史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

飯山 Ⅱ

2018年08月18日 | 長野県
(英岩寺)


英岩寺

 英岩寺は飯山市内の寺町の一角に所在する。墓地の入口近くに戊辰戦争の犠牲者浅山兵馬の墓がある。


淺山正立之墓

 浅山兵馬は大砲方。兵卒。慶応四年(1868)五月二十七日、越後与板城ヶ峰にて戦死。三十八歳。

(忠恩寺)
 忠恩寺は、歴代城主の菩提寺であり、城主松平家や本多家の墓所がある。早速、本多家の墓所を訪ねる。


忠恩寺

 本多家墓所には、二代本多康明、八代助成、九代助寵、四代助盈の二人の娘、十代助実の息兼吾郎(二歳で卒)の墓が並ぶ。


文明院殿前豊前太守有譽章山達道大居士
(本多助成の墓)

 本多助成は、弘化三年(1846)、第七代藩主本多助実の長男として生まれ、文久元年(1861)、将軍家茂に拝謁し、従五位下伊勢守に任じられた。五尺八寸の堂々たる体格で、文武にも秀でていた。慶應二年(1866)には病気の父助実の代理として大阪への出陣を命じられた。慶應三年(1867)、父助実の隠居により家督を継いだ。慶應四年(1868)三月、明治政府から謹慎を命じられ、新政府に対し一万五千両の軍資金を献納した。同年六月、飯山において旧幕軍古屋佐久左衛門らと新政府との戦闘が勃発したが、そのさ中に死去した(二十三歳)。偉丈夫として知られた殿さまのあまりの若さとそのタイミングに、当時から毒殺されたという噂もあったが真相は不明。
 藩では助成の死を隠し、隠居届けを提出して養子(実弟)助寵に家督を継がせた。


成就院励譽功道徳山大居士(本多助寵の墓)

 本多助寵は第九代藩主。慶応四年(1868)七月、家督を継いだものの、病弱であったため政務は実父助実が代行した。戦後、北越戦争出兵の賞典禄五千両を賜り、版籍奉還後藩知事に就任したが、その直後、わずか十六歳で死去した。


本多康明の墓

(永国寺)
 永国寺(ようこくじ)の門前をJR飯山線が横切っており、境内を分断している。境内に行くには線路をまたがなくてはならない。


永国寺


佐藤由松の墓

 佐藤由松の墓は線路手前の墓地にある。
 佐藤由松は銃卒。慶応四年(1868)五月二十七日、越後与板にて負傷。同年八月二十護日、柏崎で死亡。二十三歳。

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小布施

2018年08月18日 | 長野県
(高井鴻山記念館)
 高井鴻山は、文化三年(1806)、小布施の素封家に生まれ、十五歳のとき上京して漢学・書・画等を学び、ことに書画に卓越した才を示した。二十一歳で帰郷し妻帯したが、再度上京し、梁川星巌に学び、大塩平八郎らと交わった。二十七歳のとき、星巌に従って江戸に下り、佐藤一斎に学んだ。天保七年(1836)の飢饉に、帰郷して窮民に食糧を給した。葛飾北斎を自宅に滞在させ、北斎の下画により、小布施町雁田岩松院の天井に鳳凰の絵を描いた。嘉永六年(1853)、米艦が浦賀に来た時は、江戸にあって盛んに攘夷を唱えた。松平春嶽から出仕を請われたが応ぜず、明治五年(1872)、勝海舟の勧めで一時東京府に勤めたが、ほどなく辞し、その後は東京および長野に塾を開いて教育に当たった。明治十六年(1883)、年七十八で没。


高井鴻山記念館


高井鴻山像

 高井鴻山記念館は、鴻山の功績を顕彰し、作品を保存・展示するために、遺宅を修築整理したものである。
 敷地内には、翛然楼(ゆうぜんろう)、文庫蔵、屋台庫、穀蔵、庭園などが配置され、見どころが多い。入館料三百円。

