(安積国造神社)
安積国造神社
さて、今回の会津の旅はこれで終わりではない。郡山で新幹線に乗り換えるまでの三時間、郡山市内で史跡を訪ねた。
駅に近いまぜっさプラザ(観光案内所?)という施設で自転車を借りる。与えられた時間は二時間半余り。効率よく回らなければならない。最初の訪問地は、安積国造神社である。まぜっさプラザから交差点を挟んで反対側にある。
安積天満宮
郡山総鎮守安積国造神社(あさかくにやっこじんじゃ)は、幕末の儒者安積艮斎(ごんさい)の生誕地である。境内には安積艮斎記念館や安積艮斎を祀る天満宮などがある。
郡山邨八幡神祠之碑
境内に古い石碑が二基建てられている。いずれに安積艮斎の撰文である。
向かって左手に立つのが、郡山邨八幡神祠之碑で、鳥取藩支藩若桜半池田冠山の銘、福山藩奥詰小島成斎篆額並びに書。文化七年()の社殿再建竣工を祝し。文化十四年()に建てられた。八幡神社の由緒や再建の経緯が記されている。
もう一つが安藤脩重(もろしげ)翁碑。岡鹿門の撰文。幕府老中で神道管長稲葉正邦篆額。幕末明治にわたり郡山の指導者として活躍した安積国造神社第五十九代宮司安藤脩重の事績を記したものである。
正二位三條西季知詠書碑
三条西季知の詩が刻まれた石碑である。
陰たかくさかゆるみれはこれも猶
ちよ松の木におなしかりけり
社務所の声をかけて安積艮斎記念館の鍵を開けてもらう。拝観は無料。
安積艮斎は、寛政三年(1791)、安積国造神社第五十五代宮司安藤親重の三男に生まれた。名は重信。字は子順。通称祐助。昆斎と号した。十七歳にして志を立てて江戸に出奔し、千住で僧日明に出会い、その紹介で佐藤一斎の門に入った。継いで林述斎の門人となった。艮斎は二十四歳で江戸神田駿河台に私塾を開いて門弟を教育した。四十一歳のとき論考などをまとめて「艮斎文略」を出版。昆斎の開明的な思想が広く知られるようになった。艮斎は山水に遊ぶことを楽しみとし、その紀行文を書いた。伊豆半島を巡った「遊豆紀勝」は、芭蕉の「奥の細道」と並ぶ紀行文学と賞された。昆斎の詩文は「日本八大家文読本」「摂東七家詩鈔」「東瀛(えい)詩選」などの選集にも掲載された。
昆斎は、渡辺崋山、高野長英らとともに尚歯会を結成し、海外知識にも通じ、西洋列強の世界侵略に強い危機感を抱いた。漢訳された洋書から情報を得て「洋外紀略」(嘉永元年)を著し、世界情勢や海防論を説いた。
天保七年(1836)、二本松藩儒となり、天保十四年(1843)、二本松へ赴任。藩命により「明朝紀事本末」全八十巻を校訂出版し、一年半で江戸に戻った。嘉永三年(1850)、幕府の昌平坂学問所教授に就任、将軍徳川家慶に進講した。嘉永六年(1853)、ペリー来航の際、アメリカからの漢文の国書を翻訳し、開国か鎖国かと世論が分かれる中、外交意見書を提出した。同年、プチャーチンが持参したロシア国書を翻訳し、返書を起草した。門人は二千二百八十余名に上り、近代日本を開いた人材を多数輩出した。晩年は学問所内の官舎に住み、万延元年(1860)、七十歳で歿した。現在の湯島聖堂が終焉の地である。幕末、「東の安積艮斎、西の斎藤拙堂」と並び称され、三島中洲が「幕末儒宗」と称賛している。
安積艮斎記念館
門人の中には ――― 小栗上野介、栗本鋤雲、岩崎彌太郎、前島密、吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允、木村摂津守、福地源一郎、谷干城、吉田東洋、間崎哲馬、清河八郎、斎藤竹堂、中村正直、重野安繹、三島中洲、岡鹿門、大須賀筠軒(いんけん)、松本奎堂、松林飯山、林壮軒、秋月悌次郎、南魔鋼紀、菊池三渓、岡本黄石、吉田大八、鷲津毅堂、阪谷朗蘆、神田孝平、宇田川興斎、楫取素彦、宍戸璣、倉石侗窩、安場保和、近藤長次郎 ――― と錚々たる名前が連なる。
昆斎先生之像
銅像の題字、撰文は徳富蘇峰。誕生の地は日下部鳴鶴の書。
