映画とライフデザイン

大好きな映画の感想、おいしい食べ物、本の話、素敵な街で感じたことなどつれづれなるままに歩きます。

映画「女経」 若尾文子、山本富士子、京マチ子

2014-01-27 22:08:14 | 映画(日本 昭和35年~49年)
映画「女経」は1960年公開の大映映画だ。
若尾文子、山本富士子、京マチ子の最強美人女優にそれぞれ悪女を演じさせるオムニバス映画。
大映は夜のムードを出すのが得意である。コントラストの強い照明計画で3人の悪事を暴きだすように映し出す。これがなかなかいい。
1960年代入りたての風景がカラーでばっちり映る。猥雑な感じがただよう「三丁目の夕日」と同時期の東京の街並みだ。あの映画は時代考証に難ありだけど、その正解はこの映画にあるといった感じだ。

「耳を噛みたがる女」若尾文子
主人公紀美(若尾文子)は隅田川の水上生活者の娘だ。キャバレー勤めで男を巧みにだましては金をまきあげている。その金で兜町に向かい株を買っているしっかり者だ。
紀美はどの男の誘いも交わしていたが、会社社長のドラ息子正巳(川口浩)だけは別扱いだった。2人はデートした後で店で一緒にのみ、そのままホテルの一室へ。
翌朝、紀美が寝ているうちに正巳はぬけ出す。正巳は紀美が商売ぬきで自分を愛していたのかと感じる。この日、正巳は父の命令で好きでもない娘と結婚式を挙げることになっていた。昨夜は、自由恋愛最後の夜だった。やはり自分を本当に愛している女と付き合う方がいいのでは?と正巳は紀美を探しに出たが。。。。

この当時の若尾文子が演じる役はどれもこれもあばずれ女なんだよなあ。
九段の富士見町あたりの芸者役として出てくる「女は二度生まれる」もそうだけど、やらせそうでやらさないで徹底的に男をだましきる。ホテルまで男が連れ込んでも、巧みにウソを言って逃げ切る。男のかわし方はまさに天才、しかも儲けた金は全部株へ。こんな女この当時多かったから、いつも同じような役やるのかなあ??

「物を高く売りつける女」山本富士子
「流行作家三原靖氏失踪か!」と新聞が報じている。三原(船越英二)は海岸の崖っぷちで1人たたずんでいた。その彼の眼前を謎の美女(山本富士子)が横切りドッキリする。
翌日には、三原は砂浜で彼女が泣いている姿に出くわす。女は死んだ主人の手紙を火で焼いているところだった。翌日、門構えのしっかりした一軒家の前を通ると、彼女が立っていた。三原氏は家の中に招かれ事情を聞いた。か細い声の彼女は夫を亡くした美しい未亡人で名は爪子という。そして、風呂をすすめられる。湯舟につかる三原氏の前に白い裸身の爪子が入ってきた。私に背中を流させて下さいと入ってくる。三原氏は思わず興奮してしまう。そして、爪子はこの家は売りに出してあると三原に話す。売値六百万でもうすぐ売られてしまうという。三原は自分がこの家を買うと告げる。
三原は百万円持って爪子の家を訪ね売買契約書は成立する。ところが、翌日三原氏が爪子の家を訪ねると門に置手紙があった。そこには重要な用事で不在になる。売買契約の事務は東京霞町の不動産屋がやると書いてあったが。。。

山本富士子がいい着物を着て、細い声をだしながらおしとやかな雰囲気を出す。
こういう鎌倉美人は実際にいそうだ。おしとやかなフリしてしっかりだます。途中で声のトーンがガラッと変わる。これも悪女だ。でもだまされる船越英二もだまされたふりしながらしっかりしている。このオチはうまい。
山本富士子がお風呂に入る場面は肝心なところを何も見せないのにドキドキしてしまった。

「恋を忘れていた女」京マチ子
お三津(京マチ子)は京都で宿屋を営む。昔は先斗町の売れっ妓だったが、主人に先立たれた後で、木屋町にバー、先斗町でお茶屋を経営している。
死んだ主人の妹弓子が恋人吉須(川崎敬三)と結婚するため金を借りにきた。財産を狙ってきたものと思い、お三津はいい返事をしない。すると、妹からお三津は芸者上がりで打算的で金の亡者でと文句を言われる。お三津は呆然とする。そこへ、お三津の昔の彼氏である兼光(根上淳)から電話がくる。お三津の店チャイカで待っていると言われるが、はっきり返事をしない。
宿屋では、亡き夫の父親五助(中村雁治郎)が部屋で待っていて一緒に今夜寝ようと迫ってくる。お三津はそこを逃れて五助を交わしつつ自分の酒場チャイカへ向う。奥の部屋で兼光は彼女を待っていた。お三津は彼に甘えるように寄り添う。しかし、頼みごとがあるという兼光に手形の割引を切出され一気にさめた。そのとき、兼光を捕まえに刑事が店に入ってきた。兼光は逃げようと必死に抵抗するが。。。

舞台は京都。
金の亡者になった女だ。「いつでもお金の多い方へ転ぶというのは芸者の考え方でしょ。でも私は違うの。私はね、騙されてもいいの」と言われて、腹を立てると同時に恋を忘れていたことに気づく。そんな時昔の男から連絡が来るのだ。途中で京マチ子の動きが変わる。この三話では一番まともな話だ。ちょうどこういうタッチのドラマ昭和40年代に京マチ子テレビで演じていたなあ。バーの経営者という役柄はいつもながら絶妙のうまさだ。

(参考作品)

女経
3人の大女優の悪女ぶりを堪能する


夜の蝶
夜の銀座で張り合う京マチ子と山本富士子


女は二度生まれる
九段富士見の芸者を演じる若尾文子のしたたかさ
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映画「暖簾」 森繁久弥

2014-01-26 20:33:38 | 映画(日本 昭和34年以前)
映画「暖簾」は森繁久弥主演で大阪商人の生き様を描いた1958年の東宝映画だ
監督は「洲崎パラダイス」「幕末太陽傳」の川島雄三である。

「暖簾」は先日亡くなった山崎豊子の処女作である。生家である大阪老舗の昆布問屋の父や兄の姿をモデルにして明治から戦後まもなくまで時代とともに追っていく。スケールの大きい社会派作家として後年名をあげた彼女であるが、故郷大阪を舞台にした初期の作品に味がある。

森繁久弥の傑作として「夫婦善哉」が挙げられることが多い。淡島千景との共演で船場のぼんぼんでダメ男を演じた。ここではその正反対のまじめ男である。淡路島から一人故郷を離れ、大阪で丁稚奉公をする。まじめなところを店主に認められて、暖簾分けをしてもらうのだ。森繁はダメ男を演じると天下一品だが、これもなかなかいける。
川島雄三監督の作品はユーモアたっぷりでどれもこれも味がある。東京と関西両刀使いで天才と言われるだけある。迫力あったのは十日戎のシーンだ。エキストラもたくさんいたとは思うが、妙にリアルだった。この映画はもっと評価されてもいい気がする。

