史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

五十里

2014年10月11日 | 栃木県
(長念寺)


長念寺

 鬼怒川温泉郷からさらに国道121号線(会津西街道)を北上すると、巨大な五十里ダムに行き着く。国道は二筋に分れて五十里ダム沿いに続く。そのうち右のルートはダムでせき止められてできた湖(五十里湖)の東岸を北上する。とても国道とは思えない道である。路上には雨で流されてきたと思われる土砂や木の枝がそのまま散らかっている。分岐した国道が合流するという地点の手前に長念寺(かつては、五十里湖の湖底にあったそうである)がある。何の表示もないので、余程気を付けて走っていないと見落としてしまうだろう。
 急な坂道を登ると、ぽっかりと開いた空間があってそこに長念寺の堂と墓所がある。墓地には会津藩井上佐久馬の墓がある。


井上佐久馬墓

 井上佐久馬は六石五斗二人扶持。朱雀足軽二番桜井隊に属した。慶応四年(1868)閏四月十七日、下野大桑村にて戦死。三十二歳。
 今回の栃木県史跡訪問の旅は、天気には恵まれなかった。ずっと曇り空で、時折雨が降った。唯一、長念寺を訪ねたときだけ、青空を見ることができた。

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鬼怒川 Ⅱ

2014年10月11日 | 栃木県
(鬼怒川公園)

 鬼怒川公園には「日蓮上人遺跡」とされる帝釈堂があるが、その手前の斜面に戊辰戦争当時の塹壕跡が残る。


帝釈堂


塹壕跡

 旧幕軍は伝習隊、草風隊、会津藩隊から構成されていた。現在、鬼怒川公園のある小原沢は、モウキ山が鬼怒川に突き出したところで、通行の難所の一つであった。新政府軍がここを越えて、上り坂になっている切通しを通行しようとすると対岸の小高い丘から旧幕軍は一斉に射撃した。現在も当時の塹壕跡がかなり明確に残っている。

(弾除けの松)


弾除けの松

 鬼怒川小学校の裏手の山の斜面に「弾除けの松」がある。小原沢における決戦の際、対岸の佐賀藩陣屋から放たれる砲弾を、旧幕兵は大松の蔭に身を隠して難を逃れたという言い伝えがある。樹齢四百年といわれた大松は、平成八年(1996)七月、当地を襲った突風により倒れたが、その後、地元住民の手により二代目の松が植えられている。

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今市 Ⅲ

2014年10月11日 | 栃木県
(大室)


戊辰役戦死者墓

 大室の戊辰役戦死者墓は、この地で戦死した会津藩士三名を慰霊するものである。被葬者は不明。平成十六年(2004)、地元の狐塚義久氏が建立したものである。
 ちょうど県道279号線が二股に別れる交差点付近に狐塚氏墓所があるが、同じ山林の中の少し離れた場所にある。

(来迎寺)


来迎寺

 森友の明静寺の墓地は本堂に向って左右に分かれているが、左手の比較的古い墓地内の齊藤家墓所内に齊藤嘉兵衛の墓石がある。また齊藤家の墓所には、平成十六年(2004)に末裔である齊藤岳彦氏が「森友村名主首を斬らる」と書いた小さな碑も置かれている。


洗譽水心悦雲善清信士(齊藤嘉兵衛の墓)

 齊藤嘉兵衛(墓碑には齊藤嘉平とある)は、森友村の名主である。旧幕軍に兵糧を提供したとして、慶応四年(1868)七月二十六日、佐賀藩兵に斬首された。

(明静寺)
 明静寺には阿久津安之助の墓がある。墓石の背面には「会津軍行村惣代死 安之助」とある。この墓は、もともと今市毘沙門山麓の雑木林内の瀬尾上ノ平一二五七番地墓地にあったが、平成三年七月、子孫の意思により明静寺墓地に改葬されたものである。


明静寺


忠運全恵清信士(阿久津安之助の墓)

 今市で戦闘が繰り広げられていた頃、瀬尾村は東西両軍の中間地帯であった。そこに東軍(会津藩兵か)がきて「若者を従軍させよ。さもなくば村を焼く」と村役人を脅かした。村では一同相談の上、阿久津安之助ら三名を差し出し、焼き討ちを免れた。明治元年(1868)十月、安之助は会津まで従軍してそこで戦死。遺族は、同僚が持ち帰った遺品の頭髪や小刀を埋めて、墓を建てたと伝えられる。

