史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

塩竈

2013年07月02日 | 宮城県
(鹽竈神社)


鹽竈神社

 鹽竈神社のブリュネの碑を探して歩き回った。表参道から随身門に至る階段は二百段を越える。駆け上がると息が乱れた。


ブリュネの碑

 ブリュネの碑は、表参道の大鳥居の前にある。ジュール・ブリュネは、慶應三年(1867)、幕府の要請に応じてフランスが派遣した軍事顧問団の一人として来日した。戊辰戦争が起ると、新政府支持を表明した駐日フランス公使を非難して、徹底抗戦を主張する榎本武揚ら旧幕脱走軍に共鳴して、箱館に渡った。その途中の慶應四年(1868)八月二十六日、浦戸寒風沢に寄港した。艦隊は物資の補給、鑑の修理のために約一カ月当地に停泊した。その間、ブリュネは榎本に伴われて仙台藩主伊達慶邦に面会し、主戦派の軍議に出席したり、戦線を視察したりして仙台周辺を歩き回り、克明なスケッチを何枚か残している。そのうちの一枚が鹽竈神社表参道の絵である。ブリュネの碑には、このスケッチの写しが嵌めこまれているが、雨上がりのため水滴が入りこんでしまい良く見えなかった。ブリュネはフランスに強制的に帰国させられ、パリで軍事裁判にかけられたが、軽い処罰で済まされ、後に陸軍参謀総長にまで昇進した。


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大崎

2013年07月02日 | 宮城県
(天性寺)


天性寺


坂本大炊平隆中之墓

 坂本大炊は、三百五十石。砲術、兵学に通じた。勤王の立場から会津救解に努めたが成らず。慶應四年(1868)五月一日、白河にて戦死。四十五歳。

(茂林寺)


茂林寺


千葉源左衛門平棠俊之墓

 千葉源左衛門は、松本要人家来。明治元年(1868)九月、占領官軍から戦犯に指定された松本要人が逃亡すると、家人に頼まれてその身代わりになることを承諾。松本の自殺を装った。享年五十一。松本は明治五年(1872)赦免された。


菊池忠治墓

 菊池忠治は松本虎之助の家来。慶應四年(1868)八月二十日、磐城駒ヶ峯にて戦死。二十八歳。


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大郷

2013年07月02日 | 宮城県
(糟川寺)


糟川寺

 大郷の糟川寺に見国隊長二関源治の墓がある。


二関源治の墓

 二関源治照忠は、天保七年(1836)仙台城下小田原の三十二石の大番士二関駒治の長男に生まれた。二関家は糟川を知行地として中粕川に屋敷を構えていた。戊辰戦争では銃士として越後に出陣。のち額兵隊に属して小隊指令士となった。仙台藩が降伏すると、これに納得しない同志とともに蝦夷地に渡った。このとき、藩士の次男三男や戊辰戦争で仙台藩領に転じた他藩士、知行地の農民らを集めて見国隊を結成した。明治二年(1869)四月、英国船エーレンブラック号に乗って北海道に渡り、内浦湾の砂原に上陸。榎本武揚率いる幕府脱走軍に合流した。見国隊は室蘭、箱館などを護ったが、五月十一日の総攻撃を受け、大森浜で被弾し翌日五稜郭で死亡した。二関源治は背が低く、色白で女性のようだったが、沈勇果断の人だったという。享年三十四。墓には法名「勵光院戦譽放貫儀争居士」が刻まれる。


千葉愛石 累卵の碑

 千葉愛石は、弘化元年(1844)大郷町粕川の半農半藩の家に生まれた。本名は立造。地元粕川で医師を開業したが、明治二年(1869)上京して岩佐純(明治天皇の主治医)に従事し、同病院の副委員長となった。のちに山岡鉄舟と知り合い、その臨終にも立ち会った。千葉愛石の墓は、全生庵山岡鉄舟の墓の傍にある。
 累卵の碑は、千葉愛石が明治二十二年(1989)に建立したもので、山岡鉄舟ら交流のあった著名人六十六名から言葉を集めたものである。累卵とは「卵を集めて積み重ねたように危険な状態」をいい、人生や世の中の危うきことを子孫に示そうとこの碑の建立を思い立ったもので、同じ主旨のものが東京の亀戸天神にもある。


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大和

2013年07月02日 | 宮城県
(保福寺)


保福寺

 保福寺は、寛文五年(1665)吉岡館主奥山氏によって開創された寺である。奥山家とその後、吉岡を引き継いだ但木家の墓がある。私が保福寺を訪れたとき、本堂は跡かたなく解体され、これから再建工事が始まるところであった。唯一残された建造物としては薬医門があるのみである。