十五歳の八田吾平丁稚奉公として働くため淡路島から大阪へ飛び出して来た。町で見つけたこれはと思ったご主人の後を追いかけ、働かせてくれと頼む。それは昆布屋の主人、浪花屋利兵衛(中村鴈治郎)だった。話してみると、同郷ということがわかり利兵衛は店に連れてきた。そこにはおかみさん(浪花千栄子)と大勢の奉公人がいた。
そこで拾われてから十年、吾平はまじめに働いた。

そして吾平(森繁久弥)が25歳の時、先輩たちをさしおいて主人利兵衛が暖簾を分けてくれた。吾平は、丁稚のころから仲の良いお松(乙羽信子)と一緒になろうと思っていた。ところが、利兵衛は、吾平を見込んで姪の千代(山田五十鈴)を押しつけて来た。これには吾平は困ったが、お松が身を引き結局千代と結ばれた。しっかり者の千代は商売繁盛のためにともに働いてくれ、夫婦の絆は徐々に深まっていき、子宝にも恵まれた。

昭和九年、3人の子供も大きくなったころには、吾平は昆布屋の事業を広げており、加工工場を作っていた。ある時、強烈な台風が来て、工場が面する川が決壊、水害が工場を襲った。最悪の被害となり、損害から原状回復をしようとしたが、事業を拡大するために資金は借りきっていて、担保もない状況であった。本家に事業資金を借りに行ったが断られ、旧知のお松の嫁入り先に世話にならねばならない状況になった。しかし千代の助言で「暖簾が最高の担保」と吾平がもう一度銀行へ交渉に行き、融資がついて切り抜けた。
それから十年、戦争となって、息子たちは出征した。しかも、昆布が国家による統制の対象となり商売ができなくなった。建物も空襲で燃えてしまいすべてを失う。戦後、吾平は昆布の荷受組合で働いていた。長男の辰平は戻ってこない。しかし、学生時代ラグビーに明け暮れていたのんびり屋の次男孝平(森繁久弥2役)が商売を継ぐと決意し、仕入れの昆布を調達してくる。そして株式会社浪花屋を設立して商売を広げていったのであるが。。。。

森繁はもともと大阪出身で、名門北野中学の出身でもある。もちろん不自然な大阪弁は話さない。大阪弁だけはよそ者が話すとどうしてもうまくいかない。自分も平成の初め大阪にいたが、不自然な大阪弁ならむしろ東京弁を話すべきだということにすぐ気付いた。大女優山田五十鈴も同じく大阪出身だ。山田五十鈴との掛け合いコンビは絶妙で、まさしくプロの仕事だ。
我々は末期の森繁をテレビなどで見ているので、どうしても大御所的な存在と思ってしまうが、ベースは喜劇役者である。小林信彦「日本の喜劇人」でもそのあたりが語られている。映画「夫婦善哉」あたりで演技派に転換したと映画の本などで書いてあるのを見る。映画「夫婦善哉」では緩急自在な演技で顧客の笑いを呼ぶぐうたら男の役だ。それが喜劇役者としての頂点だと私は思う。この作品はその三年後、対照的にまじめ一辺倒な役だが、流れているムードは同じである。

山田五十鈴はこの映画の2年前「流れる」で主演を張った。高峰秀子、田中絹代、杉村春子という人気俳優に加えて大御所栗島すみ子も出演していた。東京柳橋の芸者置き屋の主人を演じた。「暖簾」の役とは真逆で東京の色町を舞台にして時代の流れに取り残される役だ。この当時彼女は映画に随分と出ている。特に黒澤明作品の「蜘蛛巣城」での演技が三船敏郎ともどもすばらしい。

中村鴈治郎、浪花千栄子は関西が舞台になる映画では欠かせない。あくの強い旦那役をやらせたら鴈治郎は天下一品だ。浪花千栄子溝口健二の「祇園囃子」におけるお茶屋の女将役がすばらしかった。ここでも同様だ。昔はオロナイン軟膏の宣伝にずっと出ていたので親しみがある。

大塚製薬と言えば、松山容子大村崑と彼女だった。でも何で浪花千栄子だったんだろう。あとは若き日の扇千景が美しい。大臣やっていたときは怖かったなあ。


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映画「ある殺し屋」 市川雷蔵

2014-01-26 07:51:19 | 映画(日本 昭和35年~49年)
映画「ある殺し屋」は市川雷蔵が現代の殺し屋を演じる1967年の大映映画だ。

市川雷蔵は若くしてがんに倒れこの2年後早すぎる死を遂げる。大映映画の看板スターだった雷蔵と言えば「眠狂四郎」「大菩薩峠」といった時代劇である。ドーラン化粧をして出てくる彼の姿はまさに妖気にあふれ、冷酷そのもののニヒルな剣豪である。その彼が化粧を落とし素の顔で演じる。この映画は彼にとっては珍しい現代劇である。名キャメラマン宮川一夫の撮影で、森一夫がメガホンをとる。脚本は珍しく増村保造監督によるものだ。
殺し屋としてはちょっと無理があるなあ?というディテイルはあるが、無口に演じる雷蔵はここでもいい。

小料理屋を女中と2人静かに営む塩沢(市川雷蔵)はプロの殺し屋だった。暴力団木村組組長(小池朝雄)から敵対する暴力団組長の大和田(松下達夫)の殺人を2千万円で請け負い、日本舞踊の師匠のふりをして、パーティに忍びこみ難なく針一本で大和田を始末する。塩沢の腕に惚れた木村組幹部の前田(成田三樹夫)が弟分にしてくれないかと現れるが断られる。ひょんなことから塩沢の男っぷりに惚れて、押しかけ女房のように小料理屋に潜り込んできた圭子(野川由美子)という女が加わる。3人で麻薬取引に絡んだ2億円の大仕事を計画する。その一方で前田と恵子の二人は塩沢を裏切ろうとするが。。。

殺し屋と言えば、ゴルゴ31や必殺仕事人を想像してしまう。雷蔵が演じる塩沢は独身、女中と2人小さな小料理屋を営んでいる。殺し屋としての影はない。部屋の中には戦争中の航空隊にいた写真が置いている。暴力団組長の殺しでは「必殺仕事人」のように静かに針で急所を刺す。鮮やかな捌きだ。


ただ本当の殺し屋って「ゴルゴ31」のように単独行動かつ秘密主義で誰かと組むことはありえない気もする。
ここでは、映画として地味になりすぎるのを恐れたのであろうか?野川由美子、成田三樹夫の2人が仲間に加わる。野川は若く美しい。一番いい頃だ。

こういう華もいないと成り立たないということなんだろうが、普通殺し屋だったら、こんな女と組むだろうか?と思ってしまうけど。。。成田三樹夫はいつもながらのいい味を出す。
最初出てきた女中を見て、化粧はしていないが声は同じ。もしかして歌手の小林幸子の若い時?と思ったらまさにそうだった。これは貴重な映像だ。自分が小学生のころは青春もののドラマに出ていた記憶が強い。それよりもウブな映像だ。あばずれ女の野川由美子に追いだされる役だ。

