(高龍寺)
高龍寺は、歴史ある函館市内でも最も古い寺院である。箱館開港当時の場所は現在地とは異なっているが、実行寺とともにロシア領事館関係者の仮宿舎として利用された。山門や本堂には見事な木彫が施されている。

高龍寺山門
箱館戦争の傷病兵は、箱館病院に収容されたが、戦争激化とともに、高龍寺も野戦病院として利用されることになった。箱館戦争終結の直前となる明治二年(1869)、五月十一日、新政府軍が高龍寺を襲い、無抵抗の傷病兵を惨殺するという悲劇が起こった。新政府軍は寺に火を放って立ち去ったという。捕虜や傷病兵に危害を加えないという国際的常識が我が国に移入されたのは、ずっと後のことである。当時はこのような残虐行為が当たり前とはいえ、人間は戦争という限界的状況に置かれると、限りなく残酷になるという典型例である。
傷心惨目の碑
この凄惨な事件の犠牲者を悼んで、会津藩有志により明治十三年(1880)、「傷心惨目の碑」が高龍寺境内に建てられた。
渋田利右衛門墓
渋田利右衛門は箱館出身の商人である。苦学時代の若き勝海舟と出会い、支援したことで知られる。
中川家先祖代々之墓(中川五郎治墓)
中川五郎治は、陸奥国川内村出身の人。ロシア艦船に拉致されたが、日本に送還されることになった。ロシアで種痘法を習得し、帰国後それを実践した。文化七年(1810)、田中正右衛門の娘に種痘を施したのが、我が国初と言われる。

横山松三郎の墓
幕末に開港されると、西欧の文化が箱館にもたらされた。写真術もその一つで、横浜、長崎とともに我が国の写真文化の礎として、その発展に寄与してきた。木津幸吉、田本研造、横山松三郎といった写真家がこの街から輩出されている。
横山松三郎は、天保九年(1838)、択捉島の生まれ。下岡蓮杖に写真術を学び、江戸に写真館を開いた。明治二年(1869)には日光東照宮などを撮影した。明治九年(1876)には陸軍士官学校の教授となり、写真術を教えた。気球から空中撮影をしたり、写真に彩色を施すなど、先駆的な取り組みで知られる。
(称名寺)
称名寺
称名寺(しょうみょうじ)は、箱館開港当時、イギリスやフランスの領事館として利用された寺院である。当初は亀田町にあったらしいが、十八世紀初頭に現在の弥生小学校の場所に移転した。
土方歳三ほか新選組隊士供養塔
土方歳三の戦死した場所は諸説あり特定できていないが、土方ゆかりの日野高幡不動尊金剛寺の過去帳によれば、称名寺に鴻池手代大和屋友次郎建立の供養塔があることが記されている。称名寺は明治期の大火で三回も焼失しているため碑は現存していないが、昭和四十八年(1973)有志により新選組供養塔が建てられた。中央に戒名とその左に土方歳三の名前が刻まれているほか、野村義時(利三郎)、栗原仙之助・糟谷十郎・小林幸次郎ら、いずれも箱館で戦死した隊士四名の名前が刻まれている。彼らの墓も称名寺にあったが、昭和二十九年(1954)の台風で流失したため、この供養塔に名前が刻まれることになった。
高田屋嘉兵衛は、郷里の淡路で没したため、そこに墓もあるが、高田屋を継いだ金兵衛の系統が函館に住んでいたため、函館にも墓が建てられることになった。

高田屋嘉兵衛一族の墓

高田屋嘉兵衛顕彰碑
(実行寺)
実行寺(じつぎょうじ)は、正徳四年(1714)富岡町(現・弥生町)に移転し、明治十二年(1879)の大火後、明治十四年(1881)この地に移った。その後も幾度か大火に見舞われ、現在の建物は大正七年(1918)に建てられたものである。
安政元年(1854)ペリー来航時には、実行寺内にスタジオが設けられ、写真撮影が行われた。翌年にはフランス軍艦シヴィル号が緊急入港した際、当時の箱館奉行竹内保徳は、人道的見地から疾病水兵の上陸を認め、彼らは当寺で療養した。残念ながら六名は病没したが、大半の乗組員が祖国への帰還を果たした。境内にはそのことを記念した日仏親善函館発祥記念碑が建てられている。

