史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

土佐山田

2013年05月06日 | 高知県
(小松小太郎の墓)


従五位小松小太郎落成

 小松小太郎は、舟谷の小松菊平の三男に生まれ、少年時代は神童と呼ばれた。父菊平は洋式の鉄砲鍛治で、藩の中老に招かれ城下に移り、小太郎も高知で経史、武術を学んだ。幕末天下の形勢が切迫すると、能勢成章、北添佶磨らとともに脱藩し、国事に奔走した。文久三年(1863)、坂本龍馬の意を体して敦賀から蝦夷に渡り、視察して海防策を立てた。しかし、船中で病を得て、箱館で病没した。享年二十一。遺髪は郷里に届けられた。小太郎らの北海道視察が坂本龍馬の北海道開拓計画に大きな影響を与えたといわれる。

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夜須

2013年05月06日 | 高知県
(観音山)


津波記念碑

 夜須の観音山は標高わずかに二十七メートルという小さな丘であるが、その頂上付近に津波記念碑がある。この石碑は、安政元年(1854)の大地震の際、津波に襲われたが、食物や衣類などを手に持ってこの山に避難した数百人は助かったことを記念したものである。人々はこの山を「命の山」と賞賛した。

 津波記念碑の少し下に土居市太郎の墓がある。土居市太郎は、ワイルウェフ号が五島沖で沈没したときの生存三名のうちの一人。慶応三年(1867)のいろは丸事件でも龍馬配下の船頭として乗り合わせていた。維新後は岩崎弥太郎の長崎商会でも活躍した。


土居市太郎墓

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吉川

2013年05月06日 | 高知県
(村田忠三郎邸跡)


贈従四位村田忠三郎先生碑

 土佐くろしお鉄道よしかわ駅の目の前が村田忠三郎邸跡である。
 村田忠三郎は天保十一年(1840)香美郡吉川村古川の郷士の子に生まれた。武市瑞山について剣を学び、文久二年(1862)には江戸に出て千葉定吉、重太郎に剣を、藤森弘庵に学問を学んだ。土佐勤王党結成に際して血盟書を作った。文久二年(1862)には江戸に上って山内容堂の側役を務めた。勤王党が弾圧されると投獄され、藩吏井上佐一郎を暗殺した罪を問われ、獄舎で斬られた。年二十六であった。

(村田忠三郎の墓)


村田家墓地


村田忠三郎源克昌之墓

 村田忠三郎邸跡から数百メートル西に行った山の中に村田忠三郎の墓がある。

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山北

2013年05月06日 | 高知県
(香南市文化財センター)


山北両烈士の碑
贈従四位安岡嘉助正定
贈正五位安岡覚之助正義
両君碑

 勤王の志士、安岡覚之助と安岡嘉助兄弟を顕彰するために大正十五年(1926)に建立されたもので、題字は田中光顕の書。
 兄覚之助は、戊辰戦争に小軍官として参戦したが、若松城攻防戦で流弾に当たって三十四歳で戦死した。
 弟嘉助は、参政吉田東洋を暗殺して長州に逃れ、その後吉村寅太郎の天誅組の挙兵に参加したが、囚われて京都六角獄舎にて二十九歳で処刑された。

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安田 Ⅱ

2013年05月06日 | 高知県
(石田英吉旧邸)


石田英吉旧邸

 かつて四国に住んでいたときにも石田英吉の生家を訪ねて安田町の中ノ川集落を走り回ったが、遂に探し当てることができなかった。今回の高知史跡探訪の旅の最初の目的地がそのリベンジである。
 石田英吉旧邸は、実に分かりにくい場所にある。「この辺り」と思われる民家を一軒一軒見ていって、ようやく訪ね当てることができた。
 石田英吉は、初め伊吹慶良と称した。現在の石田英吉旧邸も伊吹姓の表札がかかっている。少青年期は郷里で文武の修行を行い、文久元年(1861)には大阪に出て緒方洪庵の門に入った。文久三年(1863)には吉村寅太郎らの天誅組の挙兵に参加したが、重囲を脱して長州に逃れた。翌年の禁門の変では長州の忠勇隊に属して進撃したが、重傷を負って再度長州に逃れた。四境戦争では各地に転戦し、特に下関海峡戦では坂本龍馬の意を受けてユニオン号の砲手長として小倉藩の陣地を砲撃して功があった。のちに海援隊に参加。戊辰戦争でも奥羽各地を転戦した。明治後は、長崎県少参事、秋田県権県令、長崎県令、千葉県知事、高知県知事などを歴任。この間、明治二十三年(1890)には陸奥宗光農商務大臣のもとで次官を務め、貴族院議員にも勅撰された。明治三十四年(1901)、六十三歳にて死去。

(北寺)


北寺


石田英吉碑

 中ノ川の北寺の境内には、石田英吉の顕彰碑が建てられている。

(高松順蔵邸跡)


高松順蔵邸跡

 高松順蔵邸は、安田八幡宮の北側にあって、相当広い敷地を有していたと推定される。現在、規模はかなり縮小しているものの、古い門構えが残されており、往時を偲ぶことができる。
 高松順蔵は、文化四年(1807)安田浦の郷士高松益之丞の長男に生まれた。本名は順蔵、のちに小埜(しょうや)と名乗った。祖父高松弥三衛門の指導を受けて、わずか八歳のとき郷士職を継いで、のちに江戸に出て学問に専念し、また長谷川流居合術を修業して奥義を極めた。さらに南画や和歌も学んだと言われる。諸国を巡って歌を残した。歌作二千余は歌集「採樵歌」にまとめられた。彼の風徳と学問を慕って教えを請う者も多く、その中には中岡慎太郎ら勤王の志士も少なくなかった。妻千鶴は坂本龍馬の長姉であり、龍馬もたびたびこの地を訪れており、龍馬の思想形成にも大きな影響を与えたといわれる。明治九年(1876)七十歳にて死去。長男高松太郎は、龍馬の誘いで海援隊に入り、龍馬の死後、坂本家を継いで坂本直と改名した。次男習吉は龍馬の兄、権平の養子となって坂本南海男と名乗った(のちに坂本直寛と改名)。明治三十一年(1898)に北海道に移住して蝦夷地開拓とキリスト教布教に生涯を捧げた。

(高松順蔵・千鶴墓)


高松順蔵 同妻千鶴墓

 乗光寺には、高松順蔵、千鶴夫妻の墓がある。千鶴は文久元年(1861)四十四歳で世を去っている。

(安田小学校)


安田小学校

 安田小学校東隣の乗光寺が、儒学者岡本寧浦の生家である。


儒学者岡本寧浦生家

(乗光寺)


乗光寺

 乗光寺は岡本寧浦の生家である。

コメント (3)
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