 翛然楼は中国の文人陳文燭の書斎「翛然楼」もあやかって名付けたといわれる書斎兼サロンである。もともと鴻山の祖父が隠宅として建てた二階建ての京風建築で築二百年余を経ている。鴻山を訪れた佐久間象山ら幕末の志士や文人墨客がここで国事を語り合ったとされる。

 文庫蔵や屋台庫、穀蔵では、鴻山の遺品や書画などが展示されている。花鳥図などはいずれも今にも動き出しそうな写実性である。一方で、人物画を見ると(たとえば「世相百態図」など)、現代の漫画にも通じるユーモアを感じさせる筆致である。書にも見事なものが多く、鴻山の多才を裏付けるものである。


翛然楼


翛然楼(室内)


高井鴻山生誕の地

(小布施陣屋跡)


小布施陣屋跡

 高井鴻山記念館を一歩通りに出ると、たくさんの観光客で賑わっている。小布施町は「栗と蔵」をテーマに町づくりを進めているが、その中心がこの界隈となる。

 江戸時代中期の元禄十四年(1701)から正徳五年(1715)までの十五年間、小布施は幕府の天領として陣屋(代官所)がこの地に置かれた。代官に任命された市川孫右衛門が年貢の徴収や民事・刑事の裁判に当たった。
 陣屋は四十六坪からなり、役人武士や足軽数人ずつのほか下働きの者が若干名いたとされる。支配地は、小布施町の八ヵ村のほか、中野市の一ヵ村、高山村の五ヵ村、須坂市の八ヵ村、長野市の十六ヵ村、合計三十八ヵ村に及んだ。

(小布施堂)


小布施堂正門

 小布施堂の正門は、宝暦年間(1750年代)に、市村作左衛門(高井鴻山の祖父)が建てたものである。作左衛門は、豪商ながら近在諸藩から家老待遇を受け、天明の飢饉の際には倉を開いて窮民を救ったことから幕府から「高井」の名字と帯刀を許されたという人物である。その後、江戸末期には勤王の志士や文人墨客が多数この門をくぐり、天保十三年(1842)には葛飾北斎がここを訪れた。北斎は通算四年間当地に滞在し、多数の名作を生んだ。この門の奥に葛飾北斎の晩年の名作を展示する北斎館がある。
 小布施堂は、栗アイスクリームや水栗羊羹、栗最中など、名産である栗を材料とした菓子を販売している。何だか凄い人だったので、何も買い物をせずにここを後にした。

(祥雲寺)
 祥雲寺には高井鴻山の墓や当地における女子教育の先駆者智関禅尼の墓のほか、幕末の三舟や松代三山(佐久間象山、山寺常山、鎌原桐山)の遺墨、鴻山の遺品や漢詩碑などがある。表通りは多くの観光客が行き来するが、祥雲寺境内に人影はなく、落ち着いて散策することができる。


祥雲寺


高井鴻山漢詩碑

 「村南に祥雲寺あり」から始まる鴻山の漢詩が刻まれている。高井家の菩提寺である祥雲寺を訪ねた鴻山はやがて己もこの地に身を埋めることになることに想いを馳せ、「人生幻夢なるのみ」と詠んでいる。


高井鴻山漢詩碑


耕文院泰賢鴻山居士(高井鴻山の墓)


智関禅尼の墓

 智関禅尼は享和年間(1801~1803)の生まれと推定される岩井新田(現・中野市岩井東)池田家五代茂平の娘。活文禅師の没後弘化二年(1845)、鴻山の情誼により、高井家の施主寮に即心庵を二十余年結んだ。仏事の傍ら寺子屋を開き、近郷の子女を集め、茶式・弾琴・書道・歌道・礼法を中心に女子教育に専念した。


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須坂

2018年08月18日 | 長野県
(奥田神社)
 須坂市の中心部に位置する奥田神社の場所に、かつて須坂藩の館が置かれていた。この館は二代堀直升によって元和三年(1617)に築かれたといわれる。この奥田神社を中心に、須坂小学校や須坂東高校前の通りまでを占めていた。十四代藩主堀直明のとき版籍奉還を迎え、東京鎮台の所轄となり、明治五年(1872)廃城に至った。


