goo blog サービス終了のお知らせ 

史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

会津若松 小田山周辺 Ⅴ

2018年12月14日 | 福島県
(大窪山墓地つづき)


直義神霊(牧原文吾の墓)

 牧原文吾は、勘太夫の弟。別名を松井九郎。十石三人扶持。一ノ寄合。歩兵頭?。慶応四年(1868)八月二十三日、戸ノ口原(大野原とも)にて戦死。三十四歳。


壽昌院義山忠道居士(向山利信の墓)

 墓石には「明治元年辰九月」という死亡日が刻まれているが、「幕末維新全殉難者名鑑」には記載がない。


有賀満武之墓

 有賀満武は江戸中期の崎門国学者。


忠達義照居士(高橋栄次郎の墓)

 高橋栄次郎は、兵糧方。慶応四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。三十歳。


常盤盛輔○○(常盤数馬の墓)

 常盤数馬は与兵衛倅。百五十石。青竜足軽三番日向隊小隊頭。慶応四年(1868)八月二十八日、若松長命寺にて戦死。三十七歳。


杉浦家(杉浦丈右衛門の墓)

 杉浦丈右衛門は四百石、表用人。正奇隊中隊頭。慶応四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて負傷。城内で死亡。四十六歳。次男弥次郎(二十八歳)も同日戦死している。五男弥五郎は同年九月五日、住吉河原にて戦死。二十一歳。


長崎尚志之墓

 竹様からいただいた情報によれば、長崎尚志は、宗川茂弘の二男で宗川熊五郎といった。戊辰戦争にも従軍している。のちに長崎家を継いだ人。


武輝彦神靈(有賀左司馬の墓か)

 有賀左司馬の墓と推定。
 有賀左司馬は、三百石。青竜足軽四番隊中隊頭。慶応四年(1868)八月二十五日、若松野際口にて戦死。三十二歳。


忠信院殿釋種義教(志賀勘兵衛の墓)

 志賀勘兵衛は孫太郎父。百石。青竜士中一番鈴木隊。慶応四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。四十八歳。


田村三省之墓

 田村三省は、享保十九年(1734)生まれ。天明の飢饉のとき東北各地を踏査して「孫謀録」をまとめた。また「新編会津風土記」を編集する傍ら、奇石を収集して「会津石譜」を著した。文化三年(1806)死去。七十三歳。


池内重徳之墓

 墓石の記述によれば、池内重徳は浮洲庄兵衛の長男。京都道中の御目付○○見習や素読所勤務ののち、戊辰戦争では小隊長を拝命し、若松にて負傷。城内の病院に入院して明治を迎えたという。


一應了心信士(田代仙太郎の墓)

明治元年(1868)年十月二十三日に青木の病院で死亡。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載なし。


神保内蔵助妻之墓

 神保内蔵助の妻の墓。


木本新吾墓

 木本新吾(慎吾とも)は、天保十年(1839)の生まれ。青竜士中三番隊長として参戦した。明治三十六年(1903)没。

 以上で会津若松の旅を終えた。三日間で歩数は七万九千歩を越え、撮影した写真は五百二十五枚に上った。実に充実した三日間であった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

会津若松 小田山周辺 Ⅳ 

2018年12月14日 | 福島県
(大窪山墓地つづき)


高橋家之墓(高橋清左衛門の墓)

 墓石側面には「義善院了達日明居士」という戒名とともに「明治元年八月廿三日戦死 俗名高橋清左衛門 七十三才」と記載されている。


伊藤光隆墓

 墓石によれば、伊藤光隆は慶應四年(1868)八月二十三日、戸の口原にて戦死。二十歳。「幕末維新全殉難者名鑑」には記載なし。


沢田名垂先生墓地

 沢田名垂(なたる)は、安永四年(1775)、会津藩士の家に生まれた。文化二年(1805)に藩校日新館の和学師範に登用され、藩士の教育に当たり、学制改革に傾注するとともに、藩主松平容頌の命により「日新館童子訓」上下二巻の編纂に中心的役割を果たした。ほかに「家屋雑考」「為政雑考」「古字考」等がある。弘化二年(1845)没。七十一歳。


片桐喜次墓(片桐八十次郎の墓)

 片桐八十次郎は善之助二男。十石三人扶持。奏者番上席。遊撃隊組頭。明治元年(1868)九月、若松融通寺にて負傷。十月十日、御山にて死亡。三十歳。


赤羽家瑩域
忠肝義精居士(赤羽衛門の墓)

 赤羽衛門は直次郎の兄。二百五十石。朱雀寄合一番隊一柳小隊頭。慶応四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。二十九歳。


黒河内清次郎 野村新平 黒河内只四郎の墓

 黒河内清次郎は織左衛門倅。十石三人扶持。明治元年(1868)九月十四日、若松米代二ノ丁にて戦死。二十八歳。
 野村新平は、二百石。朱雀寄合三番鈴木隊半隊頭。明治元年(1868)九月二十四日、会津大芦村にて戦死。二十五歳。福島県昭和村にも墓がある。
 黒河内只四郎は、織左衛門三男。諸生隊佐川隊。慶応四年(1868)一月三日、伏見にて戦死。二十二歳。


荒木久米吉の墓

 竹様の調査によれば、越後高田で謹慎中に亡くなった荒木久米吉の墓と推定される。どう頑張っても文字が読み取れないが、竹様が後日確認したところ、越後高田という文字が確認できたそうである。竹様によれば、三つ並ぶ墓の左端が叔父の荒木半蔵(飯寺にて戦死)の墓とのこと。


荒木留吉の墓

 その左は荒木留吉の墓。表面を分厚く苔が覆っていて文字が読み取れないが、辛うじて「明治元 於伏見」という文字が見える。
 荒木留吉は久米吉の弟。諸生隊町田隊。慶応四年(1868)一月、八幡橋本(枚方関門とも)にて戦死。十九歳。


桐林秋露居士

 墓石には「慶應四辰年七月二十四日」という没年月日が刻まれているが、被葬者不明。戊辰戦争の殉難者かどうかも不明。


山田貢之墓(山寺貢の墓)

 山寺貢は百石。目付。慶応四年(1868)六月十二日、磐城白河古天神にて戦死。三十一歳。
 山寺家の墓地にあり、「幕末維新全殉難者名鑑」でも「山寺貢」と紹介されており、これが正しい表記だと思うが、何故だか墓石には「山田貢」と刻まれている。


尚正神霊(服部栄の墓)

 服部栄は二十二石四人扶持。別撰春日隊組頭。慶應四年(1868)八月二十九日、若松長命寺裏にて負傷。明治二年(1869)七月、井手村にて死亡。二十六歳。


義勇神霊(中野勝江の墓)

