史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

函館 五稜郭 Ⅱ

2013年10月13日 | 北海道
(五稜郭タワー)


五稜郭タワー

 何故だか五稜郭に来ると中国人(多分、台湾人か)の観光客がやたらと多い。


箱館戦争供養塔

 五稜郭タワー内には箱館戦争供養塔が建てられている。


土方歳三像


土方歳三像

 函館では土方歳三はスーパーヒーロー扱いである。五稜郭タワーには二体の土方歳三の像がある。


榎本武揚像


武田斐三郎像


展望台における箱館戦争関係の展示
「五稜郭物語」

 展望台では箱館戦争関係の展示が見逃せない。箱館戦争における重要な局面を、人形を使って展示している。いずれもリアルに作ってあり、一見の価値がある。


函館駅の「箱館古地図」

 この地図を見れば一目瞭然であるが、幕末当時、函館山の麓、西部地区に集中しており、五稜郭周辺にはほとんど人家が無かった。現在の函館市からは想像できないような風景であった。



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函館 五稜郭 Ⅰ

2013年10月13日 | 北海道
(五稜郭)


五稜郭跡

 今回の道南旅行も五日目となった。満を持して五稜郭を訪ねる。五稜郭は箱館戦争の主戦場となった。今は観光都市函館を象徴する史跡となっている。


五稜郭

 高さ百メートル余りの五稜郭タワーから五稜郭の綺麗な星型を目にすると、誰もが感嘆の声を上げるだろう。
明治新政府が派遣した箱館府(清水谷公考知事)は早々に退去したため、既に箱館は無主となっていた。松前藩を蹴散らした榎本軍は、明治元年(1868)十二月には道南を鎮圧して、五稜郭に入城した。このとき彼らが選挙(当時の用語でいうと「入札」)によって幹部を選出したことから、榎本政権のことを「蝦夷共和国」と呼ぶ向きもあるが、果たして正確であろうか。少なくとも榎本自身あるいは旧幕軍の幹部自らこの政権を「蝦夷共和国」と呼んだことはない。選挙権のあったのは中級将校以上に限られるし、榎本武揚自身はいずれ徳川家の当主を箱館に迎えたいという意向を持っていたようである。榎本らがこの時点でどのような思想や理想を持っていたか判然としないが、我々がイメージするような共和国的な構想を持っていたとは考えにくい。
 入れ札の結果、選出されたのは以下の顔ぶれである。
 総裁 榎本武揚
 副総裁 松平太郎
 海軍奉行 荒井郁之助
 陸軍奉行 大鳥圭介
 陸軍奉行並 土方歳三
 箱館奉行 永井尚志
 箱館奉行並 中島三郎助
 江差奉行 松岡四郎次郎
 江差奉行並 小杉雅之進
 松前奉行 人見勝太郎
 開拓奉行 沢太郎左衛門
 会計奉行 榎本対馬、川村録四郎
 津軽陣屋総督 中島三郎助
 裁判局頭取 竹中重固
 歩兵頭並 伊庭八郎、星恂太郎

 決して今日的な意味でいう民主的選挙ではないものの、一方で箱館政権に加わっていた松平定敬(桑名藩主)や板倉勝静(備中松山藩主)、小笠原長行(唐津藩主)といった殿様は一人も選ばれなかったことを見れば、実力主義が徹底されていたということかもしれない。
 箱館政権に元京都所司代松平定敬や老中経験者である板倉勝静らが参加していたことは、あまり知られていない事実ながら注目して良い。彼らの存在は、箱館政権にとって軍事的にも政治的にもほとんど意味がなかったが、それぞれの旧領地には深刻な影響が及んでいた。桑名藩、備中松山藩とも国元では新しい藩主を立てて新政府に宥免を願い出たが、旧藩主が抵抗を続けていることを理由に認められなかったのである。


半月堡

 半月堡は、郭内への出入口を防御するために設置されたもので、当初の設計では各稜堡間に五カ所配置する予定であったが、予算の関係で一カ所のみに縮小されたという。


武田斐三郎先生顕彰碑

 武田斐三郎は、大洲藩の出身。秀才の誉れ高く、昔からこのレリーフをなでると頭が良くなるという伝説があり、そのため顔の部分は妙にピカピカである。
 安政四年(1857)、幕府から築城を命じられた蘭学者武田斐三郎がこの地を選んだのは、艦砲の届かない場所というのが最大の理由であった。しかし、築城から十年余りが経過した明治二年(1868)の戦争では、新政府軍の艦砲射撃の砲火に曝された。さすがの俊才武田斐三郎をもってしても、十年の技術の進歩まで予見できなかったのである。
築城に費やした資金は十万両。七年の歳月を要した。それまで箱館奉行所は、現在の元町公園にあったが、海から近かったため、移転が急がれた。
 西洋流の築城術を学んだ武田斐三郎が設計したのは、鉄砲を主体とした戦闘を想定した星形の城郭であった。五稜郭には奉行庁舎など二十二の建物が建築された。


