映画とライフデザイン

大好きな映画の感想、おいしい食べ物、本の話、素敵な街で感じたことなどつれづれなるままに歩きます。

映画「サマー・オブ・ソウル」

2021-08-29 18:06:08 | 映画(洋画 69年以前)
映画「サマーオブソウル」を映画館で観てきました。

これはすごい!感動した。

1969年夏のニューヨークで、こんなすごいソウルミュージックのイベント「ハーレム・カルチャラル・フェスティバル」が開かれているとはまったく知らなかった。しかも、歴史的ロックコンサート「ウッドストック」がここから160km離れているところで開催されていたという。


日本中の家庭でみんな見ていたアポロ宇宙船が月面に着陸するのもこの時期だ。ここでは、当時の代表的な黒人アーチストが数多く参加している。メンバーもすごい!ある意味、ウッドストックよりもすごいかもしれない。ハーレム・カルチャラル・フェスティバルには30万人が合計で集まったという。カメラは観客にもフォーカスが当てられ、約20%程度は会場内の雰囲気を映し出す。


映画がはじまって早い時間にスティービーワンダーのドラムソロが映し出される。これまた珍しい。当時19歳でまだ若々しい。「迷信」が全米1位になるのが1973年で、69年までにもヒット曲はあったが、その後の世界的スーパースターぶりからすると、天才少年の域を抜けず、まだ飛び抜けたヒーローではない。この後、ブルースの帝王BBキングのコテコテのブルースが自らのブルースギターのノリも良くいい感じと思っていた時に、来たー!というグループが登場する。

フィフスディメンションだ。
全盛時の姿が観れるだけもいいと思ってしまう。

⒈フィフスディメンション
イエローとオレンジが基調のコスチュームで登場する。1969年という年は彼らにとって重要な年だ。ブロードウェイミュージカル「ヘアー」の中の「アクエリアス〜レットザサンシャインイン」が4月に全米1位の大ヒットとなり、同じ年の11月に「ウェディングブルース」もヒットチャート1位と年間2曲も1位となるまさに飛ぶ鳥を落とす勢いの年だ。映画の中で、ひょんなきっかけで「ヘアー」の曲を歌うようになる逸話も元メンバーのビリーデイヴィスから語られる。


「アクエリアス」のイントロがステージで流れた時、大画面を見ていた自分は背筋に電流が走った。小学生だった自分はこのシングルを持っていた。針がすり減るほど聴いたものだ。今のように海外と往来が自由でなかった日本でも、ミュージカル「ヘアー」が話題になっていた。新聞記事の下段にある女性週刊誌の広告にやたらに「ヘアー」と「ドラッグ」の結びつきが書いてあった記憶がある。しかも、日本のTVで誰かしら「レット・ザ・サンシャイン・イン」を歌っているので、この主旋律が耳に焼き付き親にねだってシングルレコードを買ったのだ。


映画で歌っているのをみると、ゴスペル風に主旋律に横から入るビリーデイビスの歌が効果的だ。回想する現在のビリーとマリリンが見れてうれしい。

⒉スライ&ザファミリーストーン
このライブイベントで観客に最も支持されているのは「スライ&ザファミリーストーン」ではないか。熱狂的ファンがステージ手前まで押し寄せている。ウッドストックにも登場した。1969年の2月に「エブリデイピープル」が全米ヒットチャート1位になって昇り調子だ。大画面で見るスライストーンがまだ若い。しかも、すごくパワフルである。ドラッグ漬けの度合いもまだ低いのではないか。


黒人の女性トランペッターや白人プレイヤーが2人が入って、それこそ最近言われる多様性の先駆者になっている。のちにサンタナやウェザーリポートと組むグレッグエリコのパワフルなドラムも印象的だ。

スライが登場する前は、黒人バンドもスーツにネクタイの正装が多くその流れを変えたのがスライストーンと映画の中で語られていた。自分もそう言われるまで気付いていなかったが、確かにそうだ。スライストーンに影響を受けたマイルスデイヴィスは60年代中盤過ぎても、コンサートでは仕立ての良いスーツ姿だったのにラフな服装に変わった。なるほどそういうことなのね。

⒊スライストーンからの影響
フィフスディメンションと異なり、自分がスライ&ザファミリーストーンを意識するようになったのは1971年の暮れだ。「ファミリーアフェア」が全米ヒットチャート1位になった頃、自分はすでにヒットチャートマニアになっていた。まだ有名になる前の小林克也がFM東京で最新の全米ヒットチャートをリアルタイムで国際電話で確認して主要曲をオンエアしていた。ヒットチャートがどう変わるのかが1週間でいちばんの楽しみだった。

1971年の年末はジョージハリソンボブディランやエリッククラプトンや錚々たるメンバーを集めて夏に開いたバングラディシュ救援のチャリティコンサートのアルバムが発売された。これもねだって当時5000円の輸入盤を購入した。当然、一気に全米アルバムチャートを駆け上るわけだが、どうしても1位になれなかった。その時、しぶとく1位に残ったのがスライのアルバム「暴動」である。あまり知らないアーチストがなのにどうして抜けないんだと自分は思っていた。次に1位になったのがドンマックリーンの「アメリカンパイ」でバングラディシュは1位になり損なった。スライ&ザファミリーストーンを意識し出したのはそれからである。


高校生の時、放送部に属するクラスの女の子から番組を編成したいので何かいいのはないかと、音楽好きの自分が相談された。その時推薦したのはスライ&ザファミリーストーンのアルバム「スタンド」である。ちょうどこの時期1969年5月に発売され、今でも傑作だと思っている。このコンサートでもアルバムから3曲演奏している。聴いていて泣きそうになった。

⒋マヘリアジャクソンとゴスペル
黒人音楽といえばゴスペルで、このコンサートでもいくつも取り上げられている。ステイプルシンガーズも登場する。その中でももっともパワフルな女性はマヘリアジャクソンだ。太目のボディに真っ赤なドレスを来てど迫力だ。彼女は「真夏の夜のジャズ」でも歌を披露している。このマヘリアジャクソンはこの2年後1971年に60歳の若さで亡くなっている。その意味でも貴重な映像だ。


自分自身がゴスペルに魅せられたのは、映画「ブルースブラザーズ」でのジェームスブラウン演じる牧師と教会の黒人合唱団を見てからなので、ちょっと遅い。ここでは日本でもお馴染みの「オーハッピーデイ」もオリジナルのエドウィンホーキンスひきいるメンバーによって歌われている。これもいい感じだ。

⒌グラディスナイト&ザピップスと悲しいうわさ
1973年10月に「夜霧よジョージアへ」という全米1位のヒット曲がある。個人的にはその印象が強い。日本でもTV放送していた「ソウルトレイン」に出ていた記憶がある。女性リードヴォーカルの後ろで、スーツを着た3人の男性ダンサーが踊るというこれまでのパターンだ。グラディスナイトのヴォーカルは実に迫力がある。ダンサーの動きもリズミカルでいい。曲名を見たら「I heard it through the grapevine」 これってまさにマーヴィンゲイの1969年の全米1位ヒット曲「悲しいうわさ」じゃない。でも、まったく別の曲のようだ。


