映画とライフデザイン

大好きな映画の感想、おいしい食べ物、本の話、素敵な街で感じたことなどつれづれなるままに歩きます。

アヌークエーメ死す

2024-06-19 18:30:13 | 偉人、私の履歴書
フランスの女優アヌークエーメが亡くなったと報道されている。
謹んでお悔やみ申し上げます。


92歳で年齢的には大往生である。若くして亡くなって惜しむわけではない。実は16年前に亡くなった父と同じ1932年4月に生まれている。ユダヤ系っぽく鼻筋が高い。美形である。恋多き女で4回結婚している。あの殺人的な美貌を持つ女性はそうは現れない。

アヌークエーメといえば主演女優としての「男と女」だ。訃報も代表作で語られる。小学校低学年で公開されたが、その時はまだまだ子供だった。フランスで1968年グルノーブル冬季オリンピックがあった。フランシスレイ作曲の大会主題歌「白い恋人たち」は当時日本でも繰り返し街でかかっていた。フランシスレイの特集が色んなところで取り上げられて「男と女」のテーマ曲を何度も聴く機会があった覚えがある。ただ、映画「男と女」を初めて観るのは大学生になってからだった。

最初から映画の良さがわかったわけではない。映画館で寝てしまった気がする。アヌークエーメも自分の年齢よりはかなり年長だ。父親と同じなんだから、かなり上に感じていた。その後ビデオで見たあと名画座で見る機会がある。30代になって初めて魅力的な女性と思うようになった。


アヌークエーメが究極の美を見せるのは1958年のジェラールフィリップ共演の「モンパルナスの灯」であろう。画家のモジリアーニの物語で良家の令嬢で妻になる。当時26歳のアヌークエーメが実に美しい。本来もっと共演すべきだったジェラールフィリップが翌年亡くなっているのが残念だ。フェリーニの名作「甘い生活」「8 ½」にも出演しているが、共演の美人女優が強烈に派手で驚くほどの存在感ではない。


女性としての魅力は「男と女」なのであろう。カーレースシーンも多く男性向きの映画と感じる。この映画は何せ男のセリフがキザだ。これでもかと心に響く。歳をとるごとに良さがわかっていく。2019年に日本公開された「男と女 人生最良の日」ジャン=ルイ・トランティニャンとともに登場した。最初の「男と女」では2人にそれぞれの子どもがいた。大きくなった子どもたちとともに登場するのだ。むろん若き日の美貌は衰えたが、ただものでない存在感があった。


50年代から60年代にかけての美しいアヌークエーメを少し回顧してみたくなる。
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伊集院静 死す

2023-12-02 20:31:12 | 偉人、私の履歴書
伊集院静氏が亡くなったと報道されている。
大変残念である。

昭和の時代から夏目雅子の夫で存在は知っていた。週刊誌その他でいい女にモテモテという記事をずいぶんと見た。その後、夏目雅子と死別した後で,阿佐田哲也のエッセイに名前が出てくるようになる。阿佐田哲也こと色川武大が存命時は、彼が書いたものをずいぶんと読んだ。奥が深かった。今でも「うらおもて人生録」は自分のバイブルだ。最初は芸能界系色男の伊集院静との結びつきは意外に思った。ところが、昭和末期に色川武大の本に登場する頻度が増える。イメージが違っていた。

伊集院静夏目雅子亡き後かなり荒れた生活をしていたのが文章から読みとれる。酒に溺れながら地方を彷徨うエッセイを読むと,この人もうすぐ死んでしまうんじゃないかとずっと思っていた。事実、元TVプロデューサーで作家の久世光彦は文庫版「乳房」のあと書きで、不良の伊集院静はいつ死ぬのだろうか、私はその報せを聞くことがあるのだろうかと書いている。でも、久世光彦の方が先に亡くなった。

真っ当な人生を歩んでいる人にはご縁がない2人であろう。後になってバブル期とされる昭和の終わりに、自分は自堕落な生活をしていた。20代だった自分と同じような奴がいるんだなと妙に惹かれた。同時に、平成になってからも伊集院静の新作を追うようになる。2000年代を過ぎて週刊誌で伊集院静が人生訓を書いた本がベストセラーになる。本当かよと思わず吹き出してしまう。本人が照れくさいのではないか。日経新聞朝刊の連載小説も2作書いた。題材はサントリーの鳥井さんと夏目漱石だ。でも、この辺りのテイストはイメージとちょっと違う。

「愚者よ、お前がなくなって淋しくてたまらない。」という小説がある。いわゆる私小説だ。昭和の終わりの自堕落だった伊集院静の生活を書いている。これがむちゃくちゃおもしろい。3番目の奥さん篠ひろ子の許可も得て、前妻夏目雅子と知り合うきっかけや京都の名妓と同棲していたことも書いてある。モテモテだよね。でも、自慢気でない。今回改めて再読したが、自分にはいちばんしっくりくる。会話のリズムがいい。マジメ腐った男が書いてもこんなセリフは出てこない。


伊集院静が親しくしていた3人の破天荒な男がいる。スポーツ新聞の競輪記者、CMディレクター時代の後輩、出版社の編集者である。3人ともハチャメチャだ。「仁義なき戦い」で虫けらのように死んでいくチンピラみたいだ。いずれも亡くなっている。いい死に方をしたとは言えない。軽いフィクションであったとしても、ほぼ真実であろう。読んでいて、ムカつく気持ちすら出てくる3人だけど伊集院静はにくめない。一部、阿佐田哲也こと色川武大についても書いている。これは「いねむり先生」が本線だ。