箱館奉行所

 現存する資料や文献をもとに、できるだけ当時の工法や材料を採用して、平成二十二年(2010)復元されたものである。一部二階建ての構造であるが、中央の望楼は、恰好の標的となったため、箱館戦争終盤には撤去されたという。


入室但清風

 再現新築された箱館奉行所を入ると、いきなり榎本武揚の書「入室但清風」が出迎えてくれる。榎本武揚が土方歳三のことを偲んで書いたもので、「部屋に入ってくると清らかな風が流れる」という意味である。京都時代には「鬼の副長」として冷徹なイメージが強かったが、北へ転戦を重ねるにつれて温和になったと言われる。終始、土方の側に従った中島登によれば「厳しかった性格が温和になり、まるで赤ん坊が母親を慕うように慕われた」という。


堀利熙の書

 箱館奉行所内には、榎本武揚のほか、堀利熙や杉浦梅潭(誠)らの書が展示されている。堀利熙は二代目の箱館奉行。のちには外国奉行として条約締結に活躍した。プロシアとの交渉でも全権に任じられたが、条約草案がプロシア単独ではなく関税同盟諸国を相手としたものだったため時の老中安藤信正に難詰され、その夜自刃した。享年四十三。


杉浦梅潭の書

こうしてみると歴代の箱館奉行には、小出秀実、水野忠徳、栗本鋤雲ら幕末を代表する能吏が名を連ねている。幕府が蝦夷地の開拓と警備をいかに重視していたかの証左であろう。


兵糧庫

 兵糧庫は、五稜郭築造当時の建物で、唯一現存しているものである。昭和四十八年~四十九年(1973~74)の修復工事により土蔵造りに復元され、平成十三年~十四年(2001~02)には庇屋を再現復元した。
 なお旧幕軍が降伏したとき、榎本から黒田了介(清隆)に渡された目録には、米五百俵とあった。つまり、兵糧が尽きて降伏したのではないということを意味している。


ブラッケリー砲


クルップ砲

 箱館戦争で使われた二門の大砲が展示されている。クルップ砲は口径十四センチのドイツ製で、箱館沖で撃沈された朝陽に搭載されたいたものである。昭和七年(1932)、七飯浜の埋め立て工事中に発掘された。もう一つのブラッケリー砲は口径十四センチのイギリス製。旧幕軍により築島台場に設置されていたものという。


土饅頭

 ここに旧幕軍の戦死者の遺体が埋葬されたとされる。伊庭八郎や土方歳三もここに埋葬されたと推定されている。


大砲を引き上げるための坂

 土塁の上に大砲を引き上げるための坂で、箱館戦争当時に造られたと見られる。大砲を運んだ際についた轍の跡がかすかに残る。

 弾薬庫も箱館戦争時代に造られたもので、記録に拠れば城内に六ヶ所あったようである。


弾薬庫跡


五稜郭裏門

 明治元年(1868)十月二十六日、箱館府都の戦闘に勝利した旧幕軍は続々と五稜郭に入城した。まず大鳥圭介の率いる部隊が裏門より入った。湯の川で一夜を明かした土方隊も夕方以降、やはり裏門から五稜郭に入った。


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函館 千代台町

2013年10月13日 | 北海道
(千代台公園)


千代ヶ岡陣屋跡

 中島小学校から千代台運動公園にかけた一帯は、津軽藩が築いた千代ヶ岡陣屋があった場所である。千代台公園の西側に案内板が建てられている。中島父子の壮絶な戦死とともに、陣屋も陥落した。


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函館 東雲町

2013年10月13日 | 北海道
(水天宮)
 二日目の朝は、レンタカーの事務所が開く八時までの数時間、徒歩で函館市内(水天宮、土方歳三最後の地、中島三郎助父子最後の地、千代ヶ台陣屋跡)を探索することにした。ざっと二時間の散歩である。


水天宮

函館市役所に隣接する水天宮は、高田屋嘉兵衛が久留米の水天宮からの分祀を願い出て、東川町にあった屋敷内に開いたものである。当時は東川町の海沿いにあったという。その後、高田屋が没落して水天宮も荒廃していたが、明治二十年(1887)、東川町の有志と東雲町の町民が相図ってこの地に社殿を移したものである。


