史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

中之条

2013年09月14日 | 群馬県
(長英の隠れ湯)


長英の隠れ湯

 中之条町の六合(くに)村赤岩温泉は、高野長英が隠れ住んでいた村である。「長英の隠れ湯」と称する温泉施設があるが、高野長英が匿われていたのはこの場所ではなく、ここから少し離れた湯本家である。湯本家は赤岩集落のちょうど中ほどに位置している。

(湯本家住宅)


湯本家住宅

 湯本家の家祖は木曽義仲に仕えた人物で、義仲が敗死したのち、義仲の胤を宿した娘を守りながら草津に近い細野平に隠れ住み、細野御殿介を名乗ったという。
 高野長英は、湯本俊斎という漢方医と交際があった。当時の湯本家の当主は、俊斎の子、省斎といったが、幼年のため従兄の湯本順左衛門が後見していた。吉村昭「長英逃亡」によれば、湯本家は「土蔵づくりの二階家」だったという。赤岩は、町や街道からも離れており、身を隠すには絶好の場所と思われたが、それでもやがて追っ手の気配を察知した長英は、この地を離れ、越後方面へと逃れた。

(小栗清水)
 赤岩集落より国道405号線を野反湖へ向けて北上する。野反湖へあと六キロという付近の路傍に、和光原の山田正人氏と倉渕の小栗上野介研究会の立てた「史蹟 小栗清水」と書かれた駒札が立てられており、そこから百五十メートルほど上ったところに、小栗清水がある。かつて清澄な水が湧いていたらしい。小栗上野介の家族ら一行は、この湧き水で喉の渇きを癒した。


小栗清水(入口)


小栗清水

 幕末の逃避行といえば、蘭学者の高野長英、桜田門外の変の首謀者の一人関鉄之助などを連想するが、慶応四年(1868)閏四月、権田村を脱出して会津に向かった小栗上野介の家族も壮絶な逃避行を経験した。高野長英や関鉄之助は、逃げ切れずに捕まり最後は命を奪われたが、小栗上野介の家族は会津まで行き着き、道子夫人は会津戦争のさなかに女児(国子と名付けられた)を産んでいる。長英といい、小栗上野介夫人といい、現・中之条町を選んだというのは、単に偶然ではあるまい。人目を忍ぶ逃避行には適した土地柄ということかもしれない。
 小栗上野介は斬殺されたが、道子夫人と母国子、養子又一の許婚鉞子(よきこ)、それに何名かの護衛が村人から選ばれた。一行は和光原で逗留したのち野反湖畔より越後、会津方面へと逃れた。その途中、この場所で休憩したのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

みなかみ

2013年09月14日 | 群馬県
(永井宿)
 この日は群馬県みなかみから中之条、嬬恋、沼田、前橋、高崎を経由して、太田市の高山彦九郎記念館を見学して帰るという遠大な計画を立てた。日暮れまでに旅程を完結するために、早朝四時に起床して日の出前に出発する予定であったが、前日酒を飲んだのが災いして目覚まし時計が鳴ってもしばらく動けなかった。結局、自宅を出たのは午前五時であった。約二時間半のドライブで、第一目的地であるみなかみ町永井に到着する。


三国街道 永井宿

 三国街道は、高崎と北陸の寺泊を結ぶ街道である。古くは上杉謙信の関東遠征の際にも利用されたと伝えられる。永井宿は、高崎から数えて十六番目の宿場町で、かつては越後の大名家や佐渡奉行、新潟奉行の参勤交代などで賑わったが、現在は山間に埋没している。


永井宿本陣趾

 本陣の建物は消失し、往時の写真が一枚残されているのみである。本陣跡に石碑が建てられ、そこに当地を訪ねた与謝野晶子の歌が刻まれている。

 訪ねたる永井本陣 戸を開き
 明りを呼べば 通ふ秋風

 慶応四年(1868)四月、永井宿に新政府軍が陣を置き、大般若塚の会津軍と対峙した。

(町野久吉墓)


会津藩士白虎隊 町野久吉墓

 会津藩は越後小出島軍奉行町野主水を総大将とし、その弟久吉を副将に任じた。藩兵四十に郷土兵を加え、総勢百四十余で三国街道沿いの大般若塚を守った。これに対し、前橋、高崎の諸藩兵から構成される千二百余の東軍が永井宿に陣を構えた。兵力に勝る東軍は、三方から進撃を開始し、会津軍は激しく抵抗したものの小出島まで退却を余儀なくされた。
 町野久吉は、十七歳。藩校日新館に文武両道を学び、槍を得意とした。慶応四年(1868)閏四月二十四日未明、久吉は、蒲生家伝来家重代の槍を振るって敵陣に切り込み、阿修羅の如く奮戦したが、数発の銃弾を身に受け壮絶な戦死を遂げた。遺体は永井宿住民の手厚い供養を受けて、現在地に埋葬された。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四ツ谷 Ⅲ

