史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

氷川

2017年04月08日 | 熊本県
(宮原)


氷川戦争記念碑

 氷川町には西南戦争時の氷川での戦争を記念する石碑が、宮原町と鹿島町の二か所にある。これも事前に氷川町の教育委員会に問い合わせをし、詳細な地図まで送ってもらった。
 明治十年(1877)三月十九日、日奈久に上陸した官軍に対し、熊本から約二千の薩軍が南下。翌二十日には氷川堤防の守備を固めた。同日、官軍は約七千の兵を宮原、鏡町に配置した。二十一日未明、官軍は霧が晴れたところで攻撃を開始、薩軍は氷川から約三キロメートル離れた砂川まで後退し、午後には官軍が一帯を制圧した。

(鹿島)


軍人墓地


丁丑氷川戦場碑

 鹿島の軍人墓地には、基本的には太平洋戦争の戦死者が葬られているが、その中央に立つ一番背の高い石碑は西南戦争における氷川戦争の記念碑である。

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宇城

2017年04月08日 | 熊本県
(峠の石清水)


峠の石清水

 県道105号線を美里から宇城市街方面に進行すると、峠の石清水という湧き水がある。この石清水は標高二六五メートルの蕨野断層から自噴し、古来涸れたことがないという湧き水である。西南戦争では、三月二十六日、敗走する薩軍がこの地(芥神峠)の洞窟に陣所を構えて立て籠もり、石清水で飯盒炊きしながら駐屯した。二十八日未明、石清水を水筒に汲んで、雪明りをついて難所の白石野越を、積雪を掻き分け中山郷へ遁走した。

(娑婆神峠古戦)


娑婆神峠の石畳

 県道224号線の旧小川町と旧豊野町(いずれも現宇城市)との境に娑婆神峠がある。
 娑婆神(さばかみ)峠は、北へ通じる幹線路であった。この峠は、大切な道路であると同時に戦乱においては要塞にもなった、西南戦争においても戦場となっている。


娑婆神峠

 娑婆神峠の旧豊野町側、旧小川町側いずれも昔の道が残されている。

(新久具橋)
 日奈久に上陸した官軍との小川町での戦闘に敗れた薩軍は、松橋町一帯に強固な陣地を築いた。薩軍にとっては「最後の砦」であった。結果的に、この戦いに敗れたことが、熊本城を取り囲む薩軍の敗走を決定付けた。


新久具橋

 旧国道3号の久具交差点北側、大野川にかかる新久具橋(当時は久具橋)では、三月三十日、川を挟んで対峙していた両軍の主力が激突した。豪雨で薩軍の火縄銃は役に立たなかった。今はコンクリート製の何の変哲もない橋であるが、当時は石造りの眼鏡橋で、薩軍は敗走する際に破壊した。
 松橋を占領した官軍は、四月一日、木原山から烽火をあげて熊本城に籠城する鎮台に勝利を知らせた。激戦となった松橋町であるが、現在当時の戦いを伝える石碑や史跡は残っていない。

(永尾官軍墓地)


永尾官軍墓地

 旧不知火町の永尾地区に官軍墓地がある。この周辺も西南戦争で激戦となり、多数の戦死者を出した。その多くは東京、大阪、名古屋、広島の各鎮台の将兵であった。不知火町松台にも野戦病院が設置され、ここで死去した兵二十七名と、各地における戦死者合わせて百五十名をここに葬った。内訳は将校十名、下士官に従三名、兵百十七である。

(郡浦神社)


郡浦神社

 三角町の郡浦神社は、神風連の挙兵に参加した甲斐武雄が神官を務めていた。甲斐武雄は警吏に捕えられ、明治九年(1876)十二月、熊本臨時裁判にて禁獄百日の刑に処された。
郡浦神社境内に「神風連六烈士ゆかりの地」と記された石碑がある。神風連の乱に加わった加々見十郎、古田十郎、田代儀太郎、その弟田代儀五郎、森下照義、坂本重孝の六人は、ここまで逃げて来たが、大岳山(標高四七八メートル)山頂にて自刃した。


