(寿命寺)
寿命寺
彰義隊之墓
常陸大宮市野口3042の寿命寺に彰義隊士の墓がある。ただし、戦死した日付は明治元年(1868)四月十三日となっている。上野戦争は同年五月十五日のことであり、それより前に江戸から遠く離れたこの場所に瀕死の彰義隊士が逃げ込んでくるというのは、いかにも不自然である。一説には彰義隊ではなく、撤兵隊ではないかともいわれる。
この墓を建立したのは合葬されている徳田米太郎の親族。戦死した徳田米太郎は十七歳だったという。墓が建てられたのは昭和十五年(1940)。
寿命寺はもう何年も前に廃寺となったようで、わずか数十メートルの参道は、雑草が生い茂り倒木が行く手を阻み、簡単に前に進むことができない。しかも、湧き水で道はぬかるんで、蜘蛛の巣だらけである。個人的にはこれほど手入れされていない寺を見たことがない。寺の本堂も襖は破られ、木は朽ちて、周囲は雑草だらけ。まさに肝試しの舞台さながらである。寿命寺には市指定文化財聖徳太子立像が安置されているそうだが…
(戦死十七士合葬墓)
戦死十七士合葬墓
常陸大宮市野口の高台に戦死十七士合葬墓が建てられている(常陸大宮市野口1543付近)。
旧幕軍とそれを追う新政府軍の戦いは、市川・船橋、流山、結城、宇都宮などを戦場としたことから、茨城県を南北に通る幾筋かの街道へも諸軍が通過し、戦禍を残すことになった。
慶応四年(1868)四月一日、江戸城が明け渡された後も幕府軍は各地で抵抗して蜂起を続けていた。同月十三日、その中の一隊約百三十名が野口宿に宿営し、翌朝、那珂川を船で渡ろうとしていたところを新政府軍に急襲され、十七名の犠牲者を出すことになった。恐らく上総・下総の各地を転戦してきた撤兵隊と考えられる。
この墓碑に葬られているのは、仙石義正、秋山善保、榎本桂次郎、山口藤吉、坂巻錠介、徳田米太郎と氏名不明の十一名、計十七名である。
彼らのために野口の渡しを臨む高台にこの供養塔が建てられたのは明治二十二年(1889)。題字は大鳥圭介、撰文は水戸の佐久間謙、書は野口勝一(県議。野口雨情の叔父)による。
(関澤家)
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関澤家
関澤家は野口宿の有力者であった。天保十一年(1840)には、徳川斉昭が当家を訪れ、別邸を楽寿亭と命名している。
慶応四年(1868)四月十三日、重傷を負った坂巻錠介(十五歳)を、当家当主関澤源次衛門は手厚く施療し、親元へも連絡するなど手を尽くしたが、錠介は数日後に亡くなった。関澤家では錠介の遺骸を当家の墓地に埋葬した。
ということで関澤家の周辺を汗まみれになって探し回った。その結果、関澤家の墓地を発見することはできたが、坂巻錠介の墓は見つけることができなかった。