史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「開国の使者 ペリー遠征記」 佐藤賢一 角川文庫

2014年05月30日 | 書評
幕末の動乱は、嘉永六年(1853)のペリー来航から始まる。「ペリー」という名前を聞いたとき、人格をもった一人の外国人というより、歴史上の記号のような印象を受ける。しかし、ペリーは実在の人物であり、感情を持った紛れもない人間である。
開国の経緯を我々は様々な書籍で知ることができる。その大半は日本から見た歴史である。本書は、ペリーの視点で日本開国を描いたという点で、ユニークな小説である。
ペリーが日本遠征を思い立ったのは、一つには太平洋航路の開拓という壮大な目的があった。アラスカ、アリューシャン、カムチャッカを経由して、日本を上海への中継基地にすれば、ニューヨークと上海間は僅か二十五日に短縮できる。因みに当時のイギリスと上海間の航路は、片道九十七日。日本を抑えることで、アメリカはアジアへの近道を手に入れることができる。
また、よく知られていることに、当時のアメリカは灯火用または潤滑油用に鯨油の需要が急速に高まっていた。乱獲が祟って近海の鯨はいなくなってしまった。アメリカの捕鯨船は、アフリカに向い、さらにインド洋に抜け、終には南太平洋に繰り出した。その大洋はしばしば大荒れとなり、捕鯨船が日本に漂着することが頻繁であった。鎖国政策をとる日本による漂流民の扱いは劣悪であった。これを改善し、日本を捕鯨船の拠点とすることができれば、鯨油の供給はもっと安定するという思惑もあった。
ペリーの日本遠征には、ペリー自身の個人的動機もあった。当時、ペリーは六十歳を目前とし、退役を控えた軍人であった。彼はこのまま朽ちていきそうな自身を奮い立たせて、「もう一花」咲かせたいと考えた。その情熱の向け先が、神秘の国日本であった。
ペリーには、アメリカの歴史に名を残す、オリバー・ハザード・ペリーという偉大な長兄がいた。オリバー・ハザード・ペリーは、イギリスとの戦争で五大湖岸まで戦艦を分解して運び、それを組み立てて、さらに大砲を積んでエリー湖上にアメリカ艦隊を出現させた。長兄は激戦の末にイギリス艦隊を敗退させた英雄となった。しかも、戦後間もなく黄熱病で逝ってしまったため、醜く老いることもなく、不滅の存在となった(享年三十四)。ペリーの日本遠征には、アメリカの歴史に名を残す長兄への対抗心もあったのである。
ペリーの日本遠征にかける情熱はただならぬものがあった。やはり歴史に名を残す大事を為すには、人並はずれた情熱が不可欠である。日本遠征を阻害する政治家を説得し、太平天国の乱により中国への軍艦の派遣を要請する役人を罵倒する。黒船を率いて二段階に分けて交渉するのは、事前に検討された用意周到な作戦であった。
浦賀や横浜に上陸して日本と交渉する場面はお馴染みであるが、ペリーの心理描写は秀逸である。ペリーは遠征記を残しているが、逐一時々の心理状態を書き残したわけではないので、筆者の想像の所産であろう。イライラしたり、焦ったりという人間臭い反応は、小説でなければ描けなかったものである。
日本人は、ペリーがこれまで見て来たほかのアジアの国民と違って、狂おしいばかりの好奇心にあふれていた。交渉の場面でも、堂々とした態度で、交渉術も巧みであった。ペリーも砲艦外交を控え、信義を重んじて対等な存在としてその場に臨むしかなかった。林大学頭の誠実かつ論理的な姿勢は、同朋として大変誇らしく感じる。
日本ではペリーを知らぬ者はいないが、本国アメリカでの知名度はあまり高くない。やはりペリーといえば、兄のオリバー・ハザードの方が知名度は高いのだそうだ。百五十年前にジャパンという極東のちっぽけな国と和親条約を結んだというだけで、それほど高く評価されていないというのは、ペリー自身にとっても、我々日本人にとっても少々残念なことである。

