(本要寺)
本要寺
静岡駅から県立病院行のバスに乗って、安東二丁目バス停で下車。そこから徒歩三分程度の場所に本要寺がある。
墓地に入ったところに幕臣鵜殿鳩翁の墓がある。
墓石の側面には、「鵜殿民部小輔藤原長鋭朝臣 道號鳩居翁」とある。
懿徳院殿故民部小輔従五位下
周道日光大居士
鵜殿鳩翁は幕臣。諱は長鋭(ながとし)。文政二年(1819)鵜殿家を継いで、同八年(1825)に小納戸となった。砲術の研究に励み、嘉永元年(1848)には目付、同五年(1852)には諸大夫に列し、民部小輔を称した。嘉永六年(1853)のペリー来航に際して、アメリカ国書の受け取り不可、国交拒絶を主張したが、安政元年(1854)のペリー再来航時には、米応接掛に選ばれ、日米和親条約、下田追加条約に締結に尽力した。安政四年(1857)、ハリス上府用掛も勤めた。将軍継嗣問題では一橋派であったため、安政五年(1858)駿府町奉行に左遷され、さらに免職、差控、隠居を命ぜられた。万延元年(1860)剃髪して、名を鳩翁と改めた。文久三年(1863)浪士取締を命じられて浪士組を組織したが、浪士組を清河八郎に牛耳られ四月には職を辞して、以後再び公職には就かなかった。明治元年(1868)静岡に移り、翌二年(1869)病没。六十二歳であった。

本要寺
静岡駅から県立病院行のバスに乗って、安東二丁目バス停で下車。そこから徒歩三分程度の場所に本要寺がある。
墓地に入ったところに幕臣鵜殿鳩翁の墓がある。
墓石の側面には、「鵜殿民部小輔藤原長鋭朝臣 道號鳩居翁」とある。

懿徳院殿故民部小輔従五位下
周道日光大居士
鵜殿鳩翁は幕臣。諱は長鋭(ながとし)。文政二年(1819)鵜殿家を継いで、同八年(1825)に小納戸となった。砲術の研究に励み、嘉永元年(1848)には目付、同五年(1852)には諸大夫に列し、民部小輔を称した。嘉永六年(1853)のペリー来航に際して、アメリカ国書の受け取り不可、国交拒絶を主張したが、安政元年(1854)のペリー再来航時には、米応接掛に選ばれ、日米和親条約、下田追加条約に締結に尽力した。安政四年(1857)、ハリス上府用掛も勤めた。将軍継嗣問題では一橋派であったため、安政五年(1858)駿府町奉行に左遷され、さらに免職、差控、隠居を命ぜられた。万延元年(1860)剃髪して、名を鳩翁と改めた。文久三年(1863)浪士取締を命じられて浪士組を組織したが、浪士組を清河八郎に牛耳られ四月には職を辞して、以後再び公職には就かなかった。明治元年(1868)静岡に移り、翌二年(1869)病没。六十二歳であった。