映画とライフデザイン

大好きな映画の感想、おいしい食べ物、本の話、素敵な街で感じたことなどつれづれなるままに歩きます。

映画「Red」妻夫木聡&夏帆

2020-06-28 18:17:14 | 映画(日本 2019年以降主演男性)
映画「Red」は2020年公開の三島有紀子監督作品


Netflix に見たことない映画が配信されている。「Red」である。今年2月公開ということだが、すぐさま映画館がクローズしてしまったので、気づかなかったのであろう。妻夫木聡と夏帆の共演で監督は三島有紀子だという。不倫映画のようだ。三島の前作幼な子われらに生まれ浅野忠信と田中麗奈の好演もあってか良い出来でふと見てみたい気になった。

直木賞作家・島本理生の原作で子持ちの普通の主婦が昔付き合っていた男と再会し、再度恋に燃えるという題材はよくある話である。映画としては普通、まさに最近週刊文春に徹底的にやられている不倫話だが、ちょっと大げさに騒ぎすぎの感はもつ。でも、この映画の主人公の女性にはちょっと呆れてしまう。

普通の主婦村主塔子(夏帆)には建築設計士の夫(間宮祥太朗)と幼稚園に通う女の子がいて、夫の姑と一戸建ての住宅に住み、何不自由のない生活を送っていた。夫の依頼主に招待を受け妻同伴でパーティに出席した。その際、偶然そこに昔勤めていた建築設計事務所の所長で恋人だった鞍田秋彦(妻夫木聡)と出会い、別室で抱擁を交わす。鞍田は元々の事務所をたたんで、別の事務所で働いていた。その後、鞍田から今働いている事務所で人を募集しているという封書を塔子はもらう。


夫に相談すると、生活に困っていないのに何で働くの?と言われる。結婚前に落ち着いたら働きたいと言っていたよねと懇願して承諾をもらう。結局中途採用の面接に合格して、同じ事務所で働くことになる。入社して同僚の小鷹(柄本佑)に誘惑されたりしたが、塔子と鞍田は元の仲によりを戻していた。しかし、鞍田には白血病の持病があったのだ。

⒈腐れ縁の男と女
一度、肉体関係を深めた2人は関係が終わってしばらくしてもよりを戻すというのは世の常である。可愛い娘がいながらも、女はわれを忘れて恍惚の戯れに浸る。夏帆はかなり大胆な演技をするが、気前があまりよくないようでバストトップはおろか形も見せてくれない。それでも、よからぬ恋に気持ちが傾いていくのはよく表現している。


⒉女性作家の原作を女性監督により不謹慎な女を描く
同居する姑が台所に入って夫である息子の夜食を割り込んでつくったりするシーンがあるが、イヤミたっぷりといじめられている感はない。夫の欲望を夏帆が口で処理する場面がある。これは子づくりをしないということをあらわしているのであろうか?まあ、普通の家庭である。

小さい子がいても働きにでる女子社員は最近の会社では大勢いる。それ自体は不自然ではないが、元恋人のいる職場である。それもかなり深い仲。間違いは続いていく。それでも、冷静さをもっと持ってもよさそうであるが、そうならない。むしろ大胆な結末に向かう。


彼氏の鞍田が持病で出勤不能となっており、プロジェクトの完成を見届けるために雪深い北国の現場に向かう。家を出るときには今日は帰るよといって出て行くが、大雪で帰れなくなる。娘は具合がわるい。その直前にも高所から転落してけがをしている。普通だったら、誰かに代わってもらえばいいものもでていく。

そうすると、新幹線は動かない。娘が具合悪いから今日中に帰れと夫に言われる。そんなのは無理だ。そもそも、娘の調子が悪い状態で出張なんてするのもどうかと思う。帰れないくらいの大雪になるかどうかは天気予報見ればわかるでしょう。そこでなぜか登場するのが鞍田だ。