(栗原)


弾痕のある墓石

 栗原の弾痕のある墓石を訪ねたのは二回目である。前回は二年半前のことになるが、散々この付近を歩き回って行き着くことはできなかった。今回は、入口にこのような看板が建てられていて、お蔭で迷うことなく出会うことができた。


弾痕のある墓石

 この辺りも戊辰戦争で激戦が交わされた場所である。旧幕軍は正兵(伝習隊)と奇兵(猟師鉄砲隊)が連携をとり、策略を用いて新政府軍(土佐藩兵)を攻めた。ことに山上から狙い撃ちしてくる猟師鉄砲隊には悩まされたという。
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さくら

2014年10月11日 | 栃木県
(押上)


戦死二人祭の碑

 慶応四年(1868)四月、負傷して道に迷った二人の幕兵は、押上村にて村人に殺害された。その後、この地域では洪水や疫病(コレラ)が相次ぎ、村人たちは二人の怨霊と恐れ、中には碑に斬り付ける者もいた。それから百年以上が経過し、いつしかこの惨事も忘れられ、古碑も路傍に消滅しかかっていた。近在の有志一同はこのことを深く憂えて、その由来を刻み、幕兵二人の鎮魂慰霊と成した。
 辺り一面には水田が広がりばかりで、何の目印もない。この小さな石碑を見つけ出すのは至難である。

(光院)


光院

 さくら市喜連川の光院は、恵心僧都を開基とし、最初は興国寺と称していたが、元和二年(1616)に、喜連川氏初代の喜連川国朝の養母光院が現在地に移したことから寺名を改めた。本堂裏に広大な墓地が拡がるが、二基同家墓所の中に喜連川偽謀事件の首謀者が葬られている。


賢徳院碩雲大光居士
集功院智皎良順居士
實性院勇道自顯居士
(二階堂貞明父子の墓)

 喜連川藩は、足利尊氏の次男基氏の流れを汲む名族で、石高は一万石に満たない(実高五千石という)極小藩ながら、家格は十万石並という扱いを受けた。
 慶応四年(1868)七月十五日、家老二階堂貞明は、喜連川藩が会津藩に内通していると新政府に讒訴した。藩主喜連川縄氏は、二階堂貞明、貞則父子を断罪し、同年八月十三日、首謀者三名が斬刑に処された。
 処刑された二階堂貞明(号は量山)は、先代熙氏に仕えて藩政改革に取り組んだ元家老である。熙氏が亡くなり、縄氏が家督を継ぐと、失脚した。讒訴の背景には、藩内の派閥争いがあったのであろう。

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宇都宮 Ⅴ

2014年10月11日 | 栃木県
(明星院)


明星院

 白沢町の明星院の本堂横に江面家墓地があり、その中に石で囲われた官修墓地がある。
 江面常吉は、軍夫。明治元年(1868)九月八日、会津飯寺大川中にて戦死。二十三歳。


江面常吉墓

(上駒生)
 駒生町の交差点の角に、官修墓地が置かれている。被葬者は、矢古宇徳蔵。やはり軍夫で、明治元年(1868)九月十四日、会津若松河原町門内にて戦死。


矢古宇徳蔵の墓

(八幡山墓地)
 八幡山墓地に、児島強介の墓がある。児島強介は、宇都宮寺町手塚家の長女操子の婿となったため、手塚家の墓地内に墓標が建立されている。


處士強介墓

 水戸に出入りして藤田東湖と茅根伊予之介に師事し、尊攘の志を練った。十九歳のとき、江戸に出て国学を学び、武術を金子武四郎に従い、いよいよ志気卓絶。県信緝、菊池教中、大橋訥菴に師事する頃から、国事を憂えて多くの志士と交わるようになった。坂下門外の変に先立ち、文久元年(1861)の冬、訥菴の指令を受けて宇都宮を代表し、水戸藩の平山兵介とともに一切の準備に当たったが、実行する時期に来て病に罹って郷里に戻った。のちに捕えられて江戸の獄に投ぜられ、二十六歳で獄死した。
 護送の途次、石橋宿にて自ら墓標である「處士強介墓」の文字を書き残した。

(能延寺)


