史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

函館 船見町 Ⅱ

2013年10月05日 | 北海道
(高龍寺)
 高龍寺は、歴史ある函館市内でも最も古い寺院である。箱館開港当時の場所は現在地とは異なっているが、実行寺とともにロシア領事館関係者の仮宿舎として利用された。山門や本堂には見事な木彫が施されている。


高龍寺山門

 箱館戦争の傷病兵は、箱館病院に収容されたが、戦争激化とともに、高龍寺も野戦病院として利用されることになった。箱館戦争終結の直前となる明治二年(1869)、五月十一日、新政府軍が高龍寺を襲い、無抵抗の傷病兵を惨殺するという悲劇が起こった。新政府軍は寺に火を放って立ち去ったという。捕虜や傷病兵に危害を加えないという国際的常識が我が国に移入されたのは、ずっと後のことである。当時はこのような残虐行為が当たり前とはいえ、人間は戦争という限界的状況に置かれると、限りなく残酷になるという典型例である。


傷心惨目の碑

 この凄惨な事件の犠牲者を悼んで、会津藩有志により明治十三年(1880)、「傷心惨目の碑」が高龍寺境内に建てられた。


渋田利右衛門墓

 渋田利右衛門は箱館出身の商人である。苦学時代の若き勝海舟と出会い、支援したことで知られる。


中川家先祖代々之墓(中川五郎治墓)

 中川五郎治は、陸奥国川内村出身の人。ロシア艦船に拉致されたが、日本に送還されることになった。ロシアで種痘法を習得し、帰国後それを実践した。文化七年(1810)、田中正右衛門の娘に種痘を施したのが、我が国初と言われる。


横山松三郎の墓

 幕末に開港されると、西欧の文化が箱館にもたらされた。写真術もその一つで、横浜、長崎とともに我が国の写真文化の礎として、その発展に寄与してきた。木津幸吉、田本研造、横山松三郎といった写真家がこの街から輩出されている。
 横山松三郎は、天保九年(1838)、択捉島の生まれ。下岡蓮杖に写真術を学び、江戸に写真館を開いた。明治二年(1869)には日光東照宮などを撮影した。明治九年(1876)には陸軍士官学校の教授となり、写真術を教えた。気球から空中撮影をしたり、写真に彩色を施すなど、先駆的な取り組みで知られる。

(称名寺)


称名寺

 称名寺(しょうみょうじ)は、箱館開港当時、イギリスやフランスの領事館として利用された寺院である。当初は亀田町にあったらしいが、十八世紀初頭に現在の弥生小学校の場所に移転した。


土方歳三ほか新選組隊士供養塔

 土方歳三の戦死した場所は諸説あり特定できていないが、土方ゆかりの日野高幡不動尊金剛寺の過去帳によれば、称名寺に鴻池手代大和屋友次郎建立の供養塔があることが記されている。称名寺は明治期の大火で三回も焼失しているため碑は現存していないが、昭和四十八年(1973)有志により新選組供養塔が建てられた。中央に戒名とその左に土方歳三の名前が刻まれているほか、野村義時(利三郎)、栗原仙之助・糟谷十郎・小林幸次郎ら、いずれも箱館で戦死した隊士四名の名前が刻まれている。彼らの墓も称名寺にあったが、昭和二十九年(1954)の台風で流失したため、この供養塔に名前が刻まれることになった。

 高田屋嘉兵衛は、郷里の淡路で没したため、そこに墓もあるが、高田屋を継いだ金兵衛の系統が函館に住んでいたため、函館にも墓が建てられることになった。


高田屋嘉兵衛一族の墓


高田屋嘉兵衛顕彰碑

(実行寺)
 実行寺(じつぎょうじ)は、正徳四年(1714)富岡町(現・弥生町)に移転し、明治十二年(1879)の大火後、明治十四年(1881)この地に移った。その後も幾度か大火に見舞われ、現在の建物は大正七年(1918)に建てられたものである。
 安政元年(1854)ペリー来航時には、実行寺内にスタジオが設けられ、写真撮影が行われた。翌年にはフランス軍艦シヴィル号が緊急入港した際、当時の箱館奉行竹内保徳は、人道的見地から疾病水兵の上陸を認め、彼らは当寺で療養した。残念ながら六名は病没したが、大半の乗組員が祖国への帰還を果たした。境内にはそのことを記念した日仏親善函館発祥記念碑が建てられている。


