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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

東中野 Ⅳ

2020年08月08日 | 東京都

(源通寺)

 

源通寺

 

 源通寺墓地を入ると直ぐに河竹黙阿弥の墓がある(中野区上高田1-2-7)。

 

二世河竹新七事 河竹黙阿弥墓

 

 河竹黙阿弥は、江戸末期から明治中頃に活躍した劇作家。本姓は吉村。黙阿弥は、鼠小僧次郎吉を義賊にした作品を始め、「三人吉三」や「白波五人男」など盗賊を主人公とした生世話(きぜわ)狂言で、世相を写実的に描く近代演劇への道を開いた。しかし、幕府が写実的傾向を禁じて、勧善懲悪を奨励したため、作風の転換を強いられ、その後、幕末・維新期の激動する社会の中で、江戸時代後期の歌舞伎の創作法を整理・集大成し、坪内逍遥に「真に江戸演劇の大問屋」と称される仕事を成し遂げた。黙阿弥の作品は、四代市川小団次をはじめとする歴代の名優によって演じられた。明治四十一年(1908)、源通寺が移転した折、黙阿弥の墓も浅草から移された。

 

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浅草 Ⅷ

2020年08月08日 | 東京都

(浅草神社)

 

浅草神社

 

 浅草寺に隣接している浅草神社境内に河竹黙阿弥の顕彰碑が建てられている(台東区浅草2-3-1)

 

河竹黙阿弥顕彰碑

 

 東京百年を記念して昭和四十三年(1968)に建立されたものである。

 

(仲見世会館)

 仲見世商店街から一筋入った仲見世会館の前に河竹黙阿弥住居跡碑が建てられている(台東区浅草1-36-4)。

 黙阿弥が浅草に住居を移したのは、天保の改革による江戸三座の猿若町移転に伴うもので、弘化年間、黙阿弥三十歳頃と考えられる。その後、明治二十年(1887)までの約四十年間を当地で過ごし、数々の名作を生みだした。

 

河竹黙阿弥翁住居跡之碑

 

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浅草橋 Ⅳ

2020年08月08日 | 東京都

(第六天榊神社)

 

第六天榊神社

 

 第六天榊神社境内には、浅草文庫碑と蔵前工業學園之蹟碑という二つの石碑がある(台東区蔵前1-4-3)。

 

浅草文庫碑

 

 浅草文庫は、明治七年(1874)七月に創立された官立の図書館である。翌八年に開館し、公私の閲覧に供した。当時の和・漢・洋の蔵書数は十一万余冊とも十三万余冊ともいわれている。現在、その蔵書は効率公文書館内閣文庫や国立国会図書館、東京国立博物館などに所蔵され、太政大臣三条実美の筆跡と伝えられる「浅草文庫」の朱印が押されている。

 明治十四年(1881)五月、閉鎖。跡地は翌明治十五年(1882)、東京職工学校(旧東京高等工業学校、現東京工業大学)の敷地の一部となった。

 この場所が榊神社となったのは昭和三年(1928)のことである。浅草文庫碑は、昭和十五年(1940)建立。三条実美の題字。

 

蔵前工業學園之蹟碑

 

 この石碑は、当地にあった東京高等工業高校(現・東京工業大学)を記念し、昭和十八年(1943)、工業教育発祥の地として同窓会の蔵前工業会が建立したものである。

 明治十四年(1881)、工業指導者の養成を目的として、東京職工学校として創設された。「職工」という言葉の評判が芳しくなく、明治二十三年(1890)、東京工業学校と改称され、さらに明治三十四年(1901)には東京高等工業学校と改められた。当時の敷地は、墨田川に沿って面積四万三千平方メートルに及んでいた。石碑のある当たりが正門の位置に当たる。大正十二年(1923)の関東大震災により校舎、工場塔が灰塵に帰したため、当地での再建を断念、目黒区大岡山に移転した。

 

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王子 Ⅴ

2020年08月01日 | 東京都

(サンスクエア)

 王子駅前の喧騒の中に一つの青銅製の碑がある。題字は「洋紙発祥之碑」と読める(北区王子1-4-12)。

 

洋紙発祥之碑

 

 明治六年(1873)、欧州を視察して帰国した渋沢栄一が抄紙会社を設立し、王子に製紙会社を作ったことが我が国における洋紙生産の始まりといわれる。

 当時は、この周辺は田園が広がっていた。その中で煙を吐く煉瓦造りの工場は東京の新名所にもなった。昭和二十年(1945)、戦災によりその歴史を閉じた。この碑は工場創立八十周年を記念して、昭和二十八年(1953)に建てられたものである。

 

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西ヶ原

2020年08月01日 | 東京都

(花と森の東京病院)

 

花と森の東京病院

 

 地下鉄南北線西ヶ原駅を地上にでたところに花と森の東京病院がある(北区西ヶ原2-3-6)。病院の前に「東京高等蚕糸学校発祥之地」と書かれた石碑が置かれている。

 

東京高等蚕糸学校発祥之地

 

 石碑の記述によれば、当初麹町内山下町からこの地に移転し、当時は農商務省蚕病試験場と呼ばれていた。その後、明治二十九年(1896)には農商務省蚕業講習所と改称され、大正三年(1914)には文部省に移管されて東京高等蚕糸学校となった。昭和十五年(1940)に東京都小金井市に移転し、東京繊維専門学校と改称された。現在の東京農工大学の前身である。

 

(西ヶ原一里塚)

 

二本榎保存之碑

 

 花と森の東京病院から百メートルほど王子よりの道路沿いに一里塚がある。西ヶ原一里塚は日本橋を起点とした日光御成道の二番目の一里塚で、今も一対の塚が現存している(北区西ヶ原2-47)。

 大正五年(1916)、東京市電の軌道延長工事の際、この一里塚が路線上にあったことから撤去される計画が持ち上がった。これを聞きつけた渋沢栄一や当時の東京市長、滝野川町長ら地域住民の運動により保存に成功した。車道側の塚の上にある「二本榎保存之碑」にはぎっしりと文字が書き連ねてあるが、保存に至った経緯が記されたものである。題字は公爵徳川家達。撰文は文学博士三上参次。書は阪正臣。

 残念ながらこの時保存された榎は枯死してしまい、現在見られるのは新たに植え替えられたものである。

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門前仲町 Ⅳ

2020年08月01日 | 東京都

(プラウド門前仲町ディアージュ)

 佐賀一丁目のマンションの前に「赤穂義士休息の地」を表す石碑が建てられている(江東区佐賀1-6-2)。

 

赤穂義士休息の地

 

 ちくま味噌は、元禄元年(1688)、伊勢の商人竹口家により創業された。創業者竹口勝義は、赤穂浪士の大高源吾と俳諧を通じた友人で、一行が本懐を遂げて泉岳寺に引上げる際に店先で甘酒をふるまったという。ここにあるのは、そのことを記念した石碑で、建碑は昭和二十八年(1953)、ちくま味噌十六代竹口作兵衛による。幕末の当主竹口信義は、伊勢の豪商竹川家から養子に入った人で、実兄は竹川竹斎である。竹斎は実弟の信義を通じて勝海舟への経済的支援を行ったという。

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清澄白河 Ⅵ

2020年08月01日 | 東京都

(アサノコンクリート深川工場)

 

本邦セメント工業発祥の地

 

 アサノコンクリート深川工場の前に「本邦セメント工業発祥の地」碑が建てられている(江東区清澄1-2-8)。

 この場所は元仙台藩の蔵屋敷のあったところで、明治五年(1872)、大蔵省土木寮によりセメント工場が建設された。明治七年(1874)、工部省の所管となり、深川製作寮出張所と改められた。技師宇都宮三郎により湿式焼成法が採用され、我が国では初めて外国品に劣らない品質のセメントが製造された。明治十六年(1883)、浅野総一郎の経営に移った。明治三十一年(1898)には浅野セメント合資会社が創立され、その本社工場となった。

 

 本邦セメント工業発祥の地の傍らには明治二十七年(1894)に製造されたコンクリートブロックが陳列されている。明治二十二年(1889)~二十九年(1896)に行われた横浜築港工事の際、その防堤基礎用として製造されて海中に沈設されたもので、昭和六年(1931)に同港改築に際して引き上げられた。三十七年間、海中にあったわけだが、損傷は認められず、優れた製品であったことを物語っている。

 

明治二十七年に製造された

コンクリートブロック

 

浅野総一郎像

 

 一代で浅野財閥を築き上げた浅野総一郎の像である。

 ここからさらに隅田川の方に歩いていくと「平賀源内電気実験の地」碑がある。

 

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森下

2020年08月01日 | 東京都

(五間堀公園)

 地下鉄森下駅の北側の出口を地上にでたところに五間堀公園がある(江東区森下2-30-7)。この細長い公園は、五間堀と呼ばれた江戸時代の水路の跡である。五間堀が開削されたのは、明暦の大火(1657)により付近一帯が再開発された万治年間(1658~60)かその前といわれる。

 明治八年(1875)、付近の地主であった徳川義宜(よしのり)によって堀り進められ、明治十年(1877)頃には小名木川まで貫通した。しかし、昭和十一年(1936)と昭和三十年(1955)、二度にわたる埋め立てにより五間堀は全て姿を消した。

 

五間堀公園

 

(大久保稲荷神社)

 五間堀公園のすぐ近くに大久保稲荷神社という小さな神社がある(江東区森下2-31)。

 

大久保稲荷神社

 

 大久保稲荷は、この辺りにあった旗本大久保豊後守家の屋敷の名残である。慶應四年(1868)三月、勝沼での戦いに敗れた新選組は敗戦後、大久保邸で落ち合う予定だったという(「江戸東京の幕末・維新・開化を歩く」黒田涼著光文社知恵の森文庫)。

 

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