映画とライフデザイン

大好きな映画の感想、おいしい食べ物、本の話、素敵な街で感じたことなどつれづれなるままに歩きます。

夏目漱石原作 映画「こころ」 新珠三千代&森雅之&市川崑

2021-06-30 09:35:23 | 映画(日本 昭和34年以前)
夏目漱石原作映画「こころ」を名画座で観てきました。


「こころ」はご存知夏目漱石の古典的小説の映画化である。昭和30年(1955年)の市川崑監督作品だ。名画座の新珠三千代特集で見ておきたかった作品である。実は「こころ」が映画化されていること自体知らなかった。高校二年生の時、夏休みの課題でこの小説を読むように言われた。読み始めてみると、グイッと引き寄せられた。そして心にドッシリと残った。その後30 代に骨折で入院したとき読んだので、結局2回通読している。肝心なあらすじは頭に残っているが、ディテイルはすっかり忘れていた。

インテリだけれども無職の男性(森雅之)と彼を先生とあがめる大学生(安井昌二)が交友関係を深める中で、先生がのちに妻となる下宿先の娘(新珠三千代)と先生と幼なじみの下宿人(三橋達也)を含めた学生時代の三角関係の顛末を今だに悩んでいることを大学生に独白する展開だ。


こうやって映画を観た後、青空文庫でサッと読む。最初に読んだときは何日もかかった気がするのに、あっという間に読めた。実にオールドファッションな恋だなという感じである。映画の流れは原作には比較的忠実であり、市川崑監督作品らしく出演者を大きくアップに映して、その映像で心理描写を試みている。

それにしても、この恋愛感はさすがに古い。森雅之と三橋達也演じる学生はどう見ても変人だ。明治時代にはこんなひねくれた奴しか大学生はいなかったのかだろうか。高校の現代国語で取り上げられる題材は長きにわたって変わっていないと言われる。今でも高校の教科書にあるのであろうか?ましてや自分たちより50年近く下の世代にどう感じるのであろう。

⒈高校二年生の衝撃と読解力
今思うと、高校生当時読解力はあまりなかった。親が子供向け文学全集を買ってくれたが、どの本も読み切った記憶がない。相撲やプロレスなどのスポーツ系の雑誌や沢村栄治やベーブルースなどの伝記ものを読んではいた。高校に上がっても自宅近くに住んでいた星新一のショートショートや五木寛之の短編小説を読むのが精一杯の読解力である。一般的に有名な夏目漱石の作品も序盤戦でダウンで当時読了していない。そんなレベルで「こころ」は自分にとっては大著に見えたが、読み始めると何故か止まらなかった。



結局は1人の女性を取りあう話である。自分も恋に目覚めてはいた。しかし、視野が狭いから、学校内のしかも身近な女性についつい目が向かう。その女性をゲットするために一歩先を行くなんて話は高校生の目線の高さからすると、実はたいして変わらないのだ。夏目漱石というだけで偉人に見えるが、もっと近いところに存在する人だと感じるようになった。名著を読むことにも自分の居場所がある気もしてきた。一冊の本が読み切れるようになるきっかけになったのかもしれない。それでもそこからの道のりは険しかった。

話題になっている「ドラゴン桜」の設定には現実的に無理があると思っている。その理由は読解力を短期で身につける難しさである。いわゆる難関中学の国語入試問題はごく普通の大学の入試問題以上の読解力を要求される。あんな難しい問題を平気で解く奴とはとんでもない差がもう高校生になる時点でついている。このレベルは1年程度の勉強では到達できない。TVなどで「東大に挑戦」として猛勉強させる番組がある。いずれもうまくいかない。もちろん、国語の入試問題が解けるために読書すればいいという世間の愚論も的外れだ。でも高度に蓄積した読解力がなければあの英語や国語の問題は解けないし、自分の感覚ではそれが簡単に身につくものではない。

⒉原作に忠実
「こころ」を青空文庫で読み返したら、映画は原作にわりと忠実であることに気づく。「精神的向上心」なんてセリフもあるし、会話については原文と同じセリフが多い。最近それはそれでいいと思うようになった。海岸も含めいくつかロケ場面もある。まだ昭和30年なら、時代的に撮れたのかもしれない。本郷付近を想定していると思しき下宿周辺はセットだと思うけど、それもうまく再現できている。

ただ、先生の妻への想いというのが、かなり活字に表現されていた。Kへの気持ちについても同様である。結局好きで一緒になったのに、妻を残していくわけである。その辛い気持ちと罪悪感がさすがに映画の中では表現はできていない。もっとも2時間の映画でそこまで望むのも無理だろう。


原文には、猿楽町から神保町の通りへ出て、小川町の方へ曲りました。なんて記述もある。他にも万世橋、明神の坂、本郷台、菊坂、小石川と自分が散歩もよくするルートなので地名は親しみのあるものばかりである。

⒊無理がある森雅之と出演者たち

森雅之と三橋達也が大学生時代も同様に演じている。モノクロの映像でもさすがに無理がある。若い俳優がでて、年長になった老け顔も演じる方が良かったのではないか。この不自然さのためなのか、この作品は映画の名作として取り上げられていないのかもしれない。

新珠三千代は当時25才である。女学校を出るという年齢設定からすると、ギリギリセーフかな。関西出身のタカラジェンヌ新珠三千代ではあるが、ここで話す東京弁は、自分が20代くらいにはギリギリ上流階級の女性に残っていた話し方である。明治時代もこんな調子だったのだろうか。正統派お嬢様の東京弁は、聞く人によっては嫌味に聞こえてしまうかもしれないが、こういう上品さが消えていくのがある意味さみしい気もする。


安井昌二が大学生役である。この小説では重要な存在だ。もちろん違和感はない。ただ、見てビックリしたのは、ふっくらした安井昌二が娘のチャコちゃんこと四方晴美にそっくりだということだ。自分たちが小学生の時にはチャコちゃんは同世代では最大のスターであった。後の新派の人気男役安井昌二と父娘似ていないと思っていただけに意外。そんなことを思いながら映画を観ていた。
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14年目の雑感(コロナ接種一回目完了)

2021-06-29 18:08:38 | Weblog
コロナワクチン接種1回目完了した。


居住地からの通知は来ずにいつのことやらと思っていた。娘にも会社から職場接種打診メールきていた。妻はSNSの批判的意見で大反対。異常に敏感、でもこういう女って世の中ずいぶんといるみたい。

自分にもいったん先々週に打診メールが届いていたがどうせ先だろうと思っていた。そうしたら、先週末会社に突如職域接種の話がきた。ネットで予約するという。これは予約に時間がかかるだろうなあと思っていたら、ID、パスワード入力して3分以内に完了しかも翌週早々に接種可能だという。コリャいいや。でも、家人には内緒だ。いらぬ心配かけると面倒くさい。

本当は会社に立ち寄る時間があったけど、10時過ぎだったので直行にする。接種会場が遥か昔に新入社員で最初に配属になった場所のすぐそばだ。なんかの縁を感じる。老人の接種会場ではないので、希望者たちの年齢は男女とも若い。スキンヘッドで年上に見える男も絶対年下だろうなあ、見た範囲で年長だと思う。普段着で来ている人も多い。自分のように上着を着ている方が少数派か?書類の確認で並んでいたら、20代の若手社員に声をかけられる。早く接種できてウキウキしている。でも、その他の人たちは心なしか緊張している面持ち。

あらかじめ記入していた書類を確認された後、医師の診察だ。医師が問診票をチェックしてサインをもらう。すると、接種だ。並んでいるときにシャツの前のボタンは外しておいてと言われる。自分の接種担当は首から看護師という札をぶら下げている若い女性だ。優しそうな女性に、シャツは半分脱いだほうがいいですね。そして接種だ。あっという間に終わる。チクリともしない。人間ドックの採血の方が痛い。大阪の吉村知事が言ったこれまでで1番楽な注射ってごもっともです。

休憩して終了、しばらく何もなかったが、若干ふらっとくる。でも問題ない。
こんな感じで、年寄りは家で待機させてドンドン若い人に早くから接種すればいいのにと思う。
2回目はどうなるのか?


