方面から人吉城や新町方面に向かって総攻撃を開始した。この天満宮は当時会館の東側に建てられていたため、川北の官軍からの砲撃を受けることになった。当初は今以上に弾痕が見られたが、現在地に移設した際に、板壁の下半分を取り換えたため、現在は上部に従二か所ほどの弾痕が確認できる。直接見ることはできないが、宮殿の一部や天井裏の梁にも弾痕があるそうである。

(永国寺)
明治十年(1877)、田原坂の戦いに敗れた薩軍は再び人吉の地に戻ってくる。人吉で約1ヶ月、永国寺に本陣を構え抗戦した。


永国寺

既に人吉城は焼失していたため、背後に丘、北側に球磨川で守られているとは言え、どちらかというと堅塁とは言い難い平地の永国寺に本拠を据えざるを得なかったらしい。西郷もこの時戦意を喪失していたのか、近所を散策したり、球磨川で釣りを楽しんでいたというから、随分呑気なものである。別府晋介始め負傷者を収容した野戦病院にもなっていた。境内には、薩軍に徴用された人吉隊の慰霊碑も立つ。


人吉二番隊士の碑


西郷本陣跡の碑 (永国寺)

(西郷隆盛の塩蔵跡)


西郷隆盛の塩蔵跡(旧感應軒)

 人吉出身の音楽家犬童球渓の生家跡の近くに西郷隆盛の塩蔵跡がある。人吉に集結した薩軍は、塩をはじめ多量の兵糧を永国寺裏手の洞窟奥の石積内に格納した。地元の人は「西郷さんの塩蔵」と呼んだ。

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氷川

2017年04月08日 | 熊本県
(宮原)


氷川戦争記念碑

 氷川町には西南戦争時の氷川での戦争を記念する石碑が、宮原町と鹿島町の二か所にある。これも事前に氷川町の教育委員会に問い合わせをし、詳細な地図まで送ってもらった。
 明治十年(1877)三月十九日、日奈久に上陸した官軍に対し、熊本から約二千の薩軍が南下。翌二十日には氷川堤防の守備を固めた。同日、官軍は約七千の兵を宮原、鏡町に配置した。二十一日未明、官軍は霧が晴れたところで攻撃を開始、薩軍は氷川から約三キロメートル離れた砂川まで後退し、午後には官軍が一帯を制圧した。

(鹿島)


軍人墓地


丁丑氷川戦場碑

 鹿島の軍人墓地には、基本的には太平洋戦争の戦死者が葬られているが、その中央に立つ一番背の高い石碑は西南戦争における氷川戦争の記念碑である。

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宇城

2017年04月08日 | 熊本県
(峠の石清水)


峠の石清水

 県道105号線を美里から宇城市街方面に進行すると、峠の石清水という湧き水がある。この石清水は標高二六五メートルの蕨野断層から自噴し、古来涸れたことがないという湧き水である。西南戦争では、三月二十六日、敗走する薩軍がこの地(芥神峠)の洞窟に陣所を構えて立て籠もり、石清水で飯盒炊きしながら駐屯した。二十八日未明、石清水を水筒に汲んで、雪明りをついて難所の白石野越を、積雪を掻き分け中山郷へ遁走した。

(娑婆神峠古戦)


娑婆神峠の石畳

 県道224号線の旧小川町と旧豊野町(いずれも現宇城市)との境に娑婆神峠がある。
 娑婆神(さばかみ)峠は、北へ通じる幹線路であった。この峠は、大切な道路であると同時に戦乱においては要塞にもなった、西南戦争においても戦場となっている。


娑婆神峠

 娑婆神峠の旧豊野町側、旧小川町側いずれも昔の道が残されている。

(新久具橋)
 日奈久に上陸した官軍との小川町での戦闘に敗れた薩軍は、松橋町一帯に強固な陣地を築いた。薩軍にとっては「最後の砦」であった。結果的に、この戦いに敗れたことが、熊本城を取り囲む薩軍の敗走を決定付けた。


