史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

亀山 井田川

2020年08月22日 | 三重県

(和田神社)

今度は亀山から関西線を一駅四日市側に戻り、井田川駅を起点に一時間の散歩である。まず和田神社を訪ねる。

 

和田神社

 

 本殿脇に「大元帥陛下御駐輦之地」碑がある。同じ和田町の石上寺付近にあったものが移築された。明治天皇が当地に滞在したのは、明治十三年(1880)七月十一日のことである。

 

大元帥陛下御駐輦之地

 

(駒止めの松)

 

明治天皇雩山天覧所迹

 

 川合町とみどり町の境界付近に明治十三年(1880)の明治天皇行幸から百年を記念して「駒止めの松」碑が建てられている。その横に明治天皇が明治十三年(1880)七月十一日に滞在したことを記念した石碑が建てられている。

 汗だくになってここまで来たとき、近所の方が草刈り機を使って雑草を刈っている最中であった。しばらく石碑に近づくことができず、亀山に戻る電車に乗り遅れるのではないかと気が気でなかったが、無事に写真を撮り終えて、走るようにして井田川駅に戻った。

 

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亀山 関町

2020年08月22日 | 三重県

(東の追分)

 

東の追分 大鳥居

 

 亀山からJRで一駅西に移動して関の街を歩く。関は古代から交通の要衝であり、古代三関の一つ、鈴鹿の関が置かれたところである。江戸時代には東海道五十三次の江戸から数えて四十七番目の宿場町として参勤交代や伊勢参りの人びとで賑わった。現在、東海道上にあって唯一歴史的な街並みが残る場所となっている。東の追分から西の追分まで約一・八キロメートルにわたって伝統的な建物が連なる景観は見事である。

 

東海道関宿

 

(大井家)

 大井家は代々玄庵と名乗る医家であった。明治初年には西洋医学を学び、種痘医として、また眼科、産科、内科医として地域医療に活躍した。今も当家には「本草綱目」などの医学書のほか、江戸末期の往診用の駕籠や医療機器などが遺されている。

 

大井家

 

(延命寺)

 延命寺の山門は、明治五年(1872)に川北本陣から移築されたもので、川北本陣の現存する唯一の遺構である。彫刻の形式などから十七世紀後期の建築とみられる。屋根の鬼瓦に川北家の家紋である三蓋松が彫られている。

 

延命寺

 

延命寺山門

 

(川北本陣跡)

 

川北本陣跡

 

 川北家は関宿に二つあった本陣の一つで、慶長年間(1596~1615)の頃から明治三年(1870)に廃止されるまで、代々関宿の本陣を務めた。石碑が建てられている以外、当時の遺構らしきものは残っていない。

 明治元年(1868)九月二十三日から翌日にかけて、さらに同年十二月十九日から翌日、明治二年(1869)三月九日から翌日にかけて、川北本陣は明治天皇の行在所となった。

 

(伊藤本陣阯)

 伊藤本陣は、川北本陣と並んで東海道関宿の中心的な役割を果たした家である。伊藤本陣は間口十一間余、建坪六十九坪、西陣の表門は唐破風造りの檜皮葺きであった。

 

伊藤本陣阯

 

 伊藤本陣近くの関郵便局は高札場の跡であり、郵便局前には往時の高札場が復元されている。

 

関宿高札場跡

 

(福蔵寺)

 福蔵寺には織田信長の三男信孝の墓や孝女の仇討で知られる「関の小万」の記念碑がある。

 織田信孝は、本能寺の変で憤死した信長の冥福を祈るため、福蔵寺を建立した。信孝は秀吉との後継を巡る争いに敗れ、天正十一年(1583)、尾張の野間にて自害した。当山に首が運ばれ、以来、信孝の菩提寺とされている。長らく墓石は不明であったが、四百年忌を迎え、菩提を弔うため建立された墓が境内にある。また、本堂には創建当時から信孝の位牌が祀られている。

 

福蔵寺

 

龍巌徳公大禅定門位菩提

(織田三七平朝臣信孝卿)

 

 織田信孝の幼名は三七丸という。三月七日に生まれたからである。同じ誕生日に生まれた者として、個人的にはもう少し活躍して欲しかったと思うのである。

 

関の小萬碑

 

 関の小万の父は、九州久留米有馬氏の家来で、剣道指南役牧藤左衛門といった。遺恨により同輩の小林軍太夫に殺された。牧藤左衛門の妻は、身重の身体で夫の仇を討つため旅に出たが、鈴鹿峠を越え、関宿についた頃には旅の疲れが重なって、地蔵院前の旅籠山田屋(現、会津屋)の前まで来たときには行き倒れ同様の有様であった。

山田屋の主人と女将に助けられ、手厚く看病され、女はそこで女児を産んだ。それが小万である。女はまもなく、子供の将来を宿の主人に託して亡くなった。成長した小万は養父母から両親のことを聞かされ、女の身ながら亡き母の志を継いで亡父の仇討ちをする決心をする。天明三年(1783)八月、小万は、馬子姿に変装して亀山城大手前の辻で仇を待ち受け、見事本懐を遂げた。小万はその後も山田屋にとどまって養父母に仕え、享和三年(1803)、三十六歳の若さで死んだ。

 

(会津屋)

 地蔵院前の会津屋は関宿を代表する旅籠の一つである。もとは山田屋といい、小万が育ったことでも知られる。二階に洋風意匠の窓がついた洋館屋、米をつく水車の音から名付けられた川音、伝統ある鍛冶屋などが並ぶ。

 

会津屋

 

(地蔵院)

 地蔵院には明治十三年(1880)、七月十日と十二日に明治天皇が滞在した。御座所となった書院は、今も行在所と呼ばれ、部屋には「鳳凰台」と墨書された横額がかかっている。残念ながら公開はされておらず、建物の写真を撮るにとどまった。

 

地蔵院

 

明治天皇關行在所

 

(重要伝統的建造物群)

 

関宿の街並み

 

 関宿の街並みはまだ続く。一見の価値はある。写真ではなかなか伝わらないので、自ら足を運ぶことをお勧めしたい。

 

 

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亀山 Ⅲ

2020年08月22日 | 三重県

(亀山中学校)

 

藩校明倫舎跡

 

 亀山中学校の前に藩校明倫舎跡碑が建てられている。亀山藩校明倫舎は、第四代藩主石川総博が天明二年(1785)に開設したもので、明治二年(1869)には明倫館と改称されて、明治四年(1871)まで続いた。

 

(善導寺)

 

善導寺

 

柴田右仲の墓

 

 善導寺には、朱子学者柴田右仲の墓がある。柴田右仲(1770~1836)は、亀山藩主石川家に仕え、藩校明倫舎の学頭に任じられた。

 

(宗英寺)

 四月に緊急事態宣言が発せられて以来、すっかり都外の史跡から遠のいている。ほぼ半年振りに出張の機会を得たので、私費で前泊して亀山周辺の史跡を訪ねた。九州や東北に豪雨をもたらした梅雨は異例の長さで、七月末というのにまだ梅雨明け宣言が出されていない。この日は雨こそ降らなかったが、異様に湿度の高い一日であった。

 最初の訪問地は、宗英寺である。四時半に起床してホテルから歩いて十五分程度で行き着く。到着したころにちょうど日の出を迎えた。

 

宗英寺

 

 宗英寺の門前には樹齢約六百年といわれるイチョウの巨木が屹立している。幹の周りは約八メートル、樹高約四十メートルという巨樹で、樹勢はいまも旺盛である。幕末明治という激動の時代、街道を行き交う人々をこのイチョウの樹が見下ろしていたのであろう。まさに歴史の生き証人である。

 

宗英寺のイチョウ

 

山嵜雪柳軒之墓

 

 宗英寺には山崎雪柳軒の墓がある。

 山崎雪柳軒は、伊庭是水軒の起こした心形刀流を修めて帰郷し、亀山に道場を開いた。心形刀流は藩の流儀となり、今も亀山に継承されている。

 

 伊庭八郎の「従西日記」によれば、元治元年(1864)六月、京都での任務を終えた伊庭八郎は実弟三郎を伴って関から亀山に入っている。三郎が病気にかかったこともあり、亀山には八日も逗留している。亀山では山崎雪柳軒(日記では利右衛門)が頻繁に八郎の宿を訪ねていて、食事や菓子の差し入れや医者の世話までしている。雪柳軒にしてみれば、心形刀流の宗家の後継者であり、江戸で世話になった伊庭秀業の実子であり、秀俊の養子という重要人物なのである。非常に手厚くもてなしたことが見てとれる。

 

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