史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

水戸 常磐共有墓地 Ⅸ

2019年04月12日 | 茨城県
(常磐共有墓地 つづき)


多治見家墓(多治見荒次郎墓)

 多治見荒次郎は、奥番四郎次郎国重の二男。遊撃隊。明治元年(1868)九月二十九日、常陸石塚村で戦死。十六歳。

 時間の限り墓地を歩いたが、この日の常磐共有墓地での収穫はこれだけであった。嫁さんから、午後五時半までに自宅に戻るように厳命を受けていたので、三時前には水戸を出発し、ひたすら八王子を目指した。まるで「走れメロス」だな…と自嘲しつつ、約束の十分前に帰り着くことができた。
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城里 Ⅳ

2019年04月12日 | 茨城県
(カフェとき)


カフェとき

 かつては「そば処とき」といったが、現在はカフェとして営業中。黒沢止幾顕彰館を併設しており、黒沢止幾の日記や書簡などを展示している(城里町北方2137)。
 今回ここに立ち寄ったのは顕彰館を拝見することもさることながら、ここで黒沢止幾の墓の正確な場所を教えていただこうという魂胆があったからである。ちょうど昼食時だったので、ビーフカレーを注文し、支払いの際に黒沢止幾の墓の場所をマスターに尋ねてみた。「難しい場所なので、生家の近くで聞いてみてください」という答えであった。その後、生家まで行って近所で確認したが、確かに極めて分かりにくい場所にあった。


黒沢止幾子顕彰館

(黒沢止幾の墓)
 「カフェとき」で教えていただいたとおり、黒沢止幾生家の近所で黒沢止幾の墓を聞いてみることにした。ところが、行ってみると尋ねるにも相手がいない。ようやく近くに檜山商店というお店を発見した。声をかけると、奥から腰の曲がった老婆がでてきた。一見して老婆は、軽く八十歳は越えていると思われたが、受け応えは極めてしっかりしていて、店の外まで出て、丁寧に場所を教えていただいた。
 黒沢止幾の墓は、生家近くの錫高野(すずごや)の交差点から県道112号線を南に進み、三本目の左折可能な道を曲がって直ぐの場所にある栗林が目印である。そこが墓地への入り口になっている。老婆は、「止幾さんの墓は、墓の天辺にある」と教えてくれた。「山頂にあるんですか」と確認すると「いや、天辺」という。行ってみれば分かるが、墓地は斜面にあり、その一番高いところに黒沢止幾の墓があり、墓地はそこで途切れているのである。


贈従五位大教正黒澤止幾子刀自之墓

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常陸太田 Ⅴ

2019年04月12日 | 茨城県
(天下野)
 天下野と書いて、「けがの」と読む。県道33号線を走って天下野地区に差し掛かると、交差点に「木村謙次の墓」を示す案内板が立っている。小さなものなので、見逃さないように注意を要する。あとはその案内に従って左折、右折すれば、墓の入口に達する。そこから森の中を二百メートル歩くと、そこに忽然と木村家の墓所が現れる。


木村謙次の墓 案内板


酔古館木村子虚之墓

 木村謙次は宝暦二年(1752)の生まれ。天下野の人で、資性闊達、胆略に富み、医者、儒者、漢詩人、農政家、探検家を兼ねた憂国の志士であった。寛政の三奇人蒲生君平、高山彦九郎、林子平らと交わり、国家の急務を論じ、また奇行でも知られた。幼時、東金砂山東清寺の僧大雲に読書を学び、次いで水戸の立原翠軒に儒学、谷田部東壑、原南陽および京都の吉益東洞に医術を学んだ。常に時勢の衰退を嘆き、民情を視察してその窮乏を救おうと「足民論」を著して藩に呈上した。郷里に産業を興そうと蒟蒻栽培、造林の奨励、和唐紙製法の指導等に尽力した。不時の凶作に備えて郷倉を設けることを建議し実現させる等数々の功績があった。寛政五年(1793)正月、翠軒の命を受け、武石民蔵とともに蝦夷地松前に渡り、約一週間滞在してロシアの兵勢とともに地勢、風俗など詳細を調査して報告書「北行日録」を著した。寛政十年(1798)、近藤重蔵、最上徳内、村上島之允らとともに東蝦夷の島嶼部探索を幕府に命じられた。彼らが苦心の末、択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てたことは良く知られるが、この文字を書いたのが木村謙次(下野源助と変名していた)であった。帰藩後、その功績を賞され、武士の身分を与えられた。文化八年(1811)、六十歳で亡くなった。

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