自分からすると、ここまで常識を飛び越えた行動をするの?ありえない!とつい思ってしまう行動を主人公はとる。最低な女だ。こういう形に女性2人原作者島本理生三島有紀子監督は共感するのであろうか?幼子がいる母親とは思えぬ大胆な行動はさすがの自分も共感しない。

⒊引き立て役の柄本佑
火口のふたりで、全裸の戯れ続きでかなりいい思いをした柄本佑はここでも夏帆に言い寄るが交わされる。主婦なのに柄本がバッティングセンターで思いっきり接近するシーンもあるが、あっさり交わされてしまうのはなかなか滑稽。

いいことづくしの柄本でもこういうこともあるかという心境であろうか?

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映画「ペイン・アンド・グローリー」アントニオ・バンデラス&ペネロペ・クルス&ペドロ・アルモドバル

2020-06-27 06:28:21 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「ペインアンドグローリー」を映画館で観てきました。


2月以来なんと4か月ぶりの映画館行きである。この監督の新作なら必ず観るという映画がある。スペインのペドロ・アルモドバル監督もその一人だ。馴染みのおいしいお店に久々立ち寄る感覚でつい行ってしまう。いつものようにアルベルト・イグレシアスの不安を感じさせる音楽が流れるなかで、独特の色彩感覚をもった映像美に身を任せる。

男色系映画は正直苦手であるが、ペドロアルモドバルの世界だけは別である。おそらくは自己の過去を描いているであろうストーリーとアントニオバンデラスと共演俳優のパフォーマンスにドキドキする。


世界的映画監督のサルバドール (アントニオ・バンデラス)は、脊椎の痛みに悩まされ、心身ともに疲れ引退同然の生活を余儀なくされていた。そうしているうちに、子供時代に母親 (ペネロペ・クルス)と暮らすバレンシアの村での出来事を思い出すようになる。


そんなサルバドールに32年前に撮った作品の上映依頼が届く。その作品で仲違いした主演俳優アルベルトとサルバドールは再会し、自伝的な脚本『中毒』をアルベルトに提供する。そして、アルベルトは小劇場で一人芝居で上演する。その時の公演が思わぬ再会を生むのであるが。。。

⒈色彩設計
「ウルトラQ」のオープニング映像のように液体がにじみでるタイトルバックでスタートする。いつものように強い原色が映像の基調である。前作「ジュリエッタ」に引き続き「赤」がベースになる。


至る所に赤い何かが姿を現し、真っ赤なキッチン、子供のころに着た赤い上着、真っ赤な花など、ひたすら赤が目を奪う。サルバドールの子供のころの住まいは洞窟のような真っ白な壁面だ。そこにタイル職人が様々な柄のタイルを貼っている。そして、今の部屋の壁面の色はキャメルイエローだ。それで原色との調和を保つ。

⒉錯覚に惑わされる
サルバドールは旧知の俳優アルベルトに会い、脚本を提供する。監督をするわけでもない。むしろ自分の名前は出して欲しくはないという。そして、アルベルトは小劇場で上演する。客席が映る。そこにいる見かけた顔はサルバドールだと自分は思っていた。

上演が終わり、楽屋に誰かが訪れる。何かおかしい。客席にいたのはサルバドールでなく別人であった。その別人はサルバドールの昔の恋人であり、この劇を偶然見たのであった。そして、アルベルトにサルバドールの行方を聞くのであった。


錯覚である。冷静に見れば、違うとわかるのであるが、髭もそっくりでジャケットの着こなしも同じだ。われわれ観客に一瞬の錯覚を与える。ここがペドロアルモドバルらしい映画の作り方だ。その後、サルバドールと昔の恋人は再会する。そこでのアントニオバンデラスのパフォーマンスには度肝を抜かれる。ペドロアルモドバルが1つの見どころをわれわれに放つ。


