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映画とライフデザイン

大好きな映画の感想、おいしい食べ物、本の話、素敵な街で感じたことなどつれづれなるままに歩きます。

宇都宮と娘の幼稚園騒動

2008-07-31 07:18:39 | 家族
結局宇都宮には車で行った。
最後まで新幹線で行くかどうかを迷ったが、結果的にはよかったと思う。

転勤で5年間宇都宮に住んだ。娘も宇都宮の済生会病院で生まれた。
人がほのぼのとしていいと思う。栃木弁の田舎っぽさも親しみがもてる。親切な人が多い。運転が荒っぽい人が多いことを除けばよい。。。

栃木県庁に用があった。いったら近代的なビルに変わっていてびっくりした。
用を済ませた時、ふと大学の同級生のことが思い浮かび、用があった課で、彼がどこにいるかを確認し訪問した。7から8年は会っていなかったと思う。
思えば、娘が自閉症を疑われて、最初に入った幼稚園を首になったことがあった。
あの時は本当に驚いた。
妻が幼稚園の態度に腹が立って、県庁の所轄の部署に電話をした。そうしたらたまたま県の幼稚園を所轄している部署で幼稚園を担当していたのが彼だった。この偶然には驚いた。そういう部署にいるとは知らなかった。彼が向こうに電話をしたら、幼稚園側は態度を急変した。
それはそうであろう。補助金とか権限を持つ部署の担当者からの電話には平身低頭しなければならないわけだから。。。。
彼が強権を発動したわけでないのに、幼稚園は払い込んだお金を全額返却した。
本当に助けられた。娘の恩人である。

それからの訓練のことはまたの機会に述べよう。でも一年後娘は宇都宮大そばのM幼稚園というところに入った。言葉の状態は少しましになったという程度だが、Mの先生は音を上げずに付き合ってくれた。そこから娘の運は上向いた。驚くほどに!!!
県庁の彼がM幼稚園に同級生の娘が入ったけどどうですか?ときいてくれた。これもかなり効いた気がする。対応が変わった。別に便宜を図るわけでないのに、県の人間からの電話でずいぶんと変わるわけであった。

大学時代遊びほうけていた自分と違って、彼は秀才であった。
大志の抱き方がちがって地元に戻ったが、それはそれでいいのであろう。いろんな種類の友達がいたほうが長い意味で面白い。

その後昔自分の部下だった人間が別の会社に入っていて、その彼にあった。彼をつれて宇都宮郊外の蕎麦屋でつけ鴨そばを食べた。これが実においしい。
当時本社から社長が来てもそこに連れて行った。
宇都宮はとかく「餃子」といわれるのだが、そばのおいしい店がたくさんある。外の人には知られていないが、栃木のそばのレベルはかなり高いと思う。
全国を渡り歩いた自分だからいえるけれど、ましてや埼玉にいるとつくづくそう思う。





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マジカルミステリーツアー

2008-07-29 05:53:09 | 音楽
子どものころビートルズが日本に来た話は父との思い出のところで語った。
いくつか興味を持った曲があったが、熱狂的に好きになったわけではない。

爆発的に好きになったのは「レットイットビー」からである。東芝のステレオのCMに映画レットイットビーのライブ場面が出てきて、この曲を繰り返し繰り返しTVで聴いた。最初は曲名もわからなかった。
LP!LP!と叫んでいるような気がした。
レコード屋に行った。そうするとビートルズのレコードは山のようにあった。でもTVのCMに連動するジャケットがあった。「レットイットビー」である。小学校2,3年のころ家でヴィクターのステレオが買ってあった。父がたまに聴いていた。いわゆるスパイ物「007」「0011」やベンチャーズ、ジョージガールとかのポップスなんか聴いたなあ

シングル盤「レットイットビー」は本当に何度も聴いた。
いい曲だった。でもそれ以上には進まなかった。
その後、転校生がきた。彼の家に行った。そうするとビートルズのLPがあった。「オールディーズ」である。聴くと知っている曲がいくつかあった。
家でねだってLPを買ってもらった。これは何度も聴いた。
そうしていくうちに外国の曲に興味を持つようになった。ラジカセを買ってもらった。レンタルレコードなんてないころである。FMをエアチェックして聴きまくった。ビートルズだけでなく興味は次から次に広がっていった。