「阿佐田哲也の競輪教科書」の本には、伊集院静が何度もでてくる。昭和63年(1988年)に週刊誌アサヒ芸能に連載されていたエッセイが基調である。週刊誌買って読んでいた。本の発行日が平成元年4月30日だ。4月10日に阿佐田哲也こと色川武大が亡くなっている。現在は絶版だけど、自分の書棚にはずっとある。昭和62年(1987年)に20代だった自分にとって大きな転換となるある出来事があった。その後、高校時代から麻雀本でお世話になった阿佐田哲也のエッセイを読み、初めて競輪場に行った。こんな世界があったのかと、時間があると行くようになった。

滝沢正光が圧倒的に強い時期で、中野浩一、井上茂徳とともに特別競輪の優勝を分け合った時代だ。青森で開催された昭和63年7月の全日本選抜に伊集院静が阿佐田哲也と一緒に行ったことが本に書いてある。ただ単に競輪を語るだけでなく、バクチ全般、人生についても語っている。仕事だけでなくあらゆることに通じる奥が深い名著だ。

その本の中で、伊集院静井上茂徳から「競輪には先行型、追込み型はないんですよ。」と聞いたことを語っている。追込み型の帝王井上茂徳がいうので妙に納得した。昭和63年の競輪グランプリで、最後方から中野浩一の怒涛の捲りに乗って、マークの井上茂徳が鬼脚で差し切ったレースをまじかに見た印象が今でも映像のように残る。

競輪推理してみるのが楽しく、のめり込んではいない。自分の主戦場は株だった。それでも、一度だけ1987年松戸記念の準決勝で正確な数字は忘れたが、16000円台後半の配当で5000円の車券を当てたことがある。アタマは山田英伸だった。払い戻しで厚い札束をもらい、誰かに襲われないかと心臓がドキドキした。とはいうものの勝っている方がマレだ。競輪に行ったのは平成の一桁までで、長い間バンクに行っていない。年末のグランプリをずっとTVで観ていたが、最近はご無沙汰だ。

ただ、競輪の話題を聞くたびごとに、伊集院静の動静を意識していた。
伊集院静色川武大が亡くなったあと、バトンタッチをするかの如く小説を書く。直木賞をはじめとした文学賞も受賞する。たっぷりとツキをいただいたのかもしれない。無頼派の第一人者になった。ずっと晩年も競輪場に行っていたのであろうか?自分は酒に呑まれていた昭和のギャンブラー伊集院静が好きだ。
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立花隆死す

2021-06-24 06:17:32 | 偉人、私の履歴書
立花隆氏が亡くなったと伝えられている。現代の著述家の中では最も尊敬すべき人であり、強い影響を受けた。今後、立花隆の著述が読めないのは本当に残念である。心からお悔やみ申し上げたい。


「人間の肉体は結局その人が過去に食べたもので構成されているように人間の知性はその人の脳が過去に食べた知的食物によって構成されている。」一体どれだけ知的食物を食べたら、あんな知的巨人になれるのであろうか?いつも思っていた。立花隆というと、一般的には「田中角栄研究」を1974年文藝春秋に発表して、田中金権政治を糾弾した仕事が最も知られている。とはいうものの、その仕事からは47年の長い年月が過ぎている。若い人には発表された時の衝撃を知らない人も多いだろう。

1冊も彼の本を読んでいないと、立花隆を完全なる左翼人間と思っている人も多いだろう。世の中にはリベラルというイメージだけで金儲けしている人がTVにウジャウジャいる。しかし、立花隆は世間がリベラルと呼ぶ方向に偏っている訳でない。自らの人生を振り返った「知の旅は終わらない」からいくつかピックアップする。

日本の運動では立場がミックスした議論は起きない。日本人は群れるのが習性だから同じ立場の人間が集まってマスターベーションのような議論をして喜ぶのが普通である。ただデモをやって警察官と押し合いもみ合いの肉弾戦をやって自己満足して終わりといった具合で議論の部分がない(立花隆 知の旅は終わらない p86 )

ヨーロッパで様々な人に会って会話を交わしているうちにおかしいのは日本の学生運動の方だと気づいた。世界が見えてないし歴史が見えていないのは日本の学生運動の活動家だと思うようになった。日本の政治運動と言うのは口では民主主義を唱えながら全然民主的でない。共産党にしろ中核革マルにしろその組織の内部はほとんど戦前の天皇制に近いものになっている。(同 p108)

若き日にヨーロッパに行き、議論を一方通行で進めず対抗する議論も含めて具体的に積み重ねていく人たちを見て、日本の左翼活動家のおかしな部分に気づく。帰国してあらゆる左翼一派に自分の陣営に入るように勧められたが、断っている。東大紛争についても全否定である。むしろ、彼らが大学の講義をぶち壊しにしたことを恨んでいる。

あの時大学解体を叫んで運動していた連中には本当に腹が立つ。だから僕は東大全共闘の連中の事はまるっきり信じていない。(同 p132)

立花隆の著述で何と言っても圧巻なのは「日本共産党研究」である。若い時は自分自身に読解力がなかったせいか途中で断念した。年を経るごとにこの本を理解できるようになる。いかに日本共産党がひどい組織だということが理解できる。戦後美化された戦前の日本共産党が、ソ連に率いられたコミンテルンの言うがままだったこと。内部闘争に明けくれ、数多くのスパイに忍び込まれていったんは破壊した組織であることを示し、死亡者が出た共産党リンチ事件の全容を丹念に資料を調べ上げ詳細に書いている。このレベルを超える著述はそうはない。

