(明星院)
明星院
白沢町の明星院の本堂横に江面家墓地があり、その中に石で囲われた官修墓地がある。
江面常吉は、軍夫。明治元年(1868)九月八日、会津飯寺大川中にて戦死。二十三歳。
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江面常吉墓
(上駒生)
駒生町の交差点の角に、官修墓地が置かれている。被葬者は、矢古宇徳蔵。やはり軍夫で、明治元年(1868)九月十四日、会津若松河原町門内にて戦死。
矢古宇徳蔵の墓
(八幡山墓地)
八幡山墓地に、児島強介の墓がある。児島強介は、宇都宮寺町手塚家の長女操子の婿となったため、手塚家の墓地内に墓標が建立されている。
處士強介墓
水戸に出入りして藤田東湖と茅根伊予之介に師事し、尊攘の志を練った。十九歳のとき、江戸に出て国学を学び、武術を金子武四郎に従い、いよいよ志気卓絶。県信緝、菊池教中、大橋訥菴に師事する頃から、国事を憂えて多くの志士と交わるようになった。坂下門外の変に先立ち、文久元年(1861)の冬、訥菴の指令を受けて宇都宮を代表し、水戸藩の平山兵介とともに一切の準備に当たったが、実行する時期に来て病に罹って郷里に戻った。のちに捕えられて江戸の獄に投ぜられ、二十六歳で獄死した。
護送の途次、石橋宿にて自ら墓標である「處士強介墓」の文字を書き残した。
(能延寺)
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能延寺
宮町の能延寺の墓地は二か所に別れており、官修墓地があるのは、本堂とは道路を挟んだ反対側の方である。
三基の小さな墓が並んでいる。向って右の墓石には、「彦藩 雨宮良之助之墓」とある。彦根藩徒士雨宮良之助信義の墓で、慶応四年(1868)四月十六日、小山にて戦死。二十六歳。
中央の墓は、同じく彦根藩の高木次郎の墓。墓には「彦藩 高木釟次郎之墓」と刻まれている。高木次郎は、徒士。渡辺九郎右衛門隊。同じく慶応四年(1868)四月十七日、小山にて戦死。三十六歳。
左手の墓は、「矢島佐吉之墓」。矢島佐吉は、渡辺九郎右衛門隊。慶応四年(1868)四月十七日、小山にて戦死。二十二歳。
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彦藩 雨宮良之助之墓
高木釟次郎之墓
矢島佐吉の墓
(おしどり塚公園)
一番町一丁目の市街地の中にあるおしどり塚公園に、児島強介誕生地の石碑が建てられている。
勤皇志士 贈従五位 児島強介誕生の地
児島強介がこの地に生まれたのは、天保八年(1837)のこと。文才に優れ、詩歌を能くし、熱血の勤皇歌人としても知られた。
(北山霊園)
歴史読本臨時増刊「幕末維新人物総覧」(昭和五十一年)によれば、越後高田藩側用人川上直本の墓が宇都宮市岩本町の北山霊園にあるというので、行ってみた。北山霊園は、北山古墳群の麓に開かれた市営の霊園である。高い場所に上ると、田園風景と新幹線を見下ろすことができる。
想定以上に広い墓地で、手がかりもなく特定の墓を探し当てることはほぼ不可能であった。早々にギブアップ。
北山霊園
(光音寺)
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光音寺
光音寺には、安塚の戦闘における戦死者を葬った墓がある。被葬者不明。風化が進んでおり、表面の文字は読み取れない。
戊辰戦死者墓
(幕田南原墓地)
幕田の南原墓地にも官修墓地がある。葬られているのは、ともに宇都宮藩の軍夫、増山熊吉と荒川兵吉である。
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増山熊吉墓(右)
荒川兵吉墓(左)
増山熊吉は、慶応四年(1868)九月二日、会津火玉峠にて負傷。十月二十六日死亡。荒川平吉は、慶応四年(1868)九月二日、会津飯寺村にて負傷。十月七日死亡。二十三歳。
(光音寺墓地)
福富安宗神霊
幕田の光音寺墓地には、福富姓の墓所が複数あるが、その中の一つに軍夫福富清蔵(諱・安宗)の墓がある。福富清蔵は、慶応四年(1868)九月二日、会津本郷村にて戦死。二十五歳。
雨も降ってきたので、一日目の史跡訪問はここまで。この日は宇都宮駅前のビジネスホテルに宿をとった。宇都宮といえば、餃子である。有名な餃子の店には、長い行列ができていた。もちろん、「食べるために行列に並ばない」ことをポリシーとしている私は、ガラガラのラーメン屋に入って簡単に夕食を済ませた。
(下川岸墓地)
菊池粂蔵之墓
二日目も早朝五時にホテルを出て、最初の訪問地が下川岸墓地(石井町)である。
菊池粂蔵は軍夫。慶応四年(1868)九月四日、会津(九月一日火玉峠とも)にて戦死。十七歳(二十七歳説もあり)。
今回の史跡訪問では随分「軍夫」の墓を訪ねることになった。軍夫とは、戦闘地域にて食糧や武器弾薬を運搬する従軍人夫のことをいう。軍夫は、旧幕軍、新政府軍の双方から徴発された。五月に奥羽越列藩同盟が成立し、戦局が白河口に移行すると、特に新政府軍は大量の兵士派遣を必要とした。そのため下野国内からは、多くの農民から軍夫が徴発されることになった。この一月間で徴発された軍夫は二千人に近いといわれる。軍夫の中には、戦病死するものも少なくなかった。宇都宮市内だけで軍夫の墓は、十四五基あるといわれる。さらに、異郷で戦没し、そのまま他国で葬られた例もある。軍夫の墓に出会うたびに、彼らの悲哀を感じる。