実行寺
実行寺は、ロシア領事ゴスケヴィチ着任時、領事館として利用されたこともある。また、実行寺住職日隆は、侠客柳川熊吉の要請に応じて、幕兵の遺体埋葬に協力したことでも知られる。
日仏親善函館発祥記念碑

戦死した会津藩士の墓
斗南旧藩 諏訪常吉墓
戦死した会津藩士の墓碑群の中に、諏訪常吉の墓がある。諏訪常吉は会津藩士であったが、矢不来で負傷し箱館病院に入院中だったところを、旧知の薩摩藩士池田次郎兵衛が訪ねたことがきっかけとなって和平交渉が始まった。このとき薩摩藩士村橋直衛(のちの久成。札幌麦酒醸造所の創立に関与)も池田に同伴している。降伏勧告を受けた諏訪常吉は重傷のため起き上がることすらできなかったため、和平交渉の役割を高松凌雲と小野権之丞(病院事務官・会津藩士)に委ねた。彼らの尽力によって、新政府軍軍監田島敬蔵(薩摩藩士)が、弁天台場の永井尚志、さらに五稜郭の榎本武揚に会うことになり、戦争終結へ向かった。
諏訪常吉は、明治二年(1868)五月十六日の夜、ちょうど五稜郭で降伏の会議が開かれていた時分、箱館病院で息絶えた。
日向君招魂碑
会津藩白虎隊士中二番隊長、日向内記の長男日向真寿見の招魂碑らしい。ほとんど判読できず。題字は榎本武揚。
墓地最奥には日向真寿見の墓がある。
日向家之墓
高龍寺は、歴史ある函館市内でも最も古い寺院である。箱館開港当時の場所は現在地とは異なっているが、実行寺とともにロシア領事館関係者の仮宿舎として利用された。山門や本堂には見事な木彫が施されている。

高龍寺山門
箱館戦争の傷病兵は、箱館病院に収容されたが、戦争激化とともに、高龍寺も野戦病院として利用されることになった。箱館戦争終結の直前となる明治二年(1869)、五月十一日、新政府軍が高龍寺を襲い、無抵抗の傷病兵を惨殺するという悲劇が起こった。新政府軍は寺に火を放って立ち去ったという。捕虜や傷病兵に危害を加えないという国際的常識が我が国に移入されたのは、ずっと後のことである。当時はこのような残虐行為が当たり前とはいえ、人間は戦争という限界的状況に置かれると、限りなく残酷になるという典型例である。

傷心惨目の碑
この凄惨な事件の犠牲者を悼んで、会津藩有志により明治十三年(1880)、「傷心惨目の碑」が高龍寺境内に建てられた。

渋田利右衛門墓
渋田利右衛門は箱館出身の商人である。苦学時代の若き勝海舟と出会い、支援したことで知られる。

中川家先祖代々之墓(中川五郎治墓)
中川五郎治は、陸奥国川内村出身の人。ロシア艦船に拉致されたが、日本に送還されることになった。ロシアで種痘法を習得し、帰国後それを実践した。文化七年(1810)、田中正右衛門の娘に種痘を施したのが、我が国初と言われる。

横山松三郎の墓
幕末に開港されると、西欧の文化が箱館にもたらされた。写真術もその一つで、横浜、長崎とともに我が国の写真文化の礎として、その発展に寄与してきた。木津幸吉、田本研造、横山松三郎といった写真家がこの街から輩出されている。
横山松三郎は、天保九年(1838)、択捉島の生まれ。下岡蓮杖に写真術を学び、江戸に写真館を開いた。明治二年(1869)には日光東照宮などを撮影した。明治九年(1876)には陸軍士官学校の教授となり、写真術を教えた。気球から空中撮影をしたり、写真に彩色を施すなど、先駆的な取り組みで知られる。
(称名寺)