でも、これを書いて日本共産党とかなり対決したようだ。

共産党はどうあっても私を「反共分子」に仕立て上げたいらしい。私の基本的な社会観はエコロジカルな社会観である。多様な人間存在、多様な価値観、多様な思想の共生とその多様な交流こそが健全な社会の前提条件であると考えている。あらゆるイデオロギーとイデオロギー信者の存在に寛容である。思想とか価値観とかの間には批判的交流があればあるほど豊かになると思うからである。(日本共産党の研究 p5)

共産党とその批判者の間に交わされてきた論争にはこの対話のかけらもない。これは弁証法をその信条としているはずの共産党としてはおかしなことと言わねばなるまい。(同 p6)共産党がヒステリックに繰り広げる反「反共」キャンペーンのほうによほど危険な芽生えを感じる。「赤狩り」が危険であると同じように「反共狩り」も危険である。(同 p7)

まったく同感である。時折共産党がブレない政党だという人がいる。結果的にいかにブレてきたのかがよくわかる。

あとは「天皇と東大」に凄みを感じる。歴史の教科書で知るだけのものだった「天皇機関説」の学説が天皇を代表とする国家主権だということよく理解できたと同時に、昭和天皇がこの学説を悪いと思っていないにもかかわらず、相反して世論が美濃部達吉攻撃に終始した話がもっとも印象的であった。

二二六事件において、反乱軍を天皇陛下が支持してくれると思っていたことに反して、青年将校たちをきびしく処遇した話は近代日本史にて語られることが多い。でもその解説だけに終わらない。むしろ異常な極右思想というべき蓑田胸喜や極度の皇国観を持つ平泉澄をクローズアップする。特に平泉澄と秩父宮との関係が不気味だ。両者をここまで言及してよく調べている文献はあまりなく、たいへん参考になった。

また、立花隆が猛烈に本を読んでいるのは周知の通りである。書評も寄稿していて、本にもなっている。そこで推薦しているおかげで自分が読んだ本も数多い。読解の難易度が高い本は少なく、硬軟両方において読んでいて実に面白いノンフィクションを推薦してくれる。立花隆は少年時代から神童だった。自分から見ると別世界である。生まれながらの頭脳もずば抜けている。もともと少年時代にありとあらゆる小説を読んでいたのだが、文藝春秋に入社して先輩からの影響でノンフィクションを読むのが基本となったようだ。影響されてか自分も小説を読むことが少なくなった。

これほどまでの知の巨人がこの世から去ったのは実に残念である。立花隆が取り上げるジャンルは幅広いが、サイエンスものは残念ながら自分の理解に及ばない部分も多々ある。「脳死」「臨死体験」に関わる記述はためになった。臨死体験は死後の世界体験ではなく死後の直後に衰弱した脳が見る夢に近い現象であること。(知の旅は終わらない p402)結局死ぬと言うのは夢の世界に入っていくのに近い体験なのだからいい夢を見ようとする気持ちで人間は死んでいくことができるじゃないかと言う気持ちになった。( 同p403)

立花隆がどのように死を迎えたのか知りたいものである。
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高倉健 死す

2014-11-18 21:59:13 | 偉人、私の履歴書
高倉健が亡くなったと報道されている。
これは本当にショックだ。亨年83歳となれば、寿命と考えてもおかしくない。

でも残念だなあ!!
あなたへの復活が本当によかったので、もう一作期待していただけに本当に残念だ。


小学校に上がった後、五反田大崎橋にある東映の映画館にヤクザ映画の看板が目立ってきた。
幼稚園くらいから東映の時代劇を父母と見に行っていた。自分は大川橋蔵のファンだった。
それなのに怖いお兄さんの看板だらけになってきた。目をそむけるしかなかった。

そこの看板には高倉健の顔もあったはずだが、避けていたので印象にない。

その名を知ったのは江利チエミの夫としての存在だった。
我々は実写版「サザエさん」を見たくちである。マスオが川崎敬三で、波平が森川信、フナが清川虹子だった。
アニメでテレビ放映された時、実写の方がよかったのにと思ったくらい江利チエミが好きだった。
その夫があの怖い人だと思うと、恐れをなした。
2人の自宅が火事で燃えた時は、テレビや週刊誌で大げさに取り上げられていたと子供心に覚えている。


その後テレビ「時間ですよ」堺マチアキが憧れる存在としての高倉健も知ったが、怖いままだった。
もう少し大きくなった時幸福の黄色いハンカチ武田哲矢、桃井かおりという若手俳優と一緒に出演することを知った。あの高倉健に2人が恫喝されてしまうのではないかと人ごとながら心配になったくらいである。今となっては、何でそんなこと思ったのかは笑うしかないが、青春時の自分にはそう思うしかなかった。
この映画で見方が変わった。というよりもそれまで怖くて彼の映画は見れなかったのだ。

その後は徐々に見るようになってきた。
実際東映から足を洗って、昔ワルだったけど、今は堅気になっている無口な男というのを演じるようになった。
居酒屋兆治が一番印象的だったが、「八甲田山」「夜叉」「駅」と名作が続く。

そうしているうちにヴィデオで昔の映画が見れるようになった。
「飢餓海峡」の刑事役、「宮本武蔵」の佐々木小次郎役の若々しさは素敵だ。
ヤクザ映画も目をそむけずに見れるようになった。でもその時には自分は30代に足を突っ込んでいた。
網走番外地」で最初背広姿で刑務所へ引っ張られるシーンがこれだ。


自分のブログでヤクザ映画時代の彼の姿をとらえるようになったのは最近だ。
松田優作の遺作ブラックレインでのマイケルダグラスとの共演は大阪が舞台で、珍しくアンディ・ガルシアと歌っているのが御愛嬌だ。

