(英岩寺)
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英岩寺
英岩寺は飯山市内の寺町の一角に所在する。墓地の入口近くに戊辰戦争の犠牲者浅山兵馬の墓がある。
淺山正立之墓
浅山兵馬は大砲方。兵卒。慶応四年(1868)五月二十七日、越後与板城ヶ峰にて戦死。三十八歳。
(忠恩寺)
忠恩寺は、歴代城主の菩提寺であり、城主松平家や本多家の墓所がある。早速、本多家の墓所を訪ねる。
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忠恩寺
本多家墓所には、二代本多康明、八代助成、九代助寵、四代助盈の二人の娘、十代助実の息兼吾郎(二歳で卒)の墓が並ぶ。
文明院殿前豊前太守有譽章山達道大居士
(本多助成の墓)
本多助成は、弘化三年(1846)、第七代藩主本多助実の長男として生まれ、文久元年(1861)、将軍家茂に拝謁し、従五位下伊勢守に任じられた。五尺八寸の堂々たる体格で、文武にも秀でていた。慶應二年(1866)には病気の父助実の代理として大阪への出陣を命じられた。慶應三年(1867)、父助実の隠居により家督を継いだ。慶應四年(1868)三月、明治政府から謹慎を命じられ、新政府に対し一万五千両の軍資金を献納した。同年六月、飯山において旧幕軍古屋佐久左衛門らと新政府との戦闘が勃発したが、そのさ中に死去した(二十三歳)。偉丈夫として知られた殿さまのあまりの若さとそのタイミングに、当時から毒殺されたという噂もあったが真相は不明。
藩では助成の死を隠し、隠居届けを提出して養子(実弟)助寵に家督を継がせた。
成就院励譽功道徳山大居士(本多助寵の墓)
本多助寵は第九代藩主。慶応四年(1868)七月、家督を継いだものの、病弱であったため政務は実父助実が代行した。戦後、北越戦争出兵の賞典禄五千両を賜り、版籍奉還後藩知事に就任したが、その直後、わずか十六歳で死去した。
本多康明の墓
(永国寺)
永国寺(ようこくじ)の門前をJR飯山線が横切っており、境内を分断している。境内に行くには線路をまたがなくてはならない。
永国寺
佐藤由松の墓
佐藤由松の墓は線路手前の墓地にある。
佐藤由松は銃卒。慶応四年(1868)五月二十七日、越後与板にて負傷。同年八月二十護日、柏崎で死亡。二十三歳。
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英岩寺
英岩寺は飯山市内の寺町の一角に所在する。墓地の入口近くに戊辰戦争の犠牲者浅山兵馬の墓がある。
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淺山正立之墓
浅山兵馬は大砲方。兵卒。慶応四年(1868)五月二十七日、越後与板城ヶ峰にて戦死。三十八歳。
(忠恩寺)
忠恩寺は、歴代城主の菩提寺であり、城主松平家や本多家の墓所がある。早速、本多家の墓所を訪ねる。
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忠恩寺
本多家墓所には、二代本多康明、八代助成、九代助寵、四代助盈の二人の娘、十代助実の息兼吾郎(二歳で卒)の墓が並ぶ。
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文明院殿前豊前太守有譽章山達道大居士
(本多助成の墓)
本多助成は、弘化三年(1846)、第七代藩主本多助実の長男として生まれ、文久元年(1861)、将軍家茂に拝謁し、従五位下伊勢守に任じられた。五尺八寸の堂々たる体格で、文武にも秀でていた。慶應二年(1866)には病気の父助実の代理として大阪への出陣を命じられた。慶應三年(1867)、父助実の隠居により家督を継いだ。慶應四年(1868)三月、明治政府から謹慎を命じられ、新政府に対し一万五千両の軍資金を献納した。同年六月、飯山において旧幕軍古屋佐久左衛門らと新政府との戦闘が勃発したが、そのさ中に死去した(二十三歳)。偉丈夫として知られた殿さまのあまりの若さとそのタイミングに、当時から毒殺されたという噂もあったが真相は不明。
藩では助成の死を隠し、隠居届けを提出して養子(実弟)助寵に家督を継がせた。
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成就院励譽功道徳山大居士(本多助寵の墓)
本多助寵は第九代藩主。慶応四年(1868)七月、家督を継いだものの、病弱であったため政務は実父助実が代行した。戦後、北越戦争出兵の賞典禄五千両を賜り、版籍奉還後藩知事に就任したが、その直後、わずか十六歳で死去した。
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本多康明の墓
(永国寺)
永国寺(ようこくじ)の門前をJR飯山線が横切っており、境内を分断している。境内に行くには線路をまたがなくてはならない。
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永国寺
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佐藤由松の墓
佐藤由松の墓は線路手前の墓地にある。
佐藤由松は銃卒。慶応四年(1868)五月二十七日、越後与板にて負傷。同年八月二十護日、柏崎で死亡。二十三歳。