但木(土佐)成行墓

 但木家の墓所に但木土佐成行の墓がある。但木土佐は文化十四年(1817)、吉岡の生まれ。諱は成行。安政五年(1858)には芝多民部のあとを受けて奉行に就き、殖産興業政策によって藩財政の立て直しを図った。藩主の信任を得て、仙台藩幕末維新期の政局を担った。幕府を中心とする国内改造と、親露開国策を取って大政奉還にも同調した。戊辰戦争では会庄両藩の謝罪寛典策を推し進め、奥羽越列藩同盟の中核を担うに至った。戦後、坂英力とともに東京に送られ、明治二年(1869)五月、斬罪に処された。五十三歳。


但木土佐招魂碑

 明治二十八年(1895)に建立された但木土佐招魂碑である。


戊辰役戦死者招魂碑

 いずれも吉岡出身者や但木家の家来で、戊辰戦争で犠牲となった小島寅之進、今野忠助、堀籠善三郎、今野七十郎らの招魂碑である。うち小島寅之進は、志茂又左衛門らとともに秋田に使者として送られ、そこで斬殺された一人である。


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仙台 Ⅳ

2013年07月02日 | 宮城県
(大門寺)


大門寺

 大門寺に小松龍蔵の墓がある。


天主僕約瑟小松之墓
(小松龍蔵墓)

 仙台藩の勤王派。仙台で剣術道場を開いていた。戊辰戦争では、彰義隊頭取小田井蔵太とともに覚王院義観に令旨を書くことを依頼し、それが福島本宮で輪王寺宮公現法親王の手に渡り、さらに仙台藩主に届けられた。明治十一年(1878)没。享年五十九。

(長徳寺)


長徳寺

 長徳寺石田家代々の墓に、仙台藩士石田広治が葬られている。


石田家代々墓
(石田広治墓)

 石田広治は、慶應四年(1868)七月十一日、羽前金山(天童とも)で戦死。

(同慶寺)


同慶寺

 仙台市北郊の愛子(あやし)地区芋郷は、これが仙台市かというほど、鄙びた土地である。そこに同慶寺がある。


森田孫九郎墓

 同慶寺の無縁墓の中に森田孫九郎の墓がある。森田孫九郎は、近習役から旗本足軽頭。三番大隊小隊長。慶應四年(1868)六月二十四日、磐城金山で戦死。

(JTビル)


東華学校遺址碑

 五橋駅に近いJTのビルの前に東華学校遺址碑が建てられている。
 東華学校というのは、明治十九年(1886)、才能のある人を育て、キリスト教に基づく徳育を行う学校として設立された私立学校である。当初は宮城英学校と呼ばれた。設立に関わったのは、富田鉄之助(仙台藩出身、日銀総裁、東京府知事)、松倉恂(初代仙台区長)、松平正直(初代宮城県知事)らで、初代校長に新島襄が就任した。入学者は五百名以上で、河北新報創始者一力健治郎や詩人児玉花外、劇作家青山青果といった人材を輩出した。明治二十五年(1892)宮城県尋常中学校(現・仙台第一高校の前身)を起こすことになり、東華学校は廃校となった。碑文の上部には英文で「Seek Truth and Do Good」(真理を求め、善を行え)、その下に漢文で「實実徳勿虚栄」(実徳を修め、虚栄を求むるなかれ)と東華学校の学風や目的が謳われている。

(大和神社)


大和神社

 宮城野区蒲生の大和神社は、仙台港の南方に位置する小さな神社である。江戸時代初期、和田織部房長は、舟入堀の工事完工を機に家従とともに当地に移住した。和田氏の出自はもともと奈良だったため氏神を大和神社と称した。和田氏は千八百石の領主で、代々の住職を務めた。十一代和田織部為泰は邸内に武道場を作り、家臣に文武の道を教え、家風を刷新した。本殿の横に和田織部の慰霊碑が建てられている。


和田織部為泰之碑

 和田織部は、伊達六郎の二男。和田家を継いで、戊辰戦争では執政として活躍したが、戦後、恭順派の密告により、玉虫左太夫、若生文十郎らとともに明治二年(1869)四月切腹を命じられた。三十八歳。

(笹屋敷墓地)


阿部春之助藤原正春墓

 阿部春之助は、慶應四年(1868)八月、相馬口にて戦死。


戊辰殉難六士碑

 仙台藩丸森領主佐々元長家中の戦死者六名の慰霊碑である。明治三十三年(1900)十月建立されたもの。前記阿部春之助のほか、菅野右門、細谷虎之進、岩淵傳右衛門、岩淵傳左衛門、岩淵久次郎の六名の名前が刻まれる。