映画は簡潔にまとめられ、おそらくは2ないしは3本だての1本としてつくられた作品だろう。
自分が小学校高学年のころ、五反田に大映の映画館があった。子供のころから親に連れられて、かなり見に行った。勝新太郎は不気味な感じがして、二枚目の市川雷蔵が演じる映画の方が好きだった。特に「忍びの者」が大好きで、彼が死んだ時は死亡を知らせる記事を一日中見ていた。そして間もなく大映は倒産する。その流れもあり、今でも市川雷蔵の映画は好んで見ている。今生きていれば82歳で老人になってもいい役者だったんだろうなあと思うが、寿命だったのであろう。
当時の日本映画としては、かなりスタイリッシュな色合いが強い。

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映画「博奕打ち 総長賭博」 鶴田浩二

2014-01-25 05:51:20 | 映画(日本 昭和35年~49年)
映画「総長賭博」は東映やくざ映画でも名作の誉れが高い1968年の映画である。

「仁義なき戦い」笠原和夫による脚本を陸軍上がりの山下耕作が監督する。
当初は客入りも悪く、2人は東映の岡田撮影所長(のち社長)から絞られたそうだ。ところが、三島由紀夫がこの作品を絶賛する。当時はヤクザ映画への評価は低いころだった。一転注目を浴びるようになる。


鶴田浩二を初めて知ったのは小学生の高学年のときだ。当時ヒットチャートマニアになりつつあった自分は、毎週トップ10を確認していた。ポップスが主流のときに、ヤクザと思しき和服を着た男が耳に手を当て歌う姿が何かいやだった。何でこんな歌ヒットするの?と思っていたが、トップ10にはずいぶん長くとどまっていた。「傷だらけの人生」である。その頃の自分には鶴田浩二の良さは全くわからなかった。その後も彼を好きになったことはなかった。

ところが、映画を数多く見るようになるとヤクザ映画にたどり着く。その手の類に無縁な自分が鶴田浩二の男っぷりのよさにドッキリしてしまった。その映画が「博奕打ち 総長賭博」である。総長賭博とはいうものの博打の現場をずっと映すわけではない。任侠道の筋を通す通さないの話が続く。


昭和9年、天龍一家の親分荒川が脳溢血で倒れる。跡目を決めるために幹部が集まり、そこで中井(鶴田浩二)が推薦される。中井は自分は元々よそ者だといい、生え抜きの兄弟分で服役中の松田(若山富三郎)を推した。しかし、松田の出所まで待たねばならない。そこで組長の舎弟である仙波(金子信雄)は弟分の石戸(名和宏)を跡目に決定させる。一家では全国の親分集が集まる花会に準備にかかっていた。そこでお披露目ということになる。中井は石戸の跡目昇進には不満が残ったが、幹部が集まって決まったことは従うしかないと受け入れた。

時期が来て、松田が出所することになった。中井は松田組の組衆とともに出迎えに行った。中井は石戸に親分が決まったことを伝えた。松田は予想外の話に憤慨する。松田が出所した天龍一家の幹部への挨拶で、松田は不満をぶつけ、跡目の石戸に反逆する。中井は説得するために松田に会いに行く、今にも殴りこみに出ようとする松田を自分の顔を立ててくれと説得する。
松田はしぶしぶ応じた。ところが、松田組の若い衆が石戸の元へ夜襲をかける。石戸の若い衆は憤慨して、松田の元へ殴り込みをかけようとするが。。。。


鶴田浩二のセリフが冴える。
「一家として決まったことをのむのが、渡世人の仁義だ。白いもんでも黒いと云わなくちゃならねぇ。それぐらいのこと知らねぇ、おめぇじゃねぇだろう」
ビジネスの世界ではよくある話、会社の方針が気に入らなくても受け入れねばならないことがある。
自民党の郵政民営化を反対した議員が冷や飯をくった事件が記憶に新しい。
今回は跡目の決定について、思惑とちがったが、受け入れざるを得ない状態だ。

「こんなちっぽけな盃のために、男の意地を捨てなきゃならねぇのかい」
兄弟の杯だ。その盃を残しているのである。

「これがおめえと五分の盃を交わした兄弟の盃だ。おめぇがどうしてもドスをひかねぇってんなら、俺はこいつをここで叩き割って、おめぇの向こう口に廻るぜ。俺の任侠道は、それしかねぇ」

鶴田浩二は上層部の決定が気に入らないので殴りこみをかけようとする若山富三郎に向ってこのように言うのだ。
そこまで兄弟分に言われればといったん若山富三郎は方針を受け入れるのであるが。。。


こんなセリフ、鶴田浩二が言うからかっこいい。
韓国の新しいヤクザ映画「悪いやつら」を見た。いいと思うけど、背筋に電流は走らない。
この映画は鶴田浩二の男っぷりに感動するのだ。それだけではない。若山富三郎も迫力があっていいし、この2人を切り返しショットで片方だけを映すのではなく、一緒に撮る。しかも長回し、そこにはとんでもない緊迫感が走る。

金子信雄は「仁義なき戦い」で見せるのと同じようないい加減な親分ぶり、お姫様女優桜町弘子の姉さんぶりが感動を呼ぶ。
確かに傑作だ。
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映画「安城家の舞踏会」 原節子

2014-01-24 21:02:55 | 映画(日本 昭和34年以前)
映画「安城家の舞踏会」は1947年戦後まもなく製作された没落家族の姿を描く映画だ。

名作の誉れが高い。昭和22年のキネマ旬報日本映画№1である。吉村公三郎がメガホンをとり、最近亡くなった新藤兼人が脚本を書く。出演者の風貌が現在と比較すると、まだ戦前の香りがする。その中でも西洋的で上品な原節子がストーリーを引っ張っている。
 
戦前は名門華族だった安城家、当主忠彦(滝沢修)は伯爵だった。太平洋戦争に敗れ、すぐさま他の華族と同様斜陽の一途をたどっていた。自宅の豪邸は抵当に入っていて、借金の猶予を当主の弟が抵当権者の社長新川(清水将夫)に申し込んでいたが、拒絶される。当主の次女敦子(原節子)はかつて運転手で現在は運送会社の社長になりあがった遠山(神田)に引き受けてもらうように提案している。しかし、兄正彦(森雅之)と姉昭子(逢初夢子)は反対している。姉は成りあがりの元の使用人にお屋敷を買ってもらうこと自体が気にいらない。兄は抵当権者の社長の娘(津島恵子)と婚約していて、その筋からの打開を期待していた。