能延寺

 宮町の能延寺の墓地は二か所に別れており、官修墓地があるのは、本堂とは道路を挟んだ反対側の方である。
 三基の小さな墓が並んでいる。向って右の墓石には、「彦藩 雨宮良之助之墓」とある。彦根藩徒士雨宮良之助信義の墓で、慶応四年(1868)四月十六日、小山にて戦死。二十六歳。
 中央の墓は、同じく彦根藩の高木次郎の墓。墓には「彦藩 高木釟次郎之墓」と刻まれている。高木次郎は、徒士。渡辺九郎右衛門隊。同じく慶応四年(1868)四月十七日、小山にて戦死。三十六歳。
 左手の墓は、「矢島佐吉之墓」。矢島佐吉は、渡辺九郎右衛門隊。慶応四年(1868)四月十七日、小山にて戦死。二十二歳。


彦藩 雨宮良之助之墓
高木釟次郎之墓
矢島佐吉の墓

(おしどり塚公園)
 一番町一丁目の市街地の中にあるおしどり塚公園に、児島強介誕生地の石碑が建てられている。


勤皇志士 贈従五位 児島強介誕生の地

 児島強介がこの地に生まれたのは、天保八年(1837)のこと。文才に優れ、詩歌を能くし、熱血の勤皇歌人としても知られた。

(北山霊園)
 歴史読本臨時増刊「幕末維新人物総覧」(昭和五十一年)によれば、越後高田藩側用人川上直本の墓が宇都宮市岩本町の北山霊園にあるというので、行ってみた。北山霊園は、北山古墳群の麓に開かれた市営の霊園である。高い場所に上ると、田園風景と新幹線を見下ろすことができる。
 想定以上に広い墓地で、手がかりもなく特定の墓を探し当てることはほぼ不可能であった。早々にギブアップ。


北山霊園

(光音寺)


光音寺

 光音寺には、安塚の戦闘における戦死者を葬った墓がある。被葬者不明。風化が進んでおり、表面の文字は読み取れない。


戊辰戦死者墓

(幕田南原墓地)
 幕田の南原墓地にも官修墓地がある。葬られているのは、ともに宇都宮藩の軍夫、増山熊吉と荒川兵吉である。


増山熊吉墓(右)
荒川兵吉墓(左)

 増山熊吉は、慶応四年(1868)九月二日、会津火玉峠にて負傷。十月二十六日死亡。荒川平吉は、慶応四年(1868)九月二日、会津飯寺村にて負傷。十月七日死亡。二十三歳。

(光音寺墓地)


福富安宗神霊

 幕田の光音寺墓地には、福富姓の墓所が複数あるが、その中の一つに軍夫福富清蔵(諱・安宗)の墓がある。福富清蔵は、慶応四年(1868)九月二日、会津本郷村にて戦死。二十五歳。
 雨も降ってきたので、一日目の史跡訪問はここまで。この日は宇都宮駅前のビジネスホテルに宿をとった。宇都宮といえば、餃子である。有名な餃子の店には、長い行列ができていた。もちろん、「食べるために行列に並ばない」ことをポリシーとしている私は、ガラガラのラーメン屋に入って簡単に夕食を済ませた。

(下川岸墓地)


菊池粂蔵之墓

 二日目も早朝五時にホテルを出て、最初の訪問地が下川岸墓地(石井町)である。
 菊池粂蔵は軍夫。慶応四年(1868)九月四日、会津(九月一日火玉峠とも)にて戦死。十七歳(二十七歳説もあり)。

 今回の史跡訪問では随分「軍夫」の墓を訪ねることになった。軍夫とは、戦闘地域にて食糧や武器弾薬を運搬する従軍人夫のことをいう。軍夫は、旧幕軍、新政府軍の双方から徴発された。五月に奥羽越列藩同盟が成立し、戦局が白河口に移行すると、特に新政府軍は大量の兵士派遣を必要とした。そのため下野国内からは、多くの農民から軍夫が徴発されることになった。この一月間で徴発された軍夫は二千人に近いといわれる。軍夫の中には、戦病死するものも少なくなかった。宇都宮市内だけで軍夫の墓は、十四五基あるといわれる。さらに、異郷で戦没し、そのまま他国で葬られた例もある。軍夫の墓に出会うたびに、彼らの悲哀を感じる。



コメント (1)
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