昌平黌教授贈従四位昆斎安積先生誕生地
(開成山公園)
開成山公園
開成山公園は灌漑用の池として造成された五十鈴湖を中心に、明治初年に整備された公園である。明治十一年(1878)、園内には八百七十一株の桜が植樹され、今では県内屈指の桜の名所となっている。平成三年(1991)に開拓の群像碑が建立された。
開拓の群像碑
開拓の群像 大久保利通
群像碑の足もとには、安積疏水やこの地方の開拓に功績のあった中条政恒、大久保利通、ファン・ドールンらの像が置かれている。さらに目を転じると、どういうわけだかサルや雉や鹿も台座に彫られている。
(開成山大神宮)
開成山大神宮
旧二本松藩士族 入植者の碑
開成山公園の道路を挟んで西側にあるのが開成山大神宮である。明治六年(1873)、大槻原開墾が始まった際、習俗の異なった人びとの融和や慰安の場所として遥拝所が設けられた。明治九年(1876)には伊勢神宮の御分霊が奉還され、開成山大神宮となった。明治十二年(1879)に安積疏水の起業式が開かれ、内務卿伊藤博文らが臨席した。三年後に安積疏水が完成した際の通水式には右大臣岩倉具視、大蔵卿松方正義、農商務大臣西郷従道らの政府高官が出席している。
阿部茂兵衛銅像
戊辰戦争で郡山の町の大半は戦火で焼失したが、明治政府は殖産興業と士族授産により復興を図った。明治五年(1872)、時の福島県典事中條政恒は「開拓告諭書」を出し、政策を推し進めた。中條に物産方(金融業)阿部茂兵衛、鴫原弥作、橋本清左衛門を加えた四人で話し合い、開成山(大槻原)開拓を決めた。町の復興を願う郡山の商人は、阿部茂兵衛を中心に二十五人が集い、明治六年(1873)四月、開成社を設立し、阿部茂兵衛を初代社長に選出した。開拓地までの道(現・さくら通り)を作り、灌漑用水池(現・五十鈴湖)を造成、心のよりどころとして開成山大神宮を勧請、そこに開拓事務所として開誠館を建設した。
明治天皇は、明治九年(1876)と明治十四年(1881)の二度にわたって開拓されて誕生した桑野村を訪れた。この地が後の国営事業安積原野開拓と安積疏水事業に繋がり、郡山の発展の礎となった。
阿部茂兵衛は、開拓に必要な農業用水を確保するため、明治十二年(1879)、安積疏水開削事業にも献身し、学校の整備、鉄道敷設にも奔走した。財産のほとんどを注ぎ込んで郡山の発展に尽くした。最後の仕事に移庁運動があるが、福島県庁移転の国の決定を待たずして、明治十八年(1883)没した。
この銅像は、阿部茂兵衛の功績を称えるために昭和四年(1929)に建立された。戦時中、金属供出のため喪失したが、昭和二十八年(1953)、明治天皇に拝謁した折のモーニング姿で再建された。
阿部茂兵衛銅像の隣には中條政恒翁頌徳碑。中條政恒は、天保十二年(1841)に、米沢藩士の長男として生まれた。藩校興譲館で学んだ後、江戸に出て学問を修め見聞を広めた。幕末には樺太移住開拓を持論とし、後に北海道開拓を提案したが採用されなかった。明治五年(1872)、福島県令安場保和に大槻原開墾の指導者として迎えられ、開成社の協力を得て明治九年(1876)には桑野村を誕生させた。明治十二年(1879)からは安積疏水開削と安積野開拓という二つの事業を推進した。碑文は大久保利通の長男利武の撰文。彫像は北村西望。
中條政恒翁頌徳碑
さらにその左には安積野開拓顕彰碑が建てられている。国営安積開拓入植百周年を記念したもの。
開拓碑
(神山霊園)
神山(しんざん)霊園は、郡山市赤木町にあるという情報しかなかったが、自転車で走り回って探すことにした。赤木町は相当広くて、予想とおり、簡単に見付けられなかったが、諦めかけたその時、目の前に墓地が現れた。
故薩摩守正六位下安藤君之墓
重満靈神墓
神山霊園は安積国造神社の宮司を務める安藤家累代の墓所である。昆際の父親重、兄重満(しげまろ)の墓の碑文は、いずれも昆斎の撰文。
安積国造神社
さて、今回の会津の旅はこれで終わりではない。郡山で新幹線に乗り換えるまでの三時間、郡山市内で史跡を訪ねた。
駅に近いまぜっさプラザ(観光案内所?)という施設で自転車を借りる。与えられた時間は二時間半余り。効率よく回らなければならない。最初の訪問地は、安積国造神社である。まぜっさプラザから交差点を挟んで反対側にある。
安積天満宮
郡山総鎮守安積国造神社(あさかくにやっこじんじゃ)は、幕末の儒者安積艮斎(ごんさい)の生誕地である。境内には安積艮斎記念館や安積艮斎を祀る天満宮などがある。
郡山邨八幡神祠之碑
境内に古い石碑が二基建てられている。いずれに安積艮斎の撰文である。
向かって左手に立つのが、郡山邨八幡神祠之碑で、鳥取藩支藩若桜半池田冠山の銘、福山藩奥詰小島成斎篆額並びに書。文化七年()の社殿再建竣工を祝し。文化十四年()に建てられた。八幡神社の由緒や再建の経緯が記されている。
もう一つが安藤脩重(もろしげ)翁碑。岡鹿門の撰文。幕府老中で神道管長稲葉正邦篆額。幕末明治にわたり郡山の指導者として活躍した安積国造神社第五十九代宮司安藤脩重の事績を記したものである。
正二位三條西季知詠書碑
三条西季知の詩が刻まれた石碑である。
陰たかくさかゆるみれはこれも猶
ちよ松の木におなしかりけり
社務所の声をかけて安積艮斎記念館の鍵を開けてもらう。拝観は無料。
安積艮斎は、寛政三年(1791)、安積国造神社第五十五代宮司安藤親重の三男に生まれた。名は重信。字は子順。通称祐助。昆斎と号した。十七歳にして志を立てて江戸に出奔し、千住で僧日明に出会い、その紹介で佐藤一斎の門に入った。継いで林述斎の門人となった。艮斎は二十四歳で江戸神田駿河台に私塾を開いて門弟を教育した。四十一歳のとき論考などをまとめて「艮斎文略」を出版。昆斎の開明的な思想が広く知られるようになった。艮斎は山水に遊ぶことを楽しみとし、その紀行文を書いた。伊豆半島を巡った「遊豆紀勝」は、芭蕉の「奥の細道」と並ぶ紀行文学と賞された。昆斎の詩文は「日本八大家文読本」「摂東七家詩鈔」「東瀛(えい)詩選」などの選集にも掲載された。
昆斎は、渡辺崋山、高野長英らとともに尚歯会を結成し、海外知識にも通じ、西洋列強の世界侵略に強い危機感を抱いた。漢訳された洋書から情報を得て「洋外紀略」(嘉永元年)を著し、世界情勢や海防論を説いた。
天保七年(1836)、二本松藩儒となり、天保十四年(1843)、二本松へ赴任。藩命により「明朝紀事本末」全八十巻を校訂出版し、一年半で江戸に戻った。嘉永三年(1850)、幕府の昌平坂学問所教授に就任、将軍徳川家慶に進講した。嘉永六年(1853)、ペリー来航の際、アメリカからの漢文の国書を翻訳し、開国か鎖国かと世論が分かれる中、外交意見書を提出した。同年、プチャーチンが持参したロシア国書を翻訳し、返書を起草した。門人は二千二百八十余名に上り、近代日本を開いた人材を多数輩出した。晩年は学問所内の官舎に住み、万延元年(1860)、七十歳で歿した。現在の湯島聖堂が終焉の地である。幕末、「東の安積艮斎、西の斎藤拙堂」と並び称され、三島中洲が「幕末儒宗」と称賛している。
安積艮斎記念館
門人の中には ――― 小栗上野介、栗本鋤雲、岩崎彌太郎、前島密、吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允、木村摂津守、福地源一郎、谷干城、吉田東洋、間崎哲馬、清河八郎、斎藤竹堂、中村正直、重野安繹、三島中洲、岡鹿門、大須賀筠軒(いんけん)、松本奎堂、松林飯山、林壮軒、秋月悌次郎、南魔鋼紀、菊池三渓、岡本黄石、吉田大八、鷲津毅堂、阪谷朗蘆、神田孝平、宇田川興斎、楫取素彦、宍戸璣、倉石侗窩、安場保和、近藤長次郎 ――― と錚々たる名前が連なる。
昆斎先生之像
銅像の題字、撰文は徳富蘇峰。誕生の地は日下部鳴鶴の書。