ビートルズの曲はどの曲も頭の中にうんちくまで入っている。カラオケでそらで歌える歌も10曲近くある。
今はなぜかマジカルミステリーツアーを聴いている。一番すきなのは「マザーシュッドノウ」だが、「ペニーレイン」なんかも好きだ。
世紀の傑作と言われる「サージャントペパーズバンド」に比べるとこちらの方がポップス的な気がするし、耳に心地よい歌が多い気がする。

今日は栃木出張、車で行くか?新幹線で行くかいまだに迷っている。
宇都宮は餃子の町で売っている。でもそばとかの麺類の方がおいしい。それもむしろ郊外のほうにおいしいところが多いし、車なしではそれはいけない。バスはまったく信用できないし、昼間は通っていない。
どうしようか?
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山田洋次「息子」

2008-07-28 06:47:01 | 映画(日本 1989年以降)
映画を見るピッチが以前に近づいてきた。「ロッキー2」「007」なんて映画でのウォーミングアップもうまくいっている。
飲み会もできる限り避けようとしていることもあるし、父にかかわる諸手続きもあともう少しのところまで来ているからであろう。

山田洋次監督「息子」を見た。
三国連太郎扮する岩手の田舎で農家を営む父のところへ、三国の妻の一周忌で3人の子どもが集まる。長男は東京でサラリーマンをして、浦安のマンションを買って所帯を持ってすんでいる。長女浅田美代子は岩手で嫁に行っている。次男永瀬文敏は東京で職を転々として落ち着かない独身。
話は主として三国、永瀬を中心に展開される。
永瀬は居酒屋の店員をやっていたが、あわずに尾久の鉄工所に働き口を見つける。そこではいかりや長介や田中邦衛が働いていて、個性的な社会を支える低所得者層をうまく演じている。永瀬はつらそうなのですぐやめようと思うが、配達先の事務員に美しい和久井映見を見つけ仕事への張りを見つけ続ける。
三国の一人暮らしを見かねた親族は千葉の長男のところへ行くことを勧めるが、三国は今のところで一人で住むといって譲らない。三国は上京して千葉の長男のところへ行った後、心配な三男坊のところに寄ろうとするが。。。。。

いかにもありそうな登場人物像で、不自然さがない。それぞれにエゴを持っているが、社会の中に流されている。でも三国が東京に行った後に岩手の自宅に戻った後の幻想的な場面はなんかつらいものがある。
なぜか三国が「ありがとう」を連発する。うちの父も死ぬ前ずいぶんと連発していたなあ。

山田洋次監督の作品はあたりはずれがない。
「フーテンの寅さん」「家族」「たそがれ清兵衛」みんな素敵な映画である。
根底に「やさしさ」に通じるものが流れている。ある意味それは松竹の伝統なのであろう。いつか監督のことを語ってみたい。監督は私の高校の大先輩でもあるし
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ゴースト

2008-07-27 08:19:07 | 映画(洋画 99年以前)
父が死ななければこの映画二度と見ることはなかったかもしれない。

封切りになったころ、大阪にいた。
神戸に住む女性と軽いお付き合いをしたことがあって、映画好きの彼女に連れて行かれて見た映画である。梅田で見た気がする。その後食べた曽根崎商店街横のイタリアンがバカウマだった記憶がある。
単純なストーリーも覚えていた気がしたが、見直してみるとイメージが違った。

ニューヨークに住む金融マンと陶芸家?デミムーアは同棲をはじめて、これから結婚に進んでいこうとする矢先、彼が人気のない裏かどで暴漢に襲われ、殺されてしまう。刺された後暴漢を追おうとするとき、すでに自分がゴーストになっているのに気づく。ゴーストになってしまったあといろんな人と出会う。
地下鉄の中でここは俺の縄張りだというゴーストやブルックリンのいんちき霊媒師にであう。彼は犯人の居場所を突き止めた後、近くにある女霊媒師の相談室に入り込んでいったが、霊媒師は彼の声が聞こえるのに気づく。それまでと違って今度はいんちきではない。
彼は霊媒師を媒介にデミに近づいていくが、最初は信用されない。しかし、二人しか知らないことを彼を通じて霊媒師が話すのを聞いて信用する。彼が突き止めた犯人の居場所を警察に通報するが、逆に霊媒師の前科を見せられ信用されない。
このあたりから突き止めた犯人、金融からみの犯罪の話、それを防ごうとする主人公と霊媒師が絡み合ってストーリーが面白く展開する。。。。