 中野勝江の墓である。「幕末維新全殉難者名鑑」では「克江」とされる。業助倅。百石。大砲士中二番千葉隊。慶応四年(1868)八月二十四日、若松本一ノ丁(城中とも)にて戦死。二十六歳。


牧原奇平墓

 牧原奇平は百五十石、郡奉行。慶應四年(1868)八月二十三日、会津強清水にて戦死。六十二歳。


政良神靈 政誠神禮 政忠神禮
(河原岩次郎 勝太郎 キク
 クニ 善左衛門の墓)

 河原善左衛門以下五名が合葬されている。
河原善左衛門は、百三十石。京都で学校奉行兼副官兼別撰隊副長、のち公事奉行。帰国して国産奉行。慶応四年(1868)八月二十三日、会津滝沢にて長男勝太郎とともに戦死。四十三歳。
岩次郎は善左衛門の弟。慶応四年(1868)八月二十三日、会津滝沢村にて戦死。三十九歳。
勝太郎は善左衛門倅。慶応四年(1868)八月二十三日、会津滝沢村にて戦死。十五歳。
キクは善左衛門の母。八月二十三日、会津石塚観音にて自害。六十八歳。
クニは善左衛門の娘。会津石塚観音にて祖母とともに死。九歳。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

会津若松 小田山周辺 Ⅲ

2018年12月14日 | 福島県
(大窪山墓地つづき)
 会津三日目、最終日の午前中は大窪山における掃苔に費やすことになった。たっぷり三時間あったが、結果的には予定した墓を全て回ることはできなかった。それほど大窪山墓地は奥深いということである。四人で汗まみれになって、時には蜘蛛の巣を払いのけながら、時には藪蚊の襲撃を受けながら、無心に墓を追い求めた。至福の時間であった。


忠了院義運日明居士(鈴木義衛の墓)

 鈴木義衛は十三石二人扶持。徒目付。慶応四年(1868)八月二十七日(二十四日とも)、若松城にて戦死。三十一歳。


智光院忠義日勇居士(名越藤次郎の墓)

 名越藤次郎は、源三郎の叔父。八石三人扶持。別撰春日隊。慶応四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて戦死。六十五歳。


西川重大墓(西川半之丞の墓)

 西川半之丞は三百石。息勝太郎(十七歳)は白虎隊に属して、飯盛山にて自決した。


飯沼一正墓

 飯沼一正時衛は、白虎隊飯沼貞吉の父。自身も青竜寄合一番隊中隊頭として出征している。明治三十六年(1903)没。


真輝彦神霊(飯沼友次郎の墓)


飯沼家之墓

 飯沼友次郎は、時衛の弟。遊撃遠山隊差図役。慶応四年(1868)五月一日、磐城白河根田にて負傷。同年六月十二日、若松にて負傷。二十二歳。


上崎家之墓(上崎且馬の墓)

 上崎(こうざき)且馬は清助の養子。百石。桑名藩付軍目付。慶應四年(1868)八月二十三日、若松蚕養口にて戦死。五十二歳。


坂本義續墓(坂本宇兵衛の墓)

 坂本宇兵衛は、五百石五十石。大砲二番小隊頭。慶應四年(1868)五月二十六日、磐城白河金勝寺山にて負傷。七月九日、死亡。二十七歳。
 墓石背面に記載された事績によれば、坂本右兵衛は足利尊氏の二十二世の末裔に当たるという。


竹崎忠成墓(竹崎郷助の墓)

 竹崎郷助は百石。用所密事。慶応四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて戦死。五十一歳。


浮洲七郎之墓

 浮洲七郎は庄之助の弟。大鳥圭介軍参謀。慶応四年(1868)閏四月二十一日、下野今市にて戦死。三十一歳。


淄川先生墓(高津平蔵の墓)

 高津淄川(しせん)は、字は平甫。通称は平蔵。天明五年(1785)生まれ。江戸で古賀精里に学び、文化五年(1808)、藩の蝦夷地出兵で樺太にわたり「終北録」を残した。対馬で朝鮮通信使の応接した際には「対州日記」を著した。藩校日新館で教授するとともに,藩主の侍講を務めた。慶応元年(1865)死去。八十一歳。
 明治九年(1876)の思案橋事件の高津忠三郎の父である。


高津家之墓(高津豊太郎の墓)

 高津(たかつ)豊太郎は八郎の倅。朱雀士中三番原田隊。慶応四年(1868)八月二十九日、若松融通寺町にて戦死。十九歳。


帽山先生之墓(安部井帽山の墓)

 安部井帽山は安永七年(1778)生まれ。儒官安部井澹園(たんえん)の養子となり江戸で古賀精里に学んだ。帰藩後儒官奏者番。藩士の教育や「会津風土記」の編修にあたった。弘化二年(1845)死去。六十八歳。「四書訓蒙輯疏」「四書剳記」などの著作がある。


和田義方後妻 同義室妻 同長女 墓
(和田コマ ナカ ミワの墓)

 和田ナカは甚吾の妻(二十歳)。コマは甚吾の娘(三歳)、ミワは甚吾の継母(四十一歳)。慶應四年(1868)八月二十三日、自宅にて自害。


飯河光義之墓

 飯河光義は、通称小膳。蛤御門の変では二番槍の功をもって禄百石を賜り、外様組付を仰せ付けられた。明治九年(1876)思案橋事件の後、旧知の中根米七を自邸に匿ったが、米七は明治十一年(1878)八月熊倉村の光明寺墓地内にて自決。明治十五年(1882)、旧藩士中條辰頼らと協力して私立学校を創立し旧藩校の名に因んで日新館と称した。光義はここで教授となり子弟の教育に専念した。明治十七年(1884)没。享年六十。墓石には漢文の墓碑銘がぎっしりと刻まれている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

会津若松 小田山周辺 Ⅱ

2018年12月08日 | 福島県
(恵倫寺つづき)

 恵倫寺も二回目の訪問となる。


諏訪家累代精霊(諏訪伊助の墓)

 諏訪伊助は若松城下本二ノ丁で生まれた。家老。戊辰戦争では日光口や土湯方面に出陣。開城後は藩主松平喜徳付で東京有馬藩邸にて謹慎。斗南移住後間もなく会津へ帰り旧士族の生活難打開に奔走した。明治十五年(1882)帝政党の結社届を提出。同年、会津地方の産業のため道路開削要望書を県会へ提出。明治十七年(1884)から明治二十一年(1888)まで北会津郡長。


小川家先祖之墓
(小川鉱太郎 房次郎 郷左衛門の墓)

