(宝泉寺)
相馬正胤家墓
宝泉寺の墓地には、中村藩主相馬家の墓がある。相馬正胤は、充胤の孫にあたる。
相馬充胤(みちたね)は、天保六年(1835)に相馬中村藩主を引き継ぎ、教育や民政に力を注いだ。父であり、前藩主相馬益胤の遺志を継いで、二宮尊徳を起用して、報徳仕法を藩内で行った。安政年間には、北海道開拓を企て、石川郷、軍川郷を開いた。明治二十年(1887)、六十九歳にて死去。
(功運寺)
功運寺
宝泉寺に隣接する功運寺には、有名な吉良上野介や作家林芙美子らの墓がある。
私のこの日のお目当ては、黒羽藩主大関家の墓である。連日、日照りが続いていたが、私が功運寺を訪れたときに、俄かに激しい雨が降り出した。大関家の墓地は、雨の中での撮影となった。
大関増裕の墓
大関増裕の墓である。墓碑銘は山岡鉄舟。同じ墓域に増裕のあとを継いだ大関増勤(ますとし)や十一代藩主大関増業(ますなり)らの墓もある。
大関増裕は、外様大名でありながら、幕府の講武所奉行や陸軍奉行(初代)、海軍奉行などの要職を歴任した。慶應三年(1867)には若年寄まで昇進したが、同年十二月帰城して、遊猟中に病を発して没した。三十歳であった。
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相馬正胤家墓
宝泉寺の墓地には、中村藩主相馬家の墓がある。相馬正胤は、充胤の孫にあたる。
相馬充胤(みちたね)は、天保六年(1835)に相馬中村藩主を引き継ぎ、教育や民政に力を注いだ。父であり、前藩主相馬益胤の遺志を継いで、二宮尊徳を起用して、報徳仕法を藩内で行った。安政年間には、北海道開拓を企て、石川郷、軍川郷を開いた。明治二十年(1887)、六十九歳にて死去。
(功運寺)
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功運寺
宝泉寺に隣接する功運寺には、有名な吉良上野介や作家林芙美子らの墓がある。
私のこの日のお目当ては、黒羽藩主大関家の墓である。連日、日照りが続いていたが、私が功運寺を訪れたときに、俄かに激しい雨が降り出した。大関家の墓地は、雨の中での撮影となった。
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大関増裕の墓
大関増裕の墓である。墓碑銘は山岡鉄舟。同じ墓域に増裕のあとを継いだ大関増勤(ますとし)や十一代藩主大関増業(ますなり)らの墓もある。
大関増裕は、外様大名でありながら、幕府の講武所奉行や陸軍奉行(初代)、海軍奉行などの要職を歴任した。慶應三年(1867)には若年寄まで昇進したが、同年十二月帰城して、遊猟中に病を発して没した。三十歳であった。