しかし、状況は好転しない。もはやここを自宅とすることが短いと感じて、安城家は舞踏会を開催することにした。当日は、旧華族あるいはそれに類する上流階級に属する多くの客が安城家を訪れた。大きな広間で楽団を入れて華やかな舞踏会が開かれる。しかし忠彦には、戦前自分の名前を使って利益を得たということで抵当権者の社長には貸しがあると認識しており彼を口説いた。しかし、その懇願はすぐさま拒否された。その後はかつて安城家の使用人だった遠山が、屋敷を買い取ると言い出した。それと同時に長女の昭子に向かって求愛したが、受け入れられない。状況はドン詰まりになっていくのであるが。。。

華族の没落は、まさにアップデートな話題だったかもしれない。この映画は華族制度がなくなって半年後に公開されている。庶民からしてみても、表向きはともかく影でいい気味だとささやくムードもあったかもしれない。

(華族の没落)
戦前からの華族制度を残そうとする動きはあったようだが、天皇の近い親戚以外大胆に削減された皇族のみが存在し華族という制度がなくなった。戦前はいろんな優遇を受けていたが、それもなくなる。当然収入は厳しくなる。使用人をたくさん使うことはできないし、維持費も大きく削減せねばならない。安城家は多額の借金を抱えているとのことであるが、当主はビジネスで成功した人物ではなさそうだ。どうして家をとられるほどの多額の借金をする必要があったのか?他に財産はなかったのか?という疑問はあるが、元の生活を維持するためには借金に頼らざるを得なかったと考えてもいいだろう。

安城伯爵は「殿様」と使用人から呼ばれている。明治維新前はどこかの大名だった家筋と推定できる。明治維新後の華族制度で身分を維持できた。ところが、本当の世間知らずだ。借金の期限も昔世話をしたこともあるので、何とかしてくれると思っている。
抵当権者の新川を悪者に近い描写をしているがそもそも借りた金を返そうとしないわけだから、悪いのは伯爵だ。しかも、見栄っ張りだ。身近で邸宅を購入してくれる人物がいる。
ところが、元使用人ということでプライドが邪魔する。この気持ちはわかるけど、切羽詰っているのだから仕方ないでしょう。殿様から1人の世間知らずになった男の悲劇といった形だ。

滝沢修は自分が子供の頃は、財界の大物などのお偉いさんの役を演じていた。これが適役でずいぶんと貫禄のあったものである。劇団民芸設立者でどちらかというと左翼系だ。戦前は公安に引っ張られたこともあるらしい。そうなると、戦前の特権階級が没落する姿は喜んで演じたいであろう。

映画の中に皆が交わすあいさつは「ごきげんよう」である。あえて意識的にやっていると思う。
学習院の付属校では普通に交わされる言葉遣いである。(今もそうなのかな?)
日本における階級の概念は、戦後68年間で大きく変貌を遂げたと思う。
昭和30年代から40年代に差し掛かる頃は、まだ残っていたかも知れない。自分が大学に行くころは進学率30%を越えた程度だったが、その前はもっと低い。しかし、高度経済成長により、全般的にレベルアップが図られ、その昔であれば底辺、中間層だった人もその気になれば同じ教育が受けられるのだ。格差社会になっていくことで、教育にも格差が出ているという話がある。そういえる部分もあるが、どう考えても今の方がましである。


(原節子)
彼女の代表作の一つ黒澤明監督「わが青春に悔いなし」の後の作品になる。あの作品では清楚そのものの彼女が農作業に励むシーンを延々と映した。意外性を感じたものだ。当時であれば、華族という設定で彼女以外の登用は考えられなかったであろう。彼女の持つ気品はここでも光る。浮世じみた姉とはちがって、現実的な考えを持つ女性の設定である。
そして、最終場面に向けて凄いシーンが用意されている。原節子と言えば、小津安二郎作品を代表するヒロインだ。しかし、そこで見せる彼女の姿は静のみといった感じがする。黒澤もここでメガホンをとる吉村公三郎も思い切った動きを原節子にさせる。これがなかなかいい。

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映画「悪いやつら」

2014-01-22 07:57:58 | 映画(韓国映画)
映画「悪いやつら」は韓国の黒社会の攻防を描いた映画だ。

ハ・ジョンウとは相性がいい。一連のキムギドク作品で存在を知ったが、「チェイサー」の異常な凶悪犯には唖然とさせられた。「哀しき獣」では一転して中国居住の朝鮮族の男がソウルで彷徨う姿を演じた。最近の「ベルリンファイル」での北朝鮮スパイ役も鋭い演技で一作ごとに役柄の幅を広げている。この作品では日本のやくざを思わせる彫りを身体中に入れた極道者を演じる。それでもなかなかスマートで頭の切れる極道の親分である。

チェ・ミンシクは「悪魔を見た」の異常殺人犯役が凄かった。いかにも韓国映画らしい気違いである。この2人がジャケットに写っていればまあ見ておこうということになる。

1982年の釜山が舞台だ。
元悪徳税関職員のチェ・イクヒョン(チェ・ミンシク)の悪さ加減をまず映し出す。しかし、当局ににらまれて賄賂でクビになった。途方にくれていたとき、親戚から裏社会の若きボス、チェ・ヒョンベ(ハ・ジョンウ)が遠縁であることを知らされる。年長だということでヒョンベはイクヒョンを立てる。裏にヒョンベがいることと公務員時代に培ったコネで裏社会で儲け話をとっていく。もともとは臆病なイクヒョンは腕っ節の立つヒョンベとその子分の威光だけが頼りだった。2人は結束して一気に釜山を掌握する。しかし、1990年にノ・テウ大統領が組織犯罪を一掃する「犯罪との戦争」を宣言したことをきっかけに、2人の間には次第に亀裂が生じてゆく……。

韓国は大統領が次から次へと汚職で逮捕される国である。
今回の一人の主役は元税関職員である。
港町釜山は日本に最も近い貿易港だ。その荷積みに絡んでポケットマネーを得ていた。
法を逸脱する中で生き延びている多くの男たちと公務員、警察、検事などの悪いやつらが絡み合う。
警察官の一部は捜査情報をピックアップするして裏社会側に伝えるし、仮に捉えられても賄賂で検事をおさえる。
深作欣二監督笠原和夫脚本の名コンビによる傑作「県警対組織暴力」の前半と同じような展開である。
組織犯罪追放が盧泰愚大統領によって宣言されると、あの映画で言えば梅宮達夫が登場した後のような動きに変わる。
日本、韓国と国は変わっても犯罪組織の趨勢は同じような流れなるのかもしれない。

裏切りに次ぐ裏切りというのはヤクザ映画の定番である。昨日の敵は今日の友というような最後の最後まで覇権争いが続く。ただ東映での深作欣二の一連の傑作と比べると若干弱いかもしれない。この映画の緊迫感はそれほどでもなく、テンポが普通に感じてしまう。もう少し身体に電流が走るような刺激がほしい

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映画「ほとりの朔子」 二階堂ふみ

2014-01-21 22:31:16 | 映画(日本 2013年以降主演女性)
映画「ほとりの朔子」を映画館で見た。
単館での公開なので渋谷に向かった。映画評論家筋の評判もよく入りはいい。意外にもおじさんたちが目立つ。

