史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「京都の歴史を歩く」 小林丈広・高木博志・三枝曉子著 岩波新書

2017年03月25日 | 書評
京都は「古代から近代までの都市街路の重層性」が際立つ街である。このような街は、日本においては唯一無二。他国に目を向けてもローマのような欧州の古い都市しかないだろう。
たとえば幕末の史跡が集中する高瀬川沿いであるが、少し時代を遡れば角倉了以が開削した水運の要所であった。五条木屋町周辺は平治の乱の戦場になったというし、六条河原では石田三成が処刑された。
岡崎公園のある辺りは、江戸時代を通じて近郊農村に過ぎなかった。ところが幕末の風雲急を告げると、諸藩の藩邸が櫛比することになる。明治を迎えて藩邸が撤退すると一時もとの畑に戻るが、明治十四年(1881)以降、当時の府知事北垣国道により琵琶湖疎水事業が発企され、この地に開発の手が伸びる。特に平安遷都一一〇〇年を期して内国博覧会場が岡崎に決まると、平安神宮や岡崎公園が次々と建造される。岡崎周辺は、京都にしてみれば最近拓かれた地域なのである。
第十一章では大徳寺に至る「朝鮮通信使の道」を紹介する。江戸時代を通じて我が国は十二回にわたって朝鮮から使節を迎えている。歴史を振り返ると、江戸時代はもっとも両国関係が良好だった時代といえる。徳川幕府が、朝鮮通信使を厚遇した背景には、朝鮮出兵を強行した前政権(豊臣政権)を否定するという意図もあったかもしれない。
韓国の人たちは、未だに四百年も前の秀吉の朝鮮出兵のことを恨みがましく批判する。日本人にしてみれば、何としつこい人たちかと半ば呆れるばかりであるが、本書を読むと恨みがましくいわれてもしょうがないほどヒドイことをしたようである。朝鮮侵略において、多くの非戦闘員である民衆が巻き込まれ、「鼻斬り」の対象や略奪・殺害の対象になったほか、被虜人として日本に移送された。その数は数万に及んだ。朝鮮通信使が洛中に入り大徳寺を目指すと、涙を流しながらそれを見ていた朝鮮女性がいたという。「そういう時代だった」と開き直ることも可能だが、それにしてもヒドイことをしたものである。
今も方広寺大仏殿跡に耳塚を見ることができる。当時戦闘において相手を討ち取ると首級を上げる代わりに耳を削ぐことが行われていたが、「人には両耳があるが、鼻は一つである。朝鮮人の鼻を削いで、それを首級に代えよ」と秀吉が命じた。斬られた鼻は、塩漬けにされて秀吉のもとに送られ、それが「小高い一丘陵」に埋められた。
徳川政権は朝鮮通信使を耳塚に案内し、「報国の者を供養する将軍」をアピールしたというが、無神経というほかはない。さすがに享保年間に来日した通信使は、方広寺境内で宴会を開くことに異を唱えた。このとき随行していた雨森芳洲(対馬藩真文役)は、新井白石に進言して耳塚を竹垣で囲わせたという。
維新後の江華島事件、征韓論争、朝鮮併合という歴史を見ると、根底には「朝鮮蔑視」があったとしか思えない。
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「「幕末維新」の不都合な真実」 安藤優一郎著 PHP文庫