 墓石側面、裏面に三名の法名と没年月日が記されている。
 小川鉱太郎は郷左衛門の倅。小姓。慶応四年(1868)五月十九日、越後長岡へ使者として出張中、長岡兵とともに戦死。十九歳。
 房次郎は十石三人扶持。大砲一番田中隊。慶応四年(1868)八月二十九日、若松融通寺町にて戦死。十七歳。
 郷左衛門は百五十石。白虎寄合二番太田隊小隊頭。明治元年(1868)九月十四日、若松垣口にて戦死。四十四歳。



桃澤家之墓
(桃澤弾右衛門の墓)

 「幕末維新全殉難者名鑑」に名前を見つけることはできないが、墓誌によれば桃澤弾右衛門は、慶應四年(1868)八月十二日、没。


光稠神霊(林次郎の墓)

 林次郎(治郎とも)は、朱雀寄合一番一柳隊。二百石。慶応四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。三十一歳。

(善龍寺つづき)


保科八握髯翁墓
妻飯沼千恵子位

 西郷頼母夫妻の墓は、生前から保科家歴代の墓所である善龍寺に用意されていたが、祖先の墓石の何れよりも小さい質素なものである。正面に「保科八握髯翁墓 室飯沼千恵子位」、右側面には命日「明治三十六年四月二十八日」と刻まれる。西郷頼母は、職を賭して藩主松平容保の京都守護職就任を強く諌止、戊辰の役では非戦恭順を主張した。毀誉褒貶相半ばするが、結果から見れば、頼母の主張は間違ってはいなかった。大勢を向うに自説を曲げないという点では、悪く言えば頑固者、少なくとも信念の人であった。


下司庄三郎 下司伊兵衛 同妻イ ク
下司庄四郎 之墓

 下司(げし)伊兵衛は、庄太郎の父。百石。青竜士中三番木本隊。慶応四年(1868)五月二十四日、越後杉沢にて負傷。明治二年(1869)、四月十二日、高田にて死亡。四十二歳。


久室了昌信士(辰野源之進 辰野平太の墓)

 墓石の表面には一人の法名が記されているのみであるが、裏面には辰野源之進、平太の二人が戊辰戦争で戦死したことが記録されている。
 辰野源之進は、源左衛門従弟。朱雀士中一番小森隊。慶応四年(1868)五月一日、磐城白河小丸山にて戦死。二十五歳。
 平太は源左衛門弟。萱野宇兵衛隊。慶応四年(1868)五月十三日、越後朝日山にて戦死。三十五歳。


宮下清之烝守真 同妻墓

 宮下清之丞は孫助の祖父。大賄役。慶応四年(1868)八月二十三日、若松にて戦死。八十一歳。


全忠院雄嶽道英居士(下平庸三郎の墓)

 下平庸三郎は英吉の叔父。幌役。明治元年(1868)九月十五日、会津一ノ堰にて戦死。四十四歳。


中邨重成之墓 中邨重一之墓
(中村謙治・中村帯刀の墓)

 中村謙治、帯刀兄弟の墓である。
 中村謙治は帯刀の弟。大砲林隊。慶応四年(1868)一月五日、淀にて戦死。三十四歳。
 帯刀は四百石。白虎士中一番小隊頭。明治元年(1868)九月十四日、若松城にて戦死。三十九歳。


先祖代々 井上恒之助之墓

 傍らの墓誌に「秋月院忠道盡喜居士 慶應四年辰九月十五日 俗名恒之助」とある。
 井上恒之助は誠志隊半隊頭。明治元年(1868)九月十五日、会津一ノ堰にて負傷。面川(井出中野村とも)にて死亡。四十二歳。


信忠院盡勝勇義居士(井口信太郎の墓)

 井口信太郎は、隼人の倅。朱雀士中二番田中隊。慶応四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて戦死。十八歳。


赤羽四郎之墓

 赤羽四郎は、安政二年(1855)、家禄三百五十石の上級藩士の家に生まれた。藩校日新館に学び、戊辰戦争では鶴ヶ城に籠城して戦った。戦後、猪苗代における謹慎中、同年代の山川健次郎、柴四朗、高木盛之輔らと新政府軍に対し、藩主父子の助命嘆願を行った。明治五年(1872)、アメリカ・エール大学に留学し、帰国後は東京大学予備門で教員を務めたが、明治十三年(1880)以降、外務省に勤務して外交官の道を歩んだ。オランダ弁理公使、清国北京駐在特別全権公使などを歴任し、日露戦争当時はスペイン公使としてバルティック艦隊の動静を探知して日本に報じた。明治四十三年(1910)没。


儀覺善忠居士 儀相忠勇居士 忠覺真儀居士
(小日山善次郎 友四郎 覚次郎の墓)

 小日山善次郎は、善左衛門の倅。五石五斗二人扶持。進撃小室隊。慶応四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて戦死。二十五歳。
 小日山友四郎(友次郎とも)は、善左衛門二男。六石二人扶持。朱雀足軽四番横山隊。慶応四年(1868)九月三日、会津関山にて戦死。十八歳。
 小桧山覚次郎も戊辰役にて戦死。


真如院弧松獨立居士(外山錫次郎の墓)

 外山(としま)錫次郎は、権兵衛二男。朱雀士中四番町野隊。慶應四年(1868)八月十一日、越後石間口小松関門にて戦死。十八歳。


小平捨次郎の墓

 「幕末維新全殉難者名鑑」に同姓同名を発見することはできないが、墓石の没日八月二十三日と合致する名前で検索すると「小島捨次郎」であれば、会津戸ノ口原にて戦死、三十一歳。「小平常三郎(もしくは常五郎)」とすれば若松米代四ノ丁にて自刃。二十三歳。


勇進院教譽義達居士(小笠原主膳の墓)

 小笠原主膳は甚三郎の養子。二百石。朱雀足軽二番隊小隊頭。慶応四年(1868)七月二十九日。二本松にて戦死。三十四歳。


生駒直道墓(生駒五兵衛の墓)

 生駒五兵衛は、初太郎の父。八百石。番頭。慶応三年(1867)十二月十日、京都御所守衛隊長の任を土佐藩に引き継いで大阪に退去した。明治元年(1868)九月十五日、若松城二ノ丸にて戦死。五十七歳。


池上當恕瑩(池上新兵衛の墓)

 池上新兵衛は百石。青竜士中一番鈴木隊半隊頭。慶応四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。四十歳。


北邑尚衛孝政墓(北村直衛の墓)

 北村直衛は二百十石。大目付。遊撃小山田隊頭。明治元年(1868)九月十四日、若松諏訪神社にて負傷。二十七日、青木にて死亡。四十九歳。


小室金吾左衛門之墓

 小室金吾左衛門は二百石。番頭席(若年寄席とも)。慶応四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて戦死。四十二歳。