調べると、グラディスナイトの方が先に「I heard it through the grapevine」をヒットさせているじゃない。自分がヒットチャートをノートに控えているのが1969年からで、グラディスナイトが全米2位までヒットさせていることを知らなかった。それにしても、気持ちがいいくらいノッテいる。現在のグラディスナイトが懐かしくこのフィルムをみるシーンがある。

全盛時のCCRがアルバム「コスモスファクトリー」の中で10分を超えるロングヴァージョンで「I heard it through the grapevine」を演奏している。ジョンフォガティの長いギターソロが印象的だ。実際にはCCRのを自分は一番聴いている。マーヴィンゲイバージョンのアレンジだ。

⒌1969年の全米ヒットチャート
60年代後半から70年代前半にかけて、白人と黒人の分断があるのが影響しているか分からないが、交互に全米ヒットチャートナンバー1をとりあっている。今回参加しているアーチストでいえば、スライ&ザファミリーストーンとフィフスディメンションが1969年に1位をとっている。あと黒人系で言えば、マーヴィンゲイ、テンプテーションズ、そしてシュープリームスのラストソングも1位になっている。

一方でまさに最終場面ともいえるビートルズが「ゲットバック」と「カムトゥゲザー/サムシング」の両面ヒット、先日ドラムスのチャーリーワッツが惜しくも亡くなったローリングストーンズが「ホンキートンクウーマン」、ラスベガスで復活したエルヴィスプレスリーの「サスピシャスマインド」と歴史的名曲があいだに挟まる1位になっているのだ。リストを見るだけで興奮する。ビートルズ以降につながる一瞬の過渡期かもしれない。

他にはニーナシモンの迫力あるヴォーカルが印象的、歌詞の訳をみると、ずいぶんとメッセージ性が強く黒人差別に対する抵抗を感じる。メキシコオリンピックの表彰式での人種差別抵抗シーンから1年経っていない。

ニューヨークのリンゼイ市長がコンサートで挨拶しているシーンが出てくる。妙に浮き上がる。いかにも白人エリートの典型といった振る舞いにコントラストを感じる。

ここ最近のミュージック系のドキュメンタリーで、いちばん感動した。正直「モータウン」のドキュメンタリーもそこまで良くなかった。ソウルミュージック好きにはたまらない快作だ。
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映画「Summer of 85」フランソワ・オゾン

2021-08-28 20:44:42 | 映画(フランス映画 )
映画「Summer of 85」を映画館で観てきました。

今回もフランス映画を選択してしまう。フランソワオゾン監督の作品はいつも見逃せない。でも、前作は以前ほどいいと思えず感想を書いていない。正直男色映画は苦手な部類だが、そもそもゲイを公言している中でペドロアルモドバルとフランソワオゾンの作品は別格である。映像美ということで楽しめる。「サマーオブ85」は予告編での色彩感に魅かれて映画館に向かう。


1985年の夏休みに北フランスの海岸にある街で出会った美少年たちの物語である。美少年好きの女性には男色映画とはいえ、たまらないだろう。いつも単純にストーリーを進めず、変幻自在の変化球で観客を揺さぶるフランソワオゾンの技に期待したけど、今回は普通かな?

1985年夏、ノルマンディー。16歳の少年アレックス(フェリックス・ルフェーヴル)は、海でセーリング中に突然の嵐に出くわす。ヨットが転覆してしまってあたふたしているところを、18歳のダヴィド(バンジャマン・ヴォワザン)の船に救出される。それがきっかけでアレックスは、ダヴィドの家が経営しているマリンショップに出入りするようになる。ウマがあった2人は常に一緒にいて遊ぶようになり、ある時に一線を超えてしまう。


ダヴィドからの提案により、2人は「どちらかが先に死んだら、残された方はその墓の上で踊る」という誓いを立てていた。ところが、ダヴィドは英国から来ている女の子とデートしているのをアレックスが見て強い嫉妬をして大げんか、飛び出したアレックスを追いバイクを走らせて交通事故に遭遇して、帰らぬ人となってしまうのであるが。。。

⒈フランソワオゾン
長丁場の長編映画というのはないのではないか。いつも100分程度に映画をまとめてくる。ゲイを公言しているフランソワオゾンでも「スイミングプール」や、「17歳」など女性が主役の作品も少なくない。軽いミステリー的要素が映画に含まれていることが多く、そのスパイスが効いてよかった。以前はシャーロットランブリングが常連だったけど、さすがに歳とっちゃったかな?自分としては、題材の選び方など韓国のキム・ギドクに通じるものを感じる。

今回は謎の要素は少ない。よく同性愛の方が嫉妬が激しいというが、ストーリーとしては嫉妬による恋の崩壊しか焦点があたっていないのかもしれない。ペドロアルモドバルの男色映画だと露骨な性描写があるけど、ここでは男性同士のキス程度だ。このくらいにしてもらわないと困る。


⒉夕日が美しい北フランス
海辺の美しい街である。海岸の裏が断崖のようになっていて、ドーバー海峡を隔てた英国のシーフォードの海岸線に類似していると感じた。夕日が沈もうとしている海岸線をバイクで走らせるシーンは美しい。


2人乗りでバイクを疾走させたり、ジェットコースターに乗ったり、ディスコで踊ったりする青春を感じさせるシーンはフランソワオゾン監督の作品では珍しい気がする。80年代の匂いは音楽も含めて強い。

ダヴィドの家は海に近いところで、昨年夫を亡くしたばかりの母親がマリンショップを経営している。そこでは、釣り道具なども販売している感じの良いお店である。社交的な母親は店を手伝ってくれるアレックスも気に入って何もかもうまくいっている時に、飽きっぽいアレックスがダヴィドが面倒な存在になってくるのだ。男色だけでなく両刀使いのプレイボーイだ。


こういう海辺の町で育てばこんな感じになるんだろうなあという青年たちのひと夏の恋を、夏の終わりに公開するのも季節にはあっているけど、まあ見慣れないエリアを楽しむ以上の感慨は少なく普通かな。
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フランス映画「スザンヌ16歳」 スーザン・ランドン

2021-08-25 21:05:00 | 映画(フランス映画 )
フランス映画「スザンヌ16歳」を映画館で観てきました。


スザンヌ16歳はまだ20歳のスザンヌ・ランドンが自らメガフォンを持ったパリを舞台にした青春物語である。予告編で見たパフォーマンスが奇想天外で気になっていた作品だ。ちょいと古いがソフィーマルソーの「ラ・ブーム」を見たときと同じような後味が残る。

スザンヌランドンはフランスのベテラン俳優ヴァンサンランドンがサンドリーヌ・キベルランと結婚していたときに生まれた娘であり、ある意味血統書付きである。

20歳の女の子が自ら監督脚本の作品に普通であれば、誰もスポンサーにはならないでしょう。俳優の両親は離婚しているとはいえ、周囲の映画人はみんな何かと2人に世話になっているはずだから、協力したのだと思う。学生のノリだけでできてしまった映画ではない。ちゃんとプロがつくったレベルのフランス映画だというのは実際に見ればよくわかる。