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映画「1秒先の彼女」

2021-06-27 17:13:26 | 映画(アジア)
映画「1秒先の彼女」を映画館で観てきました。


台湾映画「1秒先の彼女」の評判がいい。台湾で賞をとりまくったようだ。原題:消失的情人節、英題:My Missing Valentine、ラブコメディだという知識だけで映画館に向かう。主人公のプロフィルを簡潔に映像で紹介する序盤戦は、テンポ良くスタートする。恋のチャンスに恵まれない30才の女性がひょんなきっかけで知り合った男と七夕バレンタインを過ごそうと意気込んでいたら、ふと目を覚ますと時計の針は1日先を示している。しかも、顔は日焼けしている。いったい何があったのかと空白の手がかりを探すという話である。

終わってみて、ようやく基調は純愛ラブコメディだということがわかる。いきなり、主人公が警察に昨日の出来事を教えてよと交番に駆け込むシーンを映す。


何で日に焼けているのかもわからない。これってどういうこと?と思っていると、中盤戦でファンタジーの手法を使っていることもわかる。それが不自然すぎると、非現実すぎてちょっと引いてしまう。でも、それぞれのキャラクターに惹かれるものがあってむしろ引き込まれる。

台湾映画独特の優しさと笑いを誘うコミカルなタッチが、非常に心地よい。現代台北の街中だけでなく、田舎の海岸線が美しい町を映して視覚的にも楽しめる。


末梢神経を刺激するような荒々しい動きもなく、最後まで快適な時間を過ごせた。自分は1人で見たが、カップルで映画を見るのにはここ最近では1番のおすすめだといえよう。


郵便局で働くシャオチー(リー・ペイユー)は、仕事も恋もパッとしないアラサー女子。何をするにもワンテンポ早い彼女は、写真撮影では必ず目をつむってしまい、映画を観て笑うタイミングも人より早い。ある日、ハンサムなダンス講師(ダンカン・チョウ)とバレンタインにデートの約束をするも、目覚めるとなぜか翌日に。バレンタインが消えてしまった?


消えた1日の行方を探しはじめるシャオチー。見覚えのない自分の写真、「038」と書かれた私書箱の鍵、失踪した父親の思い出…謎は一層深まるばかり。どうやら、毎日郵便局にやってくる、人よりワンテンポ遅いバスの運転手・グアタイ(リウ・グァンティン)も手がかりを握っているらしい。そして、そんな彼にはある大きな「秘密」があったー。 (作品情報 引用)

⒈リーペイユーとシャオチーの恋
主人公を演じるリーペイユー「学力の経済学」を書いた慶應義塾の中室牧子教授に人相がそっくりである。以前企業グループの講演会で講義を聞いたことがあった。1クラスの人数を減らしても経済学的に効果は出ないなんて、最近の論調と違う教育に関するお話を思いっきり早口で話していた。この映画の主人公がせっかちだというのに妙に通じて思わず笑ってしまう。
リーペイユー↓


中室教授↓


街の公園でダンス教室をやっていて、良かったら一緒にやってみませんかと言われ加わると、講師に誘われてしまう。郵便局の窓口に何度も訪ねて来たりして、ようやく七夕バレンタインを一緒に過ごせる人が現れるという展開だ。このダンス教室の講師、ラグビーの五郎丸選手に似ていて、五郎丸と中室教授の恋かな?と思っていたら、突如空白の1日ができて、相手の行方も含めて訳がわからなくなるのだ。

郵便局の窓口対応が主人公の仕事である。向こうでは「郵局」の二文字だ。窓口には隣に美貌の若い女の子と反対の隣にハイミスのベテラン女性がいるけど、いずれハイミスと同じような身になってしまうのかと恐れている。やっとの思いで恋を掴みきったように見えたが。。。ここで郵便局員という設定にしたのは最後に向けて生きてくる。


⒉純愛
シャオチーが窓口にいると、封書に貼る切手だけを買いにくる1人の男性がいる。何かあるな?と思っているど、主人公シャオチーの恋は進む。でも、突如空白の1日がすぎて、郵便局に出社する。すると、いつものようにこの男性が切手を購入しにくる。でも、目の周辺に殴られたような跡がある。どうしたんだろう。


ストーリーの序盤から中盤にかけて、少しだけ触れていく。でも、この男性こそがストーリーのキーになるのである。この男グアタイは何をやるのにも動きが一歩遅い。せっかちで常に誰よりもテンポが速い動きをするシャオチーの真逆だ。ある意味、主人公は男女それぞれいるということなのだ。シャオチーの恋の物語の裏で同時進行で動いている話があったのだ。それを徐々に語っていく。このあたりをまとめる編集の力にも恐れ入った。

絶対に会えない人まで登場させる その話に情感がこもる。しかも、悲愛に思えた話に最後に向けて光を与える。そして、ビージーズが歌うジョークでエンディングクレジットを迎える。素敵な終わり方である。
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映画「いとみち」駒井蓮&豊川悦司&横浜聡子

2021-06-26 18:11:55 | 映画(自分好みベスト100)
映画「いとみち」を映画館で観てきました。

今年いちばんの好きな作品である。本当にいい映画に出会った。


越谷オサム原作の映画陽だまりの少女が大好きで、横浜聡子監督作品亀岡拓次もお気に入り。ふと気づくとこの2人がコンビを組むという設定に気づく。しかも、超大物豊川悦司も出ているではないか。これはいくしかないと映画館に駆け込む。イヤー良かった。

本年度というだけで見ても、日本映画でよかった作品がいくつもある。どれもこれも、シングルマザーで風俗勤めでというような設定が多い。社会の裏側に肉薄したいずれも傑作ではある。でも、何か違うと感じていた。この映画にもそれに近い要素が少しある。でも違う。ここでは津軽弁丸出しの高校生の主人公がなんとも素敵なキャラクターである。気持ち的にすごく同化してしまった。本当に良かった。


豊川悦司演じる青森で大学教授をしているシングルファザーの娘である津軽弁丸出しの高校生の主人公が、ふとしたことからメイドカフェの求人募集を見つける。アルバイトをして、店に勤める人生の悲哀に満ちた仲間たちに出会い彷徨う姿を描いている。

この父娘は2人で暮らすわけではなく、妻の母親が同居する。祖母は津軽三味線の名手だ。まあ、みんなネイティブだけにすごい津軽弁だ。字幕が必要なくらいである。でもすごくいい味出している。おばあちゃんも津軽弁三味線の名手だが、主人公もそうである。


何せ主人公の駒井蓮の魅力にノックアウトである。男性好みなピュアな感じでむちゃくちゃかわいい。これはとんでもない大物であることに気づく。新垣結衣が結婚で姿を潜めたら、一気にブレイクするのではなかろうか。後継者と言えるかもしれない。このピュアな色気には男性陣はすべてノックアウトになるはずだ。逆に女性から見たら敵だろう。自分のようなジジイでもそうなんだから若い人は参るだろう。

