史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

奥多摩

2017年10月20日 | 東京都
(竹島家)
 JR川井駅を降りると、多摩川にかかる奥多摩大橋が目に入るが、川井の交差点をこの橋と反対側、すなわち北側に三十分ほど歩くと、大丹波の集落に行き着く。道路に沿って大丹波川の清流が流れ、付近ではニジマス釣りが盛んである。川井駅から往復一時間。良い汗をかいた。

 大丹波の集落の中で、土蔵を備えた一際大きな家が竹島家である(奥多摩町大丹波99)。
 慶応四年(1868)五月の飯能戦争で大敗を喫した振武軍は潰走した。生き残った隊士は、新政府軍の追及を逃れるためにそれぞれ山地に潜入した。


竹島家

 振武軍隊士三名が大丹波村の竹島武右衛門家に一夜の宿を求めた。同家の伝承によれば、うち一人は手傷を負っていたという。次の日、彼らは三本の刀を残して御嶽山方面に逃げて行ったという。この刀は、第二次世界大戦の前後まで竹島家の土蔵の二階に保管されていたそうだが、戦後銃砲刀剣登録制度が実施されると手続きが煩雑なため提出してしまい、現存していないという(「幕末維新江戸東京史跡辞典」(新人物往来社))。

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青梅 Ⅱ

2017年10月20日 | 東京都
(宗福寺)
 JR青梅駅から徒歩数分。宗福寺には西分町名主を務めた浜中良亮(よしあきら)の墓がある(青梅市西分町1‐33)。宗福寺墓地は小高い丘陵に設けられており、その西端に近い場所である。


宗福寺

 慶応四年(1868)、箱根ヶ崎の振武軍から黒沢村名主とともに青梅の代表として呼びつけられた。地形の説明と援助を要求されたが、良亮は地形の不利を説明し、ルートを飯能に変更させることに成功した。一説に、森下の陣屋検地役人から密命を帯びていたともいわれる。明治二十八年(1895)、六十八歳にて没。


温良院恭斎義敬居士(浜中良亮の墓)

(青梅商工会議所)


青梅商工会議所

 現在、青梅市商工会議所がある辺りに米穀商兼質屋を営む吉野屋があった(青梅市上町373)。
 慶応二年(1866)三月から続いた天候不順は、著しい物価の高騰を招き、商人や金融業を営んでいる者が多額の利益を挙げていた。そのため、質草すらなくなった農民窮民が、慶応二年(1866)六月十三日に武州秩父の名栗村で一揆を起すと、たちまち関東西部一帯に拡がった。成木村の農民を主流とする一党は、北小曽木の吹上峠を越えて、黒沢村の豪農柳内幸助邸、酒造柳内源之助邸、糸商兼質屋中村忠蔵邸を破却し、六月十五日、青梅宿に出現した。
 一揆勢は上町の吉野屋根岸久兵衛邸を打ち壊しにかかった。一切の家財道具は散乱し、破られた米俵からこぼれた米で周囲の道路が一面真白になったといわれる。
 さらに本町の酒造豊島屋佐藤庄次郎、住江町の小間物商兼三好屋海藤などを次々と破却し、今度は東西に分れて、東勢は新町から瑞穂村の長谷部新田に向い、西勢は御嶽村、柚木村で打ち壊しをしながら進撃した。その後、東勢は八王子の築地の渡しで、西勢は五日市村のまいまい坂でそれぞれ壊滅した。

(金剛寺)


金剛寺

 箱根が崎を発した振武軍は、一説に拠れば青梅の金剛寺を目指したといわれるが、結局彼らは飯能に向かった。
 金剛寺は、境内に幼稚園や広い駐車場を備えた寺院で、大軍を駐屯させるには十分な広さを有している(青梅市天ケ瀬町1032)。
 なお本堂前の青梅は、季節が過ぎても黄熟せず、落実まで青いため「青梅」と呼ばれる。青梅市の名称もこれに拠っている。


金剛寺の青梅

 どうでもいい話であるが、プロレスラーのストロング金剛は、青梅市出身である。私が青梅の事業所に勤務していた頃、時々犬を連れて付近を散歩していた。別に何かしたわけではないが、坊主頭の巨漢が歩いているだけで、ちょっとおっかない思いをしたものである。ストロング金剛のリングネームは、この寺に拠ったものだろうか。

