(自在院)
振り返れば今回の旅のキーワードは、自在院であった。自在院では、戊辰戦争にて戦死した斎藤新吾や佐藤喜七の墓を掃苔して、一先ず目的を達したわけだが、竹様ご夫妻とお会いするなり、奥様の発案で自在院に逆戻りすることになった。奥様は米沢藩の雲井龍雄にも興味を持たれていて、雲井龍雄が関与した贋札製造事件に連座して獄死した、自在院の住職啓範(もしくは啓傳)の墓を見てみたいというのである。しかし、雨の中、三人で墓地を隅から隅まで歩いてみたが、発見に至らなかった。ところが、二日目の夜の宴席で、一人の女性(あの横井主税フアンの方)が持っていた雑誌に啓範の墓の写真が掲載されていたので、「やはり自在院にあるはずだ」ということになり、三日目の朝、私はホテルで自転車を借りて再度(正確に言うと三回目)自在院を訪問した。写真を頼りに墓地を探してみたが、結局見つけることができなかった。
その後、竹様ご夫妻とわかれた後、メールが飛んで来て啓範(墓碑には啓傳)の墓を発見したという。何でもグーグルマップで自在院を上空から確認したところ蔵の裏に墓地らしきものを発見したので、そこを確認したら「あった」という。お二人の執念の成果である。
法印啓傳(「戊辰掃苔録」竹様提供)
忠良院勇讃道悟○居士(斎藤新吾の墓)
斎藤新吾。または慎吾。権三郎の倅。器械方。慶応四年(1868)七月二十七日、越後水原にて戦死。二十六歳。
勇諦院争戦道照居士(佐藤喜七の墓)
佐藤喜七は、四石二人扶持、独礼。進撃小室隊。慶応四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて戦死。三十七歳。
(清林寺)
清林寺
清林寺には梅宮源五郎の墓がある。墓石には「明治元辰年九月廿五日」という没年月日が刻まれている。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載はない。
真譽實相清居士(梅宮源五郎の墓)
(但心寺)
但心寺
但心寺も戊辰の兵火により全焼し、その後仮本堂を建てていたが、昭和五十五年(1980)に本堂が再建された。
(専福寺)
専福寺
ここにも西軍の戦死者が葬られている。右の墓石は、従軍していた高田藩の人夫のものらしい。中央は鳥取藩の卒中川長次郎。左は同じく鳥取藩夫卒角右衛門のもの。
官軍兵士之墓
野出家之墓
日本画家野出蕉雨(しょうう)の墓である。
野出蕉雨は戊辰戦争にも従軍したが、戦後は日本画、能楽、謡曲の普及、発展に貢献した。昭和十七年(1942)まで長命した。没年九十六歳。専福寺には、蕉雨ゆかりの筆扇塚や顕彰碑も建てられている。
筆扇塚
蕉雨先生碑
下坂家先祖代々之墓
砲兵一番隊士下坂重三郎の墓である。
穴沢吉之助の墓
穴沢吉之助は、進撃隊小室隊。慶應四年(1868)八月二十九日、長命寺にて戦死。三十六歳。
(真龍寺)
真龍寺
宇南山家之墓(宇南山壮平の墓)
宇南山壮平の墓である。宇南山壮平は六石五斗二人扶持。進撃小室隊。慶応四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて戦死。三十八歳。
福原勝吾吉春 行年三十四
福原勝吾は十石七人扶持。慶應四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。三十四歳。
當山第十世清涼院善順墓
本堂前に河井善順の墓がある。河井善順は天保七年(1836)の生まれ。長兄のあとを継いで真龍寺の住職となり、修学のため京都西本願寺に入った。禁門の変では敗走した長州藩士が西本願寺に逃げ込んだため、会津藩によって攻撃されそうになった際、善順のとりなしで回避した。戊辰戦争後、長州藩の奥平謙輔に働きかけ、会津藩特使小出鉄之助(光照)との会談を成立させた。山川健次郎らが奥平謙輔のもとに預けられたのも、善順が仲介したものといわれる。明治二十六年(1893)没。
釋種證同居士
釋胤義觀居士
(大橋源蔵と大橋愛助の墓)
大橋源蔵と大橋愛助の墓である。大橋愛助は鈴木左内家来。慶応四年(1868)八月二十三日、若松天寧寺口にて戦死。
大橋源蔵は「幕末維新全殉難者名鑑」に記載なし。墓石によれば、明治元年(1868)九月八日没。
(若松第一幼稚園)
若松第一幼稚園
若松第一幼稚園の前に観光協会の建てた「海老名李昌 海老名リン」の説明板がある。
海老名李昌 海老名リン
海老名李昌(すえまさ)は天保十四年(1843)の生まれ。父は会津藩の軍事奉行海老名李久。蝦夷地警備ののち、徳川昭武に同行しパリ万博を見聞し、欧州各地を視察した後、帰国して二十六歳で家老に抜擢されて戊辰戦争を迎えた。戦後、謹慎が解けた後、福島県郡長、東京で警視庁課長を務め、退任後は故郷に戻り若松町長となり、市制移行に尽力した。NHK大河ドラマの「獅子の時代」のモデルともいわれる。
妻リンは嘉永二年(1849)の生まれ。夫の渡欧、戊辰戦争、斗南入植と急変する環境に耐え、一家を支えた。東京でキリスト教と出合い、熱心な信者となり、社会活動に身を投じた。保母の資格を取得し、李昌の帰郷に伴い念願の幼児教育、女子教育に身を左避けた。リンが設立した幼稚園は、現在も若松幼稚園として、女学校は会津女子高校として存続し、当地における幼児、女子教育の中心となっている。