「朝陽」の備砲

 箱館戦争後、市内各所に無用となった大砲が寄贈されたらしいが、第二次大戦時の金属供出により大半が現存していない。水天宮に置かれている朝陽の大砲は貴重なものと言える。砲身にアルファベットが刻まれていたことから、外国製であることは分かっていたが、最近の調査でベルギー製であることが判明したという。



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函館 中島町

2013年10月13日 | 北海道
(中島三郎助最期之地碑)


中島三郎助父子最後之地碑

 明治二年(1868)五月十六日、千代ヶ岡陣屋を守る中島三郎助が、二人の息子とともに戦死した。中島三郎助は元浦賀奉行所与力で、ペリー艦隊が浦賀沖に出現したときに対応したことでも知られる。つまり幕末という時代の幕開けと終幕に立ち会ったという稀有な存在でもある。
 中島三郎助は、戦死に先立つ二か月も前の三月三日、妻子に向けて遺書と思しき手紙を書いている。千代ヶ岡陣屋陥落前夜には榎本武揚から五稜郭内への避難を勧められたが、断っている。中島三郎助にとって覚悟の上の戦死だったのだろう。中島三郎助父子が戦死した翌日、旧幕軍は降伏して、箱館戦争は終結した。
 この付近は中島三郎助父子に因んで中島町と命名されている。



 函館市内には、中島町のほか榎本武揚に因む榎本町や梁川町(梁川は榎本武揚の号)もあり、この地で蝦夷地開拓を夢みた旧幕軍への市民の思い入れを感じることができる。



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函館 松川町

2013年10月13日 | 北海道
(中の橋)


中の橋

 箱館戦争終結間際の明治二年(1869)五月十四日、新政府軍特使の薩摩藩士田島敬蔵が弁天台場に至り、榎本武揚との面会を要求した。これを受けた新選組相馬主計と永井尚志など数名が五稜郭に赴き、田島の来意を榎本に伝えた。榎本は五稜郭を出て、中の橋上で田島と面談した。田島は懇ろに帰順を勧めたが、榎本は
これを拒絶して五稜郭に戻った。一方、この日、弁天台場の旧幕軍は降伏を決め、約二百四十人の将兵は実行寺に押し込められることになった。

(松川街道)


松川街道

 五稜郭から松川町に伸びる一直線の道は、松川弁之助が五稜郭を築造する際に、物資を運搬するために自費で完成させた道路で、松川街道とも呼ばれた。松川弁之助は、弁天台場の建造や願乗寺川(現在の高砂通り)の工事にも携わった。松川町の町名は松川弁之助に因んだものである。
 写真の黄色い消火栓は、火災が多かった函館独自のもので、市内至るところで見ることができる。


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函館 若松町

2013年10月13日 | 北海道
(土方歳三最期之地)


土方歳三最期之地

 新選組副長土方歳三の最期の地である。土方歳三フアンには聖地の一つ。常に香華が絶えない場所である。ただし、土方歳三が絶命した地については諸説あり、必ずしもこの場所が「定説」ではないそうであるが。
土方歳三が戦死したのは、明治二年(1868)五月十一日。一本木関門は、箱館市街地と五稜郭を隔てる関門の一つであった。箱館市街へ向かった土方歳三は、一本木関門を騎馬で通過した直後、腹部に二発の銃弾を受けて倒れたと言われる。


一本木関門

 土方歳三最後の地碑の背後には、一本木関門が再現されている。

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函館 住吉町

2013年10月13日 | 北海道
(立待岬)


立待岬

 十八世紀に幕府が箱館を直轄地とすると、警備のために立待岬にも台場を築いた。また、第二次世界大戦までは要塞地帯法により、市民の立ち入りが禁止されていた。現在は津軽海峡を望む景勝地となっている。


立待岬

(住吉墓地)
 立待岬に至る途中には、大きな墓地が広がっている。中には石川啄木の一族の墓がある。
 啄木と函館との関係は深い。実際に函館に住んでいたのは明治四十年(1907)の五か月程度の短いものであったが、啄木自身の「死ぬときは函館で」という言葉に従って、この地に墓標が建てられた。


啄木一族の墓


田本研蔵之墓

 住吉墓地を歩いていて、写真師田本研蔵(榎本武揚や土方歳三の肖像写真を撮影)、石工の備前喜三郎(五稜郭や弁天台場の石造りを担当)、代嶋剛平(箱館奉行所支配定役)などの墓に出会った。


備前喜三郎之墓


贈中教代嶋剛平墓
 探せばまだまだ幕末維新関係の人物の墓を見つけることができそうであったが、ここで体力、気力が尽きた。

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函館 谷地頭町

2013年10月13日 | 北海道
(碧血碑)