実行寺

 実行寺は、ロシア領事ゴスケヴィチ着任時、領事館として利用されたこともある。また、実行寺住職日隆は、侠客柳川熊吉の要請に応じて、幕兵の遺体埋葬に協力したことでも知られる。


日仏親善函館発祥記念碑


戦死した会津藩士の墓


斗南旧藩 諏訪常吉墓

戦死した会津藩士の墓碑群の中に、諏訪常吉の墓がある。諏訪常吉は会津藩士であったが、矢不来で負傷し箱館病院に入院中だったところを、旧知の薩摩藩士池田次郎兵衛が訪ねたことがきっかけとなって和平交渉が始まった。このとき薩摩藩士村橋直衛(のちの久成。札幌麦酒醸造所の創立に関与)も池田に同伴している。降伏勧告を受けた諏訪常吉は重傷のため起き上がることすらできなかったため、和平交渉の役割を高松凌雲と小野権之丞(病院事務官・会津藩士)に委ねた。彼らの尽力によって、新政府軍軍監田島敬蔵(薩摩藩士)が、弁天台場の永井尚志、さらに五稜郭の榎本武揚に会うことになり、戦争終結へ向かった。
 諏訪常吉は、明治二年(1868)五月十六日の夜、ちょうど五稜郭で降伏の会議が開かれていた時分、箱館病院で息絶えた。


日向君招魂碑

 会津藩白虎隊士中二番隊長、日向内記の長男日向真寿見の招魂碑らしい。ほとんど判読できず。題字は榎本武揚。

 墓地最奥には日向真寿見の墓がある。


日向家之墓


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函館 船見町 Ⅰ

2013年10月05日 | 北海道
今年の夏は、函館である。
夏休みには決まって息子と旅に出るが、やつも高校二年になった。一応、受験勉強を始める年になったので、こうして二人で旅ができるのも、これが最後の機会かもしれない。二人の意見の一致した行き先が、函館である。
息子はこの夏、高校の鉄道研究会の合宿で、北海道に行くことになった。こちらも最終学年の特権で、ほとんど息子の意見で行先が決定したようなものらしい。当初は鉄道研究会の合宿と、我々二人旅の日程は別物であったが、私の異動により夏休みのカレンダーが変更となり、合宿と二人旅をくっつけることが可能となった。息子はそのまま北海道に残り、函館で合流するという算段である。
ということで、往路は一人で移動する。早朝、五時に八王子を出て、新幹線「はやぶさ」で新青森へ。そこから特急に乗り換えて函館に降り立つのは昼過ぎである。遠いといえば遠いが、四国への出張に半日を要することを想えば、案外近いようにも感じてしまうのである。ちょうど帰省ラッシュとも重なり、函館に向かう特急「スーパー白鳥」は予約席まで立った人があふれるくらいの大混雑であった。


はやぶさ
大宮‐新青森間を約三時間で結ぶ

函館を旅するのは今回が初めてではない。学生時代に卒業旅行と称して友人三人と北海道を回ったことがある。その時以来ということはほぼ三十年振りということになる。当時の記憶としては、朝市で食べたイカ刺丼が無茶苦茶美味しかったことと、夜景を見に行った函館山の山頂があまりに寒くて長時間滞在できなかったこと、これくらいしか覚えていない(貧しい記憶力である)。あの時は友人たちと一緒だったこともあって、史跡には足を運んでいない。少なくとも史跡だけを目的とした函館旅行は、今回が初めてである。

函館はいうまでもなく箱館戦争の舞台となった街である。旧幕軍が政庁を置いたのが箱館五稜郭だったため、箱館戦争と呼ばれることになったが、函館だけでなく、現在の行政区でいうと森町、松前町、北斗市、江差町などかなり広範な地域が戦場となっている。
なお、本稿において、地名については箱館戦争後、函館と改称された経緯があるので、できるだけ戦前は「箱館」、戦後は「函館」と区別するようにした。また、五稜郭政府軍については、「榎本軍」「徳川脱走軍」「徳川脱籍軍」など、書物によって呼び方が異なるが、「旧幕軍」で統一することとした。同じく明治政府軍についても、「官軍」「政府軍」などといった呼称があるが、ここでは「新政府軍」とした。