演じる役柄が津軽弁丸出しで、友人も少ないという設定である。青森出身という駒井蓮は当たり前のようにこなす。学校の授業で教科書を読むシーンがある。しゃべる言葉はわれわれが聞くと、どうみてもまさに韓国語である。そうか、韓国語と津軽弁は海を隔てて通じていたのかと思うような発音も日本語離れした言葉である。正直字幕無くしてはわからないくらいだ。映画の中で何度も韓国映画のセリフとイコールだと感じた。

ふとしたことから、青森版メイドカフェに勤める。東京と違っておおらかなんだろうなあ。メイドカフェの従業員となること自体を周囲でとがめるようなセリフは少ない。ある意味、ギャク的要素もあるが、青森の地元の皆さんも協力してもらって作った映画の感じがある。そういうわざとらしさもある。逆にいうと、よくこの映画に豊川悦司出たなという気もする。いつも行く飲み屋のママがトヨエツの大ファンだけどこれ見たらご満悦だろう。


津軽の象徴岩木山が頻繁にうつしだされる。キレイな山だ。トヨエツと主人公が登るシーンも用意されている。自分のルーツにこの山の近くで生まれた女性がいる。昭和8年にはもうこの世にはいない。彼女のことを思いつつ、気持ちが映画へ強烈に感情流入した。でもここまで感情流入できる映画はない。
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立花隆死す

2021-06-24 06:17:32 | 偉人、私の履歴書
立花隆氏が亡くなったと伝えられている。現代の著述家の中では最も尊敬すべき人であり、強い影響を受けた。今後、立花隆の著述が読めないのは本当に残念である。心からお悔やみ申し上げたい。


「人間の肉体は結局その人が過去に食べたもので構成されているように人間の知性はその人の脳が過去に食べた知的食物によって構成されている。」一体どれだけ知的食物を食べたら、あんな知的巨人になれるのであろうか?いつも思っていた。立花隆というと、一般的には「田中角栄研究」を1974年文藝春秋に発表して、田中金権政治を糾弾した仕事が最も知られている。とはいうものの、その仕事からは47年の長い年月が過ぎている。若い人には発表された時の衝撃を知らない人も多いだろう。

1冊も彼の本を読んでいないと、立花隆を完全なる左翼人間と思っている人も多いだろう。世の中にはリベラルというイメージだけで金儲けしている人がTVにウジャウジャいる。しかし、立花隆は世間がリベラルと呼ぶ方向に偏っている訳でない。自らの人生を振り返った「知の旅は終わらない」からいくつかピックアップする。

日本の運動では立場がミックスした議論は起きない。日本人は群れるのが習性だから同じ立場の人間が集まってマスターベーションのような議論をして喜ぶのが普通である。ただデモをやって警察官と押し合いもみ合いの肉弾戦をやって自己満足して終わりといった具合で議論の部分がない(立花隆 知の旅は終わらない p86 )

ヨーロッパで様々な人に会って会話を交わしているうちにおかしいのは日本の学生運動の方だと気づいた。世界が見えてないし歴史が見えていないのは日本の学生運動の活動家だと思うようになった。日本の政治運動と言うのは口では民主主義を唱えながら全然民主的でない。共産党にしろ中核革マルにしろその組織の内部はほとんど戦前の天皇制に近いものになっている。(同 p108)

若き日にヨーロッパに行き、議論を一方通行で進めず対抗する議論も含めて具体的に積み重ねていく人たちを見て、日本の左翼活動家のおかしな部分に気づく。帰国してあらゆる左翼一派に自分の陣営に入るように勧められたが、断っている。東大紛争についても全否定である。むしろ、彼らが大学の講義をぶち壊しにしたことを恨んでいる。

あの時大学解体を叫んで運動していた連中には本当に腹が立つ。だから僕は東大全共闘の連中の事はまるっきり信じていない。(同 p132)

立花隆の著述で何と言っても圧巻なのは「日本共産党研究」である。若い時は自分自身に読解力がなかったせいか途中で断念した。年を経るごとにこの本を理解できるようになる。いかに日本共産党がひどい組織だということが理解できる。戦後美化された戦前の日本共産党が、ソ連に率いられたコミンテルンの言うがままだったこと。内部闘争に明けくれ、数多くのスパイに忍び込まれていったんは破壊した組織であることを示し、死亡者が出た共産党リンチ事件の全容を丹念に資料を調べ上げ詳細に書いている。このレベルを超える著述はそうはない。

でも、これを書いて日本共産党とかなり対決したようだ。

共産党はどうあっても私を「反共分子」に仕立て上げたいらしい。私の基本的な社会観はエコロジカルな社会観である。多様な人間存在、多様な価値観、多様な思想の共生とその多様な交流こそが健全な社会の前提条件であると考えている。あらゆるイデオロギーとイデオロギー信者の存在に寛容である。思想とか価値観とかの間には批判的交流があればあるほど豊かになると思うからである。(日本共産党の研究 p5)

共産党とその批判者の間に交わされてきた論争にはこの対話のかけらもない。これは弁証法をその信条としているはずの共産党としてはおかしなことと言わねばなるまい。(同 p6)共産党がヒステリックに繰り広げる反「反共」キャンペーンのほうによほど危険な芽生えを感じる。「赤狩り」が危険であると同じように「反共狩り」も危険である。(同 p7)

まったく同感である。時折共産党がブレない政党だという人がいる。結果的にいかにブレてきたのかがよくわかる。

あとは「天皇と東大」に凄みを感じる。歴史の教科書で知るだけのものだった「天皇機関説」の学説が天皇を代表とする国家主権だということよく理解できたと同時に、昭和天皇がこの学説を悪いと思っていないにもかかわらず、相反して世論が美濃部達吉攻撃に終始した話がもっとも印象的であった。

二二六事件において、反乱軍を天皇陛下が支持してくれると思っていたことに反して、青年将校たちをきびしく処遇した話は近代日本史にて語られることが多い。でもその解説だけに終わらない。むしろ異常な極右思想というべき蓑田胸喜や極度の皇国観を持つ平泉澄をクローズアップする。特に平泉澄と秩父宮との関係が不気味だ。両者をここまで言及してよく調べている文献はあまりなく、たいへん参考になった。

また、立花隆が猛烈に本を読んでいるのは周知の通りである。書評も寄稿していて、本にもなっている。そこで推薦しているおかげで自分が読んだ本も数多い。読解の難易度が高い本は少なく、硬軟両方において読んでいて実に面白いノンフィクションを推薦してくれる。立花隆は少年時代から神童だった。自分から見ると別世界である。生まれながらの頭脳もずば抜けている。もともと少年時代にありとあらゆる小説を読んでいたのだが、文藝春秋に入社して先輩からの影響でノンフィクションを読むのが基本となったようだ。影響されてか自分も小説を読むことが少なくなった。

これほどまでの知の巨人がこの世から去ったのは実に残念である。立花隆が取り上げるジャンルは幅広いが、サイエンスものは残念ながら自分の理解に及ばない部分も多々ある。「脳死」「臨死体験」に関わる記述はためになった。臨死体験は死後の世界体験ではなく死後の直後に衰弱した脳が見る夢に近い現象であること。(知の旅は終わらない p402)結局死ぬと言うのは夢の世界に入っていくのに近い体験なのだからいい夢を見ようとする気持ちで人間は死んでいくことができるじゃないかと言う気持ちになった。( 同p403)

立花隆がどのように死を迎えたのか知りたいものである。
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映画「赤坂の姉妹 夜の肌」新珠三千代&淡島千景&川島雄三