16歳の高校生スザンヌ(スザンヌランドン)は同級生には馴染めない日々を過ごしていた。ある時、演劇のシアターの前で35歳の舞台俳優ラファエル(アルノー・ヴァロワ)を見かけて、魅かれる。偶然を装いスザンヌがラファエルに近づいていくと、たびたび見かけていたスザンヌに好意を持つようになる。やがて、2人はお互いひかれていくようになるという話である。


観念的なフランス哲学に基づくようなむずかしさはなく、やさしいフランス語での会話が中心で、簡潔で意味がとりやすい。ストーリーは平坦で強烈にインパクトがある場面は少ない。でも何となく共感を覚えるシーンが詰まっている映画である。

⒈16歳の女の子と35歳の男性の恋
先般、立憲民主党の議員が「50代の男性と14歳の女の子が同意の上でメイクラブするのを罪にするのはおかしい」という趣旨の話をして、何と議員辞職するハメになった。発言のあとは、周囲からはかなり強いバッシングを受けた。復帰不能である。実際に恋の先進国フランスではどう捉えるのであろう。


ここでは35歳の男と16歳の高校生の恋だ。最初から、周囲の会話にまったく馴染めず、ディスコパーティのようなみんながはしゃぐパーティで浮いてしまう主人公を映す。アランドロンのようなフランスの典型的二枚目とは到底言えない20近く上のヒゲ面の男にグイっとひかれる。そんなことってあるのであろうか?

ただ、こういう恋は実現していなかったとしても、スザンヌランドンがこういうおじさんに憧れていた経験があるからこそできたストーリーというのはあるだろう。俳優の子だけにませているのは間違いない。

⒉恋のはじめのウキウキ
恋のはじめの気分の盛り上がりが素直に表現されている。むしろ、16歳のスザンヌの方が近づこうと積極的に仕掛ける。そして、遠くから見つめていたラファエルと初めて言葉を交わそうとするときのはにかんだ笑顔がかわいい。そして、朝食を一緒に食べようと誘われたときのパリの街角で踊るウキウキしたダンスに、10代のときの純な恋心が現れていてさわやかだ。

カフェで2人が一緒にヘッドホンでオペラを聴きながら、ラジオ体操のように首を振りながら、一緒のタイミングで振り付けをしているようなパフォーマンスが奇想天外でで実にいい感じだ。


⒊女の子にとっていちばん身近な異性
スザンヌランドンはパパっ子なのかもしれない。男と付き合うかどうか位の女の子にとっていちばん身近な異性は父親だろう。スザンヌは父親に「男の人って、スカートをはいているのとズボン姿とどっちを好むの?」と聞いていく。ハゲ親父はめんどくさいなあといった感じで、スカートと言う。すると、スザンヌはまさにツイッギーのミニより短い超ミニスカートをはいてラファエルの前に現れる。化粧のまねをしたり、急激にませていく。


実際にスザンヌは実父に対してもこんな感じなんだろうなあというのが、選択したセリフの数々を聞いてよく感じられる。それはそれで、娘を持つ自分から見たら好感がもてる。いい後味が残る。

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映画「孤狼の血 LEVEL2」 白石和彌&鈴木亮平&村上虹郎

2021-08-22 17:46:40 | 映画(日本 2019年以降主演男性)
映画「孤狼の血レベル2」を映画館で観てきました。


孤狼の血level2は好評だった前作に引き続き白石和彌監督による続編である。日本の映画界で常に一定レベル以上の作品を供給する貴重な存在の白石和彌だけに期待して映画館に向かう。深作欣二、笠原和夫コンビが産んだ傑作県警対組織暴力に心酔しているという柚月裕子が書いた原作に基づき、前作孤狼の血役所広司演じる不良刑事を映画に放ち、われわれを楽しませてくれた。傑作だと思う。第2作目は平成3年(1991年)の広島を舞台にしたオリジナルのシナリオである。

今回は鈴木亮平演じる新しい凶暴な狂犬が映画に放たれる。それだけで一定以上のレベルは確保する。でも、ちょっと脂っこいかな?食材がいい焼肉屋で、おいしいけど胃が疲れているときに脂がギトギトしたものをもう一度食べるような感じのしつこさでちょっと疲れた経済学の限界効用低減の法則のように一作目ほどの良さは感じない。でも、これは主役松坂桃李の存在の弱さによるかもしれない。


昭和63年(1988年)が舞台だった前作から3年経った。広島では大きな抗争も減っていた。呉原東警察の刑事日岡(松坂桃李)は裏社会にも影響力を持っていた。そんなとき、五十子会の元幹部上林(鈴木亮平)が刑務所を出所してきた。いきなり、出所後刑務所時代に自分をいたぶった刑務官の親族を残忍なやり方で殺した。県警は特別本部を作るが、手が出せなかった。

勢いがついた上林は仁政会の幹部にケンカを売り、五十子会2代目の角谷(寺島進)を痛めつけ自らの地位を高めていく。一方で日岡は旧知のチンピラ幸太(村上虹郎)を上林組にスパイとして侵入させて、組織を錯乱させようとするのであるが。。。

⒈鈴木亮平
実質主演というべき存在で大暴れである。あえて模範囚として、刑務所を出所することになるが、最も危険な人物を町に泳がして裏社会をムチャクチャにする。いきなり、刑務官の家族宅に押し入り目をくり抜く。鈴木亮平は身長186cmで体格もいい。暴れ回ると迫力がある。この映画は鈴木亮平のための映画と言ってもいい。


「仁義なき戦い」が大ヒットした後の2作目で深作欣二、笠原和夫コンビはテキヤ筋の極道、千葉真一演じる大友という狂犬を映画に放つ。まあ、大友のハチャメチャぶりは映画史上でも屈指である。「孤狼の血」の好評で2作目を作るにあたり、白石和彌が千葉真一を意識したのは間違いない。映画は主人公に対峙する悪役も強くないとバランスがとれない。そういった意味では成功なんだろう。

寺島進、宇梶剛士といったヤクザ映画の常連強面を痛ぶり、吉田剛太郎を怯えさすそのパフォーマンスで今後の俳優としての存在感を持てるようになったのは鈴木亮平にとっては大きい。ただ、今後続編を考慮に入れるなら、エンディングに向けての結末は正解ではない


⒉松坂桃李
元々ははぐれ刑事役所広司演じる大上のもとで刑事稼業を学ぼうとしていたのが第1作である。刑事映画は黒澤明の「野良犬」の志村喬と三船敏郎、もっとアバズレで言うと「トレーニングデイ」のデンゼルワシントンとイーサンホンクというように未熟者と熟達者の対比を見せるのが常道である。まさに1作目はそんな関係だった。


まず、たった3年で裏社会に睨みをきかすことができるのかな?という疑問がある。あとは、主役としての有能さがストーリーに見えないのが実に弱いところだ。裏社会の方々に手を打っているつもりだが、うまくいかない。頭が悪い。逆に鈴木亮平は刑事の悪だくみを見抜く。頭がいい。村上虹郎演じるチンピラを大暴れする上林組に潜入させるが、相手に見透かされてしまう。この作品にもう一歩乗れないのは松坂自身の問題ではないが、主役の弱さもある気がする。