⒊幼少のサルバドールの目覚め
賢そうな顔をした少年である。歌を歌えば美声が響き渡り、ペネロペクルス演じる母親の自慢の息子だ。家のなかでタイルを貼っている無学の職人に語学のイロハを教えている。


しかし、どんなに賢くても家庭は貧しい。神学校に通う以外に教育を受ける手段がない。サルバドールは反発するが、そうするしか手がなかった。そんなサルバドールの家で働く若いタイル職人はたくましい誇らしげな肉体を誇っていた。作業をして、汚くなっている体を水浴びしていた。その全裸にはたくましい男性器があり、カメラはそれを隠さずに捉える。そして、その肉体美を見てサルバドール少年は卒倒するのである!!


これが後にゲイとなってしまうペドロアルモドバルが性に目覚める衝動なのであろう。このタイル職人は絵心があった。赤い服を着ているサルバドールの姿をスケッチしていた。この絵が映画のキーになる。


アントニオバンデラスペネロペクルスは同じ映像では交わらない。当然である。なぜなら、アントニオバンデラス演じるサルバドールの子供のころの母親役をペネロペクルスが演じるからである。ところが、最終場面に移り、一瞬われわれに再度錯覚を与える。映画の中の映画の手法が好きなペドロアルモドバルらしい錯覚の演出である。
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映画「ジョジョ・ラビット」

2020-06-21 08:38:39 | 映画(洋画:2019年以降主演男性)
映画「ジョジョ・ラビット」は今年公開のアメリカ映画

第2次大戦末期のナチスドイツを描いた作品は最近多い。この種の類にはネクラな作品が多い中で思ったよりも面白い。巧みにコメディに仕立てたと言ってもいいだろう。アカデミー賞脚色賞を受賞している訳で原作があるはずである。

青年になりきれない子どもの目を通して、語っていく。ナチスを崇拝する子どもの前に年上の若きユダヤ人少女が現れる。周囲があれだけ軽蔑し、排除しているユダヤ人の女の子が目の前に現れ、気がつくと異類への好奇心と幼き恋心に揺れる少年心理が素直に示されている。


出演者の中でいちばんメジャーといえば、スカーレットヨハンソンであろう。他にもスリービルボードの巡査役からのっているサムロックウェルがいるが、ここでは主演の少年の愛くるしさがいい感じだ。

第二次世界大戦下のドイツ。10歳の少年ジョジョ(ローマン・グリフィン・デイビス) は、 母親ロージー(スカーレット・ヨハンソン)と2人暮らし。 ジョジョの父親 は2年間音信不通である。ナチスの党員たちは脱走したと決めつけていた。 空想上の友達であるアドルフ・ヒトラー (タイカ・ワイティティ) の助けを借りて、青少年集団ヒトラーユーゲントの立派な兵士になろうと戦闘訓練の指導を受けていた。


しかし、ジョジョは、訓練でウサギを殺すことができず、 戦いで片目を失ったクレンツェンドルフ大尉(サム・ロックウェル)や、教官のミス・ラーム(レベル・ウィルソン)から「ジョジョ・ラビット」という不名誉なあだ名をつけられる。 それでも、空想のアドルフの激励で元気を取り戻したジョジョは、張り切って手榴弾の投てき訓練に飛び込むのだが、失敗して顔に大ケガを負う。

退院して自宅に戻ったジョジョは亡くなった姉のインゲの部屋で隠し扉を発見する。扉を開けるとユダヤ人少女エルサ (トーマシン・マッケンジー) が匿われていた。エルサにユダヤ人の秘密を話をしてくれたら住んでいいと持ち掛ける。そうして、一緒に暮らすようになると、思春期手前のジョジョは次第にエルサに惹かれていくようになる。そんな中、秘密警察のディエルツ大尉が部下を引き連れて、突然、ジョジョの家に家宅捜索で訪れ、ジョジョはうろたえるのであるが。。。


