史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

石巻 Ⅰ

2013年07月05日 | 宮城県
(日和山)


鹿島御児神社

 日和山山頂の鹿島御児神社には、土方歳三や榎本武揚らも立ち寄ったと伝えられる。


日和山からの眺望

 宮城県はいうまでもなく先年の東日本大震災の被災地である。しかし、仙台市内に宿泊して街の様子を観察した限りでは、ほとんど「被災地」を連想するような傷跡を見ることは無かった。繁華街では、人々は何事もなかったかのように飲食を楽しみ、夜遅くまで喧騒が絶えなかった。茨城県や栃木県の墓地では、今もって墓石が倒壊したまま手が付けられていないところも多いが、むしろ仙台市内ではそのような墓地は少なかった。
 ところが石巻まで来ると様子は一変する。改めて地震の、というより津波による被害が甚大であったことを実感した。日和山は標高六十メートルほどの小山であるが、その山頂から南側、つまり石巻湾側を一望することができる。津波に襲撃された一帯は、あの地震から二年余りが経過した今も更地が広がり、「復興」からは程遠い状況であることが見て取れる。
 津波は全てを持ち去ったと言われる。一帯は更地であるが、寺院に付属している墓地だけは、そのまま残っている。津波の猛威は墓石を薙ぎ倒していったものの、墓石を遠くに運び去るほどの力は無かったのであろう。荒野に墓地だけが残る異様な光景が目に焼きついた。
 実はこの中に西光寺があり、真田喜平太の墓標があるはずであったが、被災地でのうのうと史跡巡りをしている自分の姿を恥じて、この場所を歩くのは遠慮した。また時期を見て訪ねることにしたい。

(旧毛利邸)


志賀直哉と住吉町

 住吉町には榎本武揚や土方歳三らが宿泊したという毛利邸が残されているはずだが、見つけることができなかった。探し方が足らなかったのか、震災の影響なのか、単に建物の老朽化の問題なのかは分からない。

(折浜)


榎本武揚艦隊集結地

 折浜という小さな集落にも津波は押し寄せた。道路は寸断され、現在もその復旧工事が進行中である。海岸には「榎本武揚艦隊集結地」という標柱が建てられていたが、それも津波がさらっていったのであろうか。この日の海はとても静かで、巨大な津波が押し寄せたことを想像することは難しかった。

(洞仙寺)


洞仙寺


榎本武揚艦隊開陽丸乗組員・中井初次郎の墓

 洞仙寺も海岸に面しており、津波の直撃を受けたと推測される。どれほどの被害だったのか、開陽丸乗組員中井初次郎の墓は無事だったのか、ここに来てみるまで様子が分からなかった。
 洞仙寺の建物は一切残っておらず、ただ墓地だけはその場所にあった。中井初次郎の墓も無傷であったのはせめてもの救いであった。

(大聖不動明王)


大聖不動明王


細谷十大夫碑

 細谷十太夫は、榎本艦隊の西軍への攻撃を中止させ、石巻を戦禍から救った。さらに後年、石巻の開拓事業を指導したことにより、ここに追悼碑が建立された。

(統禅寺)


統禅寺


英翁院顕忠義仙居士
(瀬上主膳墓)

 瀬上主膳は大番士。二千石。桃生郡鹿又村領主。世良修蔵暗殺の指揮官といわれる。明治四十四年(1911)没。七十九歳。

コメント
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