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仙台 Ⅲ

2013年07月02日 | 宮城県
(泰心院)
 泰心院の墓地は、本堂から少し離れたJRの高架の下にある。ここまで行き着ければ、志茂又左衛門の墓を見つけるのは比較的簡単である。


志茂又左衛門藤原實明之墓

 志茂又左衛門は仙台藩士。元治元年(1864)江戸公議使。慶應二年(1866)近習目付。慶應四年(1868)七月、秋田藩説得のため奥羽越列藩同盟の使者として秋田に派遣されたが、そこで従者とともに斬殺された。三十九歳。


義學良忠居士
(志茂丁吉墓)

 志茂丁吉は又左衛門の実弟。兄とともにそこで斬殺された。二十二歳。

(輪王寺)


飯沼貞雄墓

 輪王寺の飯沼貞吉(維新後は貞雄)の墓を訪ねること三度目にしてようやく行き着くことができた。飯沼貞吉の墓は、広い輪王寺墓地の中でももっとも北側の小高い場所に位置している。
 飯沼貞吉は、維新後電信技師として逓信省に勤務した。昭和六年(1931)、仙台で死去した。

(北山霊園)


若生文十郎墓

 会津から仙台に移動して、今回の旅の後半は宮城県地方を回ることになる。仙台市内に到着したのは、日没も近い午後五時過ぎであった。仙台にはこれまで出張で何度も足を踏み入れているし、そのついでに寺院を回ったこともあるが、史跡だけを目当てに訪れたのは今回が初めてである。
さっそく北山霊園で若生文十郎の墓を探す。しかし、北山霊園は見渡す限り墓地が広がり、この中からお目当ての墓を見つけるのは、まさに至難のことであった。一方で閉門の時間も迫っており、ほとんど絶望的な状況であったが、取りあえず古そうな墓域から歩き始めたところ、偶然にも五分程度で若生家の墓に行き当たった。

 若生文十郎は、戊辰戦争では軍事奉行として活躍したが、戦後首謀者の一人として切腹を命じられた。明治二年(1869)四月、自刃。二十八歳。

(葛岡霊園)


但木家之墓

 仙台市の北郊に設けられた葛岡霊園は、広大な敷地を有する墓地で、その広さは北山霊園の比ではない。この中から一基の墓に出会うのは気が遠くなるような作業であった。取り敢えず、竹様のHPの地図を参考に霊園の北東の駐車場に自動車を停めて、日没までの許された時間で但木家の墓を探すことにした。
 自動車を降りて、「さて」と意気込んだところ、眼の前に但木家の墓があった。但木土佐が合葬されている。

(鹿落観音)


鹿落観音


幕臣二名墓
安田幹雄 枩平兵庫守墓

 鹿落(ししおち)観音は、伊達政宗の仙台開府以前から存続している歴史ある寺院である。ニ代忠宗のとき現在地に移された。
 本堂の脇に仙台藩士に殺された二名の幕臣の墓がある。
 墓の主は、松平兵庫頭、安田幹雄という二人の幕臣である。両名とも慶應四年(1868)七月に仙台に入り、米国に頼って大勢を回復しようと画策した。同年九月五日、仙台を脱出しようとして、名取郡鈎取で仙台兵に殺された。

(松源寺)


松源寺


小山家歴代之墓
(小山六之丞墓)

 松源寺に仙台藩士小山六之丞の墓がある。小山六之丞は、慶應四年(1868)七月十一日、敵状偵察のため羽前天童方面に潜入、捕縛斬殺された。二十六歳。

(充国寺)


充国寺

 充国寺には遠藤敬止、遠藤嘉竜二の墓がある。


遠藤敬止墓

 遠藤敬止は、会津藩士。嘉永四年(1851)江戸に生まれた。幕府の開成所に学んだ後、戊辰戦争では各地を転戦し、戦後は江戸で謹慎生活を送った。慶應義塾で経済を学んだ後、大蔵省に出仕。渋沢栄一に見いだされて第一国立銀行に勤務し、第七十七国立銀行頭取、仙台商工会議所会頭などを歴任した。明治二十三年(1890)、会津鶴ヶ城が払い下げられることが決定すると、私財を擲って手に入れ、旧藩主松平家に寄贈したことでも知られる。


遠藤清直(嘉竜二)墓

 遠藤嘉竜二は、遠藤嘉内の二男。白虎寄合一番原隊。明治元年(1868)九月十一日、会津熊倉にて傷。十月七日、死。十五歳。

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