二階堂ふみの主演映画が公開になるのはうれしい。「ヒミズ」「脳男」はいずれも自分に鮮烈なインパクトを残し、好きになった。主演となった彼女の演技力を期待して鑑賞した。

大学受験に失敗した朔子(二階堂ふみ)は現在一浪中だ。
8月下旬、朔子は叔母・海希江(鶴田真由)に誘われ海辺の家で、夏の終わりの2週間を過ごすことになった。ヨーロッパ旅行で留守にするもう1人の伯母・水帆(渡辺真起子)の家に向った。叔母海希江は以前この地に住んでいて、旧友が何人もいた。叔母と朔子は血のつながりがない関係である。

朔子は叔母の古い知り合いである亀田兎吉(古舘寛治)や大学生の娘辰子(杉野希妃)、そして甥の孝史(太賀)と知り合う。亀田はラブホテルまがいのビジネスホテルの支配人をしており、高校不登校の甥はそこでバイトしていた。大学生の娘辰子は海の家でバイトしていたが、父親とは仲がよくなかった。亀田を介して知り合った朔子と孝史は同世代で意気投合して親しくなった。久々にこの町に来た海希江、亀田、辰子、後から海希江を追いかけてきた西田(大竹直)たちは、微妙にもつれた人間模様を繰り広げる。朔子は孝史をランチに誘う。しかし食事をしようとした矢先に、彼に急接近する同級生・知佳(小篠恵奈)から連絡が入るが。。。

主題のポスターになっている二階堂ふみが川のほとりに足を差し込む映像は確かに美しい。ただ、芸術的ともいえる映像はそれだけで、ごく自然に田舎の海辺の町にとけこむ二階堂ふみの姿を映し出していく。一生懸命勉強してきたのに本命の大学にも滑り止めの大学にも全部落ちてしまった理系の浪人生である。一度だけ叔母に勉強しなさいよと言われるが、勉強内容に関する会話はほとんどない。本当は勉強しなければならないのに、初めての町で、関係が複雑な大人たちと触れ合い、大人の恋の匂いに微妙に揺らぐ心の動きを表情で示している。役者歴を重ねてうまくなっているのがよくわかる。
今回の二階堂ふみは今までに増してナチュラルな演技である。年齢も設定の役とは差がないこともあって、高校生役の大賀との会話も極めて自然に流れる。日常に通じる匂いを醸し出しているのでいい感じだ。

ウディアレンが得意な「2人が歩くのをカメラを引きながら映し出すドリーショット」がいい。「ヒミズ」では主人公を熱狂的に崇拝する高校生、「脳男」は狂気的な犯罪を犯す少女を演じた。いずれもいいが、ここで見せた二階堂ふみの演技は本来の彼女を感じさせるようで好感が持てる。しかも、この映画の避暑地ファッションはなかなかいいセンスをしている。
共演する鶴田真由と杉野希妃の2人は、いずれも典型的美人である。でも、普通の男性であれば二階堂ふみにより魅力を感じるのではないだろうか?


亀田の甥で、彼のホテルでバイトをしている孝史(太賀)が割といい味出している。昔から青春映画のヒロインには相手役が付き物で染谷将太といいコンビと思っていたが、大賀とのコンビも悪くない。「桐島。。」「さんかく」など自分が見てきた映画にも出てきたようだが、あまり記憶はない。割と出演作も多いせいか、ナチュラルな二階堂の演技にすんなり合わせられる技量もあるようだ。俳優中野英雄の息子だが、オヤジには似ていない。これから伸びていく俳優だと感じる。

ここでの彼の役柄は福島原発事故のため、この海辺の町に避難している設定だ。高校を転校したが、セシウムで身体が汚染されているとバカにされ不登校になっている。いじめの場面あるけど、こんなこと言う高校生がいるかどうかは少々疑問?朔子と2人で浜を歩いているときに出会った同級生の知佳(小篠恵奈)から、一緒に話したいと言われる。この後の展開がおもしろい。
朔子と一緒に食事している時に、知佳から彼の元に電話が入る。困ったなあ!と一瞬うろたえる表情を見せる孝史だが、朔子は「ここに呼んだら」と言う。すぐさま折り返し電話をして知佳を呼び出す。
「すぐ来るよ」と孝史が言うと、朔子は「じゃ2人で楽しんでね」と食事が来る前に帰る。

一連のシーンに「うーん」と自分はうなった。
浜を歩いている朔子と孝史の姿を見て、同級生の知佳が孝史の携帯を聞いてくる。その直前には孝史をバカにする高校生の男の子と一緒に歩いていたのだ。人のものが欲しくなる人間心理かな?という気がした。別の女性と歩いてみるのを見るとその男が欲しくなるような女の子っているかもしれない。急にその男がよく見えてくるのである。
デート中に電話がかかってきても無視するのが当然だろう。でも、孝史は携帯を机の上においている。電話に出て、しかも一緒にいる朔子の気持ちなんて全く考えない。その行為自体いくらなんでもないよという感じもするが、高校生の男ではそこまで考えないのかもしれない。朔子は気を利かせたお姉さんのような顔をして店を去る。この展開もめずらしい。だいたいこのパターンは高校生の恋愛映画だったら、泣きが入るパターンがほとんどだ。朔子はがっかりするが、失意泰然といった顔をする。脚本のリズムがいい。このあたりで見せる二階堂の表情がなかなかリアルだ。

いきなりプロデューサー杉野希妃という名が冒頭のクレジットに出てくる。その後で出演者としてもクレジットが。。なるほどこの美人女子大生なのね。(調べると後輩のようだ。ずいぶん年下の役やるねえ。こういうタイプのすげえ美人って学部には昔からいたなあ。)学校でて随分と変わった履歴の方だ。キムギドクの作品に彼女が出ていたのはよく覚えている。ロッテルダム国際映画祭の審査員になるというのはすごいなあ。

西田(大竹直)は人気の大学教授で、女子大生辰子が通っている大学に出張講座に来た。妻もいるのに叔母の海希江と逢引きしようという下心で来たみたいだ。でも接近してきた辰子と帰り道に西田の車で同乗する。その後は。。。。こういうさばけた子もいるとは思うけど?!

映画を通じて見せ場は数多くあるが、「脳男」のようにエキセントリックな刺激はまったくない。ずば抜けて強い印象を与えるシーンもない。でもおもしろい要素はたくさんある。
兎吉のホテルに時折売春で訪れるオヤジの振る舞いと彼が来たときにする音楽セッティングの話、原発集会に予期せぬ形で呼ばれてしまったときの、主催者側の期待とは違う話をする孝史の振る舞い、ヤル気満々で来た大学教授が肩透かしをくって、2人での逢引きができず、みんなで会うことになってしまい教授がすねるシーン(このときの大学教授の気持ちって男としてよくわかるなあ:こんな場面何回か自分も経験している、同じようにむかついたなあ)などなど。。
刺激的な台詞があるわけではないが、日常の延長のようでいい感じだ。飲み会のシーンでは本当に飲んでいるんじゃないか?と思わせる雰囲気を感じる。そういうナチュラルな感じがいい。
1つだけ難点を言うと、英語の字幕だ。役者が話すセリフとイメージがどうしても違って読める。これって付けておく必要あるのかしら?

