史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

静岡 Ⅲ

2011年12月01日 | 静岡県
(本要寺)


本要寺

 静岡駅から県立病院行のバスに乗って、安東二丁目バス停で下車。そこから徒歩三分程度の場所に本要寺がある。
 墓地に入ったところに幕臣鵜殿鳩翁の墓がある。
 墓石の側面には、「鵜殿民部小輔藤原長鋭朝臣 道號鳩居翁」とある。


懿徳院殿故民部小輔従五位下
周道日光大居士

 鵜殿鳩翁は幕臣。諱は長鋭(ながとし)。文政二年(1819)鵜殿家を継いで、同八年(1825)に小納戸となった。砲術の研究に励み、嘉永元年(1848)には目付、同五年(1852)には諸大夫に列し、民部小輔を称した。嘉永六年(1853)のペリー来航に際して、アメリカ国書の受け取り不可、国交拒絶を主張したが、安政元年(1854)のペリー再来航時には、米応接掛に選ばれ、日米和親条約、下田追加条約に締結に尽力した。安政四年(1857)、ハリス上府用掛も勤めた。将軍継嗣問題では一橋派であったため、安政五年(1858)駿府町奉行に左遷され、さらに免職、差控、隠居を命ぜられた。万延元年(1860)剃髪して、名を鳩翁と改めた。文久三年(1863)浪士取締を命じられて浪士組を組織したが、浪士組を清河八郎に牛耳られ四月には職を辞して、以後再び公職には就かなかった。明治元年(1868)静岡に移り、翌二年(1869)病没。六十二歳であった。

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西焼津

2011年12月01日 | 静岡県
(田中城下屋敷)


田中城下屋敷

 JR東海道線西焼津駅を下車して、北に向かって二十分ほど歩くと、藤枝市に入る。この辺りは、田中城の城下町である。
 田中城下屋敷は、住宅街の中にある。入場は無料。冠木門を入ると左手に本丸櫓が移築されている。この櫓は、もともと本丸にあったものである。
 維新後、田中城には高橋泥舟が入った。泥舟は、この建物を住居とし、「光風霽月楼」と名付けた。室内には、泥舟直筆の扁額が掲げられている。


本丸櫓


光風霽月楼(高橋泥舟筆)

 田中城の築城は古く、今から約五百年前、今川氏の命を受けて、地元の有力者であった一色氏が屋敷を拡大して城郭化したのが始まりと言われる。その後、目まぐるしく城主が交替したが、本丸を中心にして同心円状に堀が巡らされた。築城当初は二重だった堀が時代の変遷とともに三重、四重と拡張された。今でも航空写真でその名残を見ることができる。

 江戸時代に入って初代の城主は、酒井備後守忠利。当時の石高は一万石であった。その後も松平氏、水野氏、西尾氏といった譜代の小大名が城主に任じられたが、次第に石高は増し、十代大田氏のときには五万石まで加増された。
 幕末の城主は、本多正訥(まさもり)。初代から数えると二十一代目、本多氏としては七代目となる。尾張藩の説得を受けて、東海道を東下する新政府軍に恭順した。徳川宗家に駿府の地が与えられると、田中藩は安房長尾に移封された。正訥は藩校日知館を長尾に移し、藩士子弟の教育に努めたが、廃藩置県により長尾藩はわずか三年で終焉を迎えた。

(西益津小学校)


西益津小学校

 現在、西益津小学校のある場所が、田中城の本丸跡である。ここを中心に、半径ほぼ六百㍍の四重の堀が造られた。
 小学校には、本丸跡を示す石碑のほか、田中城の模型なども展示されている。


田中城 本丸跡


田中城模型

(旭傳院)


旭傳院

 本丸から見ると、南東の方角にある旭傳院に、田中城の門が移築されている。

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