女性映画であろう。見に行った時ラストに近づく場面でまわりがすすり泣く声が聞こえた気がする。今回は父の死後奇妙なことが起こるので、「霊っているのかな?」というところで書いたが、仮に霊がいたとしても生きている人に危害を与えないよ、みんなに会いたいから下りてきたんだよと坊さんが話していたことを受けて見た。
この中で印象的だったのは、よい行いをした人と悪い行いをした人と天からのお迎えの仕方が違うということだ。父はどうだったのであろう。
私は大丈夫だったと思う。われわれに取り巻くのも変な感じではなかったと思うし、静かに祖父と祖母の写真がかけられていた部屋で静かにお迎えを受けたのであろう。ただ、死ぬ間際は満足に食べ物が食べられていなかったのだと思う。
だから食べに下りてきたのかも知れない。


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私の好きなインド料理系

2008-07-26 06:00:45 | 食べもの
父が好きだったせいか、小さいころからインド料理系は食べた。

東京のうまい店48年版でも述べたように、アショカ、アジャンタなんていうのが昔からあったが、アショカは銀座から姿を消した。
人に一緒に飯を食いにいこうといわれたとき、インド料理がいつも気になってしまう。今でも銀座には「デリー」がある。デリーのいいところは、タンドリーチキンが鉄板に「ジュー」とした音をたてておいしく出来上がっていることだ。
この間昼に時間が空いて、ちょっと一人で昼飯をというとき、銀座のデリーに行った。エレベーター降りてびっくりした。人ごみであふれかえっていた。
湯島の「デリー」はカウンターで回転重視だから、待っても少しだしこれは気楽かな?激辛カレーに病み付きになっていると思われるデリー病患者が多い。
そのときは結局東銀座方面に歩いていって「ナイル」の定番ランチを食べた。
このお店は入ると同時にマスターかインド人スタッフに当然のような顔をして定番ランチを頼まされる。混ぜ方の講釈を聞きながら無難でいつもおいしく食べられる。

あと親父といったのは、赤坂見付の「タージ」かな?「モティ」は六本木の方に行く。この間昼の結婚式のあと2時ころ行ったらやっていた。気がついたらドレスシャツにカレーのしみがついていて妻に怒られた。六本木にも「アショカ」が麻布警察の裏手あたりにあった気がするんだけれど

カレーは、神田駿河台下付近に固まっている。昔から「ボンディ」が大好きだったが、学生風スタッフがやっているような雰囲気で丁寧さがない印象に変わっている。川越に「ボンディ」の暖簾わけの店があって、ここは老年の粋に達した人がやっているせいか非常に丁寧な印象でゆったりおいしいカレーが食べられる。
「共栄堂」は手際のよさは天下一品だが、あの苦味がかった味は今ひとつあわない。
「エチオピア」はオーソドックスに量もそこそこのおいしいカレーを出す。

渋谷の「いんでいら」に初めて入ったのは今から34年ほど前だが、このカレーは一番自分にあったカレーだと思った。欧風カレーらしいコクがなんとも言えず、渋谷での昼飯では欠かせなくなった。その後FC展開をしたりした時期があったが、今では昔の場所にドンと構えている。先日いったとき、ちょっと味が落ちているなあと感じた。えび飯も有名だ。

荻窪に「トマト」というカレー屋がある。ここの欧風カレーもなかなかである。昭和の最後のころ荻窪に職場があった時期があった。その時は月に3から4回は食べていた。何気なく昼飯を食べていた店が、いろんなグルメ本や雑誌に掲載されているのを見てひさしぶりに行った。単価が異様に高くなっているので驚いた。
でも昔と同じようにやっているマスター夫妻の姿を見るとほっとした。