こうしてみると、波乱の人生だったんだなあと思う。
文化勲章もらった時は自分のことのようにうれしかった。これをもらっているので死んだあとに国民栄誉賞なんていわれなくてもすむよね。でも最後可愛がっていた明治大学の後輩田中裕子あなたへを撮れてよかったよ。夜叉」での田中裕子の色っぽさは最高だったよネ。
報道では意外に田中裕子のインタビューがないが、最重要人物だと思う。


つつしんで冥福を祈りたい。
同じ年のクリントイーストウッドにはもう少し頑張ってもらいたい。
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ジャックブルース死す

2014-10-27 18:53:10 | 偉人、私の履歴書

クリームのベーシストであるジャック・ブルース氏が亡くなった。。
これは実に残念だ。
71歳なのでまだ若いなあ。肝臓病と伝えられている。
エリッククラプトン、ジンジャーベイカーという昔の仲間から追悼するコメントも報道されている。


そののちソロボーカルとして圧倒的な人気を誇るエリッククラプトンクリームのリードボーカルだったとおもっている人が意外に多い。
「サンシャイン・オブ・ユアラブ」も「ホワイト・ルーム」ジャックブルースのリードボーカルである。
「ホワイトルーム」で一瞬エリッククラプトンが歌うパートがあるが、ひでえ音痴だ。サイケデリックなギターは抜群だけど。。
逆にジャックブルースはいい声している。


そもそもヒットチャートを上昇するヒット曲で売るバンドではないからこんな話は意味ないかもしれないけど
「アイ・シャット・ザ・シェリフ」が全米ヒットチャート1位になった時、エリッククラプトンも歌がうまくなったものだと思ったっけ。

クリーム時代で何より歴史的名演といえるのはライブヴァージョンの「クロスロード」だ。



これを最初に聞いたとき、本当にぶったまげた。
エリッククラプトンのコンサートに行きたいといっている若者に「クロスロード」を聴かせて、これ誰のギターかわかる?とあえて聞いてみる。
マニアはともかく、普通は誰もわからない。今や枯れきった演奏をするエリッククラプトンと同一人物に思えないのだ。
クリームってすごかったんですね。と改めて言われる。



そんな連中にもう一度曲を聴かせて、じっくりとベースとドラムに注目せよ!!という。
生き物のように躍動するジャックブルースのベースはエリッククラプトンと技を競い合っている。ツインギターで演奏しているがごとく凄いベースだ。血気盛んなプレーといえる。
ジンジャーベイカーと3人でケンカしているようにも感じられるが、バランスが意外にも均衡してしまう。
そして意趣卓越なるロック史上最高のプレイとなっている。

2005年に久々にクリームが再結成され、再度演奏する「クロスロード」を聴いた。
枯れた味を出すエリッククラプトンのプレイは昔とちがう円熟味のあるものだった。

3人揃ってもう一度やって欲しかったなあ!!

もう一度「ホワイトルーム」のジャックブルースの声を聴いてご冥福を祈りたい



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渡辺淳一死す (自分の渡辺淳一履歴)

2014-05-06 11:52:02 | 偉人、私の履歴書
渡辺淳一さんが先月30日に亡くなったと伝えられている。
よくあるように葬儀終了後の公表である。

中学時代から40年にわたって愛読した作家が亡くなるのはさみしい。
渡辺淳一との最初の出会いはテレビ番組であった。
田宮二郎、山本陽子主演の「白い影」は渡辺淳一の「無影燈」がベースになっている。

有名医大で将来を嘱望された医師が民間の病院にやってくる。男前の医師には次から次へと女が寄っていく。しかし、彼には秘密があった。がんに侵されているのである。民間病院であれば、がん患者に投与すると言って大量に痛みを和らげる注射(モルヒネかな?)を打つことができるのだ。結局は北海道の湖で自殺して自らの命をたつという話だけど、がん患者に対処する医師の使命について、若い医師と語りあう場面もあり実に面白い。田宮演じる医師に無情の響きを感じた。
中山麻里や田中真理、中野良子など当時我々が憧れた女優が演じる女性と次から次へと関係を結ぶ自由奔放な主人公がうらやましかった。

これから彼の本をむさぼり読むようになる。
何より読みやすい。短編から始まって次から次へと読んだ。
高校から大学生になっても同様に読みつづけた。「北都物語」に流れるやわらかいリズムに魅かれた。
ただ、その当時に彼の書いた作品がよく理解できるようになるのは30代後半をすぎたくらいだったかもしれない。むしろ40代になった時に「北都物語」を読みかえして主人公の気持ちに感情流入した。

その後「化身」「別れぬ理由」「阿寒に果つ」など映画化された作品も読んだ。
社会人になって最初に配属された先が東京駅そばで銀座の夜を楽しむようになった。
渡辺淳一作品によく出てくるホステスってこんな感じか?と思いながら遊びに出たが、まだまだ修行が足りないといった感じだった


自分が一番衝撃を受けたのは、野口英世の人生をドキュメンタリータッチで描いた「遠き落日」を読んだ時だ。

子供のころから野口英世は偉人として称賛されていたわけである。小さいときに手に大やけどをして不自由になりながらも努力してアメリカで伝染病の研究者として名をあげるという話は誰でも知っているだろう。でもこの小説を読んで「裏の野口英世」を知った。
金に無頓着で、地元会津の素封家に金の無尽をしまくるという構図はこの本を読むまで知らなかった。もちろん人並み以上に努力をするということが本の中から伝わるのであるが、今まで彼を偉人と聞いていたのは何なの?生活破たんでもいいの?という疑問が浮かび上がった。面白かった。映画化された時、野口のいい加減なところは一場面だけだった。