神風連六烈士ゆかりの地

 森下照義は第一部隊に属して鎮台司令長官種田政明を襲った。二十四歳。
 古田十郎は第三部隊所属。歩兵第十三連隊長与倉知実中佐を襲撃した。二十六歳。
 坂本重孝は、第五部隊に属し、県民会議長太田黒惟信を襲撃。二十一歳。
 第一隊本部に属した田代兄弟と加々見十郎は、砲兵第六大隊を襲撃した。田代儀太郎は二十六歳、儀五郎は二十三歳、加々見は四十歳。

(大岳山)


大岳

 神風連六烈士が自刃した大岳山山頂を目指した。山頂には「神風連六烈士自刃之跡碑」があるという。まず自動車で行けるところまで行く。対向車がきたらとても離合できないような狭い道が続く。大きな陥没があったり、こぶし大の石が転がったりしていて、神経をすり減らす。雑草がひざ丈まで伸びている地点で自動車を乗り捨て、そこからは徒歩で山頂を目指した。急な坂道で、途中ロープにしがみついて登るような場所もある。一気に息が上がり、汗が噴き出た。結局、山頂が見えないまま登頂は諦めた。この時点で午後五時を迎えており、このまま登山を続けると下山時に日が落ちてしまうリスクがあった。勇気ある撤退?というやつでしょうか。大岳山登頂は次の機会に再チャレンジすることとしたい。

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美里

2017年04月08日 | 熊本県
(中郡)


日向佐土原隊戦没諸士合葬之碑

 美里町中郡の小さな墓地に日向佐土原隊士の合葬墓がある。美里から松橋(宇城市)では、薩軍と衝背軍とが激しい戦闘を展開した。日向佐土原隊の隊士もここで奮戦したが、衝背軍を止められず、戦死者を出して敗走を余儀なくされた。

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山都

2017年04月08日 | 熊本県
(薩軍兵士の墓)
 山都町は、矢部町、清和村、蘇陽町が合併して誕生した町である。誰がネーミングしたのか知らないが、行けども行けども山が重なる土地は、「山都」という町名がぴったりである。


西南の役 薩軍兵士三人の墓

 長谷に薩軍兵士の墓がある。明治十年(1877)四月、御船方面の激戦で負傷した薩軍の青年三名が、十田里で息絶えた。この亡骸を歌野家の人が自分の墓地に「旅人」三人と称して葬った。
 せっかく行き当てた墓地であったが、地震により全ての墓石が倒壊し、青いシートが被せてある状態であった。歌野家の墓地を特定することができたが、残念ながら薩軍兵士の墓は発見できなかった。

(金内)


金内橋

 金内の集落の中心部に石造りの眼鏡橋が架けられている。金内橋は、嘉永三年(1850)、布田保之助によってかけられた。西南戦争では、官薩両軍がこの橋で休息をとったと言い伝えられている。
 山都町指定文化財リストによれば、金内には和田弥一、平蔵父子の墓があるとされているが、道を尋ねるにも人影もなく、発見することはできなかった。和田弥一、平蔵父子は、金内村の庄屋を務め、官金の管理を任されていたが、薩軍(熊本協同隊)によって斬殺された。
 山都町には、和田父子のほかにも猿渡の渡辺現、量蔵父子(戸長)も薩軍に斬殺されている。遠い道のりであったが、猿渡を目指して車を走らせた。やはり地震の影響により途中で通行止めとなっており、空しく引き返すしかなかった。

(浜町)
 通潤酒造は、西南戦争時に西郷隆盛が本陣として使用し、奥の座敷に宿泊したと伝えられる。


通潤酒造

(中央公民館)


熊本有志隊結成の地

 中央公民館の場所では、西南戦争の際、矢部と原水の有志により熊本有志隊が結成され官軍に投じた。矢部の有志二十四名は五月二十四日、浜町で結成され、翌日原水の有志と合流した。隊長芝藤完治、副隊長一瀬熊雄が約六十名を率いた。歩兵三連隊に配属され、竹田から鹿児島城山まで転戦して、凱旋した。

(通潤橋)
 有名な通潤橋は、我が国で最大規模の石造アーチ式水路橋である。やはり熊本地震により放水は中止され、近づくことはできなくなっているが、それでも立ち入り禁止が解除されたのは幸いであった。