⒊村上虹郎
少年の輝きを持った河瀬直美監督の「2つ目の窓からまだ7年しか経っていない。個人的には出演する作品と相性がいい。前作ソワレもいい。ようやく映画界で存在感を示せるようになったときのこの役柄である。


架空の街呉原市のラウンジのママの弟で、日岡刑事に頼まれて上林組に潜入するチンピラだ。時おり、日岡とコッソリ会って情報を与えているが、所詮は下っ端のチンピラ、警察とヤクザの両方にいいように利用される悲しい役柄である。見ていて切なくなる。「仁義なき戦い」で言えば、川谷拓三のようなものだ。でも、この役演じて役者としての村上虹郎の今後に期待できる気がした。ある意味、松坂桃李と対照的である。

⒋女性陣の弱さ
この映画で弱いのは女性の存在感だと思う。その昔「極道の妻たち」でダイナマイトボディで活躍したかたせ梨乃を久々登場させたけど、60すぎたかたせには女盛り当時の片鱗は感じられない。あとの女性陣は小者ばかりである。


「仁義なき戦い」2作目では千葉真一という粗暴な野獣を放つと同時に、梶芽衣子と北大路欣也の哀愁の恋にもポイントをあてた。女性の関わりが少なすぎると映画として弱いのではないか。

白石和彌監督作品だけに当然レベルは高いけど、もう一歩と感じさせるのはそんなところか。
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映画「ドライブマイカー」 西島秀俊&濱口竜介&村上春樹

2021-08-22 06:46:28 | 映画(日本 2019年以降主演男性)
映画「ドライブマイカー」を映画館でみてきました。


おお!こう来るか、そんな場面に魅せられる。

「ドライブマイカー」村上春樹の短編集「女のいない男たち」の中にある同題作品が原作である。濱口竜介監督が脚本演出する。題名「ドライブマイカー」はビートルズ「ラバーソウル」の一曲目。この短編集は2014年発売とともに読んでいて、個人的にシェエラザード」と「木野」が自分のテイストに合う。「シェエラザード」の感想は7年前ブログにもアップした。題名を聞いたとき、「ドライブマイカー」のあらすじをすっかり忘れていたのに気づく。

東出昌大と唐田えりかの不倫話で別の意味で有名になったけど、濱口竜介監督の前作「寝ても覚めてもには強い衝撃を受けた。ヒッチコックの「めまい」のような展開かと思ったら、あっと驚く逆転場面を用意する。好き嫌いが激しい蓮實重彦寝ても覚めても」と唐田えりかを絶賛する。元東大総長のインテリじいさんには世間のゴシップ話は一切関係ないようだ。

主人公の舞台俳優、女性運転手、俳優の元妻、元妻が関係を持った青年と主要4人で成り立つストーリーである。妻(霧島れいか)に先立たれてひとりになった舞台俳優家福(西島秀俊)が、チェーホフ作の舞台演出を依頼され、広島に向かう。現地での移動には女性ドライバーみさき(三浦透子)をつけてくれた。演劇には亡き妻と関係があった若手俳優高槻(岡田将生)がオーディションを受け加わる。亡き妻をめぐっての高槻との心の葛藤を持ちながら舞台稽古を進めていくという話である。

原作のベース設定は変わらないが、濱口竜介監督短編では触れていないストーリーを加える。原作は自分を愛してくれていた元妻がなぜ他の男と寝ていたのかという謎を探る要素があり主人公へのスポットが強くあたっている。確かにそれもあるが、ドライバーと元妻が関係を持った青年の存在感を拡張する。これはこれで悪くはない。


映画を見る前は、3時間というのも随分と長いなあ、チェーホフの「ヴァーニャ伯父」の演劇の場面が多いのかな?と思っていた。でも話の広がりに興味が持て、思ったよりも時間を長く感じない

カンヌ映画祭で脚本賞と聞いたときは村上春樹の原作短篇もあるので「何で?脚色賞でないの?」と思った。でも、こうやって見終わると、短篇小説で描かれていない「ないもの」を想像して脚本化を進め、映像でわれわれに見せてくれる濱口竜介監督の巧みな手腕に感服する。

⒈シェエラザード
映画の解説に「ドライブマイカー」に加えて、「女のいない男たち」から「シェエラザード」と「木野」からもエッセンスを引き出していると書いてある。自分なりに映画でどう使われるか推測していたが、映画が始まってすぐ「シェエラザード」の中の空き巣に入る話を主人公家福の妻がベッドで語っている。そのシーンが出てきて自分はハズレと気づく。女性ドライバーが語ると推測していた。「木野」については1か所だけかな?

原作では、戦前の日本共産党にいた女性給仕ハウスキーパーのような存在の女がアラビアンナイトの「シェエラザード」の如く語り役になる。高校時代に好きな男の子の留守中の家に忍び入って引き出しを覗いたりした昔話を語っていくのだ。この空き巣感覚は、映画でいうと、香港映画「恋する惑星」やキムギドクの「うつせみを想像するような話だ。


元妻音の語りを聞き、そうか、こういうところで使われるんだ。と思っていたら、それだけでは終わらなかった。ベッドで語るその話は夫にだけ話しているわけではなかったのだ。ここからは濱口監督の脚本が冴える。想像を超えるある解釈を聞いて、背筋がぞくぞくした。しかも、岡田将生の語りがいい。濱口監督の前作寝ても覚めても」で唐田えりか演じるヒロインが予想外の行動をするのを見るときのドキドキと同じような驚きを自分は感じた。

⒉広島と瀬戸内海
主人公家福が演出する演劇を広島で公演する。それに伴い広島に2ヶ月ほど滞在するのだ。期間中はしまなみ海道で瀬戸内海を渡ったところにある島に滞在する。移動する車でセリフを聞いている。泊まる旅館から眺める景色は絶景で、海岸沿いを走る赤いサーブを高所から俯瞰して撮る映像コンテも美しい


ドライバーは稽古場と島を往復する。市内の島が見える海辺で主人公とドライバーがたたずむ高いアングルからのショットも自分にはよく見えた。当然、原作とは無縁の場所でロケハンには成功している。


⒊演劇の場面
家福が演出を受け持つ演劇は、ちょっと変わっていて、さまざまな人種の役者がそれぞれ母国語で演じるのだ。演劇に詳しくない自分はこんな劇あったんだ。そんな感じである。家福と一緒にコーディネートするプロデューサーが韓国人で、中国、アジア系も含め色んな人種の人がいる。聞くことはできるが、話は出来ず手話で演じる韓国人女性もいる。映画の配役リストを見て外国人が多いなあと思っていたけど、そういうことだ。


この場面については好き嫌いあるかもしれない。韓国人プロデューサーに関する逸話とか、もう少し縮められても良かった気もする。村上春樹作品は同じく短篇を基にした「バーニング」が韓国で製作されている。きっと「ドライブマイカー」も韓国でも公開予定なのかもしれない。