1.ハードデイズナイト ドイツ語版
いきなりオープニングで流れる。ビートルズがドイツのハンブルグにあるライブハウスで下積み生活を送っていたのはあまりにも有名、そこで腕を磨いてチャンスを掴む。この映画はナチスドイツ時代の映像なのにドイツ語でなく、英語が基調、その不自然さがあってかドイツ語の歌でスタートする。

2.ユダヤ人少女が出現してからの展開
映画が始まってから軽い起伏があるものの今ひとつノリがない。単なるいじめられっ子物語じゃないか。子どもにも大人にも気持ちを同化しづらいと思っていた時にユダヤ人少女が登場して急にテンポがよくなる。ユダヤ人のことを教えよ。有名人はだれか?こんなにいるのか?


ほのかな恋、目の前に年上の美女、惹かれないほうがおかしい。エルサには心が通じあった恋人ネイサンがいる。ガキのくせに焼きもちをやくジョジョはネイサンのフリをしてエルサにこういう手紙が来ていると、なんとか心が離れていくように仕組む。姉のふりをする場面、「カサブランカ」のラス前シーンの浪花節的見逃しのシーンがある。いい感じだ。

3.スカーレットヨハンソン
好きな女優である。この映画では色合いの良いファッションでジョジョの母親を演じる。なぜか、イタリア降伏に喜ぶ。子どものことで青少年武闘隊に勇敢に乗り込む一方で、ドイツ敗戦を望むビラを撒いて歩く。実は反ナチスだ。そのビラを見て息子はビックリする。スカーレットヨハンソンは1940年~50年代の女になりきるのがお上手だ。

ハイルシーザーの若手女優役や映画「ヒッチコック」のジャネット・リー役同様に今回のドイツ人女性も巧みにこなした。
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映画「男と女 人生最良の日々」 ジャン=ルイ・トランティニャン&アヌークエーメ&クロード・ルルーシュ

2020-06-19 08:45:02 | 映画(フランス映画 )
映画「男と女 人生最良の日々」は2019年公開のフランス映画

今回この映画「男と女 人生最良の日々」の存在を知ったあと、あの殺人的美貌を備えたアヌークエーメが現在こんなにも年をとってしまったという顔を見て、これはやめといたほうがいいかと決断する。しかし、レンタルDVDがあるのを知ると、やっぱり怖いもの見たさに思わず見てしまう。

年老いてしまったので2人をめぐる映像はさすがにキレイとは言えない。でも、1966年「男と女」の感動を思いだしながら見ていると、何か自分にも通じるところがあるのに気づく。

結婚できなかった女の子でいつまで経っても心に残る女性っているものだ。本当に年老いてしまった ジャン=ルイ・トランティニャンの姿に、人生の最終場面に差し掛かった時にむかし愛情を寄せた人と会える喜びが感じられる。

設定としては、アンヌを忘れられないジャンルイの息子が彼女を探し出し、ジャンのいる施設を教えてアンヌに声をかけてもらうという設定である。1966年の男と女を知っている人はジャンの息子とアンヌの娘を含めて4人で落ち合っているのは知っている。その海辺の懐かしい映像は何度もこの映画で流れる。正月に見た寅さん映画を連想する部分もあるが、80代半ばをすぎこの撮影に臨む2人は実際に今でも生きている。これにはおそれいったという感じである。

ある海辺の施設で余生を送っている男ジャン・ルイ(ジャン=ルイ・トランティニャン)、かつてはレーシング・ドライバーとして、一世を風靡する注目を集める存在だった。ところが、いまでは徐々に過去の記憶を失い始め、状況は悪化するばかり。そんな父親の姿を心配したジャン・ルイの息子アントワーヌ(アントワーヌ・シレ)は、あることを決意する。それは、ジャン・ルイが長年追い求め、愛し続けてきた女性アンヌを探すことだった。ある日、アンヌの居場所を突き止めたアントワーヌは、アンヌが経営するお店を訪れる。そこにはアンヌの娘と孫娘がいた。ジャン・ルイの近況を説明すると、「もう一度、父と会って欲しい」と申し出る。