通潤橋


布田保之助翁像

 通潤橋は、布田保之助が手掛けた事業の一つである。布田保之助は、天保四年(1833)から文久元年(1861)の約三十年の長きにわたり、矢部地域七十六ヶ村の長で、行政の責任者(惣庄屋)であった。保之助は、新田開発を目的とした用水路、溜池(堤)等の整備を行ったほか、道路や橋などの交通網を整備するなど、地域の実情に応じて数多くの開発事業を手掛けた。矢部地域で保之助の恩恵を受けない村はなかったといわれている。このうち最も有名なものが、白糸台地に安定した農業用水を供給することを目的に建造された通潤橋である。もはや土木事業というより、芸術作品と呼んでも良いくらいの見事な造形である。

(男成神社)
 男成神社は、阿蘇大宮司が代々このお宮で元服を執り行ったことからその名前が付いたといわれる。西暦640年に阿蘇神社の分社として造られたという古い歴史を持つ神社である。
 西南戦争では、熊本隊がこの地で招魂式を行い、祝宴で武運を祈った。翌日から熊本隊は、一足先に薩軍に続き人吉に向かった。


男成神社


西南戦争砲台跡

 参道途中に日向往還道標があり、その側面に西南戦争砲台跡と赤い字で記されている。

(鮎の瀬大橋)


鮎の瀬大橋

 通潤橋からひたすら南下すると鮎の瀬大橋という大きな橋に出会う。もちろん明治期にこのような橋は存在していない。この地が西南戦争の戦場となった。
 橋を渡って東に少し進むと囲というバス停がある。この周辺が囲城跡である。バス停付近に根もとから折れてボロボロになった木標がある。辛うじて「西南の役 薩隊宿営地」と読める。


薩隊宿営地

(万坂峠)


万坂トンネル

 現在、山都町から美里方面に抜ける国道218号線にはトンネルが穿たれているが、当時は険しい峠道であった。その峠付近に薩軍が砲台を構えて官軍の来襲に備えたという。

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御船 Ⅱ

2017年04月08日 | 熊本県
(眺世庵)


眺世庵

 法光寺の脇を進むと突き当りに眺世庵がある。眺世庵は、五人の先哲の一人、増永三左衛門の別荘である。
 増永三左衛門は、享和二年(1803)二月八日、御船の豪商雑穀屋増永茂三郎の二男に生まれた。この地は、増永三左衛門が全盛期に風雅を尽くした名園で、「縣・滝・丘・林・花木」の五神祀を祀ったといわれている。時の熊本藩主もしばしば立ち寄り絶賛したと伝えられる。三左衛門は、分家して角雑穀屋を興し、農産物、海産物、鋳造等の商いで財を成した。藩からの命を受け層成砲を完成し、国防強化に多大な貢献を成した。

(御船クリニック)
史跡訪問の楽しみは、歴史上の人物との対話である。百二十余年もの時間的差異と、その間の景色の変化は如何ともし難いが、会うことはできなくても歴史上の人物と少なくとも空間を共有することができる。その地に立つことによって、百二十余年前に起きたドラマに想いを馳せるのである。それには「生誕の地」よりも「戦没の地」に限る。これまで訪れた史跡でも、篠原国幹や佐川官兵衛の戦没の地は、取り分け感銘深かった。

永山弥一郎戦没の地は、御船町御船の御船クリニックという病院の駐車場に木柱と説明が在る。これを探し当てるために、私は恐竜のほかさしたる観光資源もないこの街に三度も足を運んだ。恐らく近所の方でも永山盛弘弥一郎が、どういう人物か知る人は少ないであろう。
永山は、この地で老婆から家を買い取り、建物に火を放ち紅蓮の中で果てたのである。


永山盛弘戦没の地

(若宮神社)


若宮神社


若宮渕

 御船は西南戦争の激戦地で知られる。御船の町を流れる御船川の、若宮神社の前辺りは若宮渕と呼ばれるが、逃げ惑う薩兵を「カモを撃つように」山上から一斉に射撃。川は薩軍兵士の流した血で赤く染まったという。

(東禅寺)
 若宮神社から東へ五百メートルほど行くと東禅寺がある。


東禅寺


熊本隊士之墓

 東禅寺の本堂脇に熊本隊士三名の墓がある。正垣鍬五郎、磯野忠躬、下田文次郎の三名のものである。

(北木倉)