2017年03月25日 | 書評
リアルタイムで歴史の進行を追いかけるという著者安藤優一郎氏の手法は、「幕末維新消された歴史」(日経文芸文庫)でお馴染みのものである。前著は王政復古のクーデターから鳥羽伏見の戦争に至るまでがメインテーマであったが、本書の主題は江戸城の無血開城から上野戦争である。
一般に「西郷の度量により、江戸城そして徳川家に関する海舟の嘆願は全面的に受け入れられた。こうして、江戸は火の海から救われ、焼け野原にならずに済んだ」というイメージが定着しているが、筆者は疑問を呈する。
確かに考えてみれば、無血開城で全てが解決したのだとしたら、海舟が同意した条件のうち軍艦はすべて新政府に引き渡すこと、兵器はまとめて引き渡すことについては、そのとおり遂行されていない。この説明がつかない。
また結果から見れば、上野戦争により地域限定的ではあるが、江戸の一部が戦火に襲われたのも事実である。
筆者は、海舟に妥協し続けた西郷に対する批判、不満が新政府内に噴出したことや、京都でも徳川家処分問題が紛糾したことなどを紹介する。次第に立場が弱くなる西郷の姿などはこれまで語られることはなかった。江戸の治安維持に手を焼いた大総督府は、海舟に助け船を求める。これを機に海舟は、巻き返しを図る。つまり、慶喜を江戸に戻すこと、さらには江戸城を徳川家に返すことを目論んだというのである。江戸の大総督府は徳川家に寛大な処分に傾いていた。
 徳川家処分について、新政府における最高決定機関である、京都の三職会議では
 第一案 相続人は田安亀之助。所領は駿河で百万石。江戸城は返還しない。
 第二案 相続人は田安亀之助。所領は江戸で百万石。居城は江戸城とする。
という二案に絞られた。江戸の大総督府は第一案、京都の岩倉、大久保らは第二案を推すという構図であった。結局、新政府のトップである三条実美が江戸に下向して判断を下すことになった。最終的に第一案に、三条の判断が加えられ、七十万石に引き下げられた。これを機に益々西郷の立場は弱くなり、孤立していく。彰義隊が一日で壊滅したことで海舟の画策も全て水泡に帰した。
 我々は歴史の結果を知っているものだから、どうしても結果から流れを考えてしまう。江戸城無血開城も結果的に実現しただけで、実はどうなるか分からなかったという筆者の主張は、説得力のあるものである。
 敢えて文句をつけるとすれば、「不都合な真実」という表題はやや煽動的に過ぎるのではないだろうか。もう少し「普通」のタイトルでも良かったように思う。

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「歴史に隠れた大商人 清水卯三郎」 今井博昭著 幻冬舎ルネッサンス新書

2017年03月25日 | 書評
清水卯三郎は、現埼玉県羽生市出身の商人である。江戸時代、商人は身分制度の最下位に置かれていた。虐げられ、息をひそめて生活していたのかというと必ずしもそういうわけではない。むしろ、薄給に喘ぐ武士層や土地に縛り付けられていた農民と比べれば、それなりに人間らしく生きることができたのはないだろうか。
とはいっても身分制度の軛は決して安楽なものではなく、この時代商人階層から政治・外交・文化に貢献した人物は決して多くない。その数少ない例外が瑞穂屋卯三郎こと清水卯三郎である。
彼はオランダ語、ロシア語、英語に通じ、薩英戦争に際してイギリス軍艦に搭乗して参戦し、さらには捕虜として捕えられた松木弘安(のちの寺島宗則)、五代才助を救出してかくまった。戦後、薩摩藩からの依頼を受けてイギリス側との休戦交渉もまとめている。
慶應三年(1867)パリで開かれた万国博覧会には、徳川昭武に従って参加し、日本の刀剣や化粧道具などを出品した。この時、水茶屋を出店して、浅草柳橋の芸者三名に接待をさせたことが評判を呼んだ。卯三郎は帰国の際、活版印刷機や西洋花火、歯科治療機械などを持ち帰り、我が国の印刷、新聞、出版、歯科医療に大きな貢献を果たした。帰国した卯三郎は、明治政府に博覧会の開催を提案したが、時期尚早として見送られた。彼の提案が実現するのは、それから百年を経た昭和四十五年(1970)の大阪万博を待たねばならない。
彼の事績の中で際立っているのが「かな文字主義」を主張したことである。当時の日本語は、現代よりも遥かに難解にして複雑な漢字を使用しており、これが一般人の読み書きを阻害していた。卯三郎は商人としてただ一人明六社に参加し、そこで「かな文字主義」を主張した。さすがに全面的にひらがなに切り替るところまで行かなかったが、その後義務教育の中で使用する漢字を制限するようになったのは、卯三郎の提言が契機になったと言えるだろう。
生涯を通して、色々なことに興味を持ち、商人という枠にとらわれず多方面で活躍した清水卯三郎は特異な存在である。人並み外れた好奇心と頭脳明晰さと行動力が、身分を超えて彼の生涯を支えた。貿易商社としてほかの追随を許さないユニークな活動を展開した瑞穂屋は、卯三郎の息子連郎(むらじろう)の代に閉鎖されてしまう。連郎は商売に興味が薄く、しかも孫に子ができなかったため卯三郎の家系は残念なことに三代で途絶えてしまったのである。そういうこともあって清水卯三郎は半ば忘れられた存在となってしまったが、彼の活躍はもっと広く知られても良い。
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