忠倫院義孝○○居士(池上貞之助の墓)

 池上貞之助は伝蔵の倅。別撰組佐川隊。慶応四年(1868)一月五日、淀にて戦死。二十一歳。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

会津若松 東山周辺 Ⅲ

2018年12月07日 | 福島県
(大龍寺)


山本家之墓

 これも大河ドラマ効果だろうが、大龍寺墓地には山本家の墓を示す看板が随所に出ており、迷うことなく行き着くことができる。墓所の題字は新島八重直筆。裏側には「昭和六年九月合葬 山本権八女 京都住 新島八重子建之 八十七歳」とある。
 大龍寺の過去帳によると、文化年間(すなわち八重の高祖父の時代)から山本家は大龍寺を菩提寺としていた。昭和六年(1931)、八重は点在していた山本家の墓を一か所に集め、この墓所を整備した。八重が亡くなったのは、墓所整備の翌年、昭和七年(1932)のことであった。享年八十七。


新島八重歌碑

 たらちねの 御墓(みはか)のあとを とふことも 今日をかきりと なくほととぎす


丹羽蔟(にわやから)能由墓

 無縁墓石群の中に丹羽蔟の墓石がある。
 丹波蔟は百石。代官。兵糧方総督。慶應四年(1868)八月七日、大沼郡野尻村にて自刃。五十四歳。

 吉田家の墓地に七名の連名墓がある。そのうち「勇戦良義居士」という法名が戊辰役で戦死した吉田義助のものであろう。
 吉田義助は預方。慶応四年(1868)八月二十三日、若松大和町にて戦死。


勇戦良義居士
(吉田義助の墓)


忠心院戦山義勝墓(佐藤次郎八の墓)

 佐藤次郎八は、武八父。堀隊。慶應四年(1868)一月五日、淀にて戦死。三十八歳。


永井氏七人之墓

 永井左京、永井スミ、永井ツル、永井英記、永井フヂ、永井ヤエ、永井某(名前不詳)の七名の墓である。
 永井左京は四百石。青竜隊士中三番木本隊小隊頭。慶応四年(1868)八月二十三日、若松本二ノ丁の自宅にて自刃。三十五歳、以下、いずれも左京の家族で同日自宅にて自刃している。
 スミ…左京の妻、三十歳、ツル…左京の母、六十二歳、フヂ…左京の娘、十四歳、英記…二男、十一歳、某…三男、八歳。ヤエ…左京の姉、三十八歳。


鏡清院殿壽室妙觀大姉
妙臺院殿英照鏡湏大姉
清要院室圓妙真大姉
誠光院觀室一露大姉
(沼沢道子 貞子 やや子 すが子の墓)

 沼沢家の女性四名の合葬墓である。
 沼沢道子は沼沢九郎兵衛(千石)の妻。慶応四年(1868)八月二十三日、若松自邸で姑貞子を介錯後、娘二人とともに自刃。五十二歳。
 貞子は小八郎の祖母。西郷氏。八十六歳(八十二歳とも)。
 ゆや子は小八郎の姉。二十七歳。すが子は二十三歳。


沼沢家家臣の墓

 墓石表面は摩耗により文字が読み取れない。葬られているのは、沼沢家家臣内川源吾と鈴木勝之丞の両名である。
 内川源吾(源吉とも)は慶應四年(1868)八月二十三日、若松甲賀町の沼沢家前にて戦死。三十歳。柳津町藤にも墓がある。
 鈴木勝之丞も同じく主家前で戦死。五十二歳。


義○院殿智山良戦居士 ○○院殿義道了居士
(赤埴酉四郎、赤埴定蔵の墓)

 赤埴酉四郎、赤埴定蔵の連名墓である。
赤埴酉四郎は平八の弟。十石三人扶持。大砲士中一番隊小原隊嚮導。慶応四年(1868)八月二十三日、若松城埋門(天寧寺町とも)にて戦死。二十一歳。
 赤埴定蔵は、平八の叔父。遊撃隊相沢隊。慶応四年(1868)九月一日、若松郊外西方(船渡山とも)にて戦死。五十四歳。


源明院義山良忠居士
忠徳院殿義翁祖心居士
心如院源忠智徳居士
(国府辰次郎 篤三郎 源十郎の墓)

 国府(こくふ)辰次郎、篤三郎、源十郎兄弟の墓である。
国府辰次郎は、源十郎の弟。集義隊小隊頭。慶應四年(1868)閏四月二十五日、磐城白河にて戦死。三十七歳。
 篤三郎も源十郎の弟。朱雀士中三番原田隊。慶応四年(1868)八月二十九日、若松町西堀端にて戦死。二十歳。
 源十郎は四百石。白虎士中小隊頭。慶応四年(1868)九月六日、若松城二ノ丸にて戦死。四十二歳。


赤埴平八の墓

 赤埴(あかはに)平八は、二百六十石。遊撃隊三宅隊小隊頭兼力士隊頭。慶應四年(1868)八月十四日、越後赤谷にて戦死。三十四歳。


唐津藩士の墓

 大龍寺には小笠原長時の墓がある。小笠原長時(永正十一年(1514)~天正十一年(1583))は信濃守長棟の子。弓馬および礼式の名家として代々信州林の館に住した。長時はしばしば武田信玄と戦い、破れて上杉謙信を頼り越後に逃れ後将軍足利義輝の弓馬の師範となった。義輝が三好氏らに滅ばされたため会津に逃れ、芦名盛氏に身を寄せていたが逆臣に妻子ともに殺害された。いわゆる小笠原流の祖とされる。
 その長時の墓の前に唐津藩士(小笠原家六万石)六名の墓がある。
 名前が刻まれているのは、水野忠右衛門、高須大次郎、吉倉晚三郎、田邊銕三郎、市川熊雄、吉川七之助。いずれも慶應四年(1868)八月二十一日、会津勝軍山にて戦死。

(浄光寺)


真勇院忠道日義居士(原新五右衛門の墓)

 原新五右衛門は二百石。幼少寄合組小隊頭。慶応四年(1868)八月二十三日、若松甲賀口にて戦死。五十歳。

(宗英寺)


宗英寺

 上島良介は、繁記父。十五石三人扶持。青竜士中一番鈴木隊。慶応四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。三十六歳。


露照院堅道良固居士(上島良介の墓)

(極楽寺)


極楽寺


宗川家之墓

 宗川家の墓に会津藩の儒者宗川茂弘が葬られている。通称勇之進。十歳で日新館素読所を修了し、十五歳で第一等に進んだ。藩主松平容敬、松平容保の侍講となる。戊辰戦争では徹底抗戦を主張し軍務局に出仕した。敗戦後、小樽、余市の郷校で教鞭をとり、札幌資生館長も務める。明治十年(1877)会津に帰り、郷童を教育した。明治十五年(1882)没。享年八十六。墓前に門人が寄贈した石燈籠が置かれている。