⒋ドライバー
淡々と運転をこなす寡黙な女性ドライバーである。逸話が増えて存在感は原作より増している。北海道の小さい町の出身で23歳、喫煙者だ。実質母はシングルマザーで苦労して育つ。演劇の主催者側から、移動には必ず運転手をつけてくれと言われ、いったん主人公は拒否する。でも、安心して運転を任せられるとわかる。事情があって、中学生から車を運転していたので、年の割には運転歴は長い。


「おそらくどのような見地から見ても美人とはいえなかった。ひどく素っ気ない顔をしている」原作ではこうなっている。村上春樹はこういう感じで容姿を表現することが多い。もともと絶世の美女が出てくることはほとんどないし、少なくとも「女のいない男たち」に出てくる女性は美しくない。三浦透子は適役かもしれない。田畑智子にも似ている。彼女のプロフィールを見ると、自分が観ている映画が多い。え!そうだったんだという気分だ。チャラチャラしたところのないこういう感じの女の子って職場にはたまにいる。この映画の三浦透子に好感を覚える。

彼女が運転している場面で、すべての音が消えてしまうシーンがある。「ゼログラビティ」でも宇宙空間でのシーンで突然音が消えたのを思い出す。映画館の中が静寂に包まれる。別世界にいるみたいで、すごくいい瞬間だった。

でも、最後のワンシーンこれってどう解釈するんだろう?わからない。
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映画「ねばぎば新世界」 赤井英和&上西雄大

2021-08-17 20:44:35 | 映画(日本 2019年以降主演男性)
映画「ねばぎば新世界」を映画館で観てきました。

「ねばぎば新世界」は大阪通天閣のふもと新世界を描いた赤井英和主演の映画である。その昔の新宿昭和館跡地のk’sシネマで上演しているというだけで。BC級映画の匂いを感じさせる。実際そうだが、たまにはいいものだ。



ボクシングジムをたたんで大阪新世界で串カツの店員をやっている主人公(赤井英和)が、かつてぐれていた頃の舎弟(上西雄大)が出所して再会する。新世界の町中で浮浪者のように彷徨う少年とたまたま出会う。ある新興宗教のアジトで母親ともども囚われていることに気づいた上に、かつての恩人(西岡徳馬)の娘(有森也実)も幹部になって布教していることを知り、少年と恩人の娘を救出しようとする話である。

見つけた少年は言葉がしゃべれない。母親が子の将来を心配して新興宗教の狂信的信者になっているのだ。少年もその宗教の囚われから抜けきれない。主人公と舎弟にボクシングを教えた恩人の娘に至っては、自分を助けてくれた教祖を信頼しきっている。そう簡単にはいかない。しかも、ヤクザが新興宗教の用心棒のように絡んでいるのだ。

⒈積み上げた人情話
「ねばぎば新世界」の根底に流れるのは人情物の色彩である。知性や教養とは無縁の世界だ。大阪の下町でお互い助け合って生きている面々に、町のヤサグレ者も絡んでいく。人間関係はいろんなところでつながっていて絡み合う。

ヤクザと赤井英和たちのアクションも何回か登場するが、それがメインではない。おそらくは、監督脚本の上西雄大が温めて積み上げていった町の小さな逸話をここぞとばかり登場させているという印象を受ける。

⒉赤井英和と大阪が似合う出演者たち
赤井英和はまさに土着の大阪というイメージが強い。腕っぷしが自慢で男を競い合う大阪人の典型みたいな男だ。浪速のロッキーと言われていた全盛期を知る人も少なくなったであろう。「どついたるねん」や「王手」での俳優への転向は成功だし、一時期出番が妙に多かった。こうやって元気な姿を見れるのはうれしい。


「ねばぎば新世界」では、そういう赤井英和に相性の良い上方俳優を選んで、出演させている。大島渚の初期作品に「太陽の墓場という西成近辺が舞台になる下層社会を描いた映画がある。もう60年も前の映画なのにそこに出てくる出演者たちとほぼ同類に見えるのに気づく。阪急エリートカラーとは対照的なキャラだ。それに加えて、Vシネマの帝王小沢仁志や田中要次をはじめとして、この映画にあった俳優がうまくキャスティングできている。まさに新世界が舞台なので、ロケハンもやり易いはずだ。


⒊有森也実と西岡徳馬
親子役だが、最悪になっている2人の関係をどう取り戻すかというのがこの映画の主題の1つ。そんな2人を見ていて、ちょうど今から30年前の「東京ラブストーリー」にともに出演しているというのに気づいた。ちょうどその頃大阪にいた。え!そんなに時が過ぎたのかと驚く。有森也実は江口洋介と織田裕二の間をさまよう女の子、西岡徳馬は鈴木保奈美の元恋人で織田裕二の上司だ。2人に役柄上つながりがあったわけではない。

それにしても、あんなに可愛かった有森也実も歳とったね。女に嫌われるタイプなのか?いじめられてたいへんだったと聞き驚く。


⒋大阪新世界と自分の大阪
平成に入ってすぐ、生まれて初めて東京を出て大阪へ異動した。辞令の一言はショックだったが、行ってみると良いところだった。昭和の最後に東京のバブルに陰りが出ていたのに対して、平成元年に限って関西は異常なくらいのバブルであった。事務所は難波で、担当エリアは堺より南の泉南地区である。住む人たちの身なりは良くないが、南大阪は自営業者が多く得体のしれない大金を持っている人が多かった。ある意味、前近代的資本主義で貧富の差が激しい場所である。大阪の事務所の近くには、ミナミの大繁華街があったので新世界には行かずに用が足りていた。

当時、天王寺より一駅先で阿倍野区に住んでいた。車で会社に行くと、西成のあいりん地区や新世界の近くを途中通る。でも、大阪の地元の人たちからは通天閣のそばには行くな!と言われていて、素直に守っていた。結局、新世界のディープエリアに行く機会がなかった。


当時自分も若かったので、全盛時のあべのスキャンダルには行った。裸の女のこみんなかわいかったな。あべのの街もごちゃごちゃしていた。でも、家からがんばって歩けるくらい近いのに飛田新地には行っていない。病気があるからやめろと地元の人に言われていたからだ。

関西には結局5年いて、お世話になった人が多い。付き合いが長くなるほど情が厚くなり、その良さがわかるのが関西だと思う。コロナ騒ぎで、この1年は結局1度しか行けていない。義理が果たせず残念だ。それだけにこんな映画が観れてうれしい。
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映画「モロッコ、彼女たちの朝」 ルブナ・アザバル&ニスリン・エラディ

2021-08-14 20:15:22 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「モロッコ、彼女たちの朝」を映画館で観てきました。


「モロッコ、彼女たちの朝」は日本で初めて劇場公開されるモロッコ映画である。北アフリカに属するモロッコにはエキゾチックなイメージを持っていた。歴史的にはイスラムの欧州侵攻と国土を取り戻そうとするレコンキスタに大きく関わりを持つ。残念ながら足を踏み込んだことはない。不朽の名作「カサブランカ」を連想しつつ、今の街並みが望めるかとモロッコ映画が見てみたくなった。