三越前室町に「インドカレー」という店がある。ビルが立ち並ぶ中のツタが絡まる2階建一軒家。雑っぽく見えるが丹念につくったからーいインドカレーを長くやっていた。最近何度か行ったけどやっていない。もうやめちゃったのかな?「1個!」「あと2個」と叫ぶ店員の声が脳裏に焼きついている。新入社員の最初の配属場所のすぐ近くなのに残念


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「愛という名の疑惑」 キムベイシンガー

2008-07-25 22:50:39 | 映画(洋画 99年以前)
18日ぶりに映画復活した。

父の死以来映画が見れなかった。調子が出なかった。
今日ひさしぶりに外へ行ってDVD借りようと思ったが、まだまだ葬式疲れあるんじゃないと妻に言われ、家の中のDVDに手を伸ばした。

すでに2回見ている映画である。「愛という名の疑惑」
リチャードギア、キムベイシンガー主演に助演ユマサーマンという顔ぶれ
精神科医リチャードギアは、法廷で精神鑑定の診断もできるやり手医師。そんな彼の元にユマサーマンが患者として訪れる。彼女の症状に関心を持った彼は、妹の勧めでユマサーマンの姉キムベイシンガーとも会う。美しい姉にひかれたリチャードは彼女と関係を持つが、彼女は人妻であり、その夫はきわどい世界で生きているつわものであった。姉のキムもちょっとした飲酒で大暴れする精神病の一種の症状を持っている。
ある夜、キムは夫になじられた後、自宅で夫を殺してしまう。それが心神喪失状態なのかどうかで裁判が争われるが、結局キムは無罪になる。
ところが、それらは全て仕組まれていたことだというのが直後にわかる。。。。
といった内容

サンフランシスコの美しい情景を背景にしながら、ストーリーが展開する。適度なペースでストーリーもわかりやすい。悪女を演じさせると天下一品のキムとユマ。二人が美しい。特にキムの美しさはこのころがある意味彼女の頂点なのかもしれない。ユマも「パルプフィクション」を思わせるあのいたずらっぽい表情がいい。
ヒッチコックの「めまい」に通じる場面がいくつかある。「めまい」もサンフランシスコが舞台であった。高所での格闘劇などはヒッチコックの一連の映画からの影響を受けている印象が強い。超美女を悪女に仕立てるところもヒッチコック的か?

ようやく感想が書けた。
知っている映画で勘を取り戻せた。
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東京のロシア料理

2008-07-25 06:37:38 | 食べもの
父が好きだったロシア料理は、今でも大好きである。
渋谷の「ロゴスキー」「サモワール」で育った自分にとっては、ボルシチのあっさりした感触がなんとも言えず好きである。

今の東京でたまに行くのは、新宿「スンガリー」と御茶ノ水「サラファン」である。
新宿「スンガリー」は会社の本社が新宿西口にあるせいか、スバルビルのところへ行く。最初に行ってから24年くらいたっている。食べるものもいつも決まっている。サーモンにたまねぎなど各種野菜をクレープに包んだもの、ボルシチ、水餃子、カブのサラダ、串焼きなどの肉のメインディッシュという流れ。何気ないようだがサーモンのクレープ包みはおいしい。あと水餃子が好きだ。

御茶ノ水「サラファン」は基本コースで頼む。すばらしいものが2つある。ボルシチとピロシキである。ボルシチの色は実に美しいピンクだが、上にのっているサワークリームを混ぜるとなんともいえない美しい色になる。絶品だ!加えてピロシキもすばらしい。学校給食でピロシキは食べた。その印象で父といったロシア料理屋でピロシキを食べたことがなかった。おそらくコースの中になかったらこの店でも頼まなかっただろう。ここのピロシキは実に丹念に作ってある。おいしい!
ロールキャベツやつぼビーフシチューもおいしいけれどボルシチ、ピロシキほどの感動はない。
コースで頼むと最後にケーキがついてくる。いろんな種類のケーキを持ってくる。これは女性にとってはたまらないだろう。