奥田神社

 奥田神社の祭神は、初代堀直重と十三代藩主堀直虎の二柱である。明治十三年(1880)の建立。慶應四年(1868)一月十七日、徳川慶喜は朝廷に対し恭順を進めたが、これに納得のいかない藩主直虎は慶喜に激しく諫言した後、江戸城にて自刃して果てた。藩領においては、藩政改革に取り組み、全藩英式の兵制を取り入れ、甲冑弓槍を売却して銃器や洋服を購入した。人民の貧苦を救うために一年間の納税を免除する等、治教徳政を施した。

(招魂社)


上高井招魂社

 奥田神社に隣接して招魂社が建てられている。明治元年(1868)の戊辰戦争において、東山道総督軍の先鋒に属し、四月十六日から十八日に至る間、下総国茂呂村、武部村および鬼怒川等で奮戦し、須坂藩兵より七名の戦死者を出した。彼ら七名を慰霊するため、明治十二年(1879)、旧藩主堀直明に具申して、旧藩主邸跡に移祀し、建立したものである。その後、西南の役、日清日露戦争、さらに太平洋戦争に至る戦死者を合祀して現在に至っている。


小林季定先生之碑

 小林季定は通称は要右衛門。文政十二年(1829)、直心影流の達人で多くの門人を持っていた要右衛門季阿の二男として生まれた。 江戸勤番を経て、文久二年(1862)二月藩主・堀直虎の側近に登用された。明治元年(1868)一月に藩主・堀直虎が江戸城中にて諫死し、藩は騒然となった。総督府より呼び出しがあり三月に季定は藩の代表として大垣の総督府に赴き、出兵の命を受け兵一小隊、砲一門を率いて出陣し、参謀祖式金八郎の手に属し、館林藩の一小隊と共に四月五日に結城城を攻略し、これを守備した。四月十六日に茂呂にて千八百余名の東軍と大激戦となり、十七日には包囲され撤退を余儀なくされた。維新後は剣術、銃術、馬術の教授主事及び藩主の家扶を命じられた。明治三十四年(1901)四月没。翌年門人によって銅像を建立したが、昭和十八年(1943)、戦争のために回収され、現在は台座のみが残っている。


須坂表忠碑

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松本 Ⅱ

2018年08月18日 | 長野県
(沙田神社)
 沙田(いさごだ)神社は、信濃国三宮の一つ。明治三十四年(1901)県社に昇格している。
 拝殿に西園寺公望書の扁額が掲げられている。「正二位勲一等公爵」とあるので、明治三十一年(1898)十二月以降、大正七年(1918)までの間に揮毫されたものと思われる。


沙田神社


沙田神社(西園寺公望書)


(島立)


浅田宗伯先生之碑

 松本市島立は、浅田宗伯の生地である。
 浅田宗伯は、文化十二年(1815)、当北栗林村に生まれ、長じて京都で医術を学び、儒学を頼山陽に学んだ。後に江戸に出て漢方医を開業してたちまち名声を得た。安政五年(1858)、徳川将軍家の侍医となった。明治十二年(1879)、宮内省侍医を拝命する等、漢方医の権威者であるとともに、儒者として国事にも奔走した。何よりも浅田飴の創始者として知られる。明治二十七年(1894)三月、没。行年八十。

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塩尻

2018年08月18日 | 長野県
(奈良井宿)
 奈良井宿は中山道三十四番目の宿場。藪原や上松には古い建物がほとんど残されていないが、こちらは(多少観光化されているものの)昔ながらの木造の家屋が約一キロメートルにわたって連なっており、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。観光駐車場(五百十円と決して安くないが)に自動車をとめて、早速街を散策してみよう。


奈良井宿 上問屋史料館


明治天皇御駐輦所


奈良井宿

 現在、奈良井宿は民宿や土産物屋、食事処が軒を連ねる観光名所となっている。中でも建造当初の建物をそのまま活かした上問屋史料館や奈良井の櫛問屋であった中村邸(天保年間の建物)などでは内部も公開しているので、是非立ち寄って行きたい。上問屋史料館の前には、明治天皇御駐輦所と明治天皇奈良井行在所の二つの石碑が建てられている。

