史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

姫路 Ⅳ

2019年05月18日 | 兵庫県
(雲松寺)
 これも吉松智輝様から情報となるが、姫路市内の雲松寺に河合寸翁の書斎であった竹楼が移築されているという。吉松様の情報によれば、竹楼は中庭にあり、竹でできた八角形の建物という。残念ながら、寺の方は留守でこの日実物を見ることはできなかったが、場所は確認できたので、次の機会に再チャレンジすることにしたい。


雲松寺

(名古山霊園)
 名古山霊園は、姫路城から北へ1キロメートルの丘陵にある墓地公園で、市内の複数の寺院の墓地もこの場所に集められている。人間国宝にして姫路市名誉市民である落語家桂米朝の墓があることでも知られる。
先日、寺町の正明寺に江坂元之助の墓を訪ねたが、見つけられなかった。名古山霊園に正明寺の墓地が集約されているという情報を得たので、確信はなかったが、江坂元之助の墓を求めて、名古山霊園を歩いてみることにした。


名古山霊園 陸軍墓地

 霊園のほぼ中央に陸軍墓地がある。この墓地には、戊辰戦争以来、西南の役、日清日露戦役、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、第二次世界大戦に至る戦争において戦没した英霊および自衛隊公務殉職者の御霊十一万一千五百柱が眠る。一角には英霊の墓石をピラミッド状に積み上げた塔が二基あり、古いものでは明治初年の戦死者、病死者のものを見出すことができる(私の見た限り、戊辰戦争殉難者のものは発見できなかった)。


陸軍墓地

 それまでは快晴だったのに、名古山霊園を歩き始めた頃、雨が本降りとなった。正明寺墓地は、陸軍墓地のちょうど下の斜面となる。雨の中を江坂元之助の墓を探して歩き回ったが、遂に見つけることはできなかった。雨でなければ、もう少し根気強く歩くことができただろうが、ちょっと気力が続かなかった。ここも再訪する必要がある。

(慈恩寺)


慈恩寺

 慈恩寺に勤王の志士萩原虎六の墓があるという情報を得た。慈恩寺墓地は、さして広くないので、直ぐに見つかるだろうと思ったが、二回、三回と歩いてみたが、見つけられなかった。

 萩原虎六は姫路藩士。天保十二年(1841)の生まれ。樫原流槍術の奥義を極め、砲術・柔術にも練達していた。同藩の武井守正と兄弟の契を結び、尊攘運動に従事した。文久二年(1862)、藩主酒井忠績に随従して上洛。時に国老松平孫三郎の専横を除こうとして果たせず、翌文久三年(1863)再び河合総兵衛と上洛して諸藩の志士と交わり、親兵として禁闕の護衛に当たった。正親町公董が勅使として長州に下向するのに随従を命じられ、帰京の際、八月十八日の政変に遭遇した。七卿の西下に随従することを請うたが、諭されて大阪より帰された。元治元年(1864)夏、国に帰され、佐幕派のために禁固され、千種家家臣賀川肇、処士家里松嶹殺害の嫌疑で自刃を命じられた。年二十四。

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加西

2019年05月18日 | 兵庫県
(三宅酒造)


三宅酒造

 「但馬の殿様」(神戸新聞総合出版センター)の著者吉盛智輝様よりブログに情報をいただいた。加西市中野の三宅酒造に姫路藩の家老を務めた河合家の家屋が移築されているとの情報をいただき、この機に三宅酒造を訪ねた。
 三宅酒造では、主屋の改築工事中で「庭園に移築」されているという旧河合邸を拝見することは叶わなかった。

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高砂 Ⅱ

2019年05月18日 | 兵庫県
(かんな公園)
 神爪のかんな公園に山片蟠桃の立像がある。山片蟠桃は、寛延元年(1748)、高砂市神爪の百姓長谷川小兵衛の三人兄弟の次男として生まれ、幼名を惣五郎または有躬といった。生家はただの百姓ではなく、兄安兵衛は、「糸屋」の屋号をもって播州木綿の取引を営んでいた。十三才のとき、父の引きにより大阪に出、「升家」に出仕する商人となった。当時七歳の当主を擁してどん底に頽退していた升屋に、若冠二十四歳で番頭となり、主家の再建にとりかかった。苦闘が続いたが、蟠桃の才智と何ごとにも刻苦精励する熱心さにより遂に頽勢を挽回して、大阪の豪商升屋の全盛時代を築き上げた。


