史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

東中野 Ⅱ

2012年09月08日 | 東京都
(宝泉寺)


相馬正胤家墓

 宝泉寺の墓地には、中村藩主相馬家の墓がある。相馬正胤は、充胤の孫にあたる。
 相馬充胤(みちたね)は、天保六年(1835)に相馬中村藩主を引き継ぎ、教育や民政に力を注いだ。父であり、前藩主相馬益胤の遺志を継いで、二宮尊徳を起用して、報徳仕法を藩内で行った。安政年間には、北海道開拓を企て、石川郷、軍川郷を開いた。明治二十年(1887)、六十九歳にて死去。

(功運寺)


功運寺

 宝泉寺に隣接する功運寺には、有名な吉良上野介や作家林芙美子らの墓がある。
 私のこの日のお目当ては、黒羽藩主大関家の墓である。連日、日照りが続いていたが、私が功運寺を訪れたときに、俄かに激しい雨が降り出した。大関家の墓地は、雨の中での撮影となった。


大関増裕の墓

 大関増裕の墓である。墓碑銘は山岡鉄舟。同じ墓域に増裕のあとを継いだ大関増勤(ますとし)や十一代藩主大関増業(ますなり)らの墓もある。

 大関増裕は、外様大名でありながら、幕府の講武所奉行や陸軍奉行(初代)、海軍奉行などの要職を歴任した。慶應三年(1867)には若年寄まで昇進したが、同年十二月帰城して、遊猟中に病を発して没した。三十歳であった。

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笛吹

2012年09月08日 | 山梨県
(黒駒)


黒駒勝蔵之碑

 この日は、人間ドックを受診するために一日休みをもらった。思いのほかスムースにいって、十時前には終わった。このまま家に帰ってしまってはもったいないので、山梨県笛吹市御坂黒駒周辺を歩いてみることにした。
 中央高速道路を一宮御坂ICで降りて南に進む。十分も走れば、黒駒に到着する。周囲には、ぶどうや桃畑が際限なく広がっている。
上黒駒郵便局の向かい側に黒駒勝蔵の顕彰碑がある。

 黒駒勝蔵は、本名を小池勝蔵といい、天保三年(1832)上黒駒若宮の名主、小池嘉兵衛の次男に生まれた。成人すると武士を志して、同村の仲間二人を誘って江戸に行き、町道場で修業して目録の腕前になったが、身分階級の差の厳しさに嫌気がさし、黒駒村に帰った。
 黒駒勝蔵というと、大衆演劇や講談の世界では清水次郎長のライバルであり、悪役と相場が決まっているが、事実としてはどうなのだろう。文久年間には、清水次郎長と抗争を繰り広げたが、両者が実際に衝突したのは頻度にすれば数回ともいわれる。

(御坂路農場)


御坂路農場

 若宮交差点に近い御坂路農場は、黒駒勝蔵の生家である。店番をしていた老婆によれば、勝蔵から数えて四代目なのだそうである。御坂路農場の一角には、黒駒勝蔵の墓が建てられている。


黒駒勝蔵之墓

 御坂路農場で桃を一ケース購入。黒駒勝蔵の墓の写真を撮っていると、先ほどの老婆が「黒駒の勝蔵小伝」と書いた一枚のコピーをくれた。黒駒勝蔵の生涯が端的に記載されている。

(若宮観音堂)


若宮観音堂

 御坂東小学校の裏手にある若宮観音堂にも黒駒勝蔵の墓がある。手を合わせた人形型の墓がそれだという。


黒駒勝蔵の墓

(称願寺)


称願寺

 称願寺の境内にも黒駒勝蔵の墓がある。両側には、子分である大岩(左)、小岩の墓が置かれている。


黒駒勝蔵之墓(中)
大岩之墓(右) 小岩之墓(左)

 文久元年(1861)、石和代官所の牢に入れられ、毒殺された竹居の吃安(本名、中村安五郎)の敵を討つため、黒駒勝蔵は甲州万福寺(勝沼町)に潜伏していた犬上郡次郎を殺害した。その後、慶応四年(1868)、鳥羽伏見の戦争が起こると、名前を池田勝蔵と改め官軍の赤報隊に加盟した。赤報隊が解体された後、四条隆謌の徴兵七番隊へ配属され、奥羽を転戦した。会津藩の降伏を見届けて、京都に戻った。明治二年(1869)三月、東京遷都とともに、徴兵七番隊にも供奉の命が下り、勝蔵も第一遊軍隊の小隊長として明治天皇に従った。間もなく兵制改革により解隊命令が出たが、勝蔵は兵籍のまま黒川金山(現・塩山市)に入って金鉱探しに手を染めたが、うまくいかなかった。このとき休暇手続きを取らなかったため、「脱走」という扱いになり、新政府に追われることになった。勝蔵は伊豆下田の蓮台寺温泉に逃れたが、明治四年(1871)身の潔白を申し立てるため伊豆畑毛温泉(函南)に移動したところを捕らえられ、甲府に送られた。取調べの結果、博徒時代の犬上群次郎殺しや余罪を問われて、斬に処された。天寿を全うした清水次郎長とは対照的な非業の死であった。享年四十。