御茶ノ水は子どものころから神田本屋街が好きだったせいかよく通った。
昔からの軸は「山の上ホテル」で、そこを基点に「サラファン」やカレーやなどに行く。駅前の地下JAZZクラブ「NARU」もいく。ここは気楽にLIVEを楽しめていい。
最近ディスクユニオンがものすごく増えていることに気づき驚いた。中古CDのメッカになっている。ブックオフのCDよりも安い。でも価格のディスカウント率は埼玉の方がいいかもしれない。

映画生活になかなか復活できない。思い切れない。
昨日は大幅ディスカウントの決裁を取るために会社でおおあらわであった。仕事は徐々に慣れてきた。一週間以上休むと勘を取り戻すのに同じだけかかるなあ。
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葬儀の後始末

2008-07-24 06:17:18 | 家族
先週月曜、火曜が葬儀で週末までに葬儀屋と坊さんの支払いは済ませた。

それで終わりかというとそうではない。
先週水曜に保険や葬祭費などの手続きを済ませた。順調に手続きは進んでいるようだ。
昨日は地元の町会の人たちへの御礼にまわった。営業で外回りをすることも多いので、あいさつ回りは少しも苦ではない。町会長に告別式での親父をたたえる私のスピーチはよかったといわれた。自分も同じように親父の葬儀では親父をたたえるようにテープをながした。という話をされた。ジーンとして涙が出た。

父が会社経営していたので、中小企業の共済会に手続きに行ったり、簡保保険の還付金の受領用に戸籍が必要となるので、戸籍係へ行った。
父は北海道生まれで生まれた時の戸籍も必要となる。ほんのわずかの還付金のために大変な手続きである。ただ、相続のために戸籍は必要になるはずなので、取得するのはやむを得まい。郵送での処理になるので食い違いが生じないようにする必要がある。
あとは母の遺族年金、これもよく聞かねばならない。

昨日銀行に父の会社の借入の残高を聞いた。そうしたら早速銀行の渉外がきた。要は会社も休眠状態だし、いったん回収させてくれとのことだ。一部10月に入金予定のものもあるから分けてという話をしたが無理そうだった。30年以上の長い付き合いだっただけに母は不満が残りそうだが、逆の立場だったら当然自分の同じような話をするだろうと思う。抵当も消えるし、これから先のことを考えると、早く処理した方がそれはそれですっきりする。

仕事も大変だし、ここで何とか踏ん張らねば。。。。





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東京うまい店 昭和48年版

2008-07-23 07:16:02 | 食べもの
父の書棚を整理したらこんな本が出てきた。
今から35年前のグルメ本である。柴田書店出版で、執筆者も音楽家團伊玖磨など一流どころである。

3つ星「次郎」をはじめとして今でもがんばっている店がたくさんある。全部列挙できないのが残念なくらいだ。
これを見ると本当の老舗というのはここに載っている店のことだと思う。
今と違うのは、イタリアン、フレンチなんてジャンルで区分けされていないこと。西洋料理、各国料理、洋食と分かれている。韓国料理がまだメジャーになっていないことかな。

私と父はインド料理が好きであった。この本にあるインド料理は九段のアジャンタと銀座のアショカである。両方ともよく行った。アショカの方がよく行ったかもしれない。同じように好きなロシア料理は渋谷のロゴスキーと狸穴のヴォルガである。ヴォルガはとうとう父と行きそびれた。ロゴスキーは明らかに味が落ちていると思う。この本に軽くコメントしてあるが、渋谷のサモワールが実によかった。
大人になってからもデートでよく使った。

洋食のところにあるが、スエヒロ、ステーキハウスハマ、小川軒も行った。
昔ステーキといえばスエヒロだった。しょうゆをつけて食べるステーキをむしゃむしゃ食べた。六本木のハマは高級だけど、実においしかった。この本の中で音楽家團伊玖磨が絶賛している。戦前の三井の大番頭の家に生まれた彼だけに口も肥えていたであろう。今でも行きたいお店だ。
代官山の小川軒に父と最初に行った時、NO BOOKINGで行ったので厨房を目の前にしたカウンターに座らされた。老舗だけに厨房の中には大勢のコックがいる。なんかいやな感じだった。そこでビーフシチューを頼んだ記憶がある。父は勘定のときいくら払うかびくびくしたと後で言っていた。