松崎慊堂顕彰碑

 松崎慊堂は明和七年(1770)九月、北木倉の百姓の家に生まれた。十五歳のとき、単身江戸に出て苦学の末昌平学舎に学び、三十二歳で遠州掛川藩主太田摂津守候に招かれ、天保十三年(1842)、七十二歳のとき将軍家慶に謁し講義した。横井小楠がその学識を嘆賞したことで知られた。門人に安井息軒や渡辺崋山、芳野金陵がいる。当時、肥後の細川家からも招きがあったが、「掛川藩に仕えた報恩に対し」固辞した。弘化元年(1844)四月、江戸羽沢村で病没。七十四歳。
 事前に御船町商工観光課から情報を得ていたため、迷わず慊堂の住居跡にたどり着いたが、昨年の震災の影響で顕彰碑は仰向けに斃れた状態であった。

(宗心原)


楠田柳太郎の墓入口


楠田柳太郎墓

 宗心原のバス停付近の交差点から、少し坂道を上ったところに剣豪楠田柳太郎の墓がある。これも事前に商工観光課より情報を得ていた通り、山岡鉄舟筆の墓石は倒壊したままであった。
 楠田柳太郎は、剣術、砲術、柔術を極め、名実ともに藩内随一の腕前を有した。

(茶屋本)


鼎春園

 楠田柳太郎の墓から県道221号線を東に進むと宮部鼎蔵、春蔵兄弟を生んだ上野の集落に行き着く。はずであった。ところが、これも震災の影響であろう。途中通行止めとなっていた。半泣きになりながら市街地まで戻り、東禅寺の前をさらに東に進んで「マミコゥロード」と呼ばれる広域農道に入って北上すると、再び県道221号に合流することができる。


宮部鼎蔵像

 鼎春園は、肥後勤王党の総帥宮部鼎蔵と春蔵兄弟の偉業を顕彰するために開かれた公園である。中央に巨大な顕彰碑が聳え、その両側に宮部鼎蔵と春蔵の歌碑が建てられていたらしいが、両方とも倒壊していた。顕彰碑が倒れていなかったことだけが救いであった。
 顕彰碑の前には、宮部鼎蔵像が置かれている。

(宮部鼎蔵生家)


贈正四位宮部鼎蔵君邸跡

 県道221号線沿いに宮部鼎蔵生家跡がある。
 宮部鼎蔵は、文政三年(1820)、医者の長男に生まれた。カシの樹の下の江戸は出生の際の産湯にも使ったものという。
 代々医家であったが、おじの宮部丈左衛門の家を継いで山鹿流の軍学を修め、二十歳のとき熊本藩の軍学師範となった。長州の吉田松陰とは仲の良い友人であり、東北諸藩を遊歴して諸国の志士と交わり、尊王攘夷の信念を深くした。文久元年(1861)、清河八郎らの来熊を転機に孝忠の遺訓を家に残し、熊本から京都に尊王攘夷の運動に活躍した。しかし、文久三年(1863)八月の政変に遭い、七卿とともに長州に落ちた。やがて京都に潜伏するも、翌元治元年(1864)六月五日、三条小橋池田屋で同志と会合中、新選組に踏み込まれて奮戦の末、自刃した。四十五歳。弟春蔵も元治元年(1864)七月、真木和泉とともに幕府軍と戦い、天王山で自刃した。

(南田代)


宮部鼎蔵一族の墓

 宮部鼎蔵の生家跡から北進して南田代の集落に入った辺りに宮部一族の墓地がある。ここにはおじの丈左衛門、父春吾、母ヤソのほか、祖母や伯父、伯母、春吾の子供の墓が並んでいる。

(八勢)


八勢目鑑橋


日向往還の石畳

 江戸時代、熊本と延岡を結ぶ日向街道(日向往還)は、ここを経て矢部に通じていた。増水すると通行できなくなり、不便で危険であったため安政二年(1855)、御船の材木商林田能寛が私財を投じて架橋した。八勢眼鏡橋は長さ六十二メートルに及び、県下の石橋でも最も長いものである。やはり地震の被害で一部石積が崩れていて、通行はできなかった。
 眼鏡橋の先は往時そのままの石畳が保存されている。

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御船 Ⅰ

2017年04月08日 | 熊本県
(御船町役場)


