(竹島家)
JR川井駅を降りると、多摩川にかかる奥多摩大橋が目に入るが、川井の交差点をこの橋と反対側、すなわち北側に三十分ほど歩くと、大丹波の集落に行き着く。道路に沿って大丹波川の清流が流れ、付近ではニジマス釣りが盛んである。川井駅から往復一時間。良い汗をかいた。
大丹波の集落の中で、土蔵を備えた一際大きな家が竹島家である(奥多摩町大丹波99)。
慶応四年(1868)五月の飯能戦争で大敗を喫した振武軍は潰走した。生き残った隊士は、新政府軍の追及を逃れるためにそれぞれ山地に潜入した。

竹島家
振武軍隊士三名が大丹波村の竹島武右衛門家に一夜の宿を求めた。同家の伝承によれば、うち一人は手傷を負っていたという。次の日、彼らは三本の刀を残して御嶽山方面に逃げて行ったという。この刀は、第二次世界大戦の前後まで竹島家の土蔵の二階に保管されていたそうだが、戦後銃砲刀剣登録制度が実施されると手続きが煩雑なため提出してしまい、現存していないという(「幕末維新江戸東京史跡辞典」(新人物往来社))。
JR川井駅を降りると、多摩川にかかる奥多摩大橋が目に入るが、川井の交差点をこの橋と反対側、すなわち北側に三十分ほど歩くと、大丹波の集落に行き着く。道路に沿って大丹波川の清流が流れ、付近ではニジマス釣りが盛んである。川井駅から往復一時間。良い汗をかいた。
大丹波の集落の中で、土蔵を備えた一際大きな家が竹島家である(奥多摩町大丹波99)。
慶応四年(1868)五月の飯能戦争で大敗を喫した振武軍は潰走した。生き残った隊士は、新政府軍の追及を逃れるためにそれぞれ山地に潜入した。

竹島家
振武軍隊士三名が大丹波村の竹島武右衛門家に一夜の宿を求めた。同家の伝承によれば、うち一人は手傷を負っていたという。次の日、彼らは三本の刀を残して御嶽山方面に逃げて行ったという。この刀は、第二次世界大戦の前後まで竹島家の土蔵の二階に保管されていたそうだが、戦後銃砲刀剣登録制度が実施されると手続きが煩雑なため提出してしまい、現存していないという(「幕末維新江戸東京史跡辞典」(新人物往来社))。