(雲松寺)
これも吉松智輝様から情報となるが、姫路市内の雲松寺に河合寸翁の書斎であった竹楼が移築されているという。吉松様の情報によれば、竹楼は中庭にあり、竹でできた八角形の建物という。残念ながら、寺の方は留守でこの日実物を見ることはできなかったが、場所は確認できたので、次の機会に再チャレンジすることにしたい。
雲松寺
(名古山霊園)
名古山霊園は、姫路城から北へ1キロメートルの丘陵にある墓地公園で、市内の複数の寺院の墓地もこの場所に集められている。人間国宝にして姫路市名誉市民である落語家桂米朝の墓があることでも知られる。
先日、寺町の正明寺に江坂元之助の墓を訪ねたが、見つけられなかった。名古山霊園に正明寺の墓地が集約されているという情報を得たので、確信はなかったが、江坂元之助の墓を求めて、名古山霊園を歩いてみることにした。
名古山霊園 陸軍墓地
霊園のほぼ中央に陸軍墓地がある。この墓地には、戊辰戦争以来、西南の役、日清日露戦役、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、第二次世界大戦に至る戦争において戦没した英霊および自衛隊公務殉職者の御霊十一万一千五百柱が眠る。一角には英霊の墓石をピラミッド状に積み上げた塔が二基あり、古いものでは明治初年の戦死者、病死者のものを見出すことができる(私の見た限り、戊辰戦争殉難者のものは発見できなかった)。
陸軍墓地
それまでは快晴だったのに、名古山霊園を歩き始めた頃、雨が本降りとなった。正明寺墓地は、陸軍墓地のちょうど下の斜面となる。雨の中を江坂元之助の墓を探して歩き回ったが、遂に見つけることはできなかった。雨でなければ、もう少し根気強く歩くことができただろうが、ちょっと気力が続かなかった。ここも再訪する必要がある。
(慈恩寺)
慈恩寺
慈恩寺に勤王の志士萩原虎六の墓があるという情報を得た。慈恩寺墓地は、さして広くないので、直ぐに見つかるだろうと思ったが、二回、三回と歩いてみたが、見つけられなかった。
萩原虎六は姫路藩士。天保十二年(1841)の生まれ。樫原流槍術の奥義を極め、砲術・柔術にも練達していた。同藩の武井守正と兄弟の契を結び、尊攘運動に従事した。文久二年(1862)、藩主酒井忠績に随従して上洛。時に国老松平孫三郎の専横を除こうとして果たせず、翌文久三年(1863)再び河合総兵衛と上洛して諸藩の志士と交わり、親兵として禁闕の護衛に当たった。正親町公董が勅使として長州に下向するのに随従を命じられ、帰京の際、八月十八日の政変に遭遇した。七卿の西下に随従することを請うたが、諭されて大阪より帰された。元治元年(1864)夏、国に帰され、佐幕派のために禁固され、千種家家臣賀川肇、処士家里松嶹殺害の嫌疑で自刃を命じられた。年二十四。
これも吉松智輝様から情報となるが、姫路市内の雲松寺に河合寸翁の書斎であった竹楼が移築されているという。吉松様の情報によれば、竹楼は中庭にあり、竹でできた八角形の建物という。残念ながら、寺の方は留守でこの日実物を見ることはできなかったが、場所は確認できたので、次の機会に再チャレンジすることにしたい。
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雲松寺
(名古山霊園)
名古山霊園は、姫路城から北へ1キロメートルの丘陵にある墓地公園で、市内の複数の寺院の墓地もこの場所に集められている。人間国宝にして姫路市名誉市民である落語家桂米朝の墓があることでも知られる。
先日、寺町の正明寺に江坂元之助の墓を訪ねたが、見つけられなかった。名古山霊園に正明寺の墓地が集約されているという情報を得たので、確信はなかったが、江坂元之助の墓を求めて、名古山霊園を歩いてみることにした。
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名古山霊園 陸軍墓地
霊園のほぼ中央に陸軍墓地がある。この墓地には、戊辰戦争以来、西南の役、日清日露戦役、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、第二次世界大戦に至る戦争において戦没した英霊および自衛隊公務殉職者の御霊十一万一千五百柱が眠る。一角には英霊の墓石をピラミッド状に積み上げた塔が二基あり、古いものでは明治初年の戦死者、病死者のものを見出すことができる(私の見た限り、戊辰戦争殉難者のものは発見できなかった)。
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陸軍墓地
それまでは快晴だったのに、名古山霊園を歩き始めた頃、雨が本降りとなった。正明寺墓地は、陸軍墓地のちょうど下の斜面となる。雨の中を江坂元之助の墓を探して歩き回ったが、遂に見つけることはできなかった。雨でなければ、もう少し根気強く歩くことができただろうが、ちょっと気力が続かなかった。ここも再訪する必要がある。
(慈恩寺)
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慈恩寺
慈恩寺に勤王の志士萩原虎六の墓があるという情報を得た。慈恩寺墓地は、さして広くないので、直ぐに見つかるだろうと思ったが、二回、三回と歩いてみたが、見つけられなかった。
萩原虎六は姫路藩士。天保十二年(1841)の生まれ。樫原流槍術の奥義を極め、砲術・柔術にも練達していた。同藩の武井守正と兄弟の契を結び、尊攘運動に従事した。文久二年(1862)、藩主酒井忠績に随従して上洛。時に国老松平孫三郎の専横を除こうとして果たせず、翌文久三年(1863)再び河合総兵衛と上洛して諸藩の志士と交わり、親兵として禁闕の護衛に当たった。正親町公董が勅使として長州に下向するのに随従を命じられ、帰京の際、八月十八日の政変に遭遇した。七卿の西下に随従することを請うたが、諭されて大阪より帰された。元治元年(1864)夏、国に帰され、佐幕派のために禁固され、千種家家臣賀川肇、処士家里松嶹殺害の嫌疑で自刃を命じられた。年二十四。