モロッコでは未婚の母がタブーである。求職しながら、寝る場所を探す妊婦をパン屋を営む母子家庭の母親が助けて、一緒に暮らすようになり、やがて来る出産の日を待つという話である。登場人物は少ない。未婚の妊婦サミアとモロッコ式パン屋を営むアブラとワルダの3人にアブラに求愛する1人の男くらいである。大半がアブラの家での室内劇で、カサブランカの下町の片鱗はほんの一部しか見れない。それだけが残念だ。


自分は男性なので、出産に向かう女性心理はわからない。余計なセリフは少ない。それでも、沈黙の中から様子はわかる。マリヤム・トゥザニ監督は長編初めてだというが、夫が映画監督というだけあって3人を追うカメラ目線は的確で映像としてのレベルは高い。

出産間近で大きなお腹を抱えているサミア(ニスリン・エラディ)がカサブランカの下町をさまよっている。一軒一軒訪ねて歩き、どんな仕事でもいいから働かせてくれというが相手にされない。モロッコでは未婚の母はタブーである。サミアが訪問して断られた中で、一軒のパン屋があった。店主であるアブラ(ルブナ・アザバル)は夜寝床につこうとした時に、昼間働かせてくれと言ってきたその妊婦が路上で横たわっているのに気づく。しばし考えて、サミアを家に招き入れた。


アブラは夫を亡くし、小学生の娘ワルダがいる。明るい表情は見せず、淡々と働いている。パン屋の仕事を手伝ってもらう気はなかったが、気を利かせてサミアが細長いルジザというパンを作ってくれた。おいしいので気がつくと売り切れてしまう。

娘のワルダは妙にサミアになつくが、アブラは気に入らない。サミアは家をいったん追い出される。しかし、出ていった後でアブラは後悔の念に駆られて街に探しに行き、連れ戻す。結局、出産をアブラの家で迎えることになるのであるが。。。

⒈モロッコとイスラム
ジブラルタル海峡を隔てて、北アフリカとスペイン、ポルトガルに最も接近する場所にモロッコは位置しているので、世界史的には最重要地点だと自分は思っている。イスラムが711年西ゴート王国を攻め落とした後から1492年レコンキスタが成立するまで長期にわたって、イベリア半島をイスラムが支配していた歴史というのは今も色んなところに痕跡を残す。

モロッコは今もイスラム教が国教である。この映画でも、ほとんどの女性はヴェールをしている。周知の通りイスラム教は女性蔑視の宗教であり、この映画でも言葉少なに男女差別への抗議が語られる。


カサブランカの下町が映し出される。曲がりくねった細い道の両側には真っ白な外壁の建物が建っている。北アフリカ独特の趣きがある。日本では細い路地があるだけで歴史がある街というのがわかる。でも、都市計画でどんどん少なくなっている。それに反して、カサブランカは永遠に変わりそうもない。

⒉キツイ女と母子家庭
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の「灼熱の魂は宗教の対決の恐ろしさを感じさせる傑作である。すごい衝撃を受けた。今回公開早々に映画館に向かうきっかけは、灼熱の魂」の主演ルブナ・アザバルが出演しているというのもある。今回は未婚の妊婦を助けたパン屋の店主という役柄だが、その表情に優しさはまったく感じられない。仕草も性格もきつい。


子供に対しては、やけに教育熱心だ。この単語は動詞とか名詞なんて子供に教えるセリフがでてくるけど、10才以下と思しき娘にわかるのかな?最近かわってきたがイスラム教国家というのは、女性には教育を与えない伝統がある。調べると、モロッコの識字率も女性は2014年でも57%で特に低い。(ジェトロHP 引用)信じられない世界だ。

そう考えると、この母親は数少ない教育を受けている上層階級で育った女性の設定である。それにもかかわらず、夫が死んでしまい、暗い人生を送っている。街のお祭りにみんな繰り出すときに、アイラインを引いてほんのわずかだけ洒落っ気を示すシーンがある。この辺りの心境の変化については男の自分にはよくわからない。


⒊未婚の母
この映画では、どんな経緯でどんな男がサミアをはらませたのかは語られない。それはそれでいい。最初自分を売り込む際に5年間美容師をやっていたというセリフがある。実家に対して、心配をかけないように、この街で美容師やっていて指名もあるのよと電話している。出産したら、故郷に戻り普通に結婚するんだとも言っている。子供は養子に出すつもりだ。

結局、サミアはアブラの家で破水して、お産婆さんを呼んで出産した。病院で産むとなると、犯罪になってしまうというのもキツイなあ。でも、サミアは離れてしまう赤ちゃんに情を移さないように、泣いても乳をやらない。そうすれば、泣き止むわけがない。そこで、サミアはどうするのか?


映画の原題はAdamだ。最初にみてなんだと思ったけど、最後に向けてわかった。
この映画の終わり方はその先の行方をいかようにも感じさせる何かがある。
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映画「明日に向かって笑え!」リカルド・ダリン

2021-08-11 21:50:52 | 映画(洋画:2019年以降主演男性)
映画「明日に向かって笑え!」を映画館で観てきました。


アルゼンチン映画「明日に向かって笑え」の原作・脚本は、アカデミー外国語映画賞を受賞した「瞳の奥の秘密」の脚本を担当したエドゥアルド・サチェリである。主演のリカルド・ダリンが、今回も主人公のフェルミンを演じている。映画「瞳の奥の秘密」は上質なサスペンスで、ミステリーとしての先行き推理の楽しさもある。「明日に向かって笑え」という題名に、明るい響きを感じ、このコンビであれば間違いないと思って観に行ったが、自分にはハズレだった。

2000年前後に世界のあちらこちらで金融危機が起きた中で、アルゼンチンの経済危機についてはあまり知識がない。放漫な経済運営となるような体制なんだろうか?
映画を通じて意味がよくわからないし、預金封鎖がきっかけで預金が引き出せず、しかも没収された金が持っていかれるのはムカつくけど、強盗をはたらいて取り戻したらそれいいの?という感じもある。まあ、選んで観に行ってもハズレはある。

2001年8月、アルゼンチンの小さな田舎町。妻リディアと共に小さなガソリンスタンドを営むフェルミン(リカルド・ダリン)は、廃倉庫を買い取って、農業協同組合を作ろうと動き出す。町民たちから集めた15万ドルを元手に、不足分の融資を銀行に相談すると、支店長から全額の預金を指示される。


その翌日、金融危機によりドル預金が凍結され、フェルミンたちは無一文になってしまう。支店長が弁護士のマンシーと共謀し、顧客のすべてのドル預金を奪ったと知ったフェルミンたちは、夢と貯金を取り戻すために、奇想天外な作戦を実行する。(作品情報 より)


それでも、イマイチな展開かなと眠気が襲っていたとき、オードリーヘップバーンの姿が映り、急に目が冴える。フェルミンがビデオで映画「おしゃれ泥棒」の美術館でのシーンを見ている。ブーメランを飛ばすことで何度も美術館の警報機を鳴らして故障に見せかける。そして、防犯装置のスイッチを切らせるというシーンだ。この映画パリが舞台で、ファッショナブルな実に楽しい映画である。ジャガーEタイプに乗るオードリー・ヘップバーンが印象的だ。作戦を思いついた主人公が急にウキウキする。



おお!こうくるかと思わずうなった。でも、そのあとがもう一歩。切れ味がなく残念
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映画「サマーフィルムにのって」伊藤万理華