日経新聞を読むと、必ず「私の履歴書」に目を通す。そして下の連載小説にも目を通すが見ないことも多い。実際今の小説は筋すら知らない。そんな95年のある時、きわどい描写が書いてあるなあと名前をみると渡辺淳一だった。これは毎日読むようになる。
「失楽園」だ。これは連載を重ねるうちにエスカレートしていく。最終場面に近づいていくとき、どういう結末となるのかが楽しみになった。次に起きる場面の予測で読者をわくわくさせるのは連載小説の醍醐味である。映画化やテレビも見て、黒木瞳川島なおみもいい感じで悪くなかったが、連載時のワクワク度はなかった。

「愛の流刑地」「失楽園」と同様の刺激を与えてくれたが、さすがに「限界効用逓減の法則」になってしまった気がした。

最後に驚かせてくれたのが日経新聞「私の履歴書」である。2013年1月の連載であった。「私の履歴書」の連載を終えると、時間たたずに死ぬという印象を自分は持っている。家人も同じようなことを言っていた。自分の寿命を意識し始めた時が書き始め時なのか?ここではあからさまに若き日の恋愛を時間をかけて描写した。初恋の女学生との悲哀な恋に驚いた。看護婦に手をだす話なんて「無影燈」のネタ話だったのかな?おいおいこんなこと言っていいのかな?と思わせることも多く刺激が強かった。

ともかくいろんな刺激を与えてくれた人だった。
今朝テレビを見ていたら、黒柳徹子さんのインタビューが映されていた。私の亡き母が若い頃お世話になったTさんという方がいて、そのおばさんは自分が社会人になるまでよくしてくれた。夫を捨て、愛妾になったというその昔映画の元ネタになった自由奔放な女性だったという。
そのTさんが黒柳徹子さんの母上黒柳朝さんと仲が良かった。朝さんのエッセイにもTさんが出てくる。いずれも北海道出身で渡辺淳一さんの親族とつながっていたと聞いた覚えがある。母が何度もそのつながりを語ってくれたのだけど、関係がどうしても思い出せない。いずれにせよお互い同世代だった渡辺淳一さんと黒柳徹子さんは親しかったのであろう。テレビを見ながらそんなことを思っていた。

ご冥福を祈りたい。

参考作品
失楽園
究極の愛


化身
年下女性を育てる愉しみ


遠き落日
偉人野口英世と母との交情
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淡路恵子死す

2014-01-13 11:37:32 | 偉人、私の履歴書
淡路恵子さんが亡くなったと伝えられている。
島倉千代子さんの時もブログに綴ったが、彼女は母より1つ年上で品川出身の同郷だけに一言書いておきたい。

晩年は口うるさい人生相談のおばさんでtvに登場することが多かった。
世紀の人気者中村錦之助(萬屋)と一時結婚していた。当時あれだけの人気者がバツイチ子持ちにもかかわらず、嫁にもらうくらいだから相当いい女だったというのがわかるだろう。

映画界へのデビュー作「野良犬」は黒澤明作品の中でも好きな映画である。
戦後まだ東京が荒廃から抜け切れていない中で撮られたこの映画の中でダンサーを演じる。
まだあどけない顔をした少女である。

それが10年しないうちに色気たっぷりの女性になる。
森繁久弥、加東大介、三木のり平といった面々と駅前シリーズを撮る。クレイジー映画でも常連だ。
まだ喜劇役者であった森繁社長が遊びに行くバーのマダムをやらせたら、天下一品である。

高峰秀子主演「女が階段を上る時」という成瀬巳喜男監督作品がある。
高峰秀子が気品ある銀座のママ役で、非常にいい味を出している作品である。
この映画では、高峰の店を独立して新しい店を開き、高峰の店から客を大勢奪っていくママ役を淡路が演じる。「野良犬」から10年たった姿が非常に美しい。

そのあと錦ちゃんと結婚する。
有馬稲子の後である。以前日経新聞「私の履歴書」で、有馬稲子さんが市川崑監督と不倫していたという重大告白をしたことがあった。そこでは、天真爛漫な錦ちゃんの振る舞いを書かれていたが、錦ちゃんにこっそり市川監督と浮気していた話だった。これを読んだ時淡路恵子はどう思っただろう。個人的にはそれが気になっていた。

別に淡路さんのファンというわけではないが、同郷のよしみと晩年のご苦労に敬意を表してご冥福を祈りたい。
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島倉千代子死す

2013-11-08 19:56:57 | 偉人、私の履歴書
島倉千代子さんが亡くなったと報道されている。
自分よりも20以上も年上の方なのに、妙に気になってしまう。なぜだろう。


自分が子供のころ、自営だった父と一緒に実家の取引先によく集金についていった。
自宅のあった五反田から御殿山に車で向かい、八ツ山橋の横を通り品川駅前の通りに向かう。
現在の品川プリンスホテルの手前を左に曲がると、坂になっている。坂の途中に島倉千代子の家があった。
豪邸だったと記憶している。

父が「ここが、島倉千代子の家だ。すごい家だよなあ。旦那は阪神の野球選手だ。」と言っていた。
元阪神の藤本勝巳だ。品川駅のすぐそばだから遠征にもいい場所だったろう。
何度も同じところに行ったからよく覚えている。
八ツ山橋の横に森村学園があった気がする。それが山口百恵が住む高級マンションになった。
できたての時見に行った。その時、ついでに島倉千代子の家を見にいくと、そこにはもうなかった。

島倉千代子の恋人が医者だったというのは有名だ。
五反田の池上線のガード横にその眼医者があった。看板が印象的だった。
実はそのすぐそばの産婦人科で自分は生まれている。今はなんとラブホテルになっている。
失明寸前のところをその眼医者が救ったという恩義があったせいか、お金を貸してしまう。
そして島倉が借金を背負ってしまうのだ。悲劇としか言いようにない。