 私たちが宗川家の墓に釘づけになっているうちに竹様が山室家の墓誌で、明治元年(1868)没の二人の殉難者を確認していた。山室家の墓は、墓地の一番奥にある。

 山室鉄三郎は、卯之助の子。別撰組佐川隊。慶応四年(1868)一月五日、鳥羽にて戦死。二十八歳。法名「喚譽得忠居士」
 山室鉄蔵も同じく卯之助の倅。青龍中三番木本隊。右筆上席。慶応四年(1868)九月、会津飯寺にて負傷。十月二十七日、南原にて死亡。三十六歳。


山室家累代墓


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

会津若松 東山周辺 Ⅱ

2018年12月07日 | 福島県
(滝の上墓地)
 滝の上墓地は、東山温泉のホテル御宿東鳳の前に広がる古い墓地である。気のせいか佐々木姓の墓が目につくが、その一番奥に西郷家の墓域がある。


西郷祝近墓(西郷永四郎の墓)

 西郷永四郎は、西郷頼母の弟。朱雀士中田中隊。慶応四年(1868)四月十八日、下野小佐越にて負傷。六月一日、若松日新館病院にて死亡。十八歳。

(院内御廟つづき)


貞義院妙心日輝大姉
智光院薫治日勝童子
慶樹院妙榮日久大姉
(杉田やえ 杉田薫治 杉田みわの墓)

 右へ折れると歴代藩主の墓へとつながる石段であるが、そこを左に曲がると、会津武家屋敷の裏側に出る。そこに若干の墓石がある。
 杉田家の墓域には、まとまった数の墓石が並んでいるが、そこに杉田やえ、杉田薫治、杉田みわ、三名の連名墓がある。
 杉田やえは、杉田兵庫(千石)の養母。慶応四年(1868)八月二十五日、若松城内にて負傷。九月二十日、自害。五十七歳。
 杉田薫治は兵庫の倅。明治元年(1868)秋、家族に刺殺された。三歳。
 みわは、兵庫の叔母。明治元年(1868)秋、自刃。五十五歳。

 竹様によれば、この近くに堀半右衛門の墓もあるはずというのだが、いくら探しても見つからなかった。日没によりこの日の活動はここまでとなった。

(天寧寺つづき)
 久しく天寧寺を訪れていなかったが、知らぬ間に「会津士魂碑」の傍らに早乙女貢の墓が建てられていた。
 「会津士魂」は読んでいないが、手元に早乙女貢氏が平成十四年(2002)十月から十一月にかけてNHKの「人間講座」で語った「敗者から見た明治維新」のテキストがある。「薩長土肥勢力による徳川幕府の打倒には統一された理念はなく場当たり的な行動の結果」「明治維新は人口でいうならば、徳川政権を外様大名の雄藩が同盟して転覆し、これにとって代わった、ということ」という主張に、ほぼ早乙女貢氏の史観が集約されているといえよう。典型的な「会津正当論」「薩長極悪論」である。歴史の見方、解釈は人それぞれだと思うが、個人的にはあまり偏った視点には賛同できない。


早乙女貢


近藤勇の墓の近くにある松の切株

 竹様ご夫妻、Sさんにしてみても近藤勇の墓などは「今さら」といった場所かもしれないが、我々の目的は墓そのものではなく、その側にあるはずの松の切株を確認することにあった。
 Sさんによれば、この松は約二十年前に切り落とされたというが、年輪を数えてみると丁度百三十ほどあり、つまり近藤勇の墓が建立された際に植樹されたものと推定されるという。

 二日目も竹様ご夫妻、Sさんとともに滝沢峠から天寧寺、善龍寺、建福寺、大塚山墓地を回った。訪問地は少ないが、それぞれ濃密な場所で、まさに時間の経つのも忘れるくらいの一日であった。


野田家供養塔(野田清次郎の墓)

 建て替えられた真新しい供養塔であるが、裏側に「鳥羽伏見の戦で没す」とのみ記されている。
 野田清次郎の供養塔で、慶応四年(1868)一月、鳥羽伏見で戦死している。


仁進院忠節剣義居士(伊東悌次郎の墓)

 伊東悌次郎は白虎士中二番日向隊。慶応四年(1868)八月二十三日、会津飯盛山にて自刃。十七歳。


伊東俊吾の墓

 墓石の表面はほとんど読み取れないが、伊東俊吾の墓である。
 伊東俊吾も白虎士中二番日向隊。慶応四年(1868)八月二十三日、会津飯盛山にて自刃。十七歳。
 悌次郎、俊吾ともに伊東左太夫の息で、伊東祐順の孫である。


伊東祐順之墓


忠肝仁劔居士(相馬孫一の墓)

 相馬孫市は諸生組頭。慶応四年(1868)四月二十三日、宇都宮(壬生とも)城下にて戦死。二十八歳。


忠肝劔光居士(梁瀬勝三郎の墓)

 梁瀬勝三郎は三百五十石源吾三男。白虎士中二番日向隊。慶応四年(1868)八月二十三日、会津飯盛山にて戦死。十七歳。


勇進院忠山誠劔居士(遠山為善の墓)

 墓石には慶應四年(1868)六月二十三日、磐城白河にて戦死とある。


間瀬利貞(新兵衛)之墓

 間瀬新兵衛は岩五郎の父。元奉行。明治元年(1868)九月十四日、若松城にて戦死。六十七歳。


間瀬利直(岩五郎)拝石

 間瀬岩五郎は三百五十石。奏者番上席。朱雀足軽二番中隊頭。慶応四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて戦死。二十九歳。


上田兼教之墓


誠忠院殿武嶽仁劔居士(上田新八郎の墓)

 上田新八郎は、学太夫兼教の倅。六百石。砲兵頭。慶応四年(1868)八月二十三日、会津沓掛にて戦死。二十歳。


劔向道顯信士(一瀬晴治の墓)

 一瀬晴治は勘三郎従弟。青龍士中三番木本隊。慶應四年(1868)七月二十四日、越後大山(与板とも)にて負傷。八月二十六日、十二所村にて死亡。三十七歳。


木村家之墓(木村常之助の墓)

 木村常之助は、六石二人扶持。青竜隊足軽。明治元年(1868)九月十八日、五十里越にて戦死。四十七歳。


(正法寺)


正法寺


佐原蘇梅翁之墓(佐原盛純の墓)