2021-08-10 07:06:18 | 映画(自分好みベスト100)
映画「サマーフィルムにのって」を映画館で観てきました。


これはおもしろい!
高校生の映画作りって題材にしやすいが、その中でも「サマーフィルムにのって」飛びきりの青春映画である。東京オリンピックで20歳前後の女の子の活躍が際立つ。ついつい公開映画も老人系やネクラ映画でなく青春映画に目が向く。これは大正解だった。有名な俳優が出演しているわけではないが、若手俳優人のパワーに引っ張られる。

高校の映画部で、文化祭に向けてラブコメ作品の上映の準備をしているのに対抗して、部で浮いている時代劇オタクの女子高生がオリジナル脚本の主人公剣士にピッタリのキャストを見つけ、スタッフを集めてオリジナル時代劇を作ろうとする話である。

時代劇オタクの女の子なんて見たことない。オタク女の個性だけで引っ張る。映画部の主流派との葛藤はあっても、まったくいやらしくなく、高校生の仲間としての連帯感という方向に持っていって清々しい。自分は若い気力に押される一方であった。最終に向けては、しんみりするわけでなくジーンとする場面もあり、映画館で近くにいた自分と同世代のオヤジが泣いているのに気づく。

高校の映画部に所属するハダシ(伊藤 万理華)は時代劇オタクで勝新を敬愛していて、天文部に所属するビート板(河合 優実)や剣道部の女剣士ブルーハワイ(祷 キララ)とともにたまり場で時代劇を楽しんでいる。

文化祭に向けて、映画部では、主流派でかわいい系のかりん(甲田まひる)が監督・主演する「好き」を連発するラブ・コメディを製作中であった。ハダシの書いた脚本「武士の青春」は却下されくすぶっていた。


いつものように地元の名画座で時代劇を楽しもうとしたら、映画館で武士役にぴったりな凛太郎(金子 大地)を見つける。ハダシは早速アプローチしてみるが、断られる。でも、タダでは引き下がらない。悪友のビート板やブルーハワイを仲間に入れて、主流派に対抗して「武士の青春」を文化祭で上映しようと企む。しかも、照明や録音係にピッタリの男性スタッフを入れて撮り始めようとする。

でも、撮影が進んでいっても、凛太郎の様子がいつも変だ。実は彼には未来からやってきたタイムトラベラーだという秘密があったのだ。

⒈時代劇オタクの女子高校生と座頭市
ハダシは下校時にトレーラーバスのようなボロいバスに向かいその中に入る。このバスの存在が未だに謎だけど、ハダシたちのたまり場だ。そこには時代劇のポスターが貼ってあり、映画の資料が転がっている。そこで、三隅研次監督、勝新太郎の「座頭市物語をみる。渋いねえ。


これって座頭市シリーズ第1作だけど、最後に勝新太郎と剣を競うのは「非情のライセンス」天知茂だ。「座頭市物語」は自分もブログにもアップした。三隅研次監督作品は照明の使い方が巧みで夜のムードを出すのが天下一品だ。

その他にも「椿三十郎」の三船敏郎「眠狂四郎」の市川雷蔵の剣さばきのモノマネをハダシがする場面が出てくる。渋いねえ!墓場の奥から2人とも大喜びだろう。こんな女の子が実際にいたら会ってみてお話がしたい。オヤジはこういう子に弱いのだ。

⒉余計なキャストの省略
結局最後までハダシの両親って出てこなかった。今年公開でわりと面白かったまともじゃないのは君も一緒清原果耶の両親役が出てこなかったのと同様である。実は、ここでハダシの親が出てこないことで時間の短縮がはかれる。
伊藤万理華と清原果耶の演じている役柄も、積極的で自立している高校生ということでは似ている。性格もイメージもダブった。


その代わりに、個性豊かな仲間を用意する。天文部のリケジョは凛太郎がタイムトラベラーでやってくることで関わりを持ち、剣道部の女剣士は男性助演者たちに殺陣指導してしまう。キャッチングの音でどのピッチャーが投げるかを聞き分けるメンバーを録音係で野球部から連れてきて、ライトをつけまくる自転車を乗り回す男子生徒を照明にスカウトする。目線はあくまで高校の同期だ。そうやって大人を介入させないのもいい。あだ名だけなのもいいよね。


⒊SFファンタジー的要素
凛太郎は未来から来た設定だ。別に超能力があるわけではない。ある意味、ターミネーターと同じなのだ。あえてネタバレ気にせずに語れるのも、普通、こういうstrangerを映画に登場させるのは、ドラマではラスト寸前になることが多い。


ちょっと古いが「魔法使いサリー」だって、最終回で初めて本性が周囲にあからさまになる。ところが、わかるときが最後ではない。わかってからも映画づくりが続くのだ。それがこれまでと違う。そこからのいくつかの葛藤はネタバレで言わない。そして、すばらしいラストに向かう。

⒋ロケハン成功
地方都市が舞台だ。街の名前は出てこない。映画を観ていて、栃木県の足利市では?と推測したが、エンディングロールで改めてそうだとわかる。内陸部の人口約15万の街だけど、森高千里が「渡良瀬橋」をしみじみ歌っている街だ。30代から40代にかけて転勤で栃木にいたので、月に数回行った。すぐピンとくる。北関東の若干街が寂れてきている昭和的建物の要素と、遠くに小高い山が見える渡良瀬川の河岸の風景が映画とは相性がいい。


自分のようなオヤジでもこの映画おもしろかった。この映画を引っ張る伊藤万理華と共演の若者たちから気持ちの良いパワーをいただいていた。クズのような手のひら返しのリベラル老人の反対にも負けずオリンピックやって本当に良かったね。世間が思っている以上に今の若者はすばらしい。

松本壮史監督のセンスは抜群だ。全般的に音楽は良かったけど、エンディングロールに流れる主題歌で気分が高揚した。
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映画「キネマの神様」沢田研二&山田洋次

2021-08-08 09:22:50 | 映画(日本 2019年以降主演男性)
映画「キネマの神様」を映画館で観てきました。


高校の大先輩山田洋次監督の新作ということで早々に映画館に向かう。ジュリー(沢田研二)が主役ということ以外は予備知識はなし。「キネマの神様」という題名から映画が題材と推測される。あの沢田研二もいい年だ。今回はギャンブル好きの78歳のダメ老人を演じる。その昔の妖艶さは見る影もない感じだが、風貌が変貌したのでこの役にあっている。


バクチで借金をつくって同居の妻や娘に迷惑をかけている沢田研二演じる不良老人が、若き日に映画の助監督をやっていた杵柄で一発逆転を狙うという話だ。不良老人の若き日を菅田将暉、のちに妻になる松竹撮影所近くの食堂の看板娘を永野芽郁が演じて50年以上前の恋物語を並行して語る。看板女優を演じる北川景子はいつものキツイメイクから若干変えていて悪くない。