2021-06-23 18:54:31 | 映画(日本 昭和35年~49年)
映画「赤坂の姉妹 夜の肌」を名画座で観てきました。


新珠三千代特集が渋谷の名画座で上映されている。これまで存在すら知らない映画がいくつかある。そのうちの一つ「赤坂の姉妹、夜の肌」は1960年の川島雄三監督作品である。赤坂のバーマダム長女(淡島千景)と店を手伝う次女(新珠三千代)を中心に複雑な男女関係を映し出し、信州から上京まもない三女(川口知子)が左翼運動に色染められる話を絡ませる。

有力政治家(伊藤雄之助)、車ディーラーの副社長阿久井(田崎潤)、ブローカーの田辺(フランキー堺)そして三女の恩師でもある中平(三橋達也)が長女と次女、そして政治家の情婦でもある演劇俳優(久慈あさみ)に複雑に絡む。と言っても訳がわからなくなる訳でもない。いつもはもう少し理性がありそうに見える役を演じている淡島千景の方がいちばん男出入りが激しい役を演じる。


何といっても、1960年(昭和35年)の赤坂を総天然色(カラー)で見れるのがいい感じだ。今のように東京に高い建物はないので、赤坂を映す映像のバックに1958年に完成した東京タワーが見える。高い場所から赤坂の街を俯瞰する映像も多い。しかも、安保の年だけに実際のデモ隊も映し出す。盛り沢山だ。本屋にたくさん積まれている昭和30年代の写真集を見るよりも超リアルである。

ストーリー自体は正直どうってことない。男に頼って這い上がろうとする水商売の女の話はこの時代にはいくつも転がっている。でも、川島雄三作品らしくリズミカルな展開であるのに救われる。Wikipediaで「赤坂の姉妹」は記載がなく省かれていて、DVDにもない。川島雄三監督作品にもかかわらず存在すら知らなかったが、見る価値は十分ある作品だと思う。

⒈昭和35年(1960年)の赤坂
いきなり国会議事堂駅を映し出し、議員が乗るハイヤーが赤坂に向けて坂を下りながら暴走して、それを追う新聞社の車が映し出される。周囲はまだ低層の木造二階も多く今とは見違えるほどだ。赤坂の中心部にある料亭の隣に印刷屋があったりする。それでも、日枝神社の境内の姿は今も昔もたいして変わらない。人気クラブのラテンクォーターのネオンも映し出される。料亭も多かったんだろう。国会から近いから、議員たちのヒソヒソ話で随分と使われたであろう。


大通り沿いにホテルニュージャパンらしき建物が映った。赤坂見附駅あたりからの撮影だ。アレ?もうできていたっけ?と思いながら、調べてみると1960年完成だという。やっぱり間違いない。政界の紳士藤山愛一郎がつくったホテルでまだ横井英樹の持ち物ではない。

何度も映し出されるのが、TBSテレビである。一ツ木から丘を上ったところに建物が完成するテレビ局だということで「テレビ東京」という名前で何度も名前がでてくる。

⒉新珠三千代
宝塚出身の美人女優である。世代によって見方は違うと思うが、我々の世代ではTVドラマ「細うで繁盛記」の加代のイメージが強い。このTVが流行った時期はまだ自分も小学生から中学生にかけてだったので、女性としての魅力は全く感じなかった。自分の父母より少し年上だ。伊豆弁丸出しの冨士真奈美イジメに耐え抜く耐える女に過ぎなかった。


映画を見るようになってからは、森繁久彌社長シリーズでバーのマダムなどの役によくでていた。社長の森繁に一生懸命に口説かれて最後に久慈あさみの奥様が出てきていつも口説き損なうというワンパターンだ。でも、シリアスな役で力量を発揮する。以前感想をアップしたが女の中にいる他人での役柄に凄みを感じた。霧の旗」や「黒い画集 寒流もいい。それなので、今回も特集は楽しみにしていた。今回は和装の淡島千景に対比するように洋装が多い。実に美しい。子どもの頃には彼女の魅力はまったくわからなかった。

⒊川島雄三
昭和30年代前半の川島雄三というと、日活映画というイメージが強い。実は昭和32年に東宝(東京映画)に移っている。大阪船場舞台の暖簾もその一つだ。名作「幕末太陽傳」でコンビを組んだフランキー堺は映画会社を飛び越して今回も出演する。大映映画女は二度生まれるで男を渡り歩く九段富士見の不見転芸者を撮ったのが翌1961年、ストーリーはもちろん違うが、根底に流れるものは一緒である。アレ?所属映画会社どこだっけか?とふと思ってしまう。


「赤坂の姉妹」は川島雄三作品らしくテンポが早い。セリフのリズムもスピーディーである。しかも、新珠三千代と淡島千景の取っ組み合いの姉妹けんかも映す。これ自体も一瞬で終わるのではなく、マジでけんかする。なかなかきびしい演出である。

「洲崎パラダイス」「幕末太陽傳」では遊郭、「赤坂の姉妹」「女は二度生まれる」では芸者のいる花街を舞台にして、男を渡り歩く女を描く。女性総合職がさっそうとオフィスを闊歩する現代とは異なり、男頼りでしぶとく生き延びている色街の女を描く。時代の風潮にリアルタイムで反応する川島雄三の映画が楽しめる。

⒋蜷川幸雄と露口茂
1960年といえば安保の年、町ではデモ隊がウヨウヨいたのであろう。信州から出てきたばかりの田舎娘の三女が左翼活動に毒される。北海道の炭鉱閉鎖に伴うデモに遠征して大けがするというシーンがある。こういうストーリーを加えると、当時の世相に合ったものになる。仲間の左翼学生の中に、若き日の露口茂と蜷川幸雄がいる。

鬼の演出家として知られる当時25才の蜷川の表情もまだ温和である。伊藤雄之助演じる政治家が三女から「資本論」をもらって、おふざけに読むシーンが笑える。
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映画「ビーチ・バム」 マシュー・マコノヒー

2021-06-22 20:44:20 | 映画(洋画:2019年以降主演男性)
映画「ビーチ・バム」を映画館で観てきました。


マシューマコノヒーは相性の良い俳優である。「ビーチバム」は比較的評価良さそうだけど、上映館が少ない。もう無理かな?と思ったら渋谷でやっている。隙間時間に行ってみると、ちょっと飛びすぎかな?といった感じである。

途中でいったん落ち込むはずのストーリーなんだけど、主人公のテンションはまったく下がらない。常にハイ!だ。躁鬱病の躁病のようなもの。ドラッグやりながら作っているんじゃないかなあ。音楽もディズニーランドの場内にいるかのように、ハイテンションな曲が高らかに鳴り続ける。曲選びのセンスは悪くない。50年代から60年代のアメリカ映画でよくあるちょっとうるさめとこちらに感じさせる使い方だ。

生き方が悪ふざけという感じで、その昔の米国プレイボーイ誌のヒューヘフナーが裸の女性に囲まれてご満悦みたいな生活を連想する。ましてや、映るのはフロリダの海上で、開放感はこの上ない。でも、正直この映画をいいと思う人と自分の感覚は違うのかもしれない。観にいく人はハズレと思う覚悟が必要だ。


ムーンドッグ(マシュー・マコノヒー)は、かつて天才と讃えられた詩人。しかし今は、謎の大富豪である妻ミニー(アイラ・フィッシャー)の果てしない財力に頼り、アメリカ最南端の“楽園”フロリダ州キーウエスト島で悪友ランジェリー(スヌープ・ドッグ)らとつるみ、どんちゃん騒ぎの毎日を送っている。


浜辺でうたた寝し、酒場を飲み歩き、ハウスボートでチルアウトし、時たま思い出したようにタイプライターに詩をうつ…。そんな放蕩生活を自由気ままに漂流していたが、ある事件をきっかけに、ムーンドッグは一文無しのホームレスに陥ってしまうーー。(作品情報より)