後日、アンヌはジャン・ルイのいる施設を訪れ、久しぶりの再会を果たす2人。しかし、相手がアンヌだと気が付かないジャン・ルイは、アンヌへの思いを話し始めるのだった。そこでいかに自分が愛されていたかを知ったアンヌは、ジャン・ルイを連れて思い出の地であるノルマンディーへと車を走らせる。
(作品情報 より引用)

⒈カーレーサーも今は?
女性は必見なんて1966年の男と女を評する人もいる。でも、レースシーンが思いがけずにも多く、女性にはつまらないんじゃないかと想像する。郊外にある子どもたちが通う寄宿舎の最寄り駅で別れた後に、猛スピードで飛ばしてパリの駅で落ち合うなんて女性には感激と思しきシーンもある。でも、この映画がいいという人は自分が長く生きた中では男性の方が多い。

今回はシトロエンCV2という小さな車をアヌークエーメが運転して助手席にジャンルイが座る。ジャンルイは根っからの女好きぶりを発揮して、看護婦に何度も寝ないかといったり、アヌークエーメにもこの施設から一緒に脱出しようという。お茶目といえばお茶目だが、死ぬ前のあがきといった感じだ。

そんなこの映画になぜかイタリアの美人女優モニカ・ベルッチが登場する。相変わらずきれいだけど、何で出てくるのか?これがよくわからない。


⒉パリを疾走するシーン
これには驚いた。まったく先入感なしで見ているだけになおさらである。映画のラストに向かって回想シーンと合わせて登場する。夜明けのパリの街をスピード出して走っているな、凱旋門の周囲を廻っているなという感じで見ていると、そのままレース並みの超高速でシャンゼリゼ通りを走り、コンコルド広場に向かう。何だこれは!!と映像を追う。

もしかして、信号無視じゃないと気付く。スゲエ!と興奮する。パリ高速観光案内といった感じだ。細い道もぶっ飛ばす。いつ交通事故が起きてもおかしくない。これって1976年クロードルルーシュ制作の短編映画ランデヴーが挿入されている。これを知っただけでも価値があった。コンプライアンス社会とはまったく相容れない世界だ。


さすがにもう次作はないだろう。クロードルルーシュもいい年だ。自分の正体を示さずにアヌークエーメ演じるアンヌが旧友ジャンルイの前に現れ、かわす会話の質は高い。いつの日か自分にもこういう時が訪れるのであろうか?
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映画「太陽はひとりぼっち」 ミケランジェロ・アントニオーニ&アランドロン&モニカ・ヴィッティ

2020-06-08 06:09:09 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「太陽はひとりぼっちは1962年のミケランジェロ・アントニオーニ監督の作品


「情事」、「」、「太陽はひとりぼっち」ミケランジェロ・アントニオーニ監督の不毛の三部作といわれる。今回改めて再見して、とても60年代前半とは思えないスタイリッシュな映像に感激する。イタリアの美的センスというのは超越しているのであろうか?建物センスが日本の30年進んでいる。同じ敗戦国とは思えない。アランドロンとモニカ・ヴィッティの主演2人の姿が そのローマの街並みにマッチしている。

ヴィットリア(モニカ・ヴィッティ)が婚約者と別れるシーンからスタートする。長く付き合ったのにも関わらず、別れるカップルの無情な姿が映し出される。その後で、自分の母親をローマの証券取引所に探しに行く。母親は証券会社社員で場立ちのピエロ(アラン・ドロン)の顧客である。

1.ローマの証券取引所
アランドロン演じるピエロは証券取引所の場立ちである。場立ちどうしで大きな声をだしあって、いったいこれで取引が成り立つのかと思ってしまう。ピレリとかフィアットといった銘柄は日本でもよく知られている名門企業だ。日本の株式取引は完全にコンピュータ取引となり、以前のように兜町の証券取引所の立会い場での活気あふれる光景がなくなった。