まさに「人生いろいろ」だ。
でも自分が一番好きな歌は「愛のさざなみ」だ。

このポップス調のアレンジがなんとも言えず、好きだ。
父も好きだった。

昭和43年暮れだ。この時自宅の中は真っ暗になりつつあった。
家長であった祖父のがんがわかったからだ。祖父と祖母はその43年9月目黒雅叙園で盛大に金婚式をやった。その直後だ。
家の中の変化は小学生の自分もよくわかった。
そして年が明け入院、4月に亡くなる。
家の中が真っ暗な時、なぜかこの歌が心に残った。

今月は母の命日で高輪の墓にいく。
全然関係ないかもしれないけど、昔島倉さんの家があったあたりで合掌しよう。
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私の履歴書  水木しげる

2010-10-27 07:20:45 | 偉人、私の履歴書
水木しげるさんが文化功労者を受賞した。
テレビのインタビューでは冗談だと思うけど「もっと上の賞はないのかな?」と言っていた。
こういうキャラだからそれで良しとされるのであろう。

ひとつ前のブログで日経新聞「私の履歴書」に関する話題を取り上げた。
もう30年以上もこの連載読んでいるし、単行本になっている昔の「私の履歴書」も読んだ。
その上で個人のベストをあげると水木しげるさんの「私の履歴書」だ。
ちなみに今は「水木サンの幸福論」に載っている。

実におもしろかった!!
連載のとき朝が来るのが楽しみであった。

子供のころから出来が悪く、勉強は全く駄目。でも絵を描くのが好きだった。
小学校卒では芸大を受けられないので、受験資格を得るため大阪府立の園芸学校を受験することにした。
定員50人で受験者51人一人しか落ちないので当然大丈夫だと思ったら失敗
当然受かると思って発表も見に行かなかった。念のために父親が行くと名前がない。
いろいろ聞くと面接で失敗したようだ。でも父親は怒らなかった。

文章を読んでいると、父親と母親から受けたやさしい気持ちがにじみ出ている。
私の履歴書にでている写真がいい。
父親や母親と一緒に水木さんが写っている姿を見ると親からの愛情を感じ何とも言えない気分になる。
片腕なくして帰ったバカ息子をみて、文面に書いてある以上に、ご両親はつらかったろうなあ。

この履歴書の最大のピークは戦場の場面だ。
このシーンは日経私の履歴書上、日本シリーズで江夏と対決した西本監督の気持ちを語るシーンと両壁と個人的には思っている。

ラバウルの戦場に船で向かった。到着したのが最後の船であった。要はそのあとの船はすべて撃沈されたのであった。落第二等兵は戦場でも劣等ぶりを発揮する。そんな朝敵の襲撃を受ける。とっさに逃げる時から味方を発見するまでのシーンは実に劇的だ。戦場を逃げていく場面は文章なのにいかにも絵画的で読んでいる自分が同じような恐怖を感じた気がする。

この後も片腕を失う話や原住民と友達になるシーンも印象的だ。

運よく片腕で日本に戻ってからの闇屋稼業、紙芝居や貸し本漫画家として苦労話もおもしろい。
そんな中を運をつかむ。そして現在の水木しげるがある。


今の水木さんにはまだまだ運の風が吹いている。
でもこれって若いころの苦労があったからだと思う。

おめでとうございます。
これからもがんばってください。そして文化勲章がもらえるまで生きてください。
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私の履歴書 大倉敬一

2010-10-25 21:12:54 | 偉人、私の履歴書
これはおもしろいなあ

人間っていろいろあると思う。
今年の私の履歴書みてもオービックの社長のように
がつがつした方がいいように思えるような人もいる。
でも今回は別の意味で楽しかった。

この人ってお坊ちゃん育ちなのかなって
それもかなり極致の
普通であれば殺されそうになる軍隊でもしごきを受けなかったり不思議だなあ。
個人的には興味深い。

という自分が気持ちが合うのかもしれない。
実は私にも小さい頃にはネンネがいた。
内気で、女の子のおままごと遊びにしか付き合ってもらえなかった。
大倉さんに辛い気持ちを語ってもらった気がする。

でも今はただのサラリーマン
大倉さんと違う。

日経新聞の「私の履歴書」を妻も好きである。
作曲家の遠藤実先生のときには相当しびれていた。
こんなに貧乏な人がいたって

でも貧乏な話やがつがつ仕事した話だけがいいわけではない。
今回は良かった。

大倉さん頑張って!
自分としてはかなり合う人みたい。
あと数日頑張って!
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小室直樹  死す

2010-09-28 20:03:31 | 偉人、私の履歴書
小室直樹博士が亡くなった。というニュースが入った。
すでに4日に亡くなっていたようだ。

ここ最近の訃報では一番不思議な気持ちになった。
なぜなら、彼のことを学生時代より約30年追いかけていたからである。

何気なく書店でピックアップしたのが、「ソビエト帝国の崩壊」であった。
この本を読んで感銘を受けた。当時はまだ東西冷戦が残る時、ソビエトの存在が脅威に感じられていた。東欧諸国へにらみを利かせると同時に、アフガニスタン侵攻で世界を恐れさせた時代のソビエトの崩壊を予告する本の著述にはどきどきさせられた。

その後も「新戦争論」における本質的国連論、「中国」の特殊性と資本主義に向かう中国の矛盾、「超常識の方法」での数学の論理の話や山本七平との共著、田中角栄弁護論など彼の本が出ると真っ先に読んだ。いずれも感銘を受けた。
「危機の構造」における急性アノミーの話は今も影響を受ける。