映画自体は、ここ数作の山田洋次作品のテイストと大きく変わらない。殺しが絡むとかエグい話はない。序盤戦は、いつもながらの松竹系アカ抜けないセリフが続く。ありきたりだ。それなのに、次第に心をつかむ。若き日の助監督時代の自分を菅田将暉にかぶらせているのがよくわかる。もうすぐ90歳になる山田洋次監督の思いに映画の出来以上に心に感じるものがあり泣けてきた。

無類のギャンブル好きなゴウ(沢田研二)は妻の淑子よしこ(宮本信子)と娘の歩(寺島しのぶ)にも見放されたダメ親父。そんな彼にも、たった一つだけ愛してやまないものがあった。
それは「映画」−−− 。行きつけの名画座の館主・テラシン(小林稔侍)とゴウは、かつて映画の撮影所で働く仲間だった。


若き日のゴウ(菅田将暉)は助監督として、映写技師のテラシン(野田洋次郎)をはじめ、時代を代表する名監督やスター女優の園子(北川景子)、また撮影所近くの食堂の看板娘・淑子(永野芽郁)に囲まれながら夢を追い求め、青春を駆け抜けていた。
そして、ゴウとテラシンは淑子にそれぞれ想いを寄せていた。しかしゴウは初監督作品の撮影初日に転落事故で大怪我をし、その作品は幻となってしまう。
ゴウは撮影所を辞めて田舎に帰り、淑子は周囲の反対を押し切ってゴウを追いかけて行った・・・。(作品情報 引用)

⒈沢田研二のダメ男
何せ太った。いかにも怠惰なこの役柄にピッタリな風貌である。ギャンブル好きで借金を重ねて、娘のところまで借金取りがやってくる。でも、映画界を去ってこの年まで何を生業としてやっていたのかと思ってしまう。ただ、フーテンの寅さんをはじめダメ男に妙に愛情を示すのが山田洋次監督である。そこは巧みに操縦する。


何かというと、金貸してくれとしか言わない主人公ゴウは家族中から呆れられている。白いヘビの夢を見たので、ツキがまわるとばかりにカネを貸せと孫にいう。でも、オタクでネットのweb designをやっている孫がゴウが昔書いたシナリオ「キネマの神様」が面白いとばかりに、一緒に書き直して映画会社主催の賞に応募しようという。ある意味ギャンブルでない正統派の一発逆転だ。孫と一緒にシナリオを整えようとする沢田研二のおじいちゃんぶりがなんかいじらしく見えてくる。いいシーンだ。

⒉沢田研二の全盛時代
沢田研二は今でもコンサートはやっているというが、往年のファンの前でこの風貌で歌っているのであろうか?そもそも今の若い人はソロ時代のジュリーのことも知らないのではないか。そんなことを思っているうちに、沢田研二が主役を演じる映画を映画館で見るのは53年ぶりということに気付いた。

もちろん3億円事件の犯人を演じた、TVドラマ「悪魔のようなあいつ」を高校時代に喰い入るように見ていたし、videoでいくつかの主演作を見ている。思い起こせば、1968年メキシコオリンピックの年に有楽町で小学生の自分は母と一緒にジュリーの映画「世界はボクらを待っている」を観た。「銀河のロマンス」が映画のメインの曲で、繰り返し流れた。今でも口ずさめる。主演はタイガースとなっていても、沢田研二を引き立てるための映画だった。ヒロインの女の子久美かおりが思春期に入る前の自分でもきれいだなと思った記憶がある。


⒉狂ってしまう時代の設定
たぶん、ラグビーワールドカップやコロナ騒ぎを映画に取り入れることで、時代の設定が狂ったのではないかと思う。主人公は78歳ということで普通に考えると、1942年(昭和17年)生まれである。今の奥さんと知り合った助監督時代が25歳と仮定すると、1967年になってしまう。映画で、北川景子演じる人気俳優は原節子を意識しているが、もうその前の1962年には映画界から引退している。映像に映る車は1950年代のものだ。矛盾だらけになる。


2019年から2020年という時代設定でなく、2010年前後にして、山田洋次監督と同年齢の設定にしたら、時代設定は合っていたのであろう。当初志村けんさんを主役に考えていたこともあり、まずは、コロナのことを組み入れざるを得なかったというのが主眼だった気がする。助監督時代の振る舞いでは、おそらくは直接師事した野村芳太郎監督や当時のスタッフのことなどを意識したと思しきセリフが取り入れられている。カメラアングルなどのセリフはいい感じだ。リリーフランキー演じる亡き名監督もいつもながらの好演である。


時代考証はちょっと合っていないとはいえ、永野芽郁には山田洋次監督が亡き妻の昔の面影をかぶらせているというコメントもある。明るくて感じがいい。この女の子がちょっとネクラな役の宮本信子みたいになるかしら?でも、いちばんしっくりいったのが、めがねをかけたそのお母さん役だな。こういう顔って大正生まれの女性にはよくいたタイプである。昭和40年代までの親戚の寄合で、こういう顔をしたおばさんに囲まれた自分の写真がある。自分にノスタルジックな感触を呼び起こさせる。
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映画「ジャッリカットゥ 牛の怒り」

2021-08-03 20:52:07 | 映画(アジア)
映画「ジャッリカットゥ 牛の怒り」を映画館で観てきました。

インド映画でちょっと変わった映画があるらしい。逃げ出した水牛が暴走するという。インド映画にしては珍しく90分でまとめている。しかも、牛ってインド人普通は食べないよね。好奇心で観に行ってみる。


登場人物が多く、しかもみんな同じに見える。誰が誰だかよくわからない。登場人物は殆どが男だ。スピーディーに見えるけど、割と緩慢。気がつくとウトウト寝てしまう。途中意味がわからないことも多い。もっと早く水牛を射殺すれば済むものをと思ってしまうが、部族的なオキテがあるんだろうか?

解説を見て初めて恋人を取り合った同士で大げんかとわかるが、よくわからない。最後に向けてはもっと不可思議な状態である。人の数が急増する。村にこんなに人っていたっけか?人口多い国だから、沢山いてもおかしくないが、なんじゃこれ?ここまで来ると、宗教的何かがあるんじゃないかと思う。こうなるとちょっとお手上げだ。

舞台は、南インド・ケーララ州最奥のジャングルに位置するとある村。さえない肉屋の男アントニが一頭の水牛を屠ろうと鉈を振ると、命の危機を察した牛は怒り狂い、全速力で脱走する。暴走機関車と化した暴れ牛は、村の商店を破壊し、タピオカ畑を踏み荒らす。アントニは恋心を寄せるソフィに愛想を尽かされ、自分の手で牛を捕まえて汚名を返上しようと奮闘する。村中は大パニック。


一方、かつて密売の罪で村を追放された荒くれ者クッタッチャンが呼び戻されるが、猟銃を携えた彼は、かつてソフィをめぐっていがみあい、自分を密告したアントニを恨んでいた。やがて牛追い騒動が、いつしか人間同士の醜い争いへと大きくなっていく…。(作品情報 引用)

日本でも、ヘビが逃げたと先日大騒ぎ。結局見つかったけど、それのインド風水牛探しか。でも、水牛の方が見つかりやすいでしょう。これってどうなの?と思うのにブログアップしてしまう。自分にはちょっと合わなかった。備忘録もたまには必要
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