飛び交う会話は「なんかいい情報はないか?」いかにもインサイダー取引を連想させる。時代が時代なんで仕方がない。アランドロン演じる証券仲買人は、他の投資家が増資のうわさがあるとコソコソ話しているのを聞きつけて買いを入れる。それに追従して買いが入り、短時間で上昇、すぐ利食いして100万リラをゲットする。場立ちどうしで紙の伝票を融通しあっている。まあ、何でもありの時代なんだと思ってしまう。

そんな景気がいい話がでたあとで、株式が暴落する場面となる。もはや破産だと言っている人がいる。現物取引であれば、会社倒産してゼロにならない限りは一気に飛ぶはずはないので、信用取引であろう。モニカの母親も徹底的にやられてしまうシーンが映る。娘に向かってあなたが別れてしまったから婚約者から金を融通してもらえないなんてすごいセリフまである。このローマ証券取引所のシーンを戦後屈指の名シーンと評する人もいる。自分はそうかな?という感じはするけど。

2.キネマ旬報と当時の著名評論家の評価
1962年のキネマ旬報ベスト10では5位である。この年に3年間で製作されたミケランジェロアントニオーニの3部作が一気に公開されたのか、三作ともエントリーされている。広いジャンルでの粋人植草甚一太陽はひとりぼっちを1位に選出、自分の高校の大先輩双葉十三郎は4位、私の大学時代に「映画論」の講義をしていた津村秀夫は5位に選出する。大学当時のテキスト本「津村秀夫 映画美を求めて」が私の書棚にある。


津村秀夫は三部作を評して「いずれも構成法に相通ずるものがあって、つまり劇的発展がなく、ただ水の流れのように単調である。起伏といってもしれている。だから、どの作品も”結末”とか”解決”とかいうものはなく。。」(津村1966:p223)としている。確かにあらすじといってもどう書いていいのか困ってしまう。最後の結末も観念的でよくわからない。この2人の愛を語るときに「なぜこの男と別れねばならないのか。。。なぜ株式店員と結ばねばならぬか」これって証券会社社員をおちょくっている感じがする。いかにも戦前派らしい津村秀夫の発言である。

3.不毛の男女関係
別れの場面とすぐわかるシーンがほぼ無言のまま続く。男はよりを戻そうとするがうまくいかない。津村秀夫はそのシーンをとらえて「アントニオー二の芸術は極めて会話が少ないこと、それだけにまた人間の生活感情がムードによって左右され、あるいはそれに流されていくような情景を得意とする」(津村1966:p221)とする。音楽はほとんど流れない。扇風機の鈍い音が響いていく。

そして、冒頭の別離のシーンを評して「感傷味のない、ドラマティックでもない静かな不気味な美しさである」とする。(津村1966:P220)


アントニオー二の映画美の急所をつけといわれれば、静寂と孤独というよりあるまい」(津村1966:p218)「」におけるジャンヌ・モローのけだるい振る舞いも音楽のないなかで静かに追っていく。静寂なシーンと平行して、女友達との遊びの中でモニカ・ヴィッティがアフリカの原住民の振る舞いをしたり、ローマを俯瞰する自家用飛行機にのって楽しむ姿や映像づくりで遊んでいるところもある。

もともとアランドロン演じるピエロはモニカ・ヴィッティ演じるヴィットリアに関心がない様子だったのが、急接近。モニカはキスをさせず焦らせる。それでも追うアランドロン、最初はガラス越しでようやくキス、そしてベッドへ。モニカは心からのっているわけでもない。そしてわけのわからないラストに向かう。この三部作というのが、モニカ・ヴィッティにとってもピークではなかろうか?彼女の持つアンニュイな魅力が充満している。


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