まったく、感情流入ができないまま終わってしまった。

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映画「ファーザー」 アンソニー・ホプキンス

2021-06-19 18:52:11 | 映画(洋画:2019年以降主演男性)
映画「ファーザー」を映画館で観てきました。


「ファーザー」アンソニーホプキンスアカデミー賞主演男優賞を受賞した作品である。最近は観たいと思う洋画新作に恵まれず、やむなくたどり着く。公開してしばらく経つが、映画館は意外にも満席だ。きっと自分と同じ心境なのであろう。

主人公の認知症を映し出している作品であるのは予想通り。娘役は女王陛下のお気に入りオリヴィア・コールマンである。このコンビで英国映画特有の崇高な流れをもつ。起承転結が鮮明に出て、一つ一つの出来事を浮かび上がらすという映画ではない。場面を一筆書きのように連続的に描きながら、アンソニーホプキンスのボケぶりを徐々にエスカレートして見せていく。


演技巧者のそれぞれの演技には文句はない。観ているうちに自分の老後もつい心配してしまうけど、最後は「え!これで終わっちゃうの」というようなあっさりした感じで、傑作という感じはしなかった。スリラーだという人もいるがそうも思わない。でも、こうやって振り返るとこの映画は二度三度観て、理解が進むのかもしれない。

ロンドンで独り暮らしを送る81歳のアンソニー(アンソニーホプキンス)は記憶が薄れ始めていたが、娘のアン(オリヴィアコールマン)が手配する介護人を拒否していた。そんな中、アンから新しい恋人とパリで暮らすと告げられショックを受ける。だが、それが事実なら、アンソニーの自宅に突然現れ、アンと結婚して10年以上になると語る、この見知らぬ男は誰だ? なぜ彼はここが自分とアンの家だと主張するのか? ひょっとして財産を奪う気か? そして、アンソニーのもう一人の娘、最愛のルーシーはどこに消えたのか? (作品情報 引用)

⒈連続性
場面が一定の範囲内に固定される室内劇映画は苦手な方である。この映画もある意味室内劇であるが、最後まで閉塞感がなかった。同じ室内にいるような錯覚を受ける。所々で窓の外から見る風景などで実は違った場面だというのを示す。それでも、ずっと同じところにいるのではという連続性を感じた。美術の卓越性が鮮明にでる。幾何の難問で補助線一本を鋭くひき解答に導く役割がここでは美術だ。


結果的にいくつか場所が移っているのであるが、場所が移転する事実は映画の場面で出ていない。気がつくと、アンソニーホプキンスは別の部屋にいるのだ。こういった錯覚感がある。当然認知症の症状が出ているわけであるし、現実に存在する人物なのかどうかもわからない人物もでてくる。ナタリーポートマンの「ブラックスワン」や一連のデイヴィッドリンチ作品のように現実と虚構を入り混ぜた場面でわれわれの思考を混乱させる。そこがこの映画のいいところだ。

⒉アンソニーホプキンス
もう84歳になる。映画界にはもっと年上のクリントイーストウッドもいるが、主演級現役俳優としては最高齢に近いだろう。続編が次々とできた「羊たちの沈黙」のレクター博士がオハコで、出演作品では最も印象に残る。ここでの枯れきった演技は申し分ない。アカデミー賞受賞に色気をだす年齢でもない。そんな時に映画の神様が微笑む。


自分の娘ローラによく似た介護士がでてきたと同時に、虚構かどうかわからない謎の男にピンタを何度もうけるシーンがある。二度でてくるが、介護士かどうかは余計な説明を入れない。自分が見捨てられるのではないかという恐怖で泣いてしまうシーンもある。こんな思いを感じてしまうことがあるのであろうか?

介護士には甘える。甘えた時には女性介護士は優しくしてくれる。まだ救いがあるんだけど、あと何年先になるかわからないが、自分も同じ場面に出くわすのであろうか?
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映画「名も無き日」永瀬正敏&オダギリジョー&今井美樹

2021-06-14 20:52:26 | 映画(日本 2019年以降主演男性)
映画「名も無き日」を映画館で観てきました。


「名も無い日」は名古屋出身で米国在住のカメラマン日比雄一が自らの体験に基づき監督脚本した作品である。ここのところ、永瀬正敏が出演する映像を見る機会が多い。オダギリジョーが共演で、久々に今井美樹が登場するという情報で映画館に向かう。他にも、真木よう子、木内みどりをはじめ出演者は豪華で、藤真利子は久しぶりに見た。その夫役で井上順が出てきてもっとビックリ。

ニューヨーク在住のカメラマン(永瀬正敏)が、弟(オダギリジョー)が亡くなったという知らせを受けて故郷の名古屋に帰る。死後しばらくして発見され、どうして死んだのかもわからない状況の中、親類や昔の旧友と過ごす日々を描いている。

こういうネクラな題材だけど、どん底に落ちる訳ではない。じんわりと胸にしみる。カメラマンが作った作品だけに、映像の構図はきれいで、岩代太郎の音楽もいい。永瀬正敏が演じるカメラマンがまさに適役で無頼な感じがいい。いい映画だと思うけど、もう少し短くできたんじゃないだろうか?無理に逸話をいくつか加えた感がある。

⒈弟の真相があらわにならない序盤
弟が亡くなって主人公が帰国したというのはすぐわかる。下の弟夫妻に会ったり、叔父さん夫婦(井上順&藤真利子)や昔の同級生の母上(木内みどり)や居酒屋を営んでいる旧友(中野英雄)の元へ行って昔の仲間と飲んだり、古い女友達(今井美樹)に会ったりして軽いストーリーを積み重ねていく。ここではあっと驚くようなことはない。

しかし、何で死んだのかはハッキリしない。DNA鑑定の結果がでないというセリフからは、変死体で見つかったのではと想像するしかない。そんなストーリーが続くと同時に、熱田神宮が映る。数年前に家族と行った。ここでは祭りと思しき場面に、提灯がクローズアップされる。主人公はカメラのレンズを被写体に焦点あてようとするが、結局写さない。

⒉永瀬正敏
自由人で所帯の匂いが感じられない無頼のカメラマンである。こんな感じの役が実にうまい。今回も彼ならではの役柄だ。茜色に焼かれるでは風俗店の店長、空に住むではペット葬儀屋を演じた。ちょっとアウトローくらいの役を、実にうまくこなす。別に主演にこだわっていない。いろんな作品で永瀬正敏を見る。ジム・ジャームッシュ監督「パターソンでのアダムドライバーとのやりとりも良かった。いい俳優になった。


⒉オダギリジョー
明日の食卓でもあっさりあの世にいってしまい、ここでも死んでしまう役柄だ。なんか続いちゃったね。序盤戦では、兄弟の中で1人大学それも東大経由でハーバードに行き、いちばんのインテリだという場面がある。オダギリジョーの役柄にしては珍しい設定だ。でもこの主人公の弟、周りですごいと言われても本人は自慢もせずにその場を去る内気な感じだ。


そして、中盤戦になり、引きこもりのようになった姿を見せる。目には星が見える。視力に問題があるようだ。ゴミ屋敷と化した家の中で変貌した姿を見せる。。オダギリジョーらしいひょうひょうとしてすっとぼけたような明るさは見えない。でもこの場面に到達して、オダギリジョーがその実力を発揮する。

⒊今井美樹
工場勤めのようである。ネクラな女というのを映像で醸し出す。地元にいても、高校の同級会にも出席しないというセリフがある。でも、永瀬正敏と会う。見ている途中は昔の彼女で別れ別れになった存在なのかと思った。


そんな今井美樹を久しぶりに見た。昭和の最後から「プライド」を大ヒットさせた平成のヒトケタ後半まで実に輝いていた。個人的には昭和ラストの「意外とシングルガール」が好きだった。藤井フミヤと踊るシーンが印象に残る。今でも別に色あせてはいない。まだまだきれいだ。ただ、せっかく出たのにこの出番じゃもったいない。そういえば今井美樹も永瀬正敏2人とも宮崎県出身だとふと気づいた。

⒋豪華共演者
真木よう子はトラブル続きだったけど、今回は普通。実力のある女優だけに主演級の作品で見たい。往年の艶やかさは消えたけど藤真利子はまだ生きていた。その夫役で井上順が出てきてもっと驚いた。最近は息子の仲野大賀の活躍が目立つ父親中野英雄が居酒屋の店主役だが、正直ラストのクレジットではじめて中野だと分かった。そこに飲みにきている主人公の同級生役の大久保佳代子永瀬正敏や今井美樹よりちょっと年下のような気もするが、老け顔だから通っちゃうのかな?