 佐原盛純の墓である。佐原盛純は旧姓金上。号は蘇梅。天保六年(1835)会津の商家の生まれ。十八歳の時江戸に遊学し、文久三年(1863)、遣欧使節池田長発の侍講となり河津祐邦の従者として渡仏した。この時、「航海日録」を残した。維新後、佐原氏を継ぎ、司法省に出仕。明治八年(1875)、四十歳のとき帰郷して会津中学の教師となった。明治四十一年(1908)死去。七十四歳。


神尾家之墓(神尾武右衛門の墓)

 墓碑によれば、神尾武右衛門は慶應四年(1868)五月一日、白河にて戦死。四十八歳。


荒川家之墓(荒川勝茂の墓)

 荒川勝茂は天保四年(1833)の生まれ。北原釆女家臣。戊辰戦争では、進撃隊席御供番として南会津まで転戦した。明治二年(1869)、高田藩にて謹慎した後、斗南へ移住した。廃藩後に会津へ戻り、教育に尽くした。京都守護職から斗南流刑までを記録した「明治日誌」を著した。星亮一氏はこれを基として「敗者の維新史」(青春出版社)を書いた。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

会津若松 鶴ヶ城周辺 Ⅱ

2018年12月07日 | 福島県
(鶴ヶ城)


鶴ヶ城
知らぬ間に屋根瓦が赤茶色に変わっていた



新島八重像

 新島八重をモデルとした大河ドラマ「八重の桜」が放送されたのは、平成二十五年(2013)のことである。この放送を機に鶴ヶ城三の丸に新島八重の像が建立された。この像も、どちらかというと、本人よりも綾瀬はるかさんに似ている。
 今年の会津祭りの「藩公行列」にも綾瀬はるかさんが登場した。大河ドラマの放送から五年も経つが、今もこうして会津に足を運んでくれるのは地元の人たちにとってとても有り難いことであろう。
 といいながら、会津祭りにも綾瀬はるかにも特段の興味のない私は、観客が鶴ヶ城周辺に集まっている隙に、真龍寺、正法寺、大龍寺、常光寺を回った。


司馬遼太郎文学碑

 司馬遼太郎文学碑も最近建てられた石碑の一つである。三の丸の駐車場の入口にある。
 司馬作品から二つの文章が取り上げられている。いつ読んでも司馬先生の文章は男性的でドラマティックである。

――― 会津藩というのは、封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高の傑作のように思える。(「歴史を紀行する」昭和四十三年(1968)より)

――― 容保が、京を戦場に死のう、といったとき、慟哭の声がまず廊下からあがった。この声はまたたくまに満堂に伝播し、みな面を蔽って泣いた。
「君臣、相擁し、声を放って哭けり」
と、この情景を、劇的な表現で会津の古記録は語っている。(「王城の護衛者」昭和四十三年(1968)より)

 鶴ヶ城の北側の本丸茶屋の前に会津戊辰戦争慰霊之碑を発見した。比較的新しいもので(平成十九年(2007)建碑)、以後毎年この慰霊碑の前で犠牲者を弔う「会津戊辰戦争慰霊の集い」が開かれている。


会津戊辰戦争慰霊之碑

(十割そば 香寿庵)
 現在、十割そば「香寿庵」のあった場所に沼沢家があった。沼澤家は中世末期に葦名家を仕えた名門であったが、浪々の身となっているところ、最上を襲封した保科正之に仕官し、寛永二十年(1643)の会津移封により五十年ぶりに会津に戻った。中世以来の主従の絆は幕末まで続き、蝦夷地出陣、江戸湾警備、京都守護職随伴、さらに戊辰戦争では幼君に随従して六十里越え守備、城下戦にも従軍した。この屋敷では、四人の婦女子総べてが自刃し、当主沼澤七郎のみが生き残った。沼澤七郎は、元新選組の藤田五郎(斎藤一)の三男龍雄を養子に迎え、東京を永住の地とした。


沼澤邸跡

(豊岡墓地)
 鶴ヶ城南口の観光駐車場の西側に古い墓地が広がる。ここに戊辰戦争殉難者星勇八、星保記の墓がある。


一ノ堰村ニテ戦死 星保記 行年三十五歳
越後口ニテ戦死 星勇八 行年十六歳

 星保記は星勝治の弟、寄合。結義隊井上隊。慶応四年(1868)九月十七日、戦死。
 星勇八は、勝治二男。白虎寄合二番太田隊。慶応四年(1868)八月十日、戦死。


高畑家之墓

 墓石の側面に事績がびっしりと刻まれている。高畑利喜之輔は西南戦争に従軍し、大山巌を護衛しながら鹿児島から宮崎を転戦したらしい。明治二十一年(1888)、病没。三十九歳。

(大町通り)


大町通り

 明治に入ると、時の県令三島通庸は、大町通り(国道118号線)を活かした道路整備を進め、米沢、今市、新潟へと続く「三方道路」を開削し、会津の街作りの起点となった。

 二日目は会津祭りのクライマックスである藩公行列があるため竹様ご夫妻と合流するのは朝十一時前後となった。それまで、ホテルで借りた自転車にまたがり市内の史跡を回った。実成寺、飯沼貞吉生家跡、真龍寺、正法寺、大龍寺、浄光寺を回ったところで竹様から電話が入った。

(飯沼貞吉生家跡)


白虎隊飯沼貞吉生家跡

 大町通りを南に下がると通りに面して飯沼貞吉生家跡の石碑がある。平成二十九年(2017)九月に建てられた、新しい石碑である。
 飯沼貞吉は、嘉永七年(1854)三月二十五日、会津藩主飯沼猪兵衛一正(禄四百五十石)の二男として誕生した。日新館では二経塾一番組に属した。父方の叔母に会津藩家老西郷頼母妻千重子、母方の従兄妹に山川浩、山川健次郎、大山捨松がいる。

(会津工業高校)


会津工業高校前
 町に歴史あり ~松江春次~


松江春次記念館

 会津工業高校の前に観光協会の建てた松江春次を紹介する説明板がある。
 松江春次は明治九年(1876)、会津藩士松江久平の次男に生まれた。苦学の末、東京高等工業学校(現・東京工業大学)を出て、大日本製糖に入社。その後、米国に留学し、帰国後日本で初めて角砂糖を製造した。第一次大戦後、南洋群島が日本の委任統治となると、国策会社南洋興発を設立してのちに社長となり、サイパン島での製糖事業に大変な苦労のうえに成功を収め、「南洋開発の父」と呼ばれた。昭和十四年(1939)、三十三万円を会津工業学校(現・会津工業高校)に寄付し、これによって機械科などが増設された。春次の功績に感謝し、工業高校の中庭には胸像が、正門近くには記念館が建てられている。先の大戦で南洋興発は壊滅的し、春次は全てを失った。昭和二十九年(1954)没。


