史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

会津若松 会津若松駅周辺 Ⅲ

2018年12月02日 | 福島県
(自在院)
振り返れば今回の旅のキーワードは、自在院であった。自在院では、戊辰戦争にて戦死した斎藤新吾や佐藤喜七の墓を掃苔して、一先ず目的を達したわけだが、竹様ご夫妻とお会いするなり、奥様の発案で自在院に逆戻りすることになった。奥様は米沢藩の雲井龍雄にも興味を持たれていて、雲井龍雄が関与した贋札製造事件に連座して獄死した、自在院の住職啓範(もしくは啓傳)の墓を見てみたいというのである。しかし、雨の中、三人で墓地を隅から隅まで歩いてみたが、発見に至らなかった。ところが、二日目の夜の宴席で、一人の女性(あの横井主税フアンの方)が持っていた雑誌に啓範の墓の写真が掲載されていたので、「やはり自在院にあるはずだ」ということになり、三日目の朝、私はホテルで自転車を借りて再度(正確に言うと三回目)自在院を訪問した。写真を頼りに墓地を探してみたが、結局見つけることができなかった。
その後、竹様ご夫妻とわかれた後、メールが飛んで来て啓範(墓碑には啓傳)の墓を発見したという。何でもグーグルマップで自在院を上空から確認したところ蔵の裏に墓地らしきものを発見したので、そこを確認したら「あった」という。お二人の執念の成果である。


法印啓傳(「戊辰掃苔録」竹様提供)


忠良院勇讃道悟○居士(斎藤新吾の墓)

 斎藤新吾。または慎吾。権三郎の倅。器械方。慶応四年(1868)七月二十七日、越後水原にて戦死。二十六歳。


勇諦院争戦道照居士(佐藤喜七の墓)

 佐藤喜七は、四石二人扶持、独礼。進撃小室隊。慶応四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて戦死。三十七歳。

(清林寺)


清林寺

 清林寺には梅宮源五郎の墓がある。墓石には「明治元辰年九月廿五日」という没年月日が刻まれている。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載はない。


真譽實相清居士(梅宮源五郎の墓)

(但心寺)


但心寺

 但心寺も戊辰の兵火により全焼し、その後仮本堂を建てていたが、昭和五十五年(1980)に本堂が再建された。

(専福寺)


専福寺

 ここにも西軍の戦死者が葬られている。右の墓石は、従軍していた高田藩の人夫のものらしい。中央は鳥取藩の卒中川長次郎。左は同じく鳥取藩夫卒角右衛門のもの。


官軍兵士之墓


野出家之墓

 日本画家野出蕉雨(しょうう)の墓である。
 野出蕉雨は戊辰戦争にも従軍したが、戦後は日本画、能楽、謡曲の普及、発展に貢献した。昭和十七年(1942)まで長命した。没年九十六歳。専福寺には、蕉雨ゆかりの筆扇塚や顕彰碑も建てられている。


筆扇塚


蕉雨先生碑


下坂家先祖代々之墓

 砲兵一番隊士下坂重三郎の墓である。


穴沢吉之助の墓

 穴沢吉之助は、進撃隊小室隊。慶應四年(1868)八月二十九日、長命寺にて戦死。三十六歳。

(真龍寺)


真龍寺


宇南山家之墓(宇南山壮平の墓)

 宇南山壮平の墓である。宇南山壮平は六石五斗二人扶持。進撃小室隊。慶応四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて戦死。三十八歳。


福原勝吾吉春 行年三十四

 福原勝吾は十石七人扶持。慶應四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。三十四歳。


當山第十世清涼院善順墓

 本堂前に河井善順の墓がある。河井善順は天保七年(1836)の生まれ。長兄のあとを継いで真龍寺の住職となり、修学のため京都西本願寺に入った。禁門の変では敗走した長州藩士が西本願寺に逃げ込んだため、会津藩によって攻撃されそうになった際、善順のとりなしで回避した。戊辰戦争後、長州藩の奥平謙輔に働きかけ、会津藩特使小出鉄之助(光照)との会談を成立させた。山川健次郎らが奥平謙輔のもとに預けられたのも、善順が仲介したものといわれる。明治二十六年(1893)没。


釋種證同居士
釋胤義觀居士
(大橋源蔵と大橋愛助の墓)

 大橋源蔵と大橋愛助の墓である。大橋愛助は鈴木左内家来。慶応四年(1868)八月二十三日、若松天寧寺口にて戦死。
 大橋源蔵は「幕末維新全殉難者名鑑」に記載なし。墓石によれば、明治元年(1868)九月八日没。

(若松第一幼稚園)


若松第一幼稚園

 若松第一幼稚園の前に観光協会の建てた「海老名李昌 海老名リン」の説明板がある。


海老名李昌 海老名リン

 海老名李昌(すえまさ)は天保十四年(1843)の生まれ。父は会津藩の軍事奉行海老名李久。蝦夷地警備ののち、徳川昭武に同行しパリ万博を見聞し、欧州各地を視察した後、帰国して二十六歳で家老に抜擢されて戊辰戦争を迎えた。戦後、謹慎が解けた後、福島県郡長、東京で警視庁課長を務め、退任後は故郷に戻り若松町長となり、市制移行に尽力した。NHK大河ドラマの「獅子の時代」のモデルともいわれる。
 妻リンは嘉永二年(1849)の生まれ。夫の渡欧、戊辰戦争、斗南入植と急変する環境に耐え、一家を支えた。東京でキリスト教と出合い、熱心な信者となり、社会活動に身を投じた。保母の資格を取得し、李昌の帰郷に伴い念願の幼児教育、女子教育に身を左避けた。リンが設立した幼稚園は、現在も若松幼稚園として、女学校は会津女子高校として存続し、当地における幼児、女子教育の中心となっている。

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会津若松 会津若松駅周辺 Ⅱ

2018年12月02日 | 福島県
秋分の日の三連休、例年会津若松では会津祭りが開かれる。「戊辰掃苔録」の竹様より、今年の会津祭りの際、会津ゆかりの方や歴史好きの方々が集まるので一緒にどうですかとお誘いを受け、参加することにした。実に九年ぶりの会津である。
竹様とは、十年ほど前にネットを通じて知り合い、以来情報を交換させていただいているが、実際にお会いするのは今回が初めてである。同行された奥様も竹様に負けず劣らずの歴史(特に会津と庄内)好きで、普通の女性なら端から敬遠するような、山の中の墓地なども喜々として付き合ってくれる。実に良い伴侶を選ばれたものである。
奥様の庄内藩への思い入れは相当なものである。私も自分の足腰が大丈夫なうちに、庄内藩兵が越えたという鳥海山頂の大物忌神社を訪ねたいと思っているが、実現は容易ではない。奥様はアイゼンを着用して残雪を踏んで大物忌神社を訪ねたというから恐れ入る。
予てより竹様の探墓力には敬服していたが、今回同行して益々もって感心した。事前に書籍や資料をあたって目星を付けるのは常套手段として、竹様が「ローラー作戦」と称する方法で、要するにその墓地の墓石を一つひとつ確かめるという、気が遠くなるようなやり方で、時には日に1個新しい発見があるかないか、というような地道な作業を通じて、戊辰殉難者の墓を発見し続けているのである。それにしても凄まじい執念である。面白いことに、竹様は戊辰戦争には異常なほどの執着をもっているが、それ以外の歴史にはほとんど興味がないという「偏食家」である。長年にわたって戊辰殉難者の墓を探し求めて歩いてきて、未だに全てを探しつくしていないので、とてもでないが他に手を出せないということらしい。
この連休期間中、史跡巡りに同行いただいたのはもう一人、都内在住のSさんである。Sさんは竹様から「師匠」と呼ばれるほど、歴史に造詣が深く、しかも興味の対象は、幕末にとどまらず戦国時代までと幅広い。探墓巡礼会という組織に属して、マニアックな掃苔活動をされている。まさに師匠と呼ぶに相応しい方である。

今回は二日半にわたって竹様に会津若松とその周辺の史跡(といっても、ほとんどが戊辰戦死者のものだが)をご案内いただいた。会津地方の掃苔の旅で、望んでもこれ以上の案内人は存在しないだろう。私は金曜日の夜に会津入りしたが、竹様ご夫婦は土曜日の早朝、拠点である仙台を出て到着は朝の八時過ぎになるという。それまでの間、約二時間余り、歩いて行ける範囲で市内を歩いた。融通寺、常光寺、鈴木屋利兵衛商店を経由して自在院、清林寺、但心寺まで歩いたところで、竹様より電話が入った。「今、但心寺の前にいます」と伝えると、それだけで場所が分かってしまうほど、この人の頭の中には会津若松市内の地図が刷り込まれている。会津に住んでいる人でもここまで精通している人は少ない。

連日宴会があり、竹様のお声掛けで集まったメンバーには会津藩士の子孫の方や熱心な新選組フアンの方、会津好きが高じてそのまま会津に移住してしまった女性や、横山主税が好きでその余り横山主税が宿泊したホテルに泊まるという目的だけでパリに旅行した人とか、一般人には理解不能な人間が大勢集まった。皆さまと比べれば、私は特に会津藩に傾倒しているわけではないのだが、それでも仲間として受け入れていただいた。会社の飲み会で「昨日は一日谷中霊園に入り浸っていました」など告白すると気味悪がられるだけであるが、波長が合う人ばかりという宴会は実に楽しいものであった。

(融通寺つづき)

 駅前のビジネスホテルに宿をとった私は、初日の早朝、六時前に出発して市内の史跡を回った。最初の訪問地は融通寺である。


慈光院常譽忠勇居士(長谷川栄助の墓)

 長谷川栄助は、六石二人扶持。慶応四年(1868)八月十五日、越後赤谷にて戦死。四十三歳。


武藤英惇墓

 武藤英惇(「幕末維新全殉難者名鑑」では英淳)は医師。朱雀士中四番町野隊付。慶應四年(1868)九月五日、会津小田村にて自刃。五十一歳。


勇心院顯譽忠立居士(小池源五郎の墓)

 墓碑によれば、小池源五郎は慶應四年(1868)八月二十四日、戦死。「幕末維新全殉難者名鑑」には記載なし。

(実成寺)

 実成寺墓地の一番奥に梶原家の墓域がある。幕末、会津藩の若年寄、家老として活躍した梶原平馬の一族である。一際大きな墓石は、平馬の父梶原景保のもの。


梶原景保之墓


梶原家墓地

(威徳院)


威徳院


稽古堂阯

 大町威徳院の前に稽古堂跡と記された石碑が建てられている。会津藩校といえば日新館が有名であるが、寛文四年(1664)、会津藩教育の祖といわれる儒学者・横田俊益の提唱によって開設された学問所である。当初、若松桂林寺町の北に建てられ、武士や庶民の身分に関係なく多くの人々が通い、講義に耳を傾けたという。武士と庶民の教育を目的とした学校としては、全国で最も早い時期につくられた学校といわれる。その後、三代藩主松平正容(まさかた)のときに、藩士教育のための新たな学問所(後に日新館へと発展)がつくられると、稽古堂は「町講所」と名称を改め甲賀町に移されて、主に庶民の教育を目的とした場所に変わっていった。

(常光寺)


常光寺


梅宮家之墓(梅宮源蔵の墓)

 梅宮源蔵は、十二石三人扶持。軍事方世話役。慶応四年(1868)八月十六日、若松城にて戦死。


澤田家之墓(澤田鉄右衛門安久の墓)

 傍らの墓誌によれば、澤田鉄右衛門は慶應四年(1868)八月二十三日、若松戦死七十九歳とある。相当な高齢であるが、勇ましく戦って亡くなったということだろうか。同じ墓に鉄右衛門の長男治助も葬られている。治助は慶應四年(1868)九月二十日、城中にて戦死。五十一歳とある。こちらも結構な年である。

 中条茂平は、「幕末維新全殉難者名鑑」では「戊辰役戦死」とあるだけで没年月日は記されていないが、墓石には慶應四年(1868)八月二十三日という日付が刻まれている。


中条茂平の墓

(滝谷建設工業会津若松店)
 滝谷建設工業株式会社会津若松店の建物は、昭和二年(1927)に旧郡山橋本銀行若松支店として建てられたもので、その後、新潟に本店のある第四銀行会津支店となっている。
 この場所で、新島八重の夫新島襄が明治十九年(1886)に布教活動を行っている。


滝谷建設工業

(鈴木屋利兵衛商店)
 鈴木屋利兵衛商店は会津漆器や民芸品を売る店であるが、戊辰戦争では西軍の基地として使用され、その際に残された刀痕が今も店内の大黒柱に見ることができるという。例によって、私がここを通過したのが午前七時半で、営業時間前だったため店内を見ることはできなかった。


鈴木屋利兵衛商店
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