(檜峯神社)


檜峯神社

 檜峯神社への参道は、大栃山(標高1415)、釈迦ヶ岳(標高1641)への登山道を兼ねている。参道入口から檜峯神社まで、私の脚で片道五十分余り。登山が趣味という方には、登山のうちに入らない距離であろうが、私にとって登山と呼ぶに十分な難易度であった。


檜峯神社への参道

 檜峯神社は、鬱蒼とした杉林の奥に鎮座する。標高は千九十メートルに達する。若き黒駒勝蔵は、檜峯神社の神官、梶原外記の私塾に学んだといわれ、長じて官軍に身を投じたのは、梶原外記の国学思想の影響を受けたからともいわれる。

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飯能 Ⅲ

2012年09月08日 | 埼玉県
(天龍寺)


天龍寺

 秩父の大陽寺も、随分山深い場所に在るが、「子の権現」の別名を持つ、飯能の天龍寺も国道に面した分岐点から五㎞以上山道を走らなければならない。
 天龍寺は、延喜十一年(911)に子ノ聖(ねのひじり)が創建したというから、千年を越える歴史を持つ寺である。茅葺の本坊は、江戸時代末期の建造という。本坊に至る参道に仁王門が建てられているが、その前には推定樹齢八百年という杉の大木が聳えている。杉の大木から、本坊と反対側に丘があって、その途中に「比留間翁壽碑」が建っている。篆額は谷干城。金井之恭の書。


比留間翁壽碑

 この石碑は、明治三十五年(1902)比留間良八の門弟たちの手によって建てられたものである。碑文には比留間良八の略歴が記録されている。「甫めて十歳学剣共に修むる事十年、竟に其の蘊奥を極む」「文久二年中納言慶喜公将朝、先生召為警衛時、二十三、扈列京師毎与諸藩士試其技無有敵者公数有賞賜」「上野の事起るに迨び、彰義隊第十四隊を以て各処に格闘するも未だ嘗て負傷せず」とある。上野戦争に敗れた比留間良八は、しばらく不忍池の水中に身を隠し、数日後に郷里の梅原(現・日高市)に逃げ帰ったという。維新後は、越生村の田島家の養子となって地元で剣術を教え、次第に門弟が増えた。明治三十三年(1900)には、推されて日本体育会埼玉支会越生支部の撃剣場長となった。大正十一年(1922)、病没。享年七十二であった。

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熊谷 Ⅱ

2012年09月08日 | 埼玉県
(高本共同墓地)


権少講義徳永豊洲墓

 徳永大和の墓を訪ねて、再び熊谷市高本に足を伸ばした。共同墓地の在り処を尋ねるにも人の姿がない。路上に車を置いて高本の集落内を歩き回った末に、高本集会所の前にようやく共同墓地を発見した。鈴木家の墓域に徳永大和の墓がある。
 車に戻ると、私の自動車が畦道を塞いでいたらしく、そのため軽トラックのオジサンが運転手(つまり私)を探しているところであった。オジサンは近所を訪ね歩いたらしく、近所の人も数名集まっていた。さっきはどこを探しても人の姿がなかったのだが。私はオジサンに平謝りに謝って高本をあとにした。

(相上共同墓地)


贈従五位小嶋直次郎之墓

 慶應三年(1867)、相楽総三の檄に応じて三田の薩摩藩邸に集まった浪士の一人に、小嶋直次郎がいた。小嶋直次郎は、根岸友山の門人で、大里村相上(現・熊谷市相上)の人。弘化二年(1845)の生まれというから、慶應三年(1867)時点で二十二歳であった。元治から慶應にかけて、中国から九州を巡って諸国の志士と交わり、伊予大洲では矢野玄道に師事した。慶応二年(1866)には平田銕胤の門に入った。薩摩藩邸に入った慶應三年(1867)七月、同志の石城一作、松田正雄、中山信之丞と目黒祐天寺に遊んだとき、幕吏に襲われて重傷を負った。石城は捕えられて伝馬町の獄中で毒殺死。松田はこの場を切り抜けたが、同年十二月の薩摩藩邸焼き打ち事件の際、自刃。もう一人の中山は祐天寺で自刃。
 小嶋直次郎は、幕吏の包囲を切り抜けて、夜を徹して郷里に帰った。吉見神社の社司須長家に匿われ看病を受けたが、翌月還らぬ人となった。享年二十三。

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