松江春次翁(松江春次記念館)

(会津風雅堂)
 会津風雅堂は、座席数千七百五十八席を有する大ホールや会議室などを備えた多目的ホールである。
 最近になって風雅堂の前に松江豊寿の顕彰碑が建立された。顕彰文は作家中村彰彦氏の手による。


会津風雅堂


松江豊寿顕彰碑

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

会津若松 会津若松駅周辺 Ⅲ

2018年12月02日 | 福島県
(自在院)
振り返れば今回の旅のキーワードは、自在院であった。自在院では、戊辰戦争にて戦死した斎藤新吾や佐藤喜七の墓を掃苔して、一先ず目的を達したわけだが、竹様ご夫妻とお会いするなり、奥様の発案で自在院に逆戻りすることになった。奥様は米沢藩の雲井龍雄にも興味を持たれていて、雲井龍雄が関与した贋札製造事件に連座して獄死した、自在院の住職啓範(もしくは啓傳)の墓を見てみたいというのである。しかし、雨の中、三人で墓地を隅から隅まで歩いてみたが、発見に至らなかった。ところが、二日目の夜の宴席で、一人の女性(あの横井主税フアンの方)が持っていた雑誌に啓範の墓の写真が掲載されていたので、「やはり自在院にあるはずだ」ということになり、三日目の朝、私はホテルで自転車を借りて再度(正確に言うと三回目)自在院を訪問した。写真を頼りに墓地を探してみたが、結局見つけることができなかった。
その後、竹様ご夫妻とわかれた後、メールが飛んで来て啓範(墓碑には啓傳)の墓を発見したという。何でもグーグルマップで自在院を上空から確認したところ蔵の裏に墓地らしきものを発見したので、そこを確認したら「あった」という。お二人の執念の成果である。


法印啓傳(「戊辰掃苔録」竹様提供)


忠良院勇讃道悟○居士(斎藤新吾の墓)

 斎藤新吾。または慎吾。権三郎の倅。器械方。慶応四年(1868)七月二十七日、越後水原にて戦死。二十六歳。


勇諦院争戦道照居士(佐藤喜七の墓)

 佐藤喜七は、四石二人扶持、独礼。進撃小室隊。慶応四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて戦死。三十七歳。

(清林寺)


清林寺

 清林寺には梅宮源五郎の墓がある。墓石には「明治元辰年九月廿五日」という没年月日が刻まれている。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載はない。


真譽實相清居士(梅宮源五郎の墓)

(但心寺)


但心寺

 但心寺も戊辰の兵火により全焼し、その後仮本堂を建てていたが、昭和五十五年(1980)に本堂が再建された。

(専福寺)


専福寺

 ここにも西軍の戦死者が葬られている。右の墓石は、従軍していた高田藩の人夫のものらしい。中央は鳥取藩の卒中川長次郎。左は同じく鳥取藩夫卒角右衛門のもの。


官軍兵士之墓


野出家之墓

 日本画家野出蕉雨(しょうう)の墓である。
 野出蕉雨は戊辰戦争にも従軍したが、戦後は日本画、能楽、謡曲の普及、発展に貢献した。昭和十七年(1942)まで長命した。没年九十六歳。専福寺には、蕉雨ゆかりの筆扇塚や顕彰碑も建てられている。


筆扇塚


蕉雨先生碑


下坂家先祖代々之墓

 砲兵一番隊士下坂重三郎の墓である。


穴沢吉之助の墓

 穴沢吉之助は、進撃隊小室隊。慶應四年(1868)八月二十九日、長命寺にて戦死。三十六歳。

(真龍寺)


真龍寺


宇南山家之墓(宇南山壮平の墓)

 宇南山壮平の墓である。宇南山壮平は六石五斗二人扶持。進撃小室隊。慶応四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて戦死。三十八歳。


福原勝吾吉春 行年三十四

 福原勝吾は十石七人扶持。慶應四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。三十四歳。


當山第十世清涼院善順墓

 本堂前に河井善順の墓がある。河井善順は天保七年(1836)の生まれ。長兄のあとを継いで真龍寺の住職となり、修学のため京都西本願寺に入った。禁門の変では敗走した長州藩士が西本願寺に逃げ込んだため、会津藩によって攻撃されそうになった際、善順のとりなしで回避した。戊辰戦争後、長州藩の奥平謙輔に働きかけ、会津藩特使小出鉄之助(光照)との会談を成立させた。山川健次郎らが奥平謙輔のもとに預けられたのも、善順が仲介したものといわれる。明治二十六年(1893)没。


釋種證同居士
釋胤義觀居士
(大橋源蔵と大橋愛助の墓)

 大橋源蔵と大橋愛助の墓である。大橋愛助は鈴木左内家来。慶応四年(1868)八月二十三日、若松天寧寺口にて戦死。
 大橋源蔵は「幕末維新全殉難者名鑑」に記載なし。墓石によれば、明治元年(1868)九月八日没。

(若松第一幼稚園)


若松第一幼稚園

 若松第一幼稚園の前に観光協会の建てた「海老名李昌 海老名リン」の説明板がある。


海老名李昌 海老名リン

 海老名李昌(すえまさ)は天保十四年(1843)の生まれ。父は会津藩の軍事奉行海老名李久。蝦夷地警備ののち、徳川昭武に同行しパリ万博を見聞し、欧州各地を視察した後、帰国して二十六歳で家老に抜擢されて戊辰戦争を迎えた。戦後、謹慎が解けた後、福島県郡長、東京で警視庁課長を務め、退任後は故郷に戻り若松町長となり、市制移行に尽力した。NHK大河ドラマの「獅子の時代」のモデルともいわれる。
 妻リンは嘉永二年(1849)の生まれ。夫の渡欧、戊辰戦争、斗南入植と急変する環境に耐え、一家を支えた。東京でキリスト教と出合い、熱心な信者となり、社会活動に身を投じた。保母の資格を取得し、李昌の帰郷に伴い念願の幼児教育、女子教育に身を左避けた。リンが設立した幼稚園は、現在も若松幼稚園として、女学校は会津女子高校として存続し、当地における幼児、女子教育の中心となっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

