(泉福寺墓地)
再度、東海村の黒澤家墓地を訪問した。
黒澤亀太郎君墓
墓誌には名前が見えないが、向かって左奥の古い墓石「黒澤亀太郎君墓」は、覚蔵の長男亀太郎のもの。天狗党の争乱において、元治元年(1864)九月九日、久慈郡島村にて戦死。
故 利兵衛黒澤君墓
黒澤利兵衛は、郷士黒澤七之助利貞の祖父。慶應元年(1865)七月五日、下総銚子にて獄死。六十歳。「幕末維新全殉難者名鑑」では理兵衛と表記されている。
先祖累代之墓(黒澤彦七の墓)
傍らの墓誌裏面に黒澤彦七の事歴が記されている。彦七は準合資善兵衛邦好の二男。慶應元年(1865)十一月一日、下総町銚子にて獄死。二十四歳。
黒澤家累代之墓(黒澤伊予蔵の墓)
黒澤伊予蔵は、慶応二年(1866)六月二十日、江戸佃島にて獄死。二十四歳。墓誌では二十五歳となっている。
林介黒澤君墓
黒澤林介は元治元年(1864)八月二十三日、石神外宿村にて民兵と戦い死亡。四十八歳。
故 助七黒澤利貞君墓
黒澤助七は郷士利兵衛利義の長男。明治元年(1868)十月一日、水戸弘道館門外にて戦死。三十五歳。
黒澤家だけでこれだけの殉難者の墓に出会うことができた。さすがに石神勤王村と呼ばれるだけのことはある。茨城県下でももっと子細に調査すれば、もっと殉難者の墓に出会うことができるのかもしれない、と予感させてくれるものがあった。