(参考作品)
ほとりの朔子
浪人生のひと夏


私の男
二階堂ふみの真骨頂
コメント (2)
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映画「ハンナ・アーレント」

2014-01-18 05:42:38 | 映画(洋画:2013年以降主演女性)
映画「ハンナ・アーレント」を劇場で見た。
ナチス残党をイスラエルが裁くという歴史上重要な裁判場面を挿入した優れたノンフィクション系ドラマである。

ハンナ・アーレントの映画評を新聞で見たときには、あまり行く気にはならなかった。知性の殿堂「岩波ホール」をインテリ中高年が満員にしたなんて情報もあったので、「左翼ババア」好きの映画だと思っていた。でもキネマ旬報3位となれば、それなりの映画だろうと劇場に向かった。これは行ってよかった。でもこの映画の内容を正確に理解しようと思ったら、セリフの一つ一つを全部吟味しなければならないし、2度以上見ないとだめだろう。
映画に裁判のドキュメンタリー映像が挿入されるところがすごい。白黒映像のリアル感にはふるえる。

1960年、数多くのユダヤ人を収容所へ移送したナチスの幹部アドルフ・アイヒマンが、逃亡先で逮捕されイスラエルに護送された。主人公ハンナ・アーレント(バルバラ・スコヴァ)はドイツ系ユダヤ人の大学教授で専攻は哲学だ。彼女はナチスが政権をとった1933年にドイツを脱出している。その後フランスを経由してアメリカで生活している。
彼女はナチスの元幹部であるアイヒマンがイスラエルで裁かれると聞き、裁判の傍聴を希望し受け入れられた。

ハンナは聖地エルサレムの裁判所で歴史的裁判を傍聴した。そこでのアイヒマンは「あくまで上の命令で移送をしただけ」と主張する。ユダヤ人の虐殺に加わったわけではないと自身を弁護した。
ハンナはアイヒマンのイメージが予想していた像と違って極悪非道な人物ではなく、凡庸な人間ではないかと考えるようになる。イスラエルにいる友人たちにもアイヒマンをかばっているとも取れる発言をし始めた。しかし、彼女の真意はアイヒマンの「悪の凡庸さ」を主張するということなのである。ザ・ニューヨーカー誌にレポートを発表、その衝撃的な内容に世論は大騒ぎになり、ユダヤ人たちからの強い非難を浴びた。敬愛される哲学者から一転、世界中から激しいバッシングを浴びるようになったのだ。「考えることで、人間は強くなる」という信念のもと、思い悩みながら彼女はどうしたのか。。。

(アイヒマンの裁判と東京裁判)
戦争裁判は法典に基づいてされるわけではない。第二次世界大戦が終了し、ドイツではニュルンベルク裁判、東京では東京極東軍事裁判がおこなわれた。戦勝者が負けた国の幹部を裁くのである。アイヒマンの裁判もそれに通じる。そもそもイスラエルという国が大戦前に存在したわけではない。その国の司法当局になぜ裁かれねばならないのか?という大きな問題がある。しかし、冷戦の時代であっても、東西両陣営の幹部にはユダヤ人が多い。当然黙認してしまうのであろう。
そこでアイヒマンは無罪を主張する。あくまで上の命令であって自分の意思でしたことではないというのだ。

ここが東京裁判との大きな違いである。東京裁判では東條英機をはじめとしたA級戦犯たちが懸命に天皇をかばう。同時にマッカーサー天皇をそのまま生かしたほうが占領下日本の秩序が保てると理解し、すべてA級戦犯たちの責任にして天皇を無罪にしようとした。
東條は戦勝者に裁かれることは否定しても、天皇に責任があるとは言わないのだ。天皇は神だと洗脳されていたということもあるが、元々極刑になる運命と自分で認識していたからであろう。戦争中盤から後期にかけてには憲兵をひきいての暴走もあったが、ここでの東條英機の潔さは賞賛されるべきだと思う。

アイヒマンがどれほどまでの幹部だったか自分は理解していない。責任を取らされる。絞首刑だ。
一方日本では昭和23年12月23日東條英機元首相をはじめとしたA級戦犯の死刑執行があった後、その他の拘置されていた戦犯たちは釈放された。その中には岸信介首相もいる。しかも、10年という短い期間に総理にまで押しあがった。日本でも残虐行為を働いた人物で、一部戦後まもなくの軍事裁判で死刑になった人はいたが、他は拘置後釈放された。しかも、アイヒマンが逮捕された60年になったころ諸外国で日本人を裁こうとした外国人はいなかった。日本の軍部では辻政信のような奴がいて、占領下で姿をくらましているが処刑はされていない。

(ナチス処刑の責任の分散)
アイヒマンが主張したのは、自身の虐殺関与の否定である。これ自体はまさにその通りであろう。
経営学の本で、ナチスによるユダヤ人虐殺は「責任の分散」が最もうまくいった例として取り上げられているのを読んだ。何百万人というユダヤ人を殺したあの仕組みは、誰かが責任者だったというわけでなく「名簿をつくるだけ」「部屋に連れて行っただけ」「ボタンを押しただけ」のように担当を分散し、誰もが「自分の責任じゃない」状態をつくりだしたから、あれほどの大虐殺ができたと言われている。人類史上ここまで凄い役割分担はないかもしれない。関わった人物たちは最終的にユダヤ人がどうなるのか?知らなかった人が多いといわれる。薄々わかっていたとしても、究極的には理解していない可能性がある。

(悪の凡庸さ)
アーレントがアイヒマン裁判のレポートで導入した概念。上からの命令に忠実に従うアイヒマンのような小役人が、思考を放棄し、官僚組織の歯車になってしまうことで、ホロコーストのような巨悪に加担してしまうということ。悪は狂信者や変質者によって生まれるものではなく、ごく普通に生きていると思い込んでいる凡庸な一般人によって引き起こされてしまう事態を指している。(作品情報より)

恐ろしい話である。ハンナ・アーレントの言っていることは、自分が言及したことと同値である。虐殺の完ぺきなシステムを作るには、普通の一般人に究極の目的を教えることなく責任分散された任務を果たすようにすればいいことなのだ。

この映画感じることは他にもたくさんある。
ハンナ・アーレントも変わった人だ。この映画でも出てくるが、その昔哲学者のハイデッガーと不倫をしていた経験がある。今の亭主は他の女と浮気をしている。どうもそれはハンナも黙認しているようだ。普通常識を超越している世界に生きている。レポートをニューヨーカー誌に掲載してクレームがジャンジャンかかってきても、面倒なことは秘書に任せて別荘に逃げてしまう。無責任で秘書がかわいそう。傲慢でいやな女だ。


