史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

栃木 Ⅲ

2014年10月04日 | 栃木県
(太山寺)


太山寺

 大平山の麓に位置する太山寺は、しだれ桜で有名らしいが、真夏に桜が咲いているわけもない。境内ではウルサイほどセミが鳴いていて、暑さを倍加させていた。
 太山寺に、水戸天狗党の慰霊碑があるというので境内から墓地を隈なく歩いた。しかも二周
したが見つからない。最後に、念のため大平山登山道の入り口に立つ「野州豊川稲荷」と刻んだ石碑のある狭い一角を覗いたら、そこにあった。蜘蛛の巣が縦横に張り巡らされているので、要注意。


水戸天狗党 三浦・橋本・中山之霊位

 三浦勘助、橋本四郎の二人は、江戸の人。宇都宮で旅宿の下女を略奪し、逃走したことにより、元治元年(1864)五月十六日、軍規に従って斬首された。三浦は三十歳、橋本は三十一歳であった。
 中山雄一郎も同じ事件に関与して自刃を命じられた。

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佐野 Ⅱ

2014年10月04日 | 栃木県
(東光寺)
 戦車部隊に所属していた若き日の司馬遼太郎先生が、終戦を迎えたのが佐野であった。
佐野市寺中町は、その名のとおり、寺院の密集した街である。その中の一つ、東光寺には、文政十一年(1828)に堀田摂津守正敦が築いた植野城(堀田佐野城)の大手門を明治九年(1876)に移設した中門がある。
東光寺の墓地に、佐野藩銃卒竹村覚右衛門の墓がある。


東光寺


大道智徹居士(竹村覚右衛門の墓)

 竹村覚右衛門は、慶応四年(1868)閏四月二十四日、越後三国峠にて戦死。二十九歳。

(東山墓地)


東山墓地

 佐野市赤見町には大きな運動公園があって、その北西の外れに東山墓地がある。
 竹様の「戊辰掃苔録」によれば、ここに松本徳右衛門の墓があるという。


松本徳右衛門墓

 東山墓地は、山の斜面を切り開いたような墓地で、さして広い敷地ではない。簡単に見つけられると思ったが、ことのほか苦戦した。松本家の墓は四か所あって、それはすぐに分かったのだが…。
 実は松本徳右衛門の墓は、官修墓地になっており、松本家の墓域とは別になっている。手入れする人がいないせいか、雑草まみれになっていて、そのため発見に手間取ってしまったのである。
 松本徳右衛門は、土佐藩に徴用された軍夫。慶応四年(1868)、会津若松にて病死。


(種徳院墓地)


前修赤尾子之墓(赤尾清三郎の墓)

 赤尾清三郎は、備後福山の儒学者赤尾秀実(鷺洲)の孫。若くして江戸に出、古賀侗庵のもとで学んだ。その後、各地を遊歴し、天保年間(1830~1844)から約二十年間、田沼村大関(現・栃木県佐野市)で塾を開いた。地域の子弟たちに漢学(儒教)を教え、その数は数百人に及んだといわれる。慶応三年(1867)、江戸薩摩藩邸で倒幕のための人を集めていることを知り、日吉邦助と変名してこれに参加した。倒幕工作のために地方遊説と資金調達を担当した。その頃、竹内啓率いる浪士団が「勤王倒幕」を旗印に出流山で挙兵した。しかし、約一か月後、幕府軍と戦い敗退した。この戦闘に参加していた清三郎の長男豊三が捕まったことを知った清三郎は自首。同年十二月十五日、佐野天明宿へ護送中、この付近(吉水地区)にて処刑された。享年四十七。
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小山 Ⅱ

2014年10月04日 | 栃木県
(持宝寺)


持宝寺

 小山市宮本の持宝寺は、粕屋新五郎が自刃した寺である。
 粕屋新五郎は、文久三年(1863)の浪士組結成に参加。近藤勇、芹澤鴨らと京都に残留したが、その後脱退して郷里水戸の太田に戻った。元治元年(1864)の水戸天狗党挙兵に参加したが、栃木宿で幕府軍の追討を受け、持宝寺にて自刃した。四十三歳であった。

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野木

2014年10月04日 | 栃木県
(丸林霊園)


岡村兵吉之墓

 振り返れば一年前の夏は、一週間をかけて箱館戦争の史跡を巡ったが、今回は地味に一泊二日で栃木県の史跡を回ることにした。帰省ラッシュにより高速道路が渋滞することが目に見えていたので、今回も早朝四時に自宅を出発した。第一目的地である野木町に着いたのは、六時半。さすがにこの時間に動けば、渋滞には遭わない。
 今回も竹様の「戊辰掃苔録」を参考にさせていただいた。
 野木町の丸林霊園岡村家墓所内に岡村兵吉の墓がある。岡村兵吉は古河出身の軍夫。慶応四年(1868)八月二十九日、会津若松にて戦死。二十一歳。

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