新久具橋

 旧国道3号の久具交差点北側、大野川にかかる新久具橋(当時は久具橋)では、三月三十日、川を挟んで対峙していた両軍の主力が激突した。豪雨で薩軍の火縄銃は役に立たなかった。今はコンクリート製の何の変哲もない橋であるが、当時は石造りの眼鏡橋で、薩軍は敗走する際に破壊した。
 松橋を占領した官軍は、四月一日、木原山から烽火をあげて熊本城に籠城する鎮台に勝利を知らせた。激戦となった松橋町であるが、現在当時の戦いを伝える石碑や史跡は残っていない。

(永尾官軍墓地)


永尾官軍墓地

 旧不知火町の永尾地区に官軍墓地がある。この周辺も西南戦争で激戦となり、多数の戦死者を出した。その多くは東京、大阪、名古屋、広島の各鎮台の将兵であった。不知火町松台にも野戦病院が設置され、ここで死去した兵二十七名と、各地における戦死者合わせて百五十名をここに葬った。内訳は将校十名、下士官に従三名、兵百十七である。

(郡浦神社)


郡浦神社

 三角町の郡浦神社は、神風連の挙兵に参加した甲斐武雄が神官を務めていた。甲斐武雄は警吏に捕えられ、明治九年(1876)十二月、熊本臨時裁判にて禁獄百日の刑に処された。
郡浦神社境内に「神風連六烈士ゆかりの地」と記された石碑がある。神風連の乱に加わった加々見十郎、古田十郎、田代儀太郎、その弟田代儀五郎、森下照義、坂本重孝の六人は、ここまで逃げて来たが、大岳山(標高四七八メートル)山頂にて自刃した。


神風連六烈士ゆかりの地

 森下照義は第一部隊に属して鎮台司令長官種田政明を襲った。二十四歳。
 古田十郎は第三部隊所属。歩兵第十三連隊長与倉知実中佐を襲撃した。二十六歳。
 坂本重孝は、第五部隊に属し、県民会議長太田黒惟信を襲撃。二十一歳。
 第一隊本部に属した田代兄弟と加々見十郎は、砲兵第六大隊を襲撃した。田代儀太郎は二十六歳、儀五郎は二十三歳、加々見は四十歳。

(大岳山)


大岳

 神風連六烈士が自刃した大岳山山頂を目指した。山頂には「神風連六烈士自刃之跡碑」があるという。まず自動車で行けるところまで行く。対向車がきたらとても離合できないような狭い道が続く。大きな陥没があったり、こぶし大の石が転がったりしていて、神経をすり減らす。雑草がひざ丈まで伸びている地点で自動車を乗り捨て、そこからは徒歩で山頂を目指した。急な坂道で、途中ロープにしがみついて登るような場所もある。一気に息が上がり、汗が噴き出た。結局、山頂が見えないまま登頂は諦めた。この時点で午後五時を迎えており、このまま登山を続けると下山時に日が落ちてしまうリスクがあった。勇気ある撤退?というやつでしょうか。大岳山登頂は次の機会に再チャレンジすることとしたい。

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美里

2017年04月08日 | 熊本県
(中郡)


日向佐土原隊戦没諸士合葬之碑

 美里町中郡の小さな墓地に日向佐土原隊士の合葬墓がある。美里から松橋(宇城市)では、薩軍と衝背軍とが激しい戦闘を展開した。日向佐土原隊の隊士もここで奮戦したが、衝背軍を止められず、戦死者を出して敗走を余儀なくされた。

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山都

2017年04月08日 | 熊本県
(薩軍兵士の墓)
 山都町は、矢部町、清和村、蘇陽町が合併して誕生した町である。誰がネーミングしたのか知らないが、行けども行けども山が重なる土地は、「山都」という町名がぴったりである。


西南の役 薩軍兵士三人の墓

 長谷に薩軍兵士の墓がある。明治十年(1877)四月、御船方面の激戦で負傷した薩軍の青年三名が、十田里で息絶えた。この亡骸を歌野家の人が自分の墓地に「旅人」三人と称して葬った。
 せっかく行き当てた墓地であったが、地震により全ての墓石が倒壊し、青いシートが被せてある状態であった。歌野家の墓地を特定することができたが、残念ながら薩軍兵士の墓は発見できなかった。

(金内)


金内橋

 金内の集落の中心部に石造りの眼鏡橋が架けられている。金内橋は、嘉永三年(1850)、布田保之助によってかけられた。西南戦争では、官薩両軍がこの橋で休息をとったと言い伝えられている。
 山都町指定文化財リストによれば、金内には和田弥一、平蔵父子の墓があるとされているが、道を尋ねるにも人影もなく、発見することはできなかった。和田弥一、平蔵父子は、金内村の庄屋を務め、官金の管理を任されていたが、薩軍(熊本協同隊)によって斬殺された。
 山都町には、和田父子のほかにも猿渡の渡辺現、量蔵父子(戸長)も薩軍に斬殺されている。遠い道のりであったが、猿渡を目指して車を走らせた。やはり地震の影響により途中で通行止めとなっており、空しく引き返すしかなかった。

(浜町)
 通潤酒造は、西南戦争時に西郷隆盛が本陣として使用し、奥の座敷に宿泊したと伝えられる。


通潤酒造

(中央公民館)


熊本有志隊結成の地

 中央公民館の場所では、西南戦争の際、矢部と原水の有志により熊本有志隊が結成され官軍に投じた。矢部の有志二十四名は五月二十四日、浜町で結成され、翌日原水の有志と合流した。隊長芝藤完治、副隊長一瀬熊雄が約六十名を率いた。歩兵三連隊に配属され、竹田から鹿児島城山まで転戦して、凱旋した。

(通潤橋)
 有名な通潤橋は、我が国で最大規模の石造アーチ式水路橋である。やはり熊本地震により放水は中止され、近づくことはできなくなっているが、それでも立ち入り禁止が解除されたのは幸いであった。


通潤橋


布田保之助翁像

 通潤橋は、布田保之助が手掛けた事業の一つである。布田保之助は、天保四年(1833)から文久元年(1861)の約三十年の長きにわたり、矢部地域七十六ヶ村の長で、行政の責任者(惣庄屋)であった。保之助は、新田開発を目的とした用水路、溜池(堤)等の整備を行ったほか、道路や橋などの交通網を整備するなど、地域の実情に応じて数多くの開発事業を手掛けた。矢部地域で保之助の恩恵を受けない村はなかったといわれている。このうち最も有名なものが、白糸台地に安定した農業用水を供給することを目的に建造された通潤橋である。もはや土木事業というより、芸術作品と呼んでも良いくらいの見事な造形である。

(男成神社)
 男成神社は、阿蘇大宮司が代々このお宮で元服を執り行ったことからその名前が付いたといわれる。西暦640年に阿蘇神社の分社として造られたという古い歴史を持つ神社である。
 西南戦争では、熊本隊がこの地で招魂式を行い、祝宴で武運を祈った。翌日から熊本隊は、一足先に薩軍に続き人吉に向かった。


男成神社


西南戦争砲台跡

 参道途中に日向往還道標があり、その側面に西南戦争砲台跡と赤い字で記されている。

(鮎の瀬大橋)


鮎の瀬大橋

 通潤橋からひたすら南下すると鮎の瀬大橋という大きな橋に出会う。もちろん明治期にこのような橋は存在していない。この地が西南戦争の戦場となった。
 橋を渡って東に少し進むと囲というバス停がある。この周辺が囲城跡である。バス停付近に根もとから折れてボロボロになった木標がある。辛うじて「西南の役 薩隊宿営地」と読める。


薩隊宿営地

(万坂峠)


万坂トンネル

 現在、山都町から美里方面に抜ける国道218号線にはトンネルが穿たれているが、当時は険しい峠道であった。その峠付近に薩軍が砲台を構えて官軍の来襲に備えたという。

コメント (4)
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