幕末という時代の「はじまり」と「おわり」を定義すると、嘉永六年(1853)のペリー来航に幕を開けたとして、終期は、その掉尾を飾った箱館戦争が終結した明治二年(1869)という説がある。とすれば、道南を今まで訪れていなかったのは遅きに失したというべきかもしれない。道南には、箱館戦争に関わる史跡が多く残されている。特に函館市内には史跡が集中している。

 初日、昼過ぎに函館駅に到着する。この日の午後はレンタサイクルで市内を回る予定である。事前にレンタサイクルを予約しておいた。あとは好天を祈るばかりであった。出発までの一週間、インターネットで週間天気予報をチェックして一喜一憂する毎日であった。出発の前日には、秋田県と北海道を集中豪雨が襲い(報道によれば「経験をしたことのない」レベル)、JRの一部は不通となるほどであった。先日の上野寛永寺徳川家霊廟の特別公開のときも大雨に見舞われた私は、最近すっかり雨男づいていて、いよいよ函館でも雨かとこのときは観念した。しかし、幸いにして今回の旅行では、天候には恵まれた。

 函館の駅に降り立ってみると意外と暑い。夏休みに北海道旅行というと羨ましがられるが、避暑というにはほど遠い暑さであった。テレビのニュースでは、関東では連日四十度を超す猛暑日が続いており、それと比べればマシだったのかもしれない。とにかく今回の旅では汗をかいた。

 函館は坂の街である。少しレンタル料は高めであるが(一日千五百円)、電動自転車が力強い味方となった。初日の半日だけであったが、電動自転車でかなりのスポットを回ることができた。函館の街を短時間に効率的に探索するには、電動自転車が絶対お勧めである。

(地蔵寺)


地蔵寺

安政五年(1858)、英米露仏蘭との通商修好条約が締結され、翌安政六年(1859)、横浜、長崎とともに箱館も開港されることになった。開港とともに多くの外国人が居住することになり、現在の船見町一帯は遊女屋街となった。往時には三百三十人もの遊女がいたと記録されている。地蔵寺境内にある遊女の名前を刻んだ有無両縁塔が、その名残である。台座には遊女屋の名前が刻まれている。


有無両縁塔


有無両縁塔の台座

(外人墓地)

地蔵寺から見ると海側の海を臨む丘の上に外人墓地が拡がっている。坂を上ってくるとまずギリシャ正教のロシア人墓地四十三基があり、その右手の煉瓦塀を巡らせた墓地が中国人墓地である。その隣にプロテスタント系の墓地。さらにその隣に南部陣屋箱館詰め藩士の墓がある。

外人墓地は施錠されており、外から見ることしかできないのは少々残念であった。安政元年(1854)ペリー艦隊の水兵(ジェームス・G・ウォル (五十歳)、G ・W・レミック(十九歳)の墓が一番古く、この二人のための弔歌碑も建てられている。


外人墓地


ハーバーの墓

 ドイツ代弁領事ルートヴィッヒ・ハーバーの墓である。同型の記念碑が、函館公園にも建てられているが、こちらが本墓で、函館公園の方はレプリカということだろう。
ハーバーは、明治七年(1874) 函館公園裏で攘夷派の秋田藩士田崎秀親によって斬殺された人物である。このとき彼は三十一歳の若き外交官で、半年前に箱館に着任したばかりであった。田崎は直後に自首し、翌月箱館にて処刑された。
 プロテスタント系墓地には、ほかにもイギリス人ジェームス・スコット(機械木材工場倉庫業)、デンマーク領事デュースの墓等、四十一基が並ぶ。


デンマーク領事デュースの墓


ロシア人墓地

 ロシア人墓地にはロシア軍艦乗組員や領事館関係者の墓など訳四十基が並ぶ。最も古いものは、安政六年(1859)アスコリド号航海士ゲオルギィ・ボウリケヴィチのものである。


函館中華山荘(中国人墓地)

 幕末には中国人も、主に海産物を商うために函館に住み着いていた。この墓地は、明治九年(1876)、青森県下に漂着した中国人の遺体を埋葬したのが始まりで、現在確認されているところでは、九基の石碑と四基の木碑がある。


南部陣屋箱館詰藩士墓

 南部盛岡藩は、箱館から幌別までの警備を命じられ、各所に陣屋を築いた。病死した藩士十二名の墓を集めたものである。




コメント (2)
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