会津若松 会津若松駅周辺 Ⅱ

2018年12月02日 | 福島県
秋分の日の三連休、例年会津若松では会津祭りが開かれる。「戊辰掃苔録」の竹様より、今年の会津祭りの際、会津ゆかりの方や歴史好きの方々が集まるので一緒にどうですかとお誘いを受け、参加することにした。実に九年ぶりの会津である。
竹様とは、十年ほど前にネットを通じて知り合い、以来情報を交換させていただいているが、実際にお会いするのは今回が初めてである。同行された奥様も竹様に負けず劣らずの歴史(特に会津と庄内)好きで、普通の女性なら端から敬遠するような、山の中の墓地なども喜々として付き合ってくれる。実に良い伴侶を選ばれたものである。
奥様の庄内藩への思い入れは相当なものである。私も自分の足腰が大丈夫なうちに、庄内藩兵が越えたという鳥海山頂の大物忌神社を訪ねたいと思っているが、実現は容易ではない。奥様はアイゼンを着用して残雪を踏んで大物忌神社を訪ねたというから恐れ入る。
予てより竹様の探墓力には敬服していたが、今回同行して益々もって感心した。事前に書籍や資料をあたって目星を付けるのは常套手段として、竹様が「ローラー作戦」と称する方法で、要するにその墓地の墓石を一つひとつ確かめるという、気が遠くなるようなやり方で、時には日に1個新しい発見があるかないか、というような地道な作業を通じて、戊辰殉難者の墓を発見し続けているのである。それにしても凄まじい執念である。面白いことに、竹様は戊辰戦争には異常なほどの執着をもっているが、それ以外の歴史にはほとんど興味がないという「偏食家」である。長年にわたって戊辰殉難者の墓を探し求めて歩いてきて、未だに全てを探しつくしていないので、とてもでないが他に手を出せないということらしい。
この連休期間中、史跡巡りに同行いただいたのはもう一人、都内在住のSさんである。Sさんは竹様から「師匠」と呼ばれるほど、歴史に造詣が深く、しかも興味の対象は、幕末にとどまらず戦国時代までと幅広い。探墓巡礼会という組織に属して、マニアックな掃苔活動をされている。まさに師匠と呼ぶに相応しい方である。

今回は二日半にわたって竹様に会津若松とその周辺の史跡(といっても、ほとんどが戊辰戦死者のものだが)をご案内いただいた。会津地方の掃苔の旅で、望んでもこれ以上の案内人は存在しないだろう。私は金曜日の夜に会津入りしたが、竹様ご夫婦は土曜日の早朝、拠点である仙台を出て到着は朝の八時過ぎになるという。それまでの間、約二時間余り、歩いて行ける範囲で市内を歩いた。融通寺、常光寺、鈴木屋利兵衛商店を経由して自在院、清林寺、但心寺まで歩いたところで、竹様より電話が入った。「今、但心寺の前にいます」と伝えると、それだけで場所が分かってしまうほど、この人の頭の中には会津若松市内の地図が刷り込まれている。会津に住んでいる人でもここまで精通している人は少ない。

連日宴会があり、竹様のお声掛けで集まったメンバーには会津藩士の子孫の方や熱心な新選組フアンの方、会津好きが高じてそのまま会津に移住してしまった女性や、横山主税が好きでその余り横山主税が宿泊したホテルに泊まるという目的だけでパリに旅行した人とか、一般人には理解不能な人間が大勢集まった。皆さまと比べれば、私は特に会津藩に傾倒しているわけではないのだが、それでも仲間として受け入れていただいた。会社の飲み会で「昨日は一日谷中霊園に入り浸っていました」など告白すると気味悪がられるだけであるが、波長が合う人ばかりという宴会は実に楽しいものであった。

(融通寺つづき)

 駅前のビジネスホテルに宿をとった私は、初日の早朝、六時前に出発して市内の史跡を回った。最初の訪問地は融通寺である。


慈光院常譽忠勇居士(長谷川栄助の墓)

 長谷川栄助は、六石二人扶持。慶応四年(1868)八月十五日、越後赤谷にて戦死。四十三歳。


武藤英惇墓

 武藤英惇(「幕末維新全殉難者名鑑」では英淳)は医師。朱雀士中四番町野隊付。慶應四年(1868)九月五日、会津小田村にて自刃。五十一歳。


勇心院顯譽忠立居士(小池源五郎の墓)

 墓碑によれば、小池源五郎は慶應四年(1868)八月二十四日、戦死。「幕末維新全殉難者名鑑」には記載なし。

(実成寺)

 実成寺墓地の一番奥に梶原家の墓域がある。幕末、会津藩の若年寄、家老として活躍した梶原平馬の一族である。一際大きな墓石は、平馬の父梶原景保のもの。


梶原景保之墓


梶原家墓地

(威徳院)


威徳院


稽古堂阯

 大町威徳院の前に稽古堂跡と記された石碑が建てられている。会津藩校といえば日新館が有名であるが、寛文四年(1664)、会津藩教育の祖といわれる儒学者・横田俊益の提唱によって開設された学問所である。当初、若松桂林寺町の北に建てられ、武士や庶民の身分に関係なく多くの人々が通い、講義に耳を傾けたという。武士と庶民の教育を目的とした学校としては、全国で最も早い時期につくられた学校といわれる。その後、三代藩主松平正容(まさかた)のときに、藩士教育のための新たな学問所(後に日新館へと発展)がつくられると、稽古堂は「町講所」と名称を改め甲賀町に移されて、主に庶民の教育を目的とした場所に変わっていった。

(常光寺)


常光寺


梅宮家之墓(梅宮源蔵の墓)

 梅宮源蔵は、十二石三人扶持。軍事方世話役。慶応四年(1868)八月十六日、若松城にて戦死。


澤田家之墓(澤田鉄右衛門安久の墓)

 傍らの墓誌によれば、澤田鉄右衛門は慶應四年(1868)八月二十三日、若松戦死七十九歳とある。相当な高齢であるが、勇ましく戦って亡くなったということだろうか。同じ墓に鉄右衛門の長男治助も葬られている。治助は慶應四年(1868)九月二十日、城中にて戦死。五十一歳とある。こちらも結構な年である。

 中条茂平は、「幕末維新全殉難者名鑑」では「戊辰役戦死」とあるだけで没年月日は記されていないが、墓石には慶應四年(1868)八月二十三日という日付が刻まれている。


中条茂平の墓

(滝谷建設工業会津若松店)
 滝谷建設工業株式会社会津若松店の建物は、昭和二年(1927)に旧郡山橋本銀行若松支店として建てられたもので、その後、新潟に本店のある第四銀行会津支店となっている。
 この場所で、新島八重の夫新島襄が明治十九年(1886)に布教活動を行っている。


滝谷建設工業

(鈴木屋利兵衛商店)
 鈴木屋利兵衛商店は会津漆器や民芸品を売る店であるが、戊辰戦争では西軍の基地として使用され、その際に残された刀痕が今も店内の大黒柱に見ることができるという。例によって、私がここを通過したのが午前七時半で、営業時間前だったため店内を見ることはできなかった。


鈴木屋利兵衛商店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする