お袋の日記は、亡くなる半年前に途絶えたものを最後になったけれど、
それまでに書き綴っていた大量な数の日記を、僕の秘密基地で保管したままになっていた。
それを見つけた最初の頃こそ、ずいぶん目を通したけれど、暫くしてからそれもやめた。
読んでいて、何だか悲しくなったというのが理由なんだけどね。
その日記を片付けようと、たまたま一番上にあった昭和62年の日記が目に入り、それを開いてみた。
昭和62年というと、僕が今の会社に入社した年。
その当時は、まだ独身でウィンドサーフィン三昧の生活だった頃。
お袋の日記には、『ゆうじくんは、正月から帰って来ない』とか、
一日に1回は、僕の事を記述してあった。
考えてみれば、その頃は兄貴と姉貴は海外に居住していたし、
弟も結婚し、相手の親と同居していて、兄弟で家に居たのは僕だけだった。
僕の家庭は父親が火災保険の営業をやっていて、何故か親父には
大口のお客さんが沢山居た関係で、地方の支店や営業所への
転勤が3~5年の周期で頻繁にあった。
兄貴と姉貴は東京勤務時代に生まれ、その後親父は宮城県の
仙台支店に転勤になり、東北大学病院で僕と弟が生まれた。
僕が5歳のときに埼玉県の浦和へ転勤になり、駅から2分くらいのところに
支店と併設した一軒家の社宅へ引っ越した。
兄貴は中学校進学と共に、お袋の実家である荻窪の中学校へ
祖父母の家から通うようになって、別々に暮らすようになった。
4年住んだ浦和から、今度は埼玉県熊谷市に転勤。そこで4年間暮らした。
4年後に今度は東京勤務になり、保谷市(現西東京)へ引っ越した。
姉貴はその時をきっかけに荻窪の高校へ編入試験を経て入学。
その後、弟が中学校入学をきっかけに荻窪へ移住。
兄弟3人は、祖父母の元から学校へ通うようになった。
そんな訳で4人兄弟で、一回も両親から離れず暮らしたのは僕一人。
親父は若い頃に両親を失い、お袋は一人っ子。
そんなこともあって、いずれはお袋の両親の面倒を看ようと考えていたのだろう。
お袋の実家である荻窪の家を建て直して、祖父母を含めた8人で暮らすことになった。
その後すぐに、兄貴は商船大学の寮に移り、卒業後は就職して家を出た。
弟も大学卒業後、長いこと付き合っていた彼女と結婚。
彼女の家は2人姉妹で、お姉さんが結婚して家を出た関係で、
彼女の両親と一緒に暮らすことになって、家を出て行った。
その間に祖父、親父が他界して、家は祖母、お袋、姉貴と僕の4人になった。
姉貴はずっと独身で過ごし、僕と一緒に暮らしていたが、
その後、狭き門の日本人学校の教員試験に合格してオーストラリアに移住。
現地で知り合った男性と国際結婚して、そのままシドニーに在住となった。
結果的に、僕が祖母とお袋と一緒に暮らすことになった。
僕が31歳のときに結婚し、初めて家を出た。
と言っても、家には殆ど居なかったんだけどね。
そんなこともあって、僕はお袋にとってずっと子供のまま。
一旦出かけると数日帰ってこない僕を、いつも心配して居たんだなあと
今更のように思う。
そんなお袋の心情や、開くと必ず『ゆうじくん』がどこかに書いてある日記。
僕の知らなかった心の葛藤が綴られている日記を、簡単には捨てられずに居る。
でも、来年はそういった物を整理する時期に来ている気がします。
過去を捨てるのではない、一つの区切りをつけるためにです。