彼の本を読むと、彼が学んだ大勢の碩学の話が出てくる。
マックスウェーバー研究の大塚久雄、戦後日本の政治学の重鎮丸山真男、経済学のサミュエルソンなど大勢の碩学の存在を知ったのも彼のおかげだ。小室直樹がいなかったら彼らの本を読もうとはしなかったと思う。

小室直樹に教えを受けたことはたくさんある。
その中で一番印象に残る話はヒトラーに関することだ。

ヒトラーが経済政策の天才であることを教えてくれたのは、小室直樹が初めてである。マッカーサー率いる進駐軍が道筋をつくった戦後教育では、ナチスが全否定されていたのは言うまでもない。実際ナチスの迫害についてはどうにもかばうところはない。
でも子供ながらに、あの賢いドイツ人が何でヒトラーを支持していたのかがわからなかった。第一次世界大戦後有名なハイパーインフレに悩まされ、経済的に疲弊していたドイツに対して、ヒトラーはシャハト博士とともに経済の処方箋を与えた。そしてなんと600万人以上いた失業者を一気にゼロにしてしまうのである。日本の社会科の教科書で、アメリカの大恐慌を救ったルーズベルト大統領の話が出るが、実際にはそれほど景気回復が達成されたわけではない。制限速度のない高速道路「アウトバーン」の建設や、国民車「ワーゲン」の振興、1936年のベルリンオリンピックでの巨大競技場の建設など次々に政策を実施して失業者をなくしたからヒトラーが国民に支持されたということを小室博士の本で知った。

小室直樹のことを語ろうとするとつきない。

小室がゼミを主宰すると、昼飯を食べずに一気に勉強したそうだ。理由は単純
その方が頭がきれるということだった。確かに昼飯食うと眠くなるもんね。
そこではハードに勉強していたみたい。
彼の本は初期の一部の本を除いては、やさしく読者にわかるように難しい学問を噛み砕いている。本当に頭のいい人っていうのは、難しいことを難しく語るだけでなく、難しいことを誰でもわかるように説明できるものだと思った。

おそらくは印税がかなり入ったはずだが、貧乏暮らしをあえてしていたそうだ。テレビに出ると、あの独特の奇声でしゃべるから誰もが奇人だと思う。彼こそ本当の意味での勉強好きだと思う。テレビもない部屋にいたのに講談調の話題にもたけていた。

ああいう本音でもの語る人がいなくなるのは本当にさみしいと思う。
品川の家の書斎に彼の本が大量に置いてあり、今の家には「昭和天皇の悲劇」しかない。
そこでは「天皇戦犯論」に立ち向かう著述がされており、戦争に負けた後も君臨した天皇を奇跡としている。家からピックアップしてもう一度読み返していただけに今回は驚いた。

ご冥福を祈りたい
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早乙女愛死す 残念

2010-07-27 20:41:40 | 偉人、私の履歴書


早乙女愛が亡くなったと今朝の日経新聞に書いてあった。
驚いた。彼女に驚かされたのはこれで3度目である。

自分が10代前半のころ、梶原一騎原作「愛と誠」は当時とんでもない人気であった。
スポーツ根性物専門とも思えた梶原一騎が青春物の漫画の脚本を書いた。
クラスの悪友たちの話題はこの漫画の行く末でもちきりだった。
早乙女愛はその漫画のヒロインの名前である。人気絶頂だった西城秀樹の相手役が公募になった。
そして4万人もの多数の中から選ばれた彼女のかわいさに度肝を抜かれた。
こんなかわいい子が同世代にいるなんてすごいなあと思った。
最初に驚いたのはそのときである。



それから時間がたち、ある雑誌を見ていたら早乙女愛の水着姿が目に入った。
これも驚いた。胸の谷間をみて呆然とした。こんなすごいものが隠されていたとは。。。
まもなく、彼女はヌードになった。美しかった。



日活にも登場した。当時の10代の健康な男子であれば、みんなお世話になったはずだ。
その後はテレビドラマの常連となった。ちょっと性格の悪い女性を演じさせると
抜群にうまかった。

そして今回の記事には驚いた。
自分もそうだが、お世話になった今の40~50代の男たちは多いだろう。
日経新聞に写真入りで死亡記事が載っていたのも昔お世話になった記者たちが
弔う気持ちであろう。

謹んで哀悼の意を表したい。

女猫(早乙女愛) [DVD]
早乙女愛


早乙女愛写真集 (週刊プレイボーイ特別編集)

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芦田淳 私の履歴書

2009-08-12 20:48:19 | 偉人、私の履歴書
今月の日経新聞「私の履歴書」はデザイナーの芦田淳さんだ。
先月の加山雄三さんが面白かったのに引き続き、12日までいい展開だ。

日本領土であった朝鮮にて生まれ、裕福な開業医の末っ子として豊かな少年時代を送る。兄たちはいずれも旧制高校から一人を除いて旧帝国大学に進み、エリート街道まっしぐらであった。ところが、開業医の父が亡くなり、跡継ぎもいないため、朝鮮の財産を売り払い、日本に帰国する。兄たちはいずれも10以上の年上で、まだ小学生だった芦田氏は、母と共に兄たちの元に預けられる。しかし、兄たちと違って、芦田氏は劣等生。病気で一年遅れたあと、英語ができず旧制中学にして二年落第してしまう。芦田家にも戦争の影響は出てきて、羽振りのよかった少年時代と違い、きつい生活を送ることになる。しかも長兄が戦死。三兄は運良く出征を免れるが若くしてなくなってしまう。そんな中、小さいころからデザイン画を書くことが好きな彼は当時有名だったデザイナー中原淳一のもとに通いつめ、弟子になることに成功してチャンスをつかみかけているところである。