御船町役場

 初日の最初の訪問先は御船町である。予め御船町役場商工観光課にしつこいくらい場所確認のためのメールを送らせていただき、お蔭でほとんど迷うことなく、各史跡を訪ね当てることができた。
 最近はグーグル・マップのストリートビューで、現地を訪れることもなく「下見」することもできる。便利なものである。


郷土先哲の碑

 御船町役場の敷地内に郷土先哲の碑が建てられている。御船町が生んだ五人の先哲とは。宮部鼎蔵、光永平蔵、松崎慊堂、増永三左衛門、林田能寛のことをいう。

(城山公園)
 増永三左衛門は、肥後藩の命をうけ、家業の金鋳場を利用して海岸防備のため大砲鋳造を開始し、独創的考案により入筒砲(層成砲)を発明完成し、造砲史上不朽の名を残した。慶応三年(1867)、没。六十五歳。
 町役場の裏にある城山公園の市内を見下ろす高台に顕彰碑が建てられている。


増永三左衛門顕彰碑

(妙見坂公園)
御船の合戦の主役は、何と言っても薩軍三番大隊長永山弥一郎であろう。
永山は、他の薩人がそうであったように西郷が征韓論に敗れた際に下野したのではなく、政府がロシアと千島・樺太交換条約を結んだことに反対して辞官帰郷したものであった。
西南の役勃発前夜も、主戦論が大半を占める中、武装蜂起に最後まで反対した。信念の人である。
その永山が衝背軍を迎える南下軍の総指揮官となった。南方の苦戦が伝えられると憤然として「八代口の官軍を抑えられなければ、再び諸君に見えることはない。」と言い残して御船方面へ急行した。
永山は酒屋の前に酒樽を置き、その上に腰掛けて長刀を振るって指揮を取ったと言われる。御船は小さい街で、捜せばすぐ見つかるだろう、と高を括っていたのだが、遂に探し当てられなかった。
敗色が明らかとなると、永山は老婆に大金を払って近くの民家を買い取り、紅蓮の中で自刃して果てた。政府が衝背軍を派遣することは、将棋で言えば定石といっても良い。それを事前に察知して手を打っておかなかった薩軍は迂闊であった。永山はそれを痛切に悔やみ、自責していたに違いない。それが壮烈な最期となって表出したのではないか。


妙見坂公園

御船・妙見坂一帯は、西南の役有数の激戦の地である。熊本隊の墓、薩軍砲台跡が残る。


熊本隊の墓

 熊本隊士十一人の合葬墓である。御船方面における戦闘で亡くなった熊本隊士は六十余といわれる。一方で官軍の戦死は約五十。双方多数の犠牲が出た。

(熊本諸隊奮戦之地)


熊本諸隊奮戦之地

 妙見坂公園に通じる道に熊本諸隊奮戦之地碑がある。佐々友房の率いる熊本隊は、駒返り山や盗人塚山に拠って奮戦した。

(薩軍本陣跡)
商店街の方何人かに聞いたところ、薩軍本営跡は既に取り壊された、という。今は「御船運送」の車庫になっていて跡方もない。建物は古くなって取り壊さざるを得なかったとしても、せめて標柱の一つでも立てておいて欲しかった。このままでは知る人もいなくなってしまう。


薩軍本営跡

「御船運送」以前は酒屋であったという

商店街には熊本県庁跡もある。薩軍による熊本城攻城戦が始まった時、危険を避けて御船に県庁を移した。ところが、戦火は御船にも及ぶことが予期され、わずか二日で他に移転した。今は印刷屋さんになっているが、建物の造りは昔のままである。


熊本県庁跡

(御船街中ギャラリー)
 熊本県庁跡の建物の隣は、林田能寛の生家跡で、現在は街中ギャラリーとして、個展や文化交流の場として貸し出されている。


街中ギャラリー

(妙晄寺)
 妙晄寺には林田能寛の墓がある。
 林田能寛は、家業の商業の傍ら、慈善事業や公益事業に力を尽くした。中でも郷土の人材養成のため文武館を建て、また八勢の難所に巨万の私財を投じて眼鏡橋をかけ、交通の便をはかった。明治十八年(1885)、年六十九で没。


妙晄寺


林田能寛墓

(法光寺)


法光寺


丁丑戦死之碑

 法光寺山門を入って左手に丁丑戦死之碑がある。側面に戦死した熊本隊士の名前がぎっしり刻まれる。

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