でもこの女の人が気になる。元々左翼女と思っていたら、どうやら主張を見ると反対のようだ。
同じドイツ系ユダヤ人に経営学者ピータードラッカーがいる。彼は初期の著書「経済人の終わり」で全体主義および共産主義を強く批判をした。同書より引用する。
「共産主義とファシズムが本質的に同じというわけではない。ファシズムは共産主義が幻想だと明らかになった後にやってくる段階なのだ。そしてヒトラー直前のドイツでと同様に、スターリン下のソ連において、それは幻想だと明らかになった。」
ドラッカーと同じ主旨を20世紀を代表するリバタリアニズム思想家であり、ノーベル経済学賞受賞のフリードリッヒ・ハイエクが「隷従への道」で取り上げ、共産主義を全体主義と同値にとらえて強く批判している。
「ファシズムと共産主義を研究してきた人々が。。。この両体制の下における諸条件は。。。驚くほど似ている事実を発見して衝撃を受けている」(「隷従への道」より引用)
ハイエクもドラッカーと同じくウィーン出身だ。華やかな当時のウィーンでは、ブルジョア階級でユダヤ人は75%を占めていたという。彼女も同じようなテイストの人らしい。俗に言う左翼ババアと正反対のようだ。不思議だよね?真逆なのに何で人気なのか?自分は気が合いそうなのでちょっと彼女を追いかけてみたい。
全体主義を論じた彼女自身の本も読みたいし、映画も何度も見てみたい。

エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告【新版
ハンナアーレントの示す悪の凡庸さ
みすず書房


ハンナ・アーレント
映像で観るハンナ・アーレント
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映画「殺人の告白」

2014-01-17 20:15:06 | 映画(韓国映画)
映画「殺人の告白」は2013年日本公開の韓国映画だ。

韓国のサスペンス系で評判いいのはなるべく劇場で見るようにしている。迫力が違うからだ。この映画は気がつかなかった。これもネット系で評判のいい作品だ。
見るやいなや、すごいアクションシーンに驚く。2人の格闘に目が離せないし、ぐいっと引き寄せられる。下町の飲み屋で大乱闘して、ビルの屋上で追いかけごっこをする。ものすごい迫力である。韓国アクション映画らしいスピーディな展開である。

見せ場は最後までたくさんあるし、次にどうなるのか?という感覚を起こさせる瞬間が続く。ただ途中で少しだれる。自分の感覚でいえば「チェイサー」「殺人の記憶」のレベルには達してはいない気がするが、日本のアクション映画では悲しいかなこのレベルまでもいかないんだよなあ。

10人が次々殺害される凶悪な連続殺人事件がおきた。主人公の担当刑事であるチェ班長(チョン・ジェヨン)が犯人をあと一歩のところで逃したシーンを映し出す。

それから15年たち凶悪事件も時効が成立した。成立後突如イ・ドゥソク(パク・シフ)という男が自ら犯人だと名乗り出る。彼は自分の犯した殺人事件について詳細に記した本を出版する。ルックスがいい彼は、一躍人気者となる。犯人を探し続けてきたチェ班長は突如現れた男の振る舞いに挑発される。

犯人はそれぞれの家族に謝罪に行ったりしたが、恨みを抱く遺族たちは黙っていなかった。犯人を懲らしめしようと試みる遺族も出てきた。ある家族は犯人を監禁する。しかし、ひどい目にあいながらも犯人は公安当局に訴えたりはしなかった。そんな中、自分こそが真犯人だと名乗る男が現れるのであるが。。。

担当刑事と犯人の取っ組み合いである最初のアクションシーンに圧倒されドキドキしてしまう。観客の目を釘付けにさせる。韓国アクション映画史上有数のすごいシーンじゃないかな?スタントマンを使っているとは思うけど、こりゃやっている方も大変だ。水槽がらみの乱闘は「シュリ」を連想させる。

あとすごいのはカーチェイスの場面だ。犯人を懲らしめようと、ある遺族が作戦を練る。犯人がプールで泳いでいる際に毒蛇を水中に放つ。毒蛇に刺された犯人が救急車で運ばれるが、その救急車に乗っていたのは救助隊員に変装した遺族のグループであった。ものすごい逃走劇が始まる。単に車同士を走らせるだけではない。車のボンネットの上で格闘したり、ハチャメチャになる。このカーチェイスも普通によくあるパターンとは違う。これも面白い。この映画もカット割りが多いが、それにより緊張感が高まる構造になっている。

刑事役チョン・ジェヨンは少し見て映画「黒く濁る村」の気触悪いジジイ役の奴だなとすぐわかった。嫌な感じの映画だったので、感想は書いていない。薄気味悪かった。でもチョンの刑事役はなかなかやるねえといった荒っぽい身動きだ。それにしても顔立ちが矢沢永吉そっくりなのに笑えた。

熱狂的なヤザワファンの自分からしてみても、髪型が似ているせいか、見れば見るほどそっくりだ。身長も同じくらいだ。それでチョンの写真をネット検索したけど、この映画のような顔をしている作品は皆無だ。全然違う表情をしている。さもなければ、もう少し矢沢に似ている評判がたってもおかしくないはずだけどね。
昔の恋人との逸話はちょっとクサイなあという気がするけど、こういう情交場面も映画には必要か?

パクシフは日本でいえば三善英史を連想させる顔立ちだ(ちょっと古いかな?)ここではもてもての元犯人といった役柄だが、韓流のおばさまには人気あるのであろうか?
ただ、この役柄みたいに犯人が時効直後に出現するなんてことあるのかなあ?日本でいえば、時効寸前で捕まった殺人事件の逃走犯福田和子がもし逃げ切れたとして、表舞台に出てくるとは到底思えない。しかも、本がバカ売れしてリッチになっていくという設定、印税の額は10億円単位で入ってくる話になっている。いくらなんでもそれはないでしょう。遺族に土下座してお詫びに行く話も含めてずいぶんと大げさだ。

最終に向けて軽いどんでん返しがある。確かに予測しづらい。でもこれは凄いという展開ではなかったなあ。
部分的には凄いアクションがあったけど、あとは飛びぬけるほどではない。もちろんレベルの高い韓国アクション映画界でということ。
若手の新人監督がこれほどまでのレベルの高いアクション映画を作ってしまうのが、韓国映画界の凄いところだ。
日本とはレベルが格段に違う。

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映画「クロニクル」

2014-01-16 20:46:13 | 映画(洋画 2006年以降主演男性)
映画「クロニクル」は2013年日本公開のアメリカSF映画

どちらかというと見ないタイプの映画である。でもネット上の評判もいいし、会社の後輩がおもしろかったという。ちょっと見てみるかという軽い気持ちで見た。「内気でオタクな少年が突如超能力をもって」という設定は映画史にはゴロゴロ転がっている。途中までのパターンはまさにそれで、決してつまらないわけではない。でもこの映画は素直ではない。超能力をもった少年が暴走してしまうのである。おそらくそれが全米でものすごい興行収入があった理由だろう。