オダギリ演じる次男が何で死んじゃったのかは結局よくわからない。引きこもりになり、目に異常が出て本来手術すべきなのにしない。次男は東大出の設定だ。なんか仕事で辛いことあったんだろうか?悩みは誰でもあること。でも、自分の周囲にいる東大出身者はみんなそつなく要領がいい。ましてや滅入って自死するような奴はいない。(弟のキャラどこまで実話なのであろうか?)むしろ高校の同級で京大に行った奴がこのオダギリジョーのキャラクターに近いような気がした。そして40代に入って自殺で死んだ。彼を連想し映画を見終わって同級生の冥福を祈った。


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映画「キャラクター」 菅田将暉&小栗旬& Fukase(SEKAI NO OWARI)

2021-06-13 18:02:06 | 映画(日本 2019年以降主演男性)
映画「キャラクター」を映画館で観てきました。

これはすごい!日本発A級クライムサスペンスである。


いくつかの場面で思わず大きな声が出てしまい、近くに座っている観客にじろっと見られた。映画オリジナルだというストーリーは実に練られていて、予想外の展開もある。サイコスリラーという宣伝文句はあるが、クライムサスペンスというべきであろう。たまたま殺人現場を目撃してしまったウダツの上がらない漫画家のアシスタントが、それをネタに漫画を描いたら大当り。ところが、その漫画の中身をネタにした殺人事件が次々と起こるという話である。

韓国映画のクライムサスペンスはレベルが高く、日本映画は残念ながら差をつけられている。あっさりしすぎて残虐さとストーリーの意外性に欠ける気もする。でも、この作品なら、まだまだいけるという感じだ。自分には割と相性の良い菅田将暉主演で、直感で選んで予備知識わずかで観に行ったが、これは成功。観に行かれる方は先入観なしで行ってほしい。

漫画家のアシスタントをやっている山城圭吾(菅田将暉)は独り立ちしようと新人賞にいくつか応募しているがいつも佳作止まり。今回も漫画雑誌の敏腕編集者にサスペンス系の自作を持ち込む。絵を描く能力は認められるが、人がいい性格ゆえにリアルな悪役キャラクターを描くことができず、認められない。


漫画の世界から足を洗おうとしていたときに、師匠から「誰が見ても幸せそうな家」のスケッチするように言われて、夜に住宅街に出かける山城。大音量のオペラが流れる一軒家を見つけスケッチしていたときに、ふとしたことで家の中に足を踏み入れる。すると、4人の家族がテーブルに座って刃物で血だらけに惨殺されていた。そこで山城は殺人鬼と思しき一人の男を遭遇するのである。


事件の第一発見者となった山城は、警察で真壁班長(中村獅童)と清田刑事(小栗旬)の取り調べを受ける。殺人推定時間にはアリバイがあり、シロとなるが、犯人は見たかという問いに対して「見ていない」と嘘をついてしまう。

恋人の夏美(高畑充希)と暮らす部屋に戻って、事件現場を思い浮かべ、残虐な現場を再現して描き始める。一方、すぐ近所で1人の容疑者が逮捕され、自白した。TVニュースに映ったその顔は山城が現場で見かけた顔とは明らかに違っていた。


山城は自分が出会った犯人の顔をもとにしてサスペンス漫画「34(さんじゅうし)」を描き始めると、予想以上に大ヒットして山城は売れっ子漫画家となる。その一方で漫画の中で描いた殺人事件が次から次に起こっていくのであるが。。。

⒈リアル感
漫画家のアシスタントから一足飛びに独り立ちしようと、編集者に売り込みに行く。しかし、殺人の経験は当然ないだろうけど、キャラクターにリアル感がないと門前払いを喰らう。映画「37セカンズ」で漫画家のゴーストライターである主人公が、編集者にきわどいエロ漫画を売り込みに行った際に、エッチの経験がないとリアル感がないと言われた場面を思わず連想する。

ところが、4人が血まみれになっているリアルな殺人現場を偶然見てしまうのだ。しかも、犯人の顔も一瞥してしまう。実際にそんな場面に出くわしたら、卒倒してしまいだろう。でも、ここで実際の殺人事件を見たというリアル感が生まれる。殺人犯を主人公にして事件を創作するのだ。


漫画の原案→編集者への売り込み→人気作品になる→印税が入る→結婚→高級マンション購入

映画では以上のプロセスは省略されている。こんなのいちいち説明したら、キリがないから仕方ないけど、漫画原案作成売り込みに2ヶ月→掲載に1ヶ月→人気が出て多額の印税が入るのに(この中に結婚を含んでも)1年→高級マンション購入に向けて1年

最初の事件が起きてから2年半はかかるよね。この映画だけ見ていると、タイムラグはあまりないようには見える。まあ、そんなこと気にしなくても良いけど、刑事たちはついこの間あった事件のように、連続する事件の殺人現場に行くのは不自然かな?

⒉連載漫画をなぞった殺人事件
人里離れたエリアで、2回目の殺人事件を起こす。神奈川県も山間部もそれなりにあるから、こういう辺鄙な場所もあるだろう。この殺人事件が何かあると気づくのは、最初の事件担当の刑事(小栗旬)である。犯行に使ったナイフが隠されている場所も漫画に書いてある通りなのだ。


最初からの展開はテンポがいい。サイコスリラーというが、そのジャンルだったら、もっとえげつない殺人の様子が映像化されるのではないか。いずれも、すでに殺しは終了している。薄気味悪い見辛いシーンが多いわけではない。最終的には捕まるんだろうなあ。でもどう捕まるんだろう?謎の異物をこちらに放つ。でも途中で伏線を与える。

若干のネタバレあり(以下は観るまで読まないでください)
この映画の注目点
⒈戸籍

中国では戸籍のない子供が数多くいると言われている。ひとりっ子政策も拍車をかけたかもしれない。真相はわからない。長い歴史の中で中国には「溺女」という風習らしきものがあり、将来稼ぎをもたらさない女の子が間引きされてきた。実際には酷いことはせずにそのまま育つ戸籍のない女の子がいるのかもしれない。日本ではあまり聞かない。でも、戸籍のない子は一定数いるだろう。

自分の戸籍を捨て、売った人から無戸籍の人が戸籍を買ってぬくぬくと生きている場合はあるだろう。ここでは日本映画では珍しくそこに焦点が当てられる。インチキくさい宗教法人のアジトで、子供の頃から育った名前がない無戸籍の犯罪者に焦点があたる。


⒉重要人物の死亡
設定の強引さはあっても展開は次にどうなるか謎?をつくる。観客に考えさせる要素を残す。そんな最終場面に向かうときに予想外の展開を作る。ある重要人物の死亡だ。これには驚く。本来のストーリーの定跡では、苦しんでも生き延びる存在だ。このシーンに驚き思わず声をあげてしまった。しかも、滅多打ちにやられるのである。意外な人物をそこに添えてくる。ここで大半が見えるが、最後の修羅場にはかるい迷彩をつくる。実にうまい!

