史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

有楽町 Ⅱ

2011年12月03日 | 東京都
(東京国際フォーラム)


東京府廰舎

 有楽町駅前の東京国際フォーラムのある場所は、維新前土佐藩上屋敷があった。慶応四年(1868)、江戸が官軍の軍政下に置かれると、同年七月、軍は江戸府を置いた。さらに同年十月には東京府庁が開かれた。以来、昭和十八年(1943)まで東京府が存続した。府庁舎は、当初内幸町の大和郡山藩邸跡にあったが、明治二十七年(1894)に有楽町に新庁舎が竣工し移転した。有楽町の府庁舎は戦災で焼失するまで使用された。有楽町府庁舎が新設されたときの東京府知事は、三浦休太郎(安)である。

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巣鴨 Ⅲ

2011年12月03日 | 東京都
(染井霊園)


正七位久米幹文翁之碑

 久米幹文(もとぶみ)は、文政十一年(1828)に水戸に生まれた。父は水戸藩士石河幹忠。平田篤胤、本居内遠らに学び、徳川斉昭を助けて国事に従事した。斉昭没後、幽閉されて維新を迎えた。明治五年(1872)教部省に仕官して、相模寒川神社宮司等を歴任した。明治十五年(1882)には東京大学の講師、継いで第一高校教授として国文、国史を担当した。明治二十七年(1894)六十七歳で死去。


山脇正勝墓


山脇臥雲墓

 山脇正勝は、桑名藩士山脇十左衛門(正軌、臥雲)の子に生まれた。維新前は隼太郎と称し、藩主松平定敬の小姓となった。戊辰戦争では、父十左衛門とともに柏崎に転戦し、そこで恭順派の家老吉村権左衛門らの粛清に加わった。その後、藩主定敬とともに蝦夷に渡り、新選組に入隊して箱館戦争を戦った。明治後は三菱に入社して、上海支社長のほか、長崎造船所所長を十三年勤めた。明治三十八年(1905)死去。


正五位勲六等正木退蔵之墓

 正木退蔵は、弘化三年(1846)萩城下に生まれた。十三歳のときに松下村塾に入門した。大村益次郎に蘭学を学び、三田尻海軍学校で英学を修めた。明治四年(1871)選ばれてイギリスに留学した。明治七年(1874)に一旦帰国したが、東京帝国大学のお雇い外人教師を探すために再び渡英。ここで『宝島』で知られる作家スティーブンソンと出会い、吉田松陰の思い出を語った。スティーブンソンは、この話をもとに「ヨシダ・トラジロウ」という小品を発表した。正木退蔵は、帰国後東京職工大学(現・東京工業大学)の初代校長に任じられ、継いで外務省に出仕。明治二十四年(1891)にはハワイ領事に任じられた。明治二十九年(1896)五十九歳で死去。


神道修成派 管長大司徒 従五位新田邦光墓

 新田邦光(くにてる)は、文政十二年(1829)に阿波国美馬郡拝原村に生まれた。維新前の通称は竹沢寛三郎といったが、明治後祖先の姓新田に戻した。弘化・嘉永年間、西国各地を巡って勤王報国を説いた。日本を護持し、外夷を攘うには神道を興し、道徳を振起して人心を鞏固なものにすべしと主張した。岩倉具視に招かれて志士と交わった。戊辰戦争では飛騨、美濃に軍を進めて功があった。明治二年(1869)に官を辞した後、神道修成派を結成し、明治九年(1876)には教部省の認可を得て管長に就いた。門人を集めて修成講社を結成し布教に努めた。明治三十五年(1902)七十四歳で没。

(勝林寺)


勝林寺

 染井霊園の周辺も寺の多い街である。勝林寺の門を入ったところで、自転車に乗った婦人が戻ってきた。婦人はこの寺の方であった。田沼家の墓に詣でたいというと、詳しく説明してくださった。ご婦人によれば、勝林寺はもともと本郷にあったが、旧中山道の拡幅によって、この地へ移転を余議なくされたものらしい。当時はかなり広い墓地を有していたそうである。田沼家のほか、蒔田家(浅尾藩)、山名家、柳沢家といった大名家の墓がある。


隆興院殿従四位侍従耆山良英大居士
(田沼意次の墓)

 有名な田沼意次の墓である。
 田沼意次は、八代将軍吉宗に登用され、家重、家治のときに抜擢され、一代で五万七千石の相良藩主、老中にまで異例の昇進を果たした。幕府の財政赤字を克服するため、重商主義を採用した。その結果、幕府財政は改善し景気も回復したが、一方で賄賂が横行し、農村が荒廃するといった副作用も生じた。後世から、悪人の代表のように称される田沼意次であるが、昨今は開明的な政治家として再評価も高まっている。
 意次が失脚すると、相良城は打ち毀し、田沼家は陸奥一万石に減転封された。

 勿論、私の目当ては田沼意次の墓ではなく、その末裔である田沼意尊である。


田沼家歴代の墓

 意次の傍らに、田沼家歴代の合葬墓がある。側面に田沼家代々の名が刻まれているが、その中に、幕末相良藩主田沼玄蕃守意尊の名がある。
 田沼意尊(おきたか)は、意次の曾孫に当たる。田沼家は陸奥に減封されたが、文政六年(1823)意正のとき相良藩に復した。意尊は、天保十一年(1840)家督を継いだ。元治元年(1864)水戸藩で起こった天狗党の乱では、幕命を奉じて出陣し、遂には敦賀で降伏した武田耕雲斎ら三百五十二名を極刑に処した。鳥羽伏見では会津、桑名とともに従軍したが、官軍が東海道を東進してくると、尾張藩の説得を受けて、勤王証書を提出した。徳川家が駿府に移封されると、相良藩も上総小久保に移されたため、最後の相良藩主となった。明治二年(1869)死去。


華族蒔田家歴世之墓

 幕末の浅尾藩主は、蒔田広孝である。元治元年(1864)の禁門の変では京都に出兵した。慶応二年(1866)、長州藩第二奇兵隊を脱走した立石孫二郎らによって浅尾藩陣屋が襲われ全焼した。戊辰戦争では岡山藩とともに新政府軍に与して従軍した。のちに浅尾藩知事、明治三十年(1897)には浅尾村長になった。大正七年(1917)七十歳にて死去。

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