山片蟠桃像

 高砂市神爪はまさに山片蟠桃の出身地である。町内には「ばんとう通り」と名付けられた道路が通じ、蟠桃ゆかりの史跡が点在している。かんな公園のすぐ近くには、蟠桃が幼児父と酒屋を営んでいた家の跡がある。


蟠桃幼児父と酒屋を営んでいた家跡

(生石神社一の鳥居)
 ばんとう通りの東の起点近く、神殿がなくて鳥居だけが立っている。その前にある石燈籠は、山縣蟠桃が結婚を記念して寄進したものといわれている。


生石神社一の鳥居


山片蟠桃結婚記念に寄進した燈籠


(覚正寺)


覚正寺

 生石神社一の鳥居の前の道を西へ行くと覚正寺がある。覚正寺の本堂前に村人が建立した山片蟠桃の顕彰墓がある。この顕彰墓は、かつて神爪墓地にあったが、平成十年(1998)十一月、覚正寺境内に移設されたものである。


釋宗文墓(山片蟠桃顕彰墓)

 蟠桃は、中井竹山・履軒を師とする懐徳堂に学び、自由闊達な学風のなかで和漢洋の学問を修め、合理的にものごとを割り切る面を持っていた。我が国における近代的合理主義の先駆といわれている。町人学者蟠桃は十二巻に及ぶ「夢の代」を遺した。文政四年(1821)、七十四歳で没。

 地獄なし極楽もなし我もなし
 ただ有るものは人と万物
 神佛化け物もなし
 世の中に奇妙ふしぎのことは猶なし
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加古川 Ⅱ

2019年05月18日 | 兵庫県
(山脇邸)
 今年のゴールデンウィークは、史上最長の十連休であった。人によっては、「長過ぎる」「時間を持て余す」などと批判的な意見もあるようだが、個人的には休みは長ければ長いほど大歓迎である。半年以上も前から、計画を練っていたが、この正月に「戊辰掃苔録」の竹さんから中国地方の旅行に誘われ、ご一緒することになった。金曜日、仕事を終えて東京駅に直行し、その日のうちに京都の実家に移動。初日は姫路周辺、二日目は岡山県内、三日目の朝、福山にて竹さんご夫妻と合流して、広島県下の史跡を回り、四日目は東広島市にて東広島郷土史研究会の皆様のご案内で神機隊関係の墓を巡り、翌日は広島から山口県に入り、そのまま山口県を西に進んで、私は防府で離脱して京都に戻った。竹様ご夫妻はそのまま掃苔の旅を続けられ、島根県を経由して鳥取県から大阪を経由して拠点である仙台に帰るという壮大な旅程である。大型連休にも関わらず比較的渋滞や混雑には遭遇せず、とても充実した時間を過ごすことができた。


姫路藩出張陣屋跡

 初日は、姫路でレンタカーを借りて、加古川、高砂、加西、姫路、たつの、佐用、宍粟を回った。途中、昼食をとるヒマもないほどの慌ただしさであったが、何とか予定した史跡を踏破することができた。
 最初の訪問地は加古川市の姫路藩出張陣屋跡である。
 寺家の商店街が尽きる辺りに、人形の店「陣屋」があるが、その隣が姫路藩の加古川役所として宝暦二年(1752)に建造された陣屋の跡である。明治十八年(1885)八月九日には、明治天皇が西国街道を巡幸の際、ここで昼食をとった。このとき、松盆栽を陳列したことから、「樹悳堂(じゅとくどう)」の名を贈られた。

 カメラを片手に付近を歩いていると、子供の頃からここに住んでいるという向いのオジサンが出てきて、色々教えてくれた。昔は、見学もできたらしいが、建物の老朽化が激しく、最近は公開中止となっているという。人形店「陣屋」は、陣屋とは無関係らしい。

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