碧血碑

 碧血とは「義に殉じた武人の血は、三年経つと碧色になる」という中国の故事による。高さ約八メートルの堂々たる石碑で、七回忌に当たる明治八年(1875)五月、榎本武揚、大鳥圭介らによって建立された。祀られた戦死者は八百十五柱を数える。


柳川熊吉翁寿碑

 戦後、放置されていた旧幕軍兵士の遺体を侠客柳川熊吉と実行寺の十六世住職日隆が命がけで収容した。柳川熊吉は、子分など六百名を動員して遺体を運び、市内の実行寺、称名寺、浄玄寺(現・東本願寺船見支院)に葬った。
碧血碑の傍らには、柳川熊吉翁寿碑が建てられている。一説には、柳川鍋を商っていたことから、柳川姓を名乗ったともいわれる。



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函館 青柳町

2013年10月13日 | 北海道
(函館護国神社)


函館護国神社

 箱館戦争後、新政府は官軍戦没者の慰霊のために招魂場を造営した。本殿左手に官修墳墓がある。


招魂場

 招魂場の石碑の揮毫は、清水谷公考によるもの。


官修墳墓

 官修墳墓には、百六十五柱が眠る。


戊辰 薩藩戦死者墓

 四角錐型の墓碑は、薩摩藩が全国に建立した十カ所の合葬墓の一つ。今回の函館旅行で絶対外せないスポットの一つであった。ここを訪ねたことで、私は遂に全国十カ所に散在する戊辰薩藩戦死者の合葬墓を踏破することになったのである(あんまり誰も凄いといってくれないが…)。参考までに同型の合葬墓が建てられているのは以下の十か所である。
① 京都市 相国寺塔頭林光院墓地
② 東京都 永福・大圓寺
③ 栃木県 宇都宮市・報恩寺
④ 新潟県 上越市・金谷山
⑤ 新潟県 新潟市・新潟護国神社
⑥ 山形県 山形市・国分寺薬師堂
⑦ 福島県 白河市・鎮護山
⑧ 福島県 会津若松市・西軍墓地
⑨ 秋田県 秋田市・全良寺
⑩ 北海道 函館市・函館護国神社


斉藤順三郎の墓

 整然と並ぶ墓石の中に斉藤順三郎の墓がある。墓標の表面は摩耗して文字は読みとれない。斉藤順三郎は、八王子千人同心の出で、安政五~六年頃に志願して七飯村に入植したと伝えられる。ようやく軌道に乗った生活を、旧幕軍の箱館進駐によって破壊された。さらに箱館府に動員されて七飯村峠下における戦闘にも参加して怪我を負っている。旧幕軍に恨みを抱く斉藤は、身分を隠して旧幕軍に身を投じ、弁天台場に配属された。斉藤は、明治二年(1869)五月三日深夜、かねて買収していた鍛冶職人の鏑木連蔵に大砲の火門に釘打ちさせ、翌日の戦闘に仕えないように工作した。斉藤はその日のうちに台場を脱したが、連蔵は捕えられ討ち首となった。連蔵の口から斉藤の指示であったことが知れ、新選組が中心となって斉藤を探索した。
 斉藤順三郎が捕えられたのは、三日後の五月七日、場所は八ツ頭(現・谷地頭)であった。新選組は弁天台場の前に逆さに吊し上げ、顔に焼き金をあててから斬首した。遺骸は半日間、さらしものにされたという。

(函館公園)
函館公園は、明治十二年(1879)、イギリス領事ユースデンの提言を受け、地元の豪商渡辺熊四郎など、多くの市民から寄付を募って開園した施設である。園内には市立博物館のほか、動物園も併設されている。


市立函館博物館

 市立函館博物館では、ちょうど「新島襄と幕末の箱館」展を開催していたので、入館することにした。箱館戦争に関する常設展示もあり、見応えがあった。ただし(どうでも良いことながら)、長州藩出身の駒井政五郎を「薩摩藩」としていたのは明らかな誤り。


開陽丸模型


市立函館博物館の展示

 左手の初代箱館奉行の竹内保徳。中央は旧箱館奉行所、右手は弁天台場の写真である。


ハーバー遭難記念碑


箱館通寶銭座跡

 箱館が開港されると、商取引の急増とともに「銭」が不足した。そこで箱館奉行では安政三年(1865)、独自に銭を鋳造した。箱館通宝は、鉄銭で質が悪かったといわれる。


箱館通宝

 市立博物館に展示されている箱館通宝である。


開拓使函館仮博物場(旧函館博物館1号)


函館県博物場第二博物場(旧博物館2号)

 園内には、かつて博物館として使用されていた二つの建物が移設されている。「第1号」は開拓使時代の明治十二年(1879)に開場したもの、左手の「第2号」は明治十七年(1884)、函館県が開館したもので、いずれも明治期の洋風建築である。



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