韓国映画ではあっても、日本映画ではこういう展開は比較的少ない。実話ならともかくフィクションはここまでやってもらわないと刺激がない。そこにこの映画の深みを感じる。


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本「映画評論家への逆襲」 荒井晴彦

2021-06-07 20:32:45 | 
先週末書店で面白そうな本を見つけた。「映画評論家への逆襲」である。SNSで誰でも評論家になれる時代に、荒井晴彦や白石和彌をはじめとした脚本家、映画監督4人が、世間の評価に異議をとなえるトークショーの内容が収められている。

個人的には受け入れられない発言もあったりするが、おもしろく読めた。「映画芸術」の主宰でもある脚本家の荒井晴彦には個人的に一目置いている。ただ、彼の独演会だとどうしても偏る。確かに他の3人を含めたトークショーという形式がいいかもしれない。他のメンバーの出来が悪い発言が続くと、どうしても荒井晴彦の発言が一味違って引き立って見える。


取り扱うのは、70年代の傑作深作欣二監督「仁義なき戦い」から入って、昨年のアカデミー賞「パラサイト」を始めとしたポン・ジュノ作品、今回のメンバーの親分格若松孝二監督に絡んだ話、イーストウッドへのそれぞれの思い入れ、キネマ旬報でトップで、映画芸術のワーストである「スパイの妻」の評価など盛り沢山である。

井上、森というのが中心になって話をして荒井晴彦が口を挟む展開だ。特に井上はうっとうしい発言も多い。井上の「ウイキペディアをみると」という言い方に知性のなさを感じる。集合知は大事だが、そもそもの引用元の内容が間違っていることもある。蓮實重彦に関する荒井晴彦とのやりとりを見ても皮相的なのが見え見えで、反体制政治にこだわる低次元の男だ。

個人的に好きな作品も多い白石和彌監督「仁義なき戦い」を自作と照らし合わせて語る序盤戦は切れ味良いトークだが、途中から失速気味だ。74年生まれだけに、昭和現役でない分、ベテラン勢に対等になれない。妙にかっこつけた発言で荒井晴彦にバカにされる。いい映画作るけどね。

⒈荒井晴彦
このブログでも荒井晴彦脚本である火口のふたり遠雷のアクセスがたえず上位で、内田裕也主演「嗚呼!おんなたち 猥歌も同様だ。いずれも軽いエロチックな要素がある映画だ。荒井晴彦の脚本作品幼な子われらに生まれがよかったので、監督だった三島有紀子の次作2つとも観たが、さほどいいとは思えなかった。そうか、やっぱり荒井晴彦ならではの脚本のおかげなんだなとその時思ったもんだ。長く映画界にいただけあり、今の日本映画では一段上の存在だ。


映画芸術ベストテンでは、ワーストテン作選択であえてキネマ旬報の逆をとることも多い。かぶらないようにしている気配もある。荒井晴彦はあまのじゃくの部分があるのかもしれない。ただ、昨年では37セカンズ」「空に住むなど「映画芸術」と「キネマ旬報」の両方でベストテンに入っている作品には外れはない。それだけを追ってもいい作品に出会える。

荒井晴彦の発言を2つだけピックアップする。

*パラサイトに対しては

格差社会っていうのはまず家族が崩壊するんだよ。あんな一致団結した家族ってありえないよ。かなり前の階級社会っていうかな。貧乏人チーム、もう家族じゃなくてチームなわけだよ。で、結束してパラサイトしていく。そこがもう嘘なわけなんだよ。ソン・ガンホのお父さんはチームリーダーなんだけど、それがおかしいよね。家族がバランバランになっていて、お父さんなんか何の権威もないぜというのが現実だと思うけど。そこだけ旧態依然とした家族像で話を作っているところが非常にご都合主義的だと思うんだけどな(映画評論家への逆襲 荒井晴彦他 p48)

なるほど、下流社会でドロップアウトしている奴は家庭崩壊が進んでいることが多い。教育もまともに受けていない奴も多い。確かにそうだなとは思う。でも、在日コリアンにありがちだけど、貧乏人の連帯感みたいな部分もある気もする。そのときは家族の連帯感も強い。
ある程度同意はしてもこの映画やっぱりおもしろい。

*吉永小百合の「キューポラのある街」については

吉永さんの代表作は『キューポラのある街』(62年、浦山桐郎監督)でしょう。『キューポラのある街』は完結編を作るべきで、吉永さんというか石黒ジュンは脱北者に謝らなければいけないと思うんだよ。『続・キューポラのある街 未成年』(65年、野村孝監督)で北朝鮮に帰った方がいいって言って、行きたくないお婆さんを説得しているんだからさ。やっぱり映画の責任ってあると思うんだ。(同 p196)

実は、このトークショー比較的左巻きの人が多いけど、左派右派いずれもこれには実に同感とうなずくであろう、よくぞ言ったという感じだ。


この映画を吉永小百合と浜田光夫の純愛と思っている人はかなり多い。実は主に語られているのは今よりも数段上の格差社会だった時代の北朝鮮帰還事業での在日の悲哀と高校に行きたくてもいけない吉永小百合の悲しい物語だ。

自分が左翼人を胡散臭いと思っているのも1970年代まで左巻きの人は北朝鮮大絶賛で、1966年になっても日本共産党は政府が帰国事業を遅らせていると主張していた。ここで帰国を説得する映画を作ったことに対して反省がない人が多いということ。でも、いまだ現役女優の吉永小百合を担ぎ出してこの続編を作るのはさすがに不可能でしょう。いくら何でもサユリストが怒る。

⒉「スパイの妻」と「罪の声」への批判
キネマ旬報トップのスパイの妻を映画芸術ではワーストにして露骨に批判している中で、自分も「スパイの妻」はいい映画には見えない。自分もブログ記事で意味不明であることを言及したが、当然の如くこのトークショーでも語られる。

俺(荒井晴彦)は歴史モノ時代モノは山田風太郎の明治モノのように「実」をベースにして「虚」を作らないとダメだと、「虚」の上に「虚」を重ねたら、ただのウソ話にしかならないと言った。小林多喜二の虐殺や「ゾルゲ事件」のように特高は甘くない。東出昌大の憲兵は高橋一生や蒼井優をすぐ釈放している。尾崎秀実やゾルゲは特高が逮捕している。大体、スパイ容疑なら特高が出てくるのでは、とか人体実験の映像を誰が撮ったのかとか、首をひねるとこが多いから。(同 p229)

あと、森が「満州で何があったかの描写が安易で、妻が突然夫の行動を支持する理由がわからない」としている。同感である。蓮實重彦の指摘通り、憲兵が坊主でないとかの時代考証を含めて難が多い。ピントがちょっとズレていても面白ければいいが、そうでもないなあ。海外の賞受賞でみんな評価点が上がった。


罪の声日本アカデミー賞脚本賞にもたくさんツッコミが入っている。そもそも日本アカデミー賞自体に対する疑問も多い。どちらかというと、原作もあるので、脚本賞というより脚色のような気もする。ブログで自分がおもったことを荒井晴彦も指摘している。