昌平黌教授贈従四位昆斎安積先生誕生地
(開成山公園)
開成山公園
開成山公園は灌漑用の池として造成された五十鈴湖を中心に、明治初年に整備された公園である。明治十一年(1878)、園内には八百七十一株の桜が植樹され、今では県内屈指の桜の名所となっている。平成三年(1991)に開拓の群像碑が建立された。
開拓の群像碑
開拓の群像 大久保利通
群像碑の足もとには、安積疏水やこの地方の開拓に功績のあった中条政恒、大久保利通、ファン・ドールンらの像が置かれている。さらに目を転じると、どういうわけだかサルや雉や鹿も台座に彫られている。
(開成山大神宮)
開成山大神宮
旧二本松藩士族 入植者の碑
開成山公園の道路を挟んで西側にあるのが開成山大神宮である。明治六年(1873)、大槻原開墾が始まった際、習俗の異なった人びとの融和や慰安の場所として遥拝所が設けられた。明治九年(1876)には伊勢神宮の御分霊が奉還され、開成山大神宮となった。明治十二年(1879)に安積疏水の起業式が開かれ、内務卿伊藤博文らが臨席した。三年後に安積疏水が完成した際の通水式には右大臣岩倉具視、大蔵卿松方正義、農商務大臣西郷従道らの政府高官が出席している。
阿部茂兵衛銅像
戊辰戦争で郡山の町の大半は戦火で焼失したが、明治政府は殖産興業と士族授産により復興を図った。明治五年(1872)、時の福島県典事中條政恒は「開拓告諭書」を出し、政策を推し進めた。中條に物産方(金融業)阿部茂兵衛、鴫原弥作、橋本清左衛門を加えた四人で話し合い、開成山(大槻原)開拓を決めた。町の復興を願う郡山の商人は、阿部茂兵衛を中心に二十五人が集い、明治六年(1873)四月、開成社を設立し、阿部茂兵衛を初代社長に選出した。開拓地までの道(現・さくら通り)を作り、灌漑用水池(現・五十鈴湖)を造成、心のよりどころとして開成山大神宮を勧請、そこに開拓事務所として開誠館を建設した。
明治天皇は、明治九年(1876)と明治十四年(1881)の二度にわたって開拓されて誕生した桑野村を訪れた。この地が後の国営事業安積原野開拓と安積疏水事業に繋がり、郡山の発展の礎となった。
阿部茂兵衛は、開拓に必要な農業用水を確保するため、明治十二年(1879)、安積疏水開削事業にも献身し、学校の整備、鉄道敷設にも奔走した。財産のほとんどを注ぎ込んで郡山の発展に尽くした。最後の仕事に移庁運動があるが、福島県庁移転の国の決定を待たずして、明治十八年(1883)没した。
この銅像は、阿部茂兵衛の功績を称えるために昭和四年(1929)に建立された。戦時中、金属供出のため喪失したが、昭和二十八年(1953)、明治天皇に拝謁した折のモーニング姿で再建された。
阿部茂兵衛銅像の隣には中條政恒翁頌徳碑。中條政恒は、天保十二年(1841)に、米沢藩士の長男として生まれた。藩校興譲館で学んだ後、江戸に出て学問を修め見聞を広めた。幕末には樺太移住開拓を持論とし、後に北海道開拓を提案したが採用されなかった。明治五年(1872)、福島県令安場保和に大槻原開墾の指導者として迎えられ、開成社の協力を得て明治九年(1876)には桑野村を誕生させた。明治十二年(1879)からは安積疏水開削と安積野開拓という二つの事業を推進した。碑文は大久保利通の長男利武の撰文。彫像は北村西望。
中條政恒翁頌徳碑
さらにその左には安積野開拓顕彰碑が建てられている。国営安積開拓入植百周年を記念したもの。
開拓碑
(神山霊園)
神山(しんざん)霊園は、郡山市赤木町にあるという情報しかなかったが、自転車で走り回って探すことにした。赤木町は相当広くて、予想とおり、簡単に見付けられなかったが、諦めかけたその時、目の前に墓地が現れた。
故薩摩守正六位下安藤君之墓
重満靈神墓
神山霊園は安積国造神社の宮司を務める安藤家累代の墓所である。昆際の父親重、兄重満(しげまろ)の墓の碑文は、いずれも昆斎の撰文。