振り返れば今回の旅のキーワードは、自在院であった。自在院では、戊辰戦争にて戦死した斎藤新吾や佐藤喜七の墓を掃苔して、一先ず目的を達したわけだが、竹様ご夫妻とお会いするなり、奥様の発案で自在院に逆戻りすることになった。奥様は米沢藩の雲井龍雄にも興味を持たれていて、雲井龍雄が関与した贋札製造事件に連座して獄死した、自在院の住職啓範(もしくは啓傳)の墓を見てみたいというのである。しかし、雨の中、三人で墓地を隅から隅まで歩いてみたが、発見に至らなかった。ところが、二日目の夜の宴席で、一人の女性(あの横井主税フアンの方)が持っていた雑誌に啓範の墓の写真が掲載されていたので、「やはり自在院にあるはずだ」ということになり、三日目の朝、私はホテルで自転車を借りて再度(正確に言うと三回目)自在院を訪問した。写真を頼りに墓地を探してみたが、結局見つけることができなかった。
その後、竹様ご夫妻とわかれた後、メールが飛んで来て啓範(墓碑には啓傳)の墓を発見したという。何でもグーグルマップで自在院を上空から確認したところ蔵の裏に墓地らしきものを発見したので、そこを確認したら「あった」という。お二人の執念の成果である。
法印啓傳(「戊辰掃苔録」竹様提供)
忠良院勇讃道悟○居士(斎藤新吾の墓)
斎藤新吾。または慎吾。権三郎の倅。器械方。慶応四年(1868)七月二十七日、越後水原にて戦死。二十六歳。
勇諦院争戦道照居士(佐藤喜七の墓)
佐藤喜七は、四石二人扶持、独礼。進撃小室隊。慶応四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて戦死。三十七歳。
(清林寺)
清林寺
清林寺には梅宮源五郎の墓がある。墓石には「明治元辰年九月廿五日」という没年月日が刻まれている。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載はない。
真譽實相清居士(梅宮源五郎の墓)
(但心寺)
但心寺
但心寺も戊辰の兵火により全焼し、その後仮本堂を建てていたが、昭和五十五年(1980)に本堂が再建された。
(専福寺)
専福寺
ここにも西軍の戦死者が葬られている。右の墓石は、従軍していた高田藩の人夫のものらしい。中央は鳥取藩の卒中川長次郎。左は同じく鳥取藩夫卒角右衛門のもの。
官軍兵士之墓
野出家之墓
日本画家野出蕉雨(しょうう)の墓である。
野出蕉雨は戊辰戦争にも従軍したが、戦後は日本画、能楽、謡曲の普及、発展に貢献した。昭和十七年(1942)まで長命した。没年九十六歳。専福寺には、蕉雨ゆかりの筆扇塚や顕彰碑も建てられている。
筆扇塚
蕉雨先生碑
下坂家先祖代々之墓
砲兵一番隊士下坂重三郎の墓である。
穴沢吉之助の墓
穴沢吉之助は、進撃隊小室隊。慶應四年(1868)八月二十九日、長命寺にて戦死。三十六歳。
(真龍寺)
真龍寺
宇南山家之墓(宇南山壮平の墓)
宇南山壮平の墓である。宇南山壮平は六石五斗二人扶持。進撃小室隊。慶応四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて戦死。三十八歳。
福原勝吾吉春 行年三十四
福原勝吾は十石七人扶持。慶應四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。三十四歳。
當山第十世清涼院善順墓
本堂前に河井善順の墓がある。河井善順は天保七年(1836)の生まれ。長兄のあとを継いで真龍寺の住職となり、修学のため京都西本願寺に入った。禁門の変では敗走した長州藩士が西本願寺に逃げ込んだため、会津藩によって攻撃されそうになった際、善順のとりなしで回避した。戊辰戦争後、長州藩の奥平謙輔に働きかけ、会津藩特使小出鉄之助(光照)との会談を成立させた。山川健次郎らが奥平謙輔のもとに預けられたのも、善順が仲介したものといわれる。明治二十六年(1893)没。
釋種證同居士
釋胤義觀居士
(大橋源蔵と大橋愛助の墓)
大橋源蔵と大橋愛助の墓である。大橋愛助は鈴木左内家来。慶応四年(1868)八月二十三日、若松天寧寺口にて戦死。
大橋源蔵は「幕末維新全殉難者名鑑」に記載なし。墓石によれば、明治元年(1868)九月八日没。
(若松第一幼稚園)
若松第一幼稚園
若松第一幼稚園の前に観光協会の建てた「海老名李昌 海老名リン」の説明板がある。
海老名李昌 海老名リン
海老名李昌(すえまさ)は天保十四年(1843)の生まれ。父は会津藩の軍事奉行海老名李久。蝦夷地警備ののち、徳川昭武に同行しパリ万博を見聞し、欧州各地を視察した後、帰国して二十六歳で家老に抜擢されて戊辰戦争を迎えた。戦後、謹慎が解けた後、福島県郡長、東京で警視庁課長を務め、退任後は故郷に戻り若松町長となり、市制移行に尽力した。NHK大河ドラマの「獅子の時代」のモデルともいわれる。
妻リンは嘉永二年(1849)の生まれ。夫の渡欧、戊辰戦争、斗南入植と急変する環境に耐え、一家を支えた。東京でキリスト教と出合い、熱心な信者となり、社会活動に身を投じた。保母の資格を取得し、李昌の帰郷に伴い念願の幼児教育、女子教育に身を左避けた。リンが設立した幼稚園は、現在も若松幼稚園として、女学校は会津女子高校として存続し、当地における幼児、女子教育の中心となっている。