(一宮城址)
一宮城 大手門
一宮城は、標高三十メートルの台地の上に構築された山城で、築城時期は南北朝時代から十六世紀といわれるが、詳細は不明である。北条氏と里見氏の勢力圏の境目にあったため、しばしば城主が変わったが、小田原征伐の際、本多忠勝に攻め落とされて廃城となった。江戸時代に入って、大多喜藩の支配下にあったが、のちに伊勢八田藩加納氏の飛領地となった。文政九年(1826)に加納遠江守久?がこの地に陣屋を築き、初代上総一宮藩主となった。
加納公紀徳碑銘
現在、一宮城跡は城山公園として整備されている。山頂には加納藩の武道所振武館が再建され、今も剣道や柔道場として利用されている。また大手門や崇文門も建てられているが、いずれもコンクリート製で、やや風情に欠ける。
振武館の前には、加納久宜(ひさよし)の顕彰碑が建てられており、さらに公園の一番奥には久宜の墓がある。
加納久宣公の墓
加納久宜は、二代久徴(ひさあきら)、三代久恒(ひさつね)のあとを継いで、筑後柳川藩から養子に入って加納藩主となった人で、維新後は一宮藩知事に就いたほか、大審院検事、鹿児島県知事などの要職を務め、貴族院議員を三期務めた後、初代一宮町長に就任した。本墓は東京谷中にあるが、威徳を慕う町民の要望により、分骨して当地にも墓が設けられることになった。大正八年(1919)、七十二歳で逝去。
(旧加納藩砲台跡)
舊加納藩砲台跡
加納藩が海岸に砲台を築いたのは、天保十五年(1844)というから、幕府が品川台場を築いたのより八年も早い。一宮藩主加納久徴は、大砲を鋳造し、海岸線に五カ所の砲台を築いた。大砲は火縄式のものであったが、各砲台に一つずつ設置された。付近に武士溜り陣所を配置していた。久徴の治世は、和宮の降下の供奉総奉行に任命されたり、真忠組の鎮圧に出兵したりと多端であった。静かな一宮にも波乱の時代が押し寄せることになった。
(東漸寺)
東漸寺
東漸寺に和宮が東下した際に使用した駕籠が保管されているというので、立ち寄ってみた。残念ながら駕籠は本堂外箪の天井に保存されており、簡単に見ることはできないようである。
和宮が江戸に下ったのは文久二年(1862)のことである。当時の一宮藩主加納久徴は、幕府の命により供奉総奉行を務めた。その労をねぎらうために、豊後国長盛の刀一振、鞍鐙一具、打掛などとともに、江戸への旅で使用した駕籠を賜った。その縁で、当地の東漸寺に和宮の駕籠が伝わることになったのである。