(石田英吉旧邸)
石田英吉旧邸
かつて四国に住んでいたときにも石田英吉の生家を訪ねて安田町の中ノ川集落を走り回ったが、遂に探し当てることができなかった。今回の高知史跡探訪の旅の最初の目的地がそのリベンジである。
石田英吉旧邸は、実に分かりにくい場所にある。「この辺り」と思われる民家を一軒一軒見ていって、ようやく訪ね当てることができた。
石田英吉は、初め伊吹慶良と称した。現在の石田英吉旧邸も伊吹姓の表札がかかっている。少青年期は郷里で文武の修行を行い、文久元年(1861)には大阪に出て緒方洪庵の門に入った。文久三年(1863)には吉村寅太郎らの天誅組の挙兵に参加したが、重囲を脱して長州に逃れた。翌年の禁門の変では長州の忠勇隊に属して進撃したが、重傷を負って再度長州に逃れた。四境戦争では各地に転戦し、特に下関海峡戦では坂本龍馬の意を受けてユニオン号の砲手長として小倉藩の陣地を砲撃して功があった。のちに海援隊に参加。戊辰戦争でも奥羽各地を転戦した。明治後は、長崎県少参事、秋田県権県令、長崎県令、千葉県知事、高知県知事などを歴任。この間、明治二十三年(1890)には陸奥宗光農商務大臣のもとで次官を務め、貴族院議員にも勅撰された。明治三十四年(1901)、六十三歳にて死去。
(北寺)
北寺
石田英吉碑
中ノ川の北寺の境内には、石田英吉の顕彰碑が建てられている。
(高松順蔵邸跡)
高松順蔵邸跡
高松順蔵邸は、安田八幡宮の北側にあって、相当広い敷地を有していたと推定される。現在、規模はかなり縮小しているものの、古い門構えが残されており、往時を偲ぶことができる。
高松順蔵は、文化四年(1807)安田浦の郷士高松益之丞の長男に生まれた。本名は順蔵、のちに小埜(しょうや)と名乗った。祖父高松弥三衛門の指導を受けて、わずか八歳のとき郷士職を継いで、のちに江戸に出て学問に専念し、また長谷川流居合術を修業して奥義を極めた。さらに南画や和歌も学んだと言われる。諸国を巡って歌を残した。歌作二千余は歌集「採樵歌」にまとめられた。彼の風徳と学問を慕って教えを請う者も多く、その中には中岡慎太郎ら勤王の志士も少なくなかった。妻千鶴は坂本龍馬の長姉であり、龍馬もたびたびこの地を訪れており、龍馬の思想形成にも大きな影響を与えたといわれる。明治九年(1876)七十歳にて死去。長男高松太郎は、龍馬の誘いで海援隊に入り、龍馬の死後、坂本家を継いで坂本直と改名した。次男習吉は龍馬の兄、権平の養子となって坂本南海男と名乗った(のちに坂本直寛と改名)。明治三十一年(1898)に北海道に移住して蝦夷地開拓とキリスト教布教に生涯を捧げた。
(高松順蔵・千鶴墓)
高松順蔵 同妻千鶴墓
乗光寺には、高松順蔵、千鶴夫妻の墓がある。千鶴は文久元年(1861)四十四歳で世を去っている。
(安田小学校)
安田小学校
安田小学校東隣の乗光寺が、儒学者岡本寧浦の生家である。
儒学者岡本寧浦生家
(乗光寺)
乗光寺
乗光寺は岡本寧浦の生家である。