「私の履歴書」では東大に向けて、少しの努力であっさり入学してしまってそのままエリート街道まっしぐらの人もいれば、大学は当然いけず貧乏のどん底の中で這い上がろうとしている作曲家の遠藤実のような人もいる。芦田淳は後者に近いが、生まれはかなり恵まれている。勉強ができなくて劣等生ということでは水木しげると共通している。分野は違うが、絵を生涯の仕事にすることも一緒である。芦田氏の少年時代は育ちのよさそうなお坊ちゃん顔である。年が離れて生まれた末っ子なので、お母さんに大事に育てられたと思しき写真が毎回出ていた。デザイナー志望でのた打ち回っているときの写真になって初めて人相が変わってくる。

芦田淳は戦前の朝鮮で生まれている。「私の履歴書」では野村證券の田淵さん、電通の成田さんと朝鮮育ちの人が毎年一人出ている。こうしてみると戦前朝鮮が日本領土であった印象がますます強くなる。私が敬愛する作家の中島敦も朝鮮で高校まで行っている。戦争に入って一転して苦しい生活を送らざるを得なかった芦田家が、一つだけ運がよかったことがある。それは羽振りのよかった開業医の父が亡くなって、跡継ぎがいないので財産を売り払って日本に戻ったということだ。昭和16年とのこと。当然朝鮮にいれば財産は無くなってしまったわけであるから、運がよかったと思う。逆にもしも戦前のまま続いていたらどういうことになったのか?「もしも?で考えると面白い。」といったのは小泉信三先生。香港のように整然と返還とは行かず、結局ゲリラ戦で大荒れの国土になったであろう。

今日までは痛快な連載が続いた。「私の履歴書」はこのくらいまで面白いけれど、後が続かないときもあり、これからに期待したい。

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加山雄三  私の履歴書

2009-07-29 09:02:45 | 偉人、私の履歴書
日経新聞「私の履歴書:加山雄三」も大詰めにかかってきた。ブログでも「エレキの若大将」と「赤ひげ」の2回紹介した。今日の連載はかの有名な「仮面ライダー事件」だ。
昭和61年の紅白歌合戦はリアルで見ていた。司会の加山雄三が少年隊の「仮面舞踏会」を紹介するときに、「仮面ライダー」と言ってしまったのだ。見ている方は「え!」という感じであった。しかし、言い訳もせずにそのまま進んだ。あれはあれでよかったのだと思う。今よりも紅白歌合戦の視聴率は高かったときであるし、NHKの権威も高かったから、いろいろといわれたかもしれない。でも笑えた。

若大将シリーズ全盛の後、叔父の経営する茅ヶ崎のホテルが倒産して、役員に入っていた加山にも借金の請求が容赦なくくる。逃げるようにアメリカに行く。そして女優の松本めぐみと結婚する。結婚式の場面はフジテレビ「スター千一夜」で見た覚えがある。そして、若大将シリーズが中断され、仕事がなくなっていく。スキー場で事故を起こして大怪我をする。たいへんだったと思う。キャバレー周りしかなかったという話もあった。こういうときよくがんばったと思う。

「私の履歴書」にはいろんなパターンがある。小さいときから若いときに極貧だった話は数多くあった。その場合一度浮かび上がるとそのままいってしまうことが多い。加山雄三の場合、リッチな少年時代を経て、大学をでて気がついたら大スターになる。30前半までは順調だった。そのあとのかなりきつい転落である。そこを救ったのが、池袋の深夜映画での「若大将ブーム」だという。映画館の中で加山ソングが流れると大拍手と喝采が起きる光景は話を聞いているだけで興奮する。いい仕事をやっていると誰かそれを思い出してくれる人がいるという訳だ。ただ単に流されていただけでなかった人にはツキも向いてくる。

人生を三角関数のカーブや波動に例える人がいた。加山雄三は大きなマイナスをつくったからこそ、70過ぎてもがんばっていられるのだと思う。マイナスが大きすぎると失脚する。しかし、それまでのプラスが大きかった分、その余韻が残っていた。マイナスをつくっていなかったもっときつい何かが起きたかもしれない。積分の面積計算で考えると、それまで莫大な量の面積をつくっていたのが、ある反動で面積がゼロに近くなってしまう。そこからの再出発である。阿佐田哲也の「9勝6敗説」もこれに近い。
加山さんにはこれからも熱い歌を歌ってほしい。
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私の履歴書  成田豊

2008-08-23 07:09:48 | 偉人、私の履歴書
ここのところ毎朝楽しみなのは日本経済新聞朝刊裏面「私の履歴書」電通元社長成田豊氏の記述である。

私の履歴書も合わないなあと思うとまったく読まないが、これはなかなか面白い。
戦前、日本領だった朝鮮で旧制中学時代まで暴れん坊ですごし、引き揚げ後東大野球部で監督と対立して冷や飯を食った。貧乏学生で売血をしたら、結核だということが判明。
結核持ちなので、就職で当時の人気企業にことごとくふられ、大学の先輩に泣き付いて電通にすれすれはいる。
しかし、電通に入ってからは商才振りを発揮してめきめきと頭角を現す。また、その当時の電通中興の祖吉田社長や朝鮮時代からの友人作家梶山季之の逸話はおもしろい。ハチャめちゃ振りを発揮して銀座のバーの集金に頭を悩ますのは今の電通マンと変わらないが、吉田社長の「鬼十則」ではないが、大きな仕事を次から次に手がけて完結していくところはすごい。

素直な秀才ではなく、豪快な性格に魅かれる。
広告業に関するいくつかの記述も本当に参考になった。
あと一週間まだまだ楽しみだ。




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