銀座資生堂パーラーはお見合いした父と母が最初に行った店だといっていた。結局父とは行かなかった。母はこんなおいしいもの食べたことないといったそうな。

中華も中国飯店、四川飯店、香妃園、香港園なんかは今でも現役
好きな店だが六本木香妃園以外は父とは行っていない。父は新橋の新亜飯店が好きだった。それに五反田に国光園、東京酒楼というおいしい店があって、そこで用が足りていたのかもしれない。香妃園の煮込み鳥そばは遊び人の東京人の定番であろう。父の四十九日は中華にしたいと母が行っていた。寺が高輪なので、目黒香港園にするのも一手かな?と考える。都ホテルの中華もおいしいから迷うところである。

面白い、ちょっとこの本をたどっていってみるか



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父の好きだった音楽

2008-07-23 06:31:39 | 家族
父は何度も何度も同じ音楽を聞くタイプであった。

何のジャンルがすきかといわれると、はっきりしたものはない。
子どものころビートルズが来たことがあった。
テレビでビートルズの中継があった。記憶に間違えなければEHエリックが司会だったのではないか。前座がやたらに長かった印象がある。やっとビートルズが出るころには子どもだった私は寝てしまった。
父はその放送をオープンリールのテープレコーダーで撮っていた。
その後ずいぶんと聞いたなあ。同じものを何度も。

ビートルズの歌に「タックスマン」というのがある。多額の収入を得るにもかかわらず、税金でたっぷり持っていかれる彼らが皮肉って作ったジョージハリソンの曲である。意味もわからず軽快で好んで聴いていた私を見て税務署というのは搾取する悪いやつらだといわんばかりにぶつぶついっていた記憶がある。

同じ音楽を何度も聴いていた父が好きだったのは、ビートルズ、ハープアルバート、マイケルジャクソンである。「スリラー」はおそらく1000回を下らず聞いていたであろう。自分の部屋に閉じこもって聴いていることもあったが、車の中でもよく聴いていた。ディスコ華やかしき時は車のなかで盛んにきいていたなあ。

聴いているときは地図を見ることが多かったかもしれない。
ただ見ているだけである。何かを覚えようとしていたわけではない。
家に世界遺産の本がある。カッパドキアに行きたいと言っていた。イスタンブールへからのバスでの長旅は無理だし、飛行機に長時間乗れるわけないしね。。。。

いずれにしても調子がでない。
今日も東京だ。手続きがいくつか残っているし、町会関係の挨拶もしなければならない。
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霊っているのかな?

2008-07-21 06:42:18 | 家族
父が死んでから奇妙なことがつづく。

最初は何をバカな?と思っていた。
非科学的なことにはまったく関心がない。妻が娘のおかしな挙動をみて、父の霊が乗り移っているのではないか?と言った。バカなこと言うんじゃないといった。

告別式の朝、うちの実家に泊まらずホテルに泊まった家人と娘が朝食をとりに行った。
そうすると私が嫌いなので家でほとんど食べないキムチをバイキングで取りに行こうとした。娘が他のものをむしゃむしゃ食べようとして、キムチおいしいと言ったという話が発端。そして父の好物のスイカをむしゃむしゃ食べたそうな。。。。

その後も娘はキムチなべが食べたいと言ったりしたみたいだ。食べたいけれど食べられないだろうなあと言ったそうだ。
父は死ぬ間際さかんに「何も食べさせてくれない。」と言った。母が食べさせているのにそういっている。要は好きなものが食べられないので、食に関する満足度がないということだと思う。

ところが、その後こんなことがあった。
会社で会議があって目上の人も一緒の会議であった。時期が時期だけに本来つきあわないでかえるのが通常だが、葬儀にもきてくれたので後の食事を仕方なく付き合った。
そうしたら向かったのがさいたまの韓国料理である。行った時点は何にも思わなかった。
ここではヘルシーセットがお勧めだよと頼んでもらった。
キムチ、サラダ、チャプティ、レバー刺し、チジミ、焼肉がでてきた。そして鍋だよと言って出てきたのが、キムチ鍋である。
キムチ嫌いの自分では絶対頼まない料理だけに驚いた。キムチだけだときついけれど、鍋の中に入ってしまえば食べられる。食べた。

