(長英の隠れ湯)
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長英の隠れ湯
中之条町の六合(くに)村赤岩温泉は、高野長英が隠れ住んでいた村である。「長英の隠れ湯」と称する温泉施設があるが、高野長英が匿われていたのはこの場所ではなく、ここから少し離れた湯本家である。湯本家は赤岩集落のちょうど中ほどに位置している。
(湯本家住宅)
湯本家住宅
湯本家の家祖は木曽義仲に仕えた人物で、義仲が敗死したのち、義仲の胤を宿した娘を守りながら草津に近い細野平に隠れ住み、細野御殿介を名乗ったという。
高野長英は、湯本俊斎という漢方医と交際があった。当時の湯本家の当主は、俊斎の子、省斎といったが、幼年のため従兄の湯本順左衛門が後見していた。吉村昭「長英逃亡」によれば、湯本家は「土蔵づくりの二階家」だったという。赤岩は、町や街道からも離れており、身を隠すには絶好の場所と思われたが、それでもやがて追っ手の気配を察知した長英は、この地を離れ、越後方面へと逃れた。
(小栗清水)
赤岩集落より国道405号線を野反湖へ向けて北上する。野反湖へあと六キロという付近の路傍に、和光原の山田正人氏と倉渕の小栗上野介研究会の立てた「史蹟 小栗清水」と書かれた駒札が立てられており、そこから百五十メートルほど上ったところに、小栗清水がある。かつて清澄な水が湧いていたらしい。小栗上野介の家族ら一行は、この湧き水で喉の渇きを癒した。
小栗清水(入口)
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小栗清水
幕末の逃避行といえば、蘭学者の高野長英、桜田門外の変の首謀者の一人関鉄之助などを連想するが、慶応四年(1868)閏四月、権田村を脱出して会津に向かった小栗上野介の家族も壮絶な逃避行を経験した。高野長英や関鉄之助は、逃げ切れずに捕まり最後は命を奪われたが、小栗上野介の家族は会津まで行き着き、道子夫人は会津戦争のさなかに女児(国子と名付けられた)を産んでいる。長英といい、小栗上野介夫人といい、現・中之条町を選んだというのは、単に偶然ではあるまい。人目を忍ぶ逃避行には適した土地柄ということかもしれない。
小栗上野介は斬殺されたが、道子夫人と母国子、養子又一の許婚鉞子(よきこ)、それに何名かの護衛が村人から選ばれた。一行は和光原で逗留したのち野反湖畔より越後、会津方面へと逃れた。その途中、この場所で休憩したのである。
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長英の隠れ湯
中之条町の六合(くに)村赤岩温泉は、高野長英が隠れ住んでいた村である。「長英の隠れ湯」と称する温泉施設があるが、高野長英が匿われていたのはこの場所ではなく、ここから少し離れた湯本家である。湯本家は赤岩集落のちょうど中ほどに位置している。
(湯本家住宅)
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湯本家住宅
湯本家の家祖は木曽義仲に仕えた人物で、義仲が敗死したのち、義仲の胤を宿した娘を守りながら草津に近い細野平に隠れ住み、細野御殿介を名乗ったという。
高野長英は、湯本俊斎という漢方医と交際があった。当時の湯本家の当主は、俊斎の子、省斎といったが、幼年のため従兄の湯本順左衛門が後見していた。吉村昭「長英逃亡」によれば、湯本家は「土蔵づくりの二階家」だったという。赤岩は、町や街道からも離れており、身を隠すには絶好の場所と思われたが、それでもやがて追っ手の気配を察知した長英は、この地を離れ、越後方面へと逃れた。
(小栗清水)
赤岩集落より国道405号線を野反湖へ向けて北上する。野反湖へあと六キロという付近の路傍に、和光原の山田正人氏と倉渕の小栗上野介研究会の立てた「史蹟 小栗清水」と書かれた駒札が立てられており、そこから百五十メートルほど上ったところに、小栗清水がある。かつて清澄な水が湧いていたらしい。小栗上野介の家族ら一行は、この湧き水で喉の渇きを癒した。
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小栗清水(入口)
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小栗清水
幕末の逃避行といえば、蘭学者の高野長英、桜田門外の変の首謀者の一人関鉄之助などを連想するが、慶応四年(1868)閏四月、権田村を脱出して会津に向かった小栗上野介の家族も壮絶な逃避行を経験した。高野長英や関鉄之助は、逃げ切れずに捕まり最後は命を奪われたが、小栗上野介の家族は会津まで行き着き、道子夫人は会津戦争のさなかに女児(国子と名付けられた)を産んでいる。長英といい、小栗上野介夫人といい、現・中之条町を選んだというのは、単に偶然ではあるまい。人目を忍ぶ逃避行には適した土地柄ということかもしれない。
小栗上野介は斬殺されたが、道子夫人と母国子、養子又一の許婚鉞子(よきこ)、それに何名かの護衛が村人から選ばれた。一行は和光原で逗留したのち野反湖畔より越後、会津方面へと逃れた。その途中、この場所で休憩したのである。