史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

府中 Ⅴ

2020年12月19日 | 東京都

(府中市郷土の森公園)

 

府中郷土の森公園

 

 府中市郷土の森公園は、体育館、プールや野球場、サッカー場、交通遊園などを備えた広大な公園である(府中市矢崎町5‐5)。郷土の森博物館のエリアは、博物館、復元建築物のほか、四季折々の花が楽しめる森林エリアが広がる。復元建築物としては、旧尋常小学校、旧府中町役場、旧府中郵便取扱所など府中市に残っていた歴史的建築物を集めて、維持保存展示しているのである。こうして貴重な文化財を一か所に集めて保存のために継続的に手をかけていくことは非常に意義があることだと思う。このような施設が全国的に拡がると良いのだが。入園料は大人三百円。

 

旧前田家住宅

 

 前田家は、甲州街道府中宿を代表する商家で、明治天皇が兎狩りをした際には、休憩所や宿泊所として利用された。幕末には府中宿の脇本陣を務め、旅籠も営んでいた。明治天皇が利用した奥座敷も残っている。

 

明治天皇府中行在所

 

旧前田家住宅

玄関~奥座敷

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池袋

2020年12月19日 | 東京都

(ニッセイ池袋ビル)

 

明治天皇御野立所跡

 

 池袋駅から徒歩六~七分というニッセイ池袋ビルに明治天皇御野立所跡碑が建っている(豊島区東池袋1‐24‐1)。

 明治天皇が当地を訪れたのは、明治八年(1875)十二月二十七日のことで、近衛兵の演習を観覧する途中、当地で休憩をとったとされる。

 

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東本願寺 Ⅱ

2020年12月19日 | 京都府

(渉成園)

 

名勝 渉成園

 

回棹廊(かいとうろう)

 

 渉成園は東本願寺の飛び地境内地(別邸)である。十三代宣如上人が三代将軍徳川家光から東本願寺の東側の土地を寄進された。宣如上人は、承応二年(1653)に隠退して自らの隠居所をここに定め、渉成園と名付けた。文政年間には頼山陽が「渉成園記」を撰して「渉成園十三景」を紹介した。回棹廊の十三景の一つでえある。

 渉成園は、創立以来、幾度かの火災に遭い、現在の建物は元治元年(1864)の蛤御門の変による炎上以後に再建されたものである。

 

 十四代将軍家茂、十五代将軍慶喜も渉成園をことのほか気に入り、何度も訪れた。慶喜は「渉成園」と揮毫した額を残している。ほかにも尾張藩主慶勝や福井藩主松平慶永(春嶽)も渉成園に遊んだことが記録に残っている。

 

明治天皇御小休所枳殻邸

 

 慶応四年(1868)三月二十一日、同年閏四月八日、明治五年(1872)六月四日、明治十三年(1880)七月十四日と、四回に渡り滞在している。明治十三年(1880)の滞在の折には、大宮御所から東本願寺に建物が移築されることになり、渉成園には車寄せが移築された(現在の大玄関の建物)。

 

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東山七条 Ⅲ

2020年12月19日 | 京都府

(耳塚公園)

 

耳塚

 

 豊国神社の鳥居の前に耳塚がある。耳塚は十六世紀末、豊臣秀吉が朝鮮半島に侵攻した文禄・慶長の役に関わる遺蹟である。秀吉旗下の武将は、古来一般の戦功のしるしである首級の代わりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳を削ぎ、それを塩漬けにして日本へ持ち帰った。秀吉の命によりこの地に埋められ供養の儀がもたれたという。秀吉が起こしたこの戦争は、朝鮮半島の人々の根強い抵抗によって敗退に終わったが、朝鮮民衆の受難を今に伝えている。

 

明治天皇御小休所下京第廿七區小學校阯

 

 耳塚に隣接する耳塚公園には、明治天皇が明治五年(1872)五月三十日に行幸したことを記念した石碑が建てられている。

 

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二条城 Ⅲ

2020年12月19日 | 京都府

(二條若狭屋)

 

二條若狭屋 本店

 

明治天皇歌碑

 

 二條若狭屋は大正六年(1917)創業という和菓子店で、二条城の東に本店がある。その店の前に明治天皇の御製碑が建てられている。明治三十九年(1906)の御製である。

 

 もろともにたすけあひつつ国民の

 むつみあふ世ぞたのしかりける

 

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円山公園 Ⅴ

2020年12月19日 | 京都府

(祇園)

 

薩土討幕之密約紀念碑

 

 祇園は京都市内でも随一の繁華街である。夜の賑わいに比して、昼間はそこはかとなく脱力感の漂う街と化す。その一角に昨年(令和元年(2019))薩土討幕之密約紀念碑が建てられた。この場所は、実際に密約が結ばれた小松帯刀邸ではなく、密議が交わされた祇園の料亭近安楼跡である。

慶応三年(1867)五月十八日、土佐藩の乾退助、福岡藤次(のちの孝弟)、中岡慎太郎と広島藩の船越洋之助(のちの衛)が近安楼で武力討幕の密談を交わした。その三日後、中岡の仲介で薩摩の西郷と乾退助との間で薩土討幕の密約が結ばれた。乾は国もとに帰り、軍制の改革、近代式練兵を行ってその日に備えたが、一方で坂本龍馬の提唱する大政奉還論を主体とした薩土同盟が後藤象二郎によって結ばれている。乾は大政奉還に猛反対するが、山内容堂によって解任されてしまった。しかし、同年十二月二十八日、風雲急を告げると、西郷隆盛は土佐藩に対し出兵を要請。この時、容堂は「この戦争は薩長と会桑との私闘であり、戦闘に参加してはならない」と厳命を下したが、それに反して慶応四年(1868)正月四日の伏見での戦いに土佐藩兵(山田喜久馬、吉松速之助、山地忠七、北村長兵衛ら)は参戦した。遅れて土佐から乾退助も出陣し東征軍に加わった。土佐藩が明治新政府で薩長肥とともに一角を占めることができたのは、薩土密約により討幕の兵を出したことが大きな意味を持つことになった。

 

 

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