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「水戸学と明治維新」 吉田俊純 吉川弘文館

2014年05月30日 | 書評
水戸学の淵源をたどっていくと、水戸藩二代藩主徳川光圀の「大日本史」編纂事業に行き着く。この時期の水戸学(前期水戸学とも呼ばれる)は、尊王論を中核としながら、思想としては尊王敬幕を基本とし、なぜ武家政権が成立したかを、儒教理論によって解明したものであった。「大日本史」においては、天皇は「政権を安定させるための宗教的権威、祭祀王」としてとらえており、決して討幕に向かうようなイデオロギーの書ではなかった。
「大日本史」編纂事業は、次第に衰退していき、天明六年(1786)、立原翠軒が総裁に登用されるまで低調な時期が続いた。立原翠軒と藤田幽谷は、「大日本史」編纂事業に関して、その方向性を別にし、両者はついに絶交するほど反目しあった。両者は、編纂事業だけでなく、政治論、農政論についても路線を異とした。両派の対立は、翠軒や幽谷の死後も続いた。
水戸学が一躍全国の注目を集め、幕末の志士から昭和の国粋主義者に至るまで、彼らの心をとらえることになったのは、会沢正志斎の「新論」の登場を待たなければならない。これ以降、「新論」こそが水戸学だと称されることになった。
ただし、「新論」は、「幕藩体制を擁護する立場から、上からの国家主義を説いた書」であった。会沢正志斎は、尊攘の志士の過激な行動に対し、鎮派の論客として激しく批判した。彼の頭の中には反幕・討幕など一切なく、むしろ秩序を重んじる人であった。
しかし、「新論」には「幕府が統一を維持できずに尊王の実を果たせなくなったときは、どうするのか」については一切触れられていない。「新論」を読んだ志士たちは、当然のごとく幕府を倒せばよい、と一歩議論を進めたのである。
水戸学の存在と、幕末の水戸藩の混乱は、決して無縁ではない。徳川斉昭は藤田東湖を重用して改革を急進化させたが、同時に身分秩序を重んじた。天保十三年(1842)、斉昭は門閥中の英才として、若い結城寅寿朝道を執政に抜擢した。学問的にも藤田派と系譜と異にした結城のもとには、弾圧された門閥層のみならず、疎外された立原派が結集することになった。このことが後々、水戸藩において血で血を洗う果てしない内訌を生むことになる。
水戸学は、藤田東湖を迎えてさらに変質を遂げる。東湖は儒教を基本としながらも、本居宣長の所説を取り入れ、国学への傾倒が顕著となる。東湖の書き残したものを紹介すると
――― 三たび死を決して、しかも死せず(回天詩)
――― 皇朝の風俗万国にすぐれて貴し(常陸帯)
――― 後世に至るに及び、士、なお怯懦を卑しみ、名を汚し先を辱めるを以って戒となし。忠義孝烈、その人に乏しからず。丹心血誠、天日に誓い金石を貫き、しかもその跡迫らず、流風馨るがごとく、余情掬すべきものは、皆上世遺俗の然らしむるところにして、これを要するに、自ら一種の藹然たる気象あり、海外異邦の企て及ぶところのものにあらず。蓋し国体の尊厳は、必ず天地正大の気に資るあり、天地正大の気は、また必ず仁厚義勇の風に参するあり。然らばすなはち風俗の淳漓は、国体の汚隆、ここに繋る。(弘道館記述義)
殊に「弘道館記述義」に至っては漢文の素養に乏しい現代の我々には、一読して何が書いてあるか理解困難であるが、読んでいるだけで心地よくなるような美文である。東湖の文章は、酒精分が高く読む者を酩酊させるのである。これが多くの若者を死地に走らせた一因でもあった。
東湖の思想に危険の匂いを嗅ぎ取ったのが横井小楠であった。尊王の政治論と誠が結びついたとき、手段を選ばない述策性に陥ると警鐘を鳴らしたのである。さすがに小楠の慧眼である。
筆者は「あとがき」でいう。水戸学を研究することは、本当の意味で戦争の反省に繋がるという。先の戦争において、国民を動員するために水戸学が鼓吹されたという側面は否定できない。そのため今も水戸学を頭から毛嫌いする人も多い。しかし、そういう対象であっても、ニュートラルな立場で研究するという姿勢は非常に重要であると思う。


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