いい加減なのは星野源が脅迫電話の声が自分だということを35年間憶えていなかったということ。子供の声はテレビでも流れたし、自分がテレビ見なくても友達が見て、あれ、お前の声では、と気がつく可能性を排除している。「ラジカセの録音スイッチを押す真由美。幼い俊也、指示を読み上げる。」。全部ひらがなで書いてあっても7歳じゃスラスラ読めない。何度もやり直したのだろう。それに何これと訊いたに違いない。それを忘れるだろうか。モノによっては憶えていることにするのだろう。(同 p277)



そうなんだよね。この映画の脚本には突っ込むところ多数である。白石和彌が、日本アカデミー賞の脚本賞となっている作品の中では脚本はもっともまともな方と言って、荒井晴彦から一喝される。でも、そうはいうものの、この映画昔懐かしというような俳優さんも大勢出演していて個人的には面白かったです。

意見が合わない部分も多々あれど、最近の映画を扱った新書の中では一読の価値はある。
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14年目の雑感

2021-06-05 17:52:53 | Weblog
6月に入った。緊急事態宣言は相変わらず続く。でも、どうやらオリンピックはやりそうな感じになってきた。先週オフィシャルスポンサーのある幹部が訪ねてきて話をしても、完全にやる気になって準備している。余程のことがない限りやる方向に向かっているのであろう。

A新聞はオフィシャルスポンサーにもかかわらず、開催に対して反対意見を発信している。それしか言い様にないんだろう。この辺りの矛盾がいかにもダメ新聞らしいし、いつもながら戦後民主主義の主のように上から目線で狂っている。今期赤字になるのは当然だ。

「普通だったらやらない」という尾身会長の話はごもっともではある。「この状況でよくやる」と発言すること自体は立場的には当然でしょう。それに対してはとやかく言わない。とは言うものの、ここまできたら頑張ってオリンピック開催して欲しい。自分にとって2回目のオリンピックを是非見たい。


普通だったら、オリンピックで日本国民が一致して押し進むべきものが分断している。それはやむを得ない。コロナのせいだ。
日本の人口がベビーブーム世代にかなり偏っている。その世代は70代前半でまだ80代にはなっていないので、そう簡単には減らない。大学で学園紛争をして、世間一般に迷惑をかけた世代だ。当時は大学進学率は今より低いから、仮に大学行かなくても、労働組合に入って会社の利益自体を搾取とみなし、バブル崩壊日本を停滞させた日本経済にとって戦犯のような男女が多い。


ピータードラッカーも日本企業が絶好調時に日本を称賛する一方で日本人労働者の社会主義的発言に呆れている。日本の従業員たちは勤務先企業の生き残りと繁栄に,非常に大きな利害を持っている。ところが,利益への反発はどこの国よりも強い。「私たち日本人にとって,利益は禁句であり,搾取を意味すると何度となく聞かされた。(マネジメント2 有賀訳 p307)


野党は何でも反対で、ワクチン接種も遅れた。野党が法案成立を遅らせたのも明らかだ。偉そうに善人ヅラするな。うちの会社のアメリカ駐在員はとっくに全員接種完了している。ワクチン進んでいるのは自由主義の国だ。あるcpu会社の会長の接種が早いと大騒ぎ。たくさん寄付している人に優遇処置あって当然でしょう。その時点で日本は狂っていると思った。

社会主義国のような日本になってしまっては、後進国になるのもおかしくない。大学時代、経済政策の講義でエジワースの箱を使って、無差別曲線が交わり合うこの圏内に入れない国例えば東南アジア諸国を競争に参加させようと教授が言っていた。まったく逆の立場になった。

一部でA新聞の言説をもっともと思っている我々より上の世代がいる一方で、新聞を読まない若い20代から30代の半分はTVも見ないというデータがNHKより発表された。まあ、若い人にはこのまま反体制の言うなりにならずにオリンピックの組織幹部はじめみんなを応援して欲しい。

1964年幼稚園児の自分にとって印象深かったのは、アベベと水泳のショランダーだった。2人とも強いので印象に残った。


子供なので女子バレーは見ていない。日本選手ではマラソンで最後競技場で抜かれた円谷だ。あとは重量挙げの三宅かな。柔道無差別でへーシンクが神永を破った試合は見ていない。でも、ヘーシンクについてマスコミが騒いでいた印象が子供心にある。


幼稚園ではお遊戯でオリンピック音頭をやったし、幼稚園から近い山手通りの大崎広小路のガード下で聖火ランナーを見た。今と違い後ろめたいことなくさっそうと走っていた。なんかへんな国になったよね、日本。でも、ともかくオリンピックができるように頑張って!
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映画「ソング・トゥ・ソング」 テレンス・マリック&ルーニー・マーラ

2021-06-03 20:32:23 | 映画(洋画:2019年以降主演女性)
映画「ソング・トゥ・ソング」は2017年のテレンスマリック監督作品


テレンス・マリック「ソング トゥ ソング」は日本では遅れて2020年秋に公開された。出演者はよくぞ揃えたと思うくらい超豪華である。普通であれば、このメンバーならすぐさまロードショーとなってもおかしくないが、何せ難解とされるテレンス・マリックの作品である。ヒットは望めずやむを得ないであろう。


作品情報のあらすじは下記のようになっているが、いつものようにストーリーはあってないようなもの。テレンス・マリックとカメラマンのエマニュエル・ルベツキのコンビで作られる甘美な映像を楽しむための映画である。例によってこれが素晴らしい。数秒の動画を集めて写真集を作ったみたいな映像である。しかも、どれもこれも素晴らしい。気の利いたスタイリッシュなカフェでバックに流すのには最適かもしれない。


音楽の街、オースティン。何者かになりたいフリーターのフェイ(ルーニー・マーラ)は、成功した大物プロデューサーのクック(マイケル・ファスベンダー)と密かに付き合っていた。そんなフェイに売れないソングライターBV(ライアン・ゴズリング)が想いを寄せる。
一方、恋愛をゲームのように楽しむクックは夢を諦めたウェイトレスのロンダ(ナタリー・ポートマン)を誘惑。愛と裏切りが交差するなか、思いもよらない運命が4人を待ち受けていた…。(作品情報より)


*テレンス・マリックとエマニュエル・ルベツキのコンビ
アカデミー賞最優秀撮影賞を「ゼログラヴィティ」「バードマンあるいは」「レヴェナント」で3年連続で受賞している。すごいことだ。でも、賞の受賞うんぬんよりもエマニュエルが撮る映像コンテが何より美しい。上記の3作は映画自体の魅力もあるが、成功にはエマニュエル・ルベツキのカメラが貢献しているのは言うまでもない。

上記3作と別におったまげたのがテレンスマリックとのコンビで映す「トゥ・ザ・ワンダー」だ。美しい映像のカットが続く。数えてはいないが、1000カットを大きく超える映像カットが次から次へと続く。こんなすごい映像は他には真似できない。ストーリーがあってないようなものなので、好き嫌いが分かれるのではないか。


今回も同じ系統である。よくぞ見つけてきたという絵になる街の風景やスタイリッシュな部屋に合わせて、美男美女を映す。それぞれのカットは長くても10秒はない。3秒から5秒くらいのカットが延々と続く。120分として、平均5秒なら12 ×120で1440だ。もっとあるかもしれない。これだけのカットを撮るのもすごいが、編集者の腕の見せ所である。このコンビの映像ではいつも複数の編集者がいる。今回は3人の名前がある。まず、こういう完成品にするのに時間がかかるのではないか。粘り強さに感心する。


でも、きっと流行らないと思う。それなのに制作するのにこのスタッフにキャストどうやって資金集めするのか気になるところである。
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