称名寺
称名寺(しょうみょうじ)は、箱館開港当時、イギリスやフランスの領事館として利用された寺院である。当初は亀田町にあったらしいが、十八世紀初頭に現在の弥生小学校の場所に移転した。

土方歳三ほか新選組隊士供養塔
土方歳三の戦死した場所は諸説あり特定できていないが、土方ゆかりの日野高幡不動尊金剛寺の過去帳によれば、称名寺に鴻池手代大和屋友次郎建立の供養塔があることが記されている。称名寺は明治期の大火で三回も焼失しているため碑は現存していないが、昭和四十八年(1973)有志により新選組供養塔が建てられた。中央に戒名とその左に土方歳三の名前が刻まれているほか、野村義時(利三郎)、栗原仙之助・糟谷十郎・小林幸次郎ら、いずれも箱館で戦死した隊士四名の名前が刻まれている。彼らの墓も称名寺にあったが、昭和二十九年(1954)の台風で流失したため、この供養塔に名前が刻まれることになった。
高田屋嘉兵衛は、郷里の淡路で没したため、そこに墓もあるが、高田屋を継いだ金兵衛の系統が函館に住んでいたため、函館にも墓が建てられることになった。

高田屋嘉兵衛一族の墓

高田屋嘉兵衛顕彰碑
(実行寺)
実行寺(じつぎょうじ)は、正徳四年(1714)富岡町(現・弥生町)に移転し、明治十二年(1879)の大火後、明治十四年(1881)この地に移った。その後も幾度か大火に見舞われ、現在の建物は大正七年(1918)に建てられたものである。
安政元年(1854)ペリー来航時には、実行寺内にスタジオが設けられ、写真撮影が行われた。翌年にはフランス軍艦シヴィル号が緊急入港した際、当時の箱館奉行竹内保徳は、人道的見地から疾病水兵の上陸を認め、彼らは当寺で療養した。残念ながら六名は病没したが、大半の乗組員が祖国への帰還を果たした。境内にはそのことを記念した日仏親善函館発祥記念碑が建てられている。

実行寺
実行寺は、ロシア領事ゴスケヴィチ着任時、領事館として利用されたこともある。また、実行寺住職日隆は、侠客柳川熊吉の要請に応じて、幕兵の遺体埋葬に協力したことでも知られる。

日仏親善函館発祥記念碑

戦死した会津藩士の墓

斗南旧藩 諏訪常吉墓
戦死した会津藩士の墓碑群の中に、諏訪常吉の墓がある。諏訪常吉は会津藩士であったが、矢不来で負傷し箱館病院に入院中だったところを、旧知の薩摩藩士池田次郎兵衛が訪ねたことがきっかけとなって和平交渉が始まった。このとき薩摩藩士村橋直衛(のちの久成。札幌麦酒醸造所の創立に関与)も池田に同伴している。降伏勧告を受けた諏訪常吉は重傷のため起き上がることすらできなかったため、和平交渉の役割を高松凌雲と小野権之丞(病院事務官・会津藩士)に委ねた。彼らの尽力によって、新政府軍軍監田島敬蔵(薩摩藩士)が、弁天台場の永井尚志、さらに五稜郭の榎本武揚に会うことになり、戦争終結へ向かった。
諏訪常吉は、明治二年(1868)五月十六日の夜、ちょうど五稜郭で降伏の会議が開かれていた時分、箱館病院で息絶えた。

日向君招魂碑
会津藩白虎隊士中二番隊長、日向内記の長男日向真寿見の招魂碑らしい。ほとんど判読できず。題字は榎本武揚。
墓地最奥には日向真寿見の墓がある。

日向家之墓