2013年09月07日 | 東京都
(津の守坂)


史跡案内 津の守坂

津の守坂の住友不動産四谷ビルの前に史跡案内の石が置かれている。この辺り一帯に美濃高須藩主松平摂津守の上屋敷があった。ビルの前の坂は、屋敷の主に因んで「津の守坂」と呼ばれる。

(金丸稲荷神社)
 金丸稲荷神社は、高須藩松平家上屋敷内社である。近くには町内の方の手によると思われる、高須四兄弟や松平容保の写真などが掲示されている。


金丸稲荷神社

(津の守弁財天)
 津の守弁財天は、高須藩松平摂津守家の上屋敷の跡地に、古来池のほとりにあった弁財天を遷座再建したものである。


津の守弁財天

(田安稲荷神社・鎮護稲荷神社)


田安稲荷神社・鎮護稲荷神社

 四谷四丁目のマンションの傍らの小さな神社は、御三卿の一つ田安家の下屋敷の内社を移設したものである。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茗荷谷 Ⅲ

2013年09月07日 | 東京都
(教育の森公園)

 地下鉄茗荷谷駅の北側に広がる教育の森公園は、守山藩上屋敷跡地である。守山藩は、水戸藩の徳川光圀の弟、徳川頼元がこの地に屋敷を構え、その子頼貞が二万石を分与されて立藩したものである。その知行地は、常陸(茨城・行方)と陸奥(守山=現郡山市)にまたがっていた。歴代藩主は藩邸に定住した。元治元年(1864)の天狗党の乱では乱に加担する者が多数でたため、多くの藩士が処罰を受けている。


教育の森公園


旧守山藩邸碑

 鬱蒼とした森と化しているが、かつては占春園という庭園であった。園内に延享三年(1746)に建立された碑が残されている。碑文に「我が公の園は占春と名づく。その中観る所は梅桜桃李、林鳥池魚、緑竹丹楓、秋月冬雪、凡そ四時の景、あらざるは莫し」とある(原文は漢文)。

 園内には講道館柔道の創始者であり、東京高等師範学校の校長でもあった嘉納治五郎(1860~1938)の銅像もある。


嘉納治五郎像

(大塚公園)


住好神社

 大塚公園の片隅にある住好神社は、桑名藩松平家大塚下屋敷内社である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春日 Ⅱ

2013年09月07日 | 東京都
(鐙坂)


鐙坂

 鐙坂の坂の上の西側一帯は、かつて高崎藩主大河内家松平右京亮の中屋敷跡で、右京山と呼ばれた。坂の途中には、言語学者金田一京助とその子金田一春彦の旧居があった。


金田一京助・春彦 旧居跡
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早稲田 Ⅲ

2013年09月01日 | 東京都
(甘泉園公園)


甘泉園

 甘泉園(新宿区西早稲田3-5)は、江戸中期以降、清水家の下屋敷が置かれた場所である。明治に入って相馬家の所有となった。庭園は相馬子爵時代に整備されたものであるが、江戸時代の地割の形式を伝えている。
 この日は午前中、炎天下の市川で野球の練習があり、東京駅のコインロッカーに道具を預けて都内の史跡を探訪するつもりであったが、駅のコインロッカーは全て満杯であった。仕方なく道具を背負ったまま歩くことになった。江戸川橋の新江戸川公園と甘泉園を回ったところで、体力が尽きてしまい、ふらふらと電車に乗って撤収することになった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸川橋 Ⅳ

2013年09月01日 | 東京都
(新江戸川公園)


新江戸川公園

 新江戸川公園は(文京区目白台1-1-22)、熊本藩細川家関口村抱え屋敷の跡である。大正期以降、改修されて細川邸となった。奥に見える屋敷は、昭和初期に建設された松聲閣である。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西日暮里

2013年09月01日 | 東京都
(開成高校)


佐竹屋敷と渡辺町

 進学校として有名な開成高校は、明治四年(1871)佐野鼎によって神田淡路町に開かれた共立学校を前身とし、その後高橋是清を初代校長に迎えて今日の学園の基礎を築いたと言われる。佐野鼎は、加賀藩士で万延元年(1860)の遣米使節団、文久元年(1861)の遣欧使節団にも参加した。明治十年(1877)コレラに罹患して世を去った。四十七歳であった。佐野鼎の死後、共立学校は退廃したが、高橋是清によって再興された。神田淡路町の校舎は、大正年間に火事で焼失したため、現在地に移ったが、西日暮里駅前のこの場所は、かつて秋田藩佐竹氏の抱屋敷があった。門前に荒川区教育委員会の建てた駒札がある。


向陵稲荷神社

佐竹藩の屋敷跡を示す遺跡としては、開成中学に向かう坂の途中にある向陵稲荷神社があるのみである。この神社は、屋敷の内社であった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする