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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

郡山 Ⅳ

2018年12月21日 | 福島県
(安積国造神社)


安積国造神社

 さて、今回の会津の旅はこれで終わりではない。郡山で新幹線に乗り換えるまでの三時間、郡山市内で史跡を訪ねた。
 駅に近いまぜっさプラザ(観光案内所?)という施設で自転車を借りる。与えられた時間は二時間半余り。効率よく回らなければならない。最初の訪問地は、安積国造神社である。まぜっさプラザから交差点を挟んで反対側にある。


安積天満宮

 郡山総鎮守安積国造神社(あさかくにやっこじんじゃ)は、幕末の儒者安積艮斎(ごんさい)の生誕地である。境内には安積艮斎記念館や安積艮斎を祀る天満宮などがある。


郡山邨八幡神祠之碑

 境内に古い石碑が二基建てられている。いずれに安積艮斎の撰文である。
 向かって左手に立つのが、郡山邨八幡神祠之碑で、鳥取藩支藩若桜半池田冠山の銘、福山藩奥詰小島成斎篆額並びに書。文化七年()の社殿再建竣工を祝し。文化十四年()に建てられた。八幡神社の由緒や再建の経緯が記されている。
 もう一つが安藤脩重(もろしげ)翁碑。岡鹿門の撰文。幕府老中で神道管長稲葉正邦篆額。幕末明治にわたり郡山の指導者として活躍した安積国造神社第五十九代宮司安藤脩重の事績を記したものである。


正二位三條西季知詠書碑

 三条西季知の詩が刻まれた石碑である。

 陰たかくさかゆるみれはこれも猶
 ちよ松の木におなしかりけり

 社務所の声をかけて安積艮斎記念館の鍵を開けてもらう。拝観は無料。
 安積艮斎は、寛政三年(1791)、安積国造神社第五十五代宮司安藤親重の三男に生まれた。名は重信。字は子順。通称祐助。昆斎と号した。十七歳にして志を立てて江戸に出奔し、千住で僧日明に出会い、その紹介で佐藤一斎の門に入った。継いで林述斎の門人となった。艮斎は二十四歳で江戸神田駿河台に私塾を開いて門弟を教育した。四十一歳のとき論考などをまとめて「艮斎文略」を出版。昆斎の開明的な思想が広く知られるようになった。艮斎は山水に遊ぶことを楽しみとし、その紀行文を書いた。伊豆半島を巡った「遊豆紀勝」は、芭蕉の「奥の細道」と並ぶ紀行文学と賞された。昆斎の詩文は「日本八大家文読本」「摂東七家詩鈔」「東瀛(えい)詩選」などの選集にも掲載された。
 昆斎は、渡辺崋山、高野長英らとともに尚歯会を結成し、海外知識にも通じ、西洋列強の世界侵略に強い危機感を抱いた。漢訳された洋書から情報を得て「洋外紀略」(嘉永元年)を著し、世界情勢や海防論を説いた。
 天保七年(1836)、二本松藩儒となり、天保十四年(1843)、二本松へ赴任。藩命により「明朝紀事本末」全八十巻を校訂出版し、一年半で江戸に戻った。嘉永三年(1850)、幕府の昌平坂学問所教授に就任、将軍徳川家慶に進講した。嘉永六年(1853)、ペリー来航の際、アメリカからの漢文の国書を翻訳し、開国か鎖国かと世論が分かれる中、外交意見書を提出した。同年、プチャーチンが持参したロシア国書を翻訳し、返書を起草した。門人は二千二百八十余名に上り、近代日本を開いた人材を多数輩出した。晩年は学問所内の官舎に住み、万延元年(1860)、七十歳で歿した。現在の湯島聖堂が終焉の地である。幕末、「東の安積艮斎、西の斎藤拙堂」と並び称され、三島中洲が「幕末儒宗」と称賛している。


安積艮斎記念館

 門人の中には ――― 小栗上野介、栗本鋤雲、岩崎彌太郎、前島密、吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允、木村摂津守、福地源一郎、谷干城、吉田東洋、間崎哲馬、清河八郎、斎藤竹堂、中村正直、重野安繹、三島中洲、岡鹿門、大須賀筠軒(いんけん)、松本奎堂、松林飯山、林壮軒、秋月悌次郎、南魔鋼紀、菊池三渓、岡本黄石、吉田大八、鷲津毅堂、阪谷朗蘆、神田孝平、宇田川興斎、楫取素彦、宍戸璣、倉石侗窩、安場保和、近藤長次郎 ――― と錚々たる名前が連なる。


昆斎先生之像

 銅像の題字、撰文は徳富蘇峰。誕生の地は日下部鳴鶴の書。


昌平黌教授贈従四位昆斎安積先生誕生地

(開成山公園)


開成山公園

 開成山公園は灌漑用の池として造成された五十鈴湖を中心に、明治初年に整備された公園である。明治十一年(1878)、園内には八百七十一株の桜が植樹され、今では県内屈指の桜の名所となっている。平成三年(1991)に開拓の群像碑が建立された。


開拓の群像碑


開拓の群像 大久保利通

 群像碑の足もとには、安積疏水やこの地方の開拓に功績のあった中条政恒、大久保利通、ファン・ドールンらの像が置かれている。さらに目を転じると、どういうわけだかサルや雉や鹿も台座に彫られている。

(開成山大神宮)


開成山大神宮


旧二本松藩士族 入植者の碑

 開成山公園の道路を挟んで西側にあるのが開成山大神宮である。明治六年(1873)、大槻原開墾が始まった際、習俗の異なった人びとの融和や慰安の場所として遥拝所が設けられた。明治九年(1876)には伊勢神宮の御分霊が奉還され、開成山大神宮となった。明治十二年(1879)に安積疏水の起業式が開かれ、内務卿伊藤博文らが臨席した。三年後に安積疏水が完成した際の通水式には右大臣岩倉具視、大蔵卿松方正義、農商務大臣西郷従道らの政府高官が出席している。


阿部茂兵衛銅像

 戊辰戦争で郡山の町の大半は戦火で焼失したが、明治政府は殖産興業と士族授産により復興を図った。明治五年(1872)、時の福島県典事中條政恒は「開拓告諭書」を出し、政策を推し進めた。中條に物産方(金融業)阿部茂兵衛、鴫原弥作、橋本清左衛門を加えた四人で話し合い、開成山(大槻原)開拓を決めた。町の復興を願う郡山の商人は、阿部茂兵衛を中心に二十五人が集い、明治六年(1873)四月、開成社を設立し、阿部茂兵衛を初代社長に選出した。開拓地までの道(現・さくら通り)を作り、灌漑用水池(現・五十鈴湖)を造成、心のよりどころとして開成山大神宮を勧請、そこに開拓事務所として開誠館を建設した。
 明治天皇は、明治九年(1876)と明治十四年(1881)の二度にわたって開拓されて誕生した桑野村を訪れた。この地が後の国営事業安積原野開拓と安積疏水事業に繋がり、郡山の発展の礎となった。
 阿部茂兵衛は、開拓に必要な農業用水を確保するため、明治十二年(1879)、安積疏水開削事業にも献身し、学校の整備、鉄道敷設にも奔走した。財産のほとんどを注ぎ込んで郡山の発展に尽くした。最後の仕事に移庁運動があるが、福島県庁移転の国の決定を待たずして、明治十八年(1883)没した。
 この銅像は、阿部茂兵衛の功績を称えるために昭和四年(1929)に建立された。戦時中、金属供出のため喪失したが、昭和二十八年(1953)、明治天皇に拝謁した折のモーニング姿で再建された。

 阿部茂兵衛銅像の隣には中條政恒翁頌徳碑。中條政恒は、天保十二年(1841)に、米沢藩士の長男として生まれた。藩校興譲館で学んだ後、江戸に出て学問を修め見聞を広めた。幕末には樺太移住開拓を持論とし、後に北海道開拓を提案したが採用されなかった。明治五年(1872)、福島県令安場保和に大槻原開墾の指導者として迎えられ、開成社の協力を得て明治九年(1876)には桑野村を誕生させた。明治十二年(1879)からは安積疏水開削と安積野開拓という二つの事業を推進した。碑文は大久保利通の長男利武の撰文。彫像は北村西望。


中條政恒翁頌徳碑

さらにその左には安積野開拓顕彰碑が建てられている。国営安積開拓入植百周年を記念したもの。


開拓碑

(神山霊園)
 神山(しんざん)霊園は、郡山市赤木町にあるという情報しかなかったが、自転車で走り回って探すことにした。赤木町は相当広くて、予想とおり、簡単に見付けられなかったが、諦めかけたその時、目の前に墓地が現れた。


故薩摩守正六位下安藤君之墓


重満靈神墓

 神山霊園は安積国造神社の宮司を務める安藤家累代の墓所である。昆際の父親重、兄重満(しげまろ)の墓の碑文は、いずれも昆斎の撰文。

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柳津 Ⅱ

2018年12月21日 | 福島県
(藤墓地)


忠孝院義達日勇居士(内川源吾の墓)

 柳津の内川源吾の墓も竹様の案内で訪問することができた。内川源吾(源吉とも)は、沼沢出雲家家来。慶応四年(1868)八月二十三日、若松甲賀町の主家の前で戦死。三十歳。

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会津美里 Ⅲ

2018年12月21日 | 福島県
(蛭ヶ窪墓地)


遠藤家之墓

 白鳳山の蛭ヶ窪墓地には、この地域出身の多数の藩士の墓がある。
 遠藤家の墓には従軍日記を残した遠藤平太が眠っている。
 遠藤平太は遠藤虎之助の長男。昭和五年(1930)に七十八歳で亡くなっているので、戊辰戦争に従軍した時にはわずか十六歳だったことになる。星亮一氏が平太の日記をもとに新書を著しているので、会津行きの二週間以上も前にネットで注文したが、会津から戻って一週間以上経った今もまだ手元に届いていない。
 父虎之助も戊辰戦争に従軍したが、慶応四年(1868)八月一日、越後石間口にて負傷。二十四日、中村にて死亡。四十一歳。


徳祜院釋種道順居士(水野多門の墓)

 水野多門は会津本郷焼窯元水野瀬戸右衛門家十代目。白虎寄合二番隊として越後方面に出征した。大正六年(1917)、六十六歳にて没。
 蛭ヶ窪共同墓地から街中に降りて行く途中に水野瀬戸右衛門共同窯跡がある。明治末年まで使用されていたという。この辺りは窯業が盛んであったが、戊辰戦争では多くの窯工も戦場に借り出されたのである。


水野瀬戸右衛門共同窯跡


釋種義亮信士(吉川秀蔵の墓)

 吉川秀蔵は、四石五斗二人扶持。瓦師次番格。慶応四年(1868)九月四日、会津本郷にて戦死。三十八歳。
 吉川家からは秀蔵のほか、父嘉右衛門(六十九歳)、弟吉松(十六歳)も本郷にて戦死している。


安西助十郎墓

 安西助十郎について「幕末維新全殉難者名鑑」では「戊辰役戦死」とのみ記載がある。墓石によれば、没年月日は「明治元年(1868)十二月二十四日」享年は「四十六」である。


忠道院義観日賢居士(岸清兵衛の墓)

 岸清兵衛は五石二人扶持。新領別楯隊寄合組萱野隊。慶応四年(1868)八月一日、越後赤坂山にて戦死。五十五歳。
 墓誌によれば、同じ墓域の岸清七なる人物(清兵衛の息か)も会津戦争に出陣したらしいが、生還して大正八年(1919)六十八歳で亡くなっている。

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会津坂下 Ⅲ

2018年12月21日 | 福島県
(気多宮墓地)

 心清水八幡神社を参詣した後、竹様に気多宮墓地に連れて行ってもらった。竹様によれば、五年ほど前に松平平左衛門の古い墓は建て替えられたという。


会津戊辰戦争
玄武隊 松坂平右衛門の墓

(心清水八幡神社)


心清水八幡神社


吉田松陰東北遊日記碑

 心清水八幡神社参道に吉田松陰東北遊日記の碑がある。松陰は、嘉永五年(1852)、脱藩して肥後藩の宮部鼎蔵とともに東北を遊歴した。本神社には同年二月六日に立ち寄り、宝物を拝観した。当時の祠内兵庫頭を、日新館の師範高津平蔵の紹介で訪れた。翌日は束松峠を越え、越後を経て東北を一周した。
 参道の記念碑は、松陰の「東北遊日記」から拡大してそのまま影写したもので、松陰の右肩上がりの癖のある字を楽しむことができる。

(西光寺)
 西光寺に武田惣吉の墓がある。武田惣吉は大東流合気柔術の創始者武田惣角の父。文政三年(1820)の生まれ。会津藩士。宮相撲の力士で、剣術、槍術、棒術、柔術にも長けていた。学問にも秀で、西光寺で寺小屋を開いて近所の子弟に教えていた。禁門の変にて活躍。戊辰戦争では力士隊を率いて奮戦した。会津戦争では西郷頼母隊に所属した。戦後、越後高田で謹慎。


西光寺


父母如在(武田惣吉の墓)

コメント (2)
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