(贄川関所)


贄川関所

 贄川(にえかわ)関所は、福島関所と同様、明治二年(1869)に廃止され、建物も取り壊された。現在、復元再建された建物の位置より、当時の関所は西側にあって東を向いて建っていた。


関所跡

 皇女和宮は奈良井で小休をとった後、贄川宿で昼食をとった。

(本山宿)
 本山宿は中山道三十二番目の宿場。文久元年(1861)十一月四日、和宮は本山宿に宿泊した。この時、京方一万人、江戸方一万五千人、松本藩等の警護一万人、助郷人足など総勢八万人が四日にわたり通行し、空前絶後の大行列となった。助郷二万人、馬二千疋などの仮小屋は洗馬宿まで連なり、夜は二千本の提灯の灯りで昼間のようであったと伝えられている。


本山宿

 本山宿には川口屋、池田屋、若松屋という三軒の古い家屋が並んでいる。いずれも明治二年(1869)の大火直後の再建という。


本陣跡


明治天皇本山行在所跡

 慶応四年(1868)二月三十日、本山宿の長久寺において、松本藩主戸田光則は東山道総督岩倉友定に勤皇の誓約を提出したが、態度決定の遅れを理由に、三万両の軍資金と兵糧、出兵を命じられた。これを契機に松本藩は戊辰戦争に参戦することになった。


長久寺・常光寺跡

 本山宿の入口付近に長久寺と常光寺という二つ寺院が並んで建っていた。両寺とも明治四年(1871)の廃仏毀釈により廃寺となっている。

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木祖

2018年08月18日 | 長野県
(藪原宿)
 藪原宿は中山道三十五番目の宿場である。文久元年(1861)十一月三日、和宮は藪原宿で宿泊している。宿場の一部はJRの線路で寸断されており、往時の建物はほとんど残っていない。


藪原宿
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木曽

2018年08月18日 | 長野県


木曽御嶽山

 国道19号線を北上して木曽町に入って直ぐ道の駅福島がある。ここから木曽御嶽山の山頂(標高3067メートル)を望むことができる。19号線沿いで唯一木曽御嶽山が見える場所なのだそうだ。

(木曽福島宿)


木曽福島宿

 文久元年(1861)十一月二日、上松宿を出発した和宮一行は、福島宿でその日の昼食をとった。

(福島関所跡)
 福島関所の創設された年代は明らかではないが、中山道の開かれた慶長七年(1602)をあまりくだらない頃のことと考えられている。中山道の重要な守りとして、碓井・箱根・新居とともに当時天下の四大関所と称された。当初から木曽地方の代官山村氏が代々関所の守備に任じられ、明治二年(1869)までその機能を果たしていた。廃関後、関所の諸施設は全部取り壊されてしまい、当時の面影はほとんど留められていなかったが、昭和五十年(1975)に行われた発掘調査の結果、関所遺構の全容を確認することができた。昭和五十二年(1977)に、当時の御番所建物を再現して関所資料館が完成した。


福島関所


福島関所跡



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上松

2018年08月18日 | 長野県
(上松宿)


上松宿本陣跡

 上松(あげまつ)宿は、中山道三十八番目の宿場町で、文久元年(1861)十一月二日、皇女和宮が宿泊した。現在、塚本歯科医院がある辺りが本陣跡である。


上松宿脇本陣


一里塚の跡
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大桑

2018年08月18日 | 長野県
(須原宿)


須原宿

 JR中央本線須原駅前から須原宿の街並みが続く。須原宿は中山道三十九番目の宿場。文久元年(1861)、十一月一日、和宮一行は須原で昼食をとっている。


須原宿本陣跡

 木村家本陣跡前には駒札が建てられているが、残念ながら建物等は何も残っていない。その向い辺りが脇本陣跡西尾家である。西尾家は酒造業を営み、問屋、庄屋を兼ね、宿役人として重きを成した。


須原宿脇本陣(正岡子規歌碑)

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