妻にこの話をした。もしかしたら父が誘導しているのではないかと。。そうしたら一緒に食べている3人の中にもぐりこんでいるんじゃないかと。。。
確かにおかしな人がいた。普段付き合い程度しか酒を飲まない人がマッコリを4,5杯もおかわりしていた。父がもぐりこんでいるのかもしれない。

昨日寺にお布施を持っていった。
住職にこの話をした。霊が身近のところにまだいることってあるのって?
そうだとは言わなかったが、仮にそういうことがあっても霊がわれわれに被害をもたらすことはないだろうと。。。具体的に映画の話をしてきて、映画の中で霊が会いたがって降りてくることはあるが、それは悪い意味ではないので快くお迎えするべきではないかと。

変に納得した。
父の死をきっかけに映画生活からここ2週間遠ざかってしまったが、思い当たる映画久々に見てみようと思った。







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亡き父といった店2

2008-07-20 05:13:22 | 食べもの

亡き父は焼肉が大好きだったし、にんにくやキムチのにおいを朝方プンプンさせていることが多々あった。B型で自分の好きなようにやっている父だった。
父が37歳の時に祖父がなくなり、その後は海外にも年8から10回行っていた。特に台湾や韓国にはずいぶんいった。私自身キムチが嫌いなせいか、韓国にはまったく興味がなかった。当時の韓国はキーセンパーティ華やかなころ、しかも戒厳令で夜間外出禁止令が出されていた時期もあって、しこたま遊んでいた気がする。

父といった店は五反田が軸になっている。五反田有楽街に力道山の親友がやっている焼肉屋があった。数年前「力道山」という映画があって、力道山が深夜身を隠して親友に会いに行く場面がでていた。その焼肉屋だと思う。子ども心にたれがおいしかった記憶がある。
今の品川駅港南口は高層ビルが立ち並び、信じられないくらい近代化されたが、昭和40年代は異様な場所であった。通常品川駅は高輪口で下りる。そちらにしか出口はないものだと思っていた。ところが、父が駅の反対側へ焼肉を食べに行こうと言ってきた。山手線で品川駅をおり、いつもと反対方向に歩いていった。
ものすごく歩いた印象がある。そうするとそこにぜんぜん知らない出口があった。
出口を下りると、高輪側とまったく異なる風景であった。汚い家が立ち並ぶのようだった。その中で父と焼肉を食べた。
店の中では労務者風の男性たちがしこしこ食べていた。それまで行っていた焼肉屋とイメージがまったく違うので戸惑った。勘定の段になって確か500円強位だった気がする。あまりの安さに父とともにびっくりした。変な肉を食べさせられたのかと思い気持ち悪くなった。40年近い前なのにあの時の光景は忘れられない。
それ以来怖くて品川駅の港南口は下りれなかった。
平成のはじめに大阪に転勤になった。その時大阪で昔品川港南口で見た光景と同じような光景をひさしぶりに見た。その時はもう大丈夫であった。

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亡き父と行ったおいしい店

2008-07-19 19:05:56 | 食べもの
先週死んだ父は昔からおいしいものすきだった。

今ではみんなあまり食べなくなったが、キャンベルスープのような輸入物の缶詰が好きだった。
五反田のガードの下に輸入物のスープや肉の缶詰を売っている店があった。同じように渋谷の井の頭線の下にも「シブヤ食品」?といったけか、そういう缶詰類を売っている店があって、カマンベールチーズをはじめとした白カビチーズやアオカビチーズが売っていて家で食べた。

五反田には「京浜ベーカリー」という洋食屋があった。パンもおいしかったが、ビーフシチューがおいしかった。いわゆるビフテキを最初に食べたのもその店である。

(昭和43年京浜ベーカリー付近 品川写真館より引用)

五反田駅横には「日本食堂」があった。そこでおいしかったのが「ロシアスープ」である。いわゆるボルシチとほぼ同じなのだが、クリームがのっかってものすごくおいしかった。