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船橋 Ⅵ

2017年10月20日 | 千葉県
(海神念仏堂)
 二回目の海神念仏堂である。かつてここには脱走方四人と薩州一人の戒名を連刻した墓碑があった。脱走方とは幕軍の撒兵隊のことである。昭和八年(1933)、小室彌四郎らの墓の右側後にこの墓碑がみすぼらしく傾いていたことを佐々木晧堂という人が記録しており、昭和三十四年(1959)刊行の「船橋市史前篇」にそのスケッチが載っているらしいが、その行方は分からなくなっていた。(『「遺聞」市川・船橋戊辰戦争』内田宜人著 崙書房)
 最近になってこの墓碑が復元された。敵と味方が一緒に葬られている、不思議な墓である。


心誠院衽刃喜楽居士 脱走方
誠志院向銃勇照居士   同
慈誠院臨刃躍応居士   同
誠忠院逢銃善心居士   同
華誠院連刃光西居士  薩州

 『「遺聞」市川・船橋戊辰戦争』に、念仏堂墓地の矢作家墓所に「慈誠院刃躍応居士 姓氏不詳」という墓があることが記載されている。早速、矢作家の墓所を探した。
 驚いたことに、念仏堂墓地には矢作家の墓地が複数あった。それも一つや二つではない。確かにこの付近を歩いていると矢作姓の表札を掲げる家が多い。
 一つひとつ矢作家の墓石を確認して漸く一つの墓に行き着いた。辛うじて戒名の一部が読み取れる。


慈誠院刃躍応居士 姓氏不詳

 先に紹介した連名墓の中に酷似した戒名があり、同一人物と推定される。ただし、何故矢作家の墓にこの人物だけが合葬されているのか謎多き墓である。戦闘の後、無名の脱走方兵士の遺骸が矢作家の敷地内に残されていたということだろうか。

(大覚院)


大覚院

 海神の大覚院は朱色の山門が有名で、「あかもん寺」とも称される。私が訪れたとき、ちょうど山門および本堂の改築工事中で、その赤門も本堂も見ることができなかった。
 江原鋳三郎率いる撤兵隊第一中隊半隊の一部は、大覚院に砲を置き、福岡藩兵を中心とする新政府軍に弾丸を浴びせた。堪らず福岡藩兵は四散して退却し、とどまった一部は土手に拠って応戦した。

(薬王寺)


薬王寺

(長福寺)
 薬王寺、長福寺とも、船橋宿に北方、少し高くなった丘の上に立つ寺院である。両寺院とも船橋戦争の際、全焼した。


長福寺

 慶応四年(1868)閏四月三日、市川・船橋戦争の火蓋が切られた。夏見台から船橋を目指す新政府軍の主力佐土原藩軍は、夏見村で堀大隊と衝突した。このとき撤兵隊の一部は、東方の浸食谷をへだてた金杉台を迂回して、佐土原軍の背後をついた。佐土原藩は大砲で反撃し、後方の敵を撃破し、ついで前面の敵を攻撃した。この戦闘で、夏見村の薬王寺、長福寺はいずれも佐土原軍によって焼かれた。この火がもととなって夏見村の半分が焼けた。未明から始まった戦闘は既に四時間が経過しており、佐土原藩兵は疲れ切っていたが、斥候の報告により船橋大神宮に陣をおく堀大隊はまだ迎撃の準備を完了していないことを知り、一挙に船橋に突入することを決した。
 船橋の旧幕軍を追い払うと、敵の再侵入を防ぐため、佐土原藩は船橋宿にも放火し、船橋大神宮はこのとき焼失した。佐土原藩が船橋を制圧したのは同日の午後二時頃であった。


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梅島 Ⅱ

2017年10月20日 | 東京都
(梅田神明宮)


梅田神明宮


教祖之碑(禊教師井上正鐡碑)

 梅田神明宮は、慶長年間の創建と伝えられる。明歴あるいは宝暦年間の江戸の大火にて芝神明宮が類焼した直後、神明社として建立され、のちに梅田神明宮と改称された(足立区梅田6‐19‐4)。
 天保十一年(1840)、井上正鐡(まさかね)大人が神主に就任し、息の行法をもって神道の極意を伝え、大名から庶民に至るまであらゆる階層の人々が入門して教えを受けた。正鐡は禊教教祖として崇められて、梅田神明宮に祭神として祀られている。正鐡によって伝えられた神道行法も、今に伝えられている。井上正鐡は天保十三年(1842)、幕府滅亡を予言するような言動を理由に三宅島に流され、嘉永二年(1849)、現地で没した。

(梅島稲荷)


梅島稲荷

 梅島稲荷(足立区梅田5‐9‐5)の本殿の右手奥に井上正鐡の墓がある。左手には正鐡の妻安西男也の墓が並べられている。
 なお、正鐡の墓は、梅田稲荷のほか、谷中霊園と没地である三宅島の三ヶ所にある。


井上正鐡大人之墓

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