渋谷でビーフシチューというとやはり井の頭線ガード下にあった洋食屋「芳松」である。平成の時代にあったかどうかは自信がない。ロシア料理でいうと「サモワール」である。東急本店を左に曲がって、ラブホテル街に向かってすぐにあった。ここの歴史は本当に長く、大学生時代や入社間もないころよく使った。ツタのからまる建物が印象的だったが、1年強前に解体工事中に出くわした。非常に残念だった。

上の4つの店には昭和50年代前半くらいまで父とかなり行った。思い出すとしめっぽくなる。

渋谷は本当に変わった。昔からの店が次から次になくなっていく。
小さいころ夜歩くと渋谷のセンター街には黒いサングラスをした男たちがいっぱいたむろしていた。昭和40年代前半までは渋谷は怖いまちだった。西武百貨店のところが映画館だったころだ。突如としてセンター街に若者が増えて怖さが消えたのはやはりパルコができて公園通りができた後だろうと思う。
小さいころは父におっかなびっくり渋谷の夜をついていった気がする。大衆酒場でシラスを食べながらこの魚の親は何かな?なんていっていた気もする。

父との思い出は尽きない。
この際もう少し追いかけてみたい。
コメント (9)
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通信簿

2008-07-19 03:36:27 | 家族
映画が10日ほどまったく見れていない。
父がなくなったのだから仕方がない。普通の生活に戻るには時間がかかりそうだ。

出社初日は挨拶の電話ばかりしていた。
昨日は朝から会議だった、今月の仕事の業況はもう一歩のようだ。家に電話したら母の様子は今ひとつとの妹の話。気になる。

中一の娘の通信簿が返ってきた。家に帰ったが、母娘両方とも何も言わなかったので、もう一歩の成績かと思い、黙ってそのまま寝てしまった。夜中にもう一度見ようと思い、寝苦しかったせいもあるが見た。
英語と数学が5だった。国語、社会、理科が4だった。
英語、数学とも中間、期末の平均が95点を超えていたから順当だが、中間テストが簡単すぎたからもしかしたら4かもと思ったが良かった。社会、理科は期末テストもう一歩なので仕方がない。ただ社会は中間テストの点数からして十分5をとれる状況にあっただけに残念

他の4教科は4の美術を除いて3。
昔とちがって家庭科だけでなく技術もやるようだ。そうか男女平等という発想か?
でもかえってその方がよかったかも?家庭科50点中17点だった。これは笑うしかない。あまりに潔い点数に笑った。

会社の女子社員が葬儀の時にうちの娘の顔を見ていたので、「顔が瓜二つだ。」「歩き方までそっくりだ。」と異口同音に言われた。妻に言ったら、このくらいの年代の子はそういわれるのはいやなんだよ。といわれた。
通信簿も父親の傾向に似ている。理科は高校で言えば「生物」の内容なので、見てもまったくわからなかった。4を取れていれば十分だ。高校時代、360人中350番生物でとった自分の子供だけに上出来だ。国語はまだ自分が苦手とする古文がないので4になるんだなあ。今だったら5も狙えそうだ。主要科目以外は僕もダメだったので、仕方がない。

これから理科と社会どっちが得意になるかで彼女の運命は分かれそう。
理系にせよ文系にせよ自分の母校に行ってもらいたい気がするが、母親は東京は物騒だからと言い切る。こまった。
まだまだ先は長い。




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葬儀を終えて

2008-07-18 06:56:29 | 家族
昨日から会社へ出ている。

告別式2日後だから出社は早い方だが、葬儀前に休んでいるので昨日出るのは仕方ない。会社に出ても、葬儀に参列していただいた方、お香典をいただいた方の御礼で一日が過ぎていった。
最初にご列席いただいた社長に電話をして、次に専務、一連の役員、お花とお香典をいただいた会長に連絡した。それから自分より目上の人、関連会社など一日で50本以上電話した。会社の部下たちには、一人一人頭を下げた。

水曜に葬儀屋への支払いを済ませた。
その場でお返しをということで、300用意したが結局480になった。夜のお清めの食事代も大きくオーバーした。それはそれで仕方がない。値引き交渉はせずに支払った。

用事はつきない。
関連会社の人などまだぜんぜん電話できていない。まだまだ大変そうだ。
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