高校生のアンドリュー(デイン・デハーン)は、大酒飲みで暴力的な父親、病気で寝たきりの母親のもと、学校でも一人ぼっちで過ごしていた。アンドリューはそんな生活のすべてを、唯一の話し相手である中古のビデオカメラに語りかけながら記録(クロニクル)していく。

ある日、同じ高校に通ういとこのマット(アレックス・ラッセル)が、アンドリューをパーティーに誘う。社交的なマットはお気に入りの女の子ケイシー(アシュレイ・ヒンショウ)を見つけて話し込むが、ビデオカメラを回していたアンドリューはいじめっ子に因縁をつけられる。
マットとアメフト部のスター選手スティーヴ(マイケル・B・ジョーダン)は、外で泣いていたアンドリューを見かねて、近くの洞窟探検に誘う。そこで3人は、不思議な物体に触れる。

それをきっかけに不思議な能力を身につけたことに気づく。超能力を得た3人は、女の子のスカートをめくったり、駐車している車を移動させたりと、軽いイタズラを楽しんでいた。ある日、後ろからあおってきた車を、アンドリューが超能力で横に向かせると、ガードレールを破り池の中に飛び込んでしまう。マットとスティーヴは運転手を救出するが、こりて人には使わないと超能力を使う際のルールを決める。
3人は学校のタレントショーで超能力を使った手品を披露する。みんなの喝采を受けアンドリューも人気者の仲間入りを果たす。

しかし、人気者になって向こうから近付いてきた女の子とキスをしようとしたが失敗して、学校でからかわれる。家庭の問題も解決しないし、思い通りにいかないのでアンドリューは、暴走した行動を起こすが。。。

親しい友人はいない。みんなから変わり者だと思われている。しかも、いじめっ子に狙われる。つまらない学生生活だ。ビデオカメラで自分の生活のすべてを撮ってしまおうと、絶えずカメラを持ち続けている。でもその撮り方がまわりから嫌われるやり方だ。友達と言うわけではないが、いとこのマットだけは付き合いがある。それだけマシだが、孤独には変わらない。

見ていてかわいそうだな。と思っていたら、すごい超能力をつかむ。
こんな超能力持ったら笑いが止まらないだろうなあ。人気者になるのもワケないでしょう。

でも彼の母親の病気は直せないし、元消防士だったという父親のぐうたらも治らない。しかも、治療薬の代金は高い。日本だったら健康保険さえ入っていたら、こんなことないだろうなあと思うけど、舞台はアメリカだ。

(ネタばれではあるが)
彼はそこでいじめっ子たちからカツアゲする道を選ぶ。うーん??そんなことしなくてもそれだけの超能力があればお金稼ぐ方法何ていくらでもあるでしょ。それにガキどもがそんなに金を持っているはずもない。しかし、それで味をしめると、コンビニにも乱入する。この辺りから暴走が続く。
オレだったら絶対違う動きするなあ?と思ってしまうんだけど、どうなんだろう。同じ立場だったら。。。

全米の映画ファンはこういった展開を支持するのである。確かにいじめっ子をやっつけるのは痛快である。でもなんか違うなあ??妙にこの辺が引っかかってしまった。
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映画「トゥ・ザ・ワンダー」 ベン・アフレック&オルガ・キュリレンコ

2014-01-15 15:31:58 | 映画(洋画 2013年以降主演男性)
映画「トゥ・ザ・ワンダー」は2013年日本公開のドラマ
巨匠テレンスマリック監督の作品である。

監督の前作カンヌ映画祭パルムドールを受賞した「ツリーオブライフ」は抽象的すぎてよくわからなかった。気がつくと眠りにつく始末、感想も書いていない。今回も評判からするとどうかな?と思っていた。DVDになっても見ないかなと思っていたが、ジャケットを見るとついレンタルしてしまう。ロシア系美女オルガ・キュリレンコがフランスの景勝地モン・サンミッシェルをバックに映る写真が気になったからだ。
当然期待していない。しかし、見てみたら映像美に圧倒された。すばらしい!



セリフは少ない。脚本がある映画ではないのかもしれない。
逆にカット割りが多い。ものすごいスピードで次から次に映し出される映像コンテがどれもこれも完ぺきだ。
これは撮影者のウデが違う。そう思ってクレジットを見たらエマニュエル・ルベツキではないか!!
今をときめく「ゼログラビリティ」の撮影者である。
あの映画もすごいと思ったけど「トゥ・ザ・ワンダー」の方がすごい。そしてかつ美しい!



(作品情報より)
ニール(ベン・アフレック)とマリーナ(オルガ・キュリレンコ)はフランスの小島、モンサンミシェルにいた。故国であるアメリカを離れ、フランスへやって来た作家志望のニール。彼はそこでマリーナと出会い、恋に落ちる。10代で結婚し娘のタチアナをもうけたマリーナは、ほどなくして夫に捨てられ、いまや望みを失いかけていた。そんな彼女を闇から救ったのがニールだった。光の中、手をつなぎ、髪に触れ、愛し合うふたり。入り江に浮かぶ修道院を背に、潮騒を聞きながら、ニールは彼女だけを生涯愛し続けようと心に誓う。

2年後、彼らはアメリカへ渡り、オクラホマの小さな町バードルズビルで暮らしていた。ニールは故郷にほど近いこの町で、作家になる夢をあきらめ、環境保護の調査官として働いている。マリーナにとって、そこはとても穏やかな場所だった。愛さえあれば他に何もいらないと思った。前夫と正式な離婚手続きをしていないため、決してニールと結婚できなくても。

ニールはタチアナを実の娘のように愛した。タチアナもまた彼によくなついた。しかし、故郷から離れたその土地で、タチアナは友だちに恵まれずいつもひとりだった。彼女はマリーナに言う。「もうフランスへ帰ろう」

カトリック教会の神父、クインターナ(ハビエル・バルデム)は救いを求める人々に布教を行っている。町の人々に溶け込み、皆から親しまれるクインターナ。マリーナもニールとの関係を相談しに、彼のもとを訪れていた。しかし、クインターナは苦悩を深めていく。神はどこにいるのか? なぜ神は自分の前に姿を現さないのか?
彼はかつて持っていた信仰への情熱を失いかけていた。

ニールの心もすっかり冷えかかっていた。マリーナとの間には諍いが絶えず、タチアナには「パパ気取りはやめて」と非難される日々。滞在ビザが切れるため、マリーナはタチアナを連れてフランスへ戻ってしまう。

マリーナがいなくなった後、ニールは幼なじみのジェーン(レイチェル・マクアダムス)と関係を深めていく。傷を負ったふたりは瞬く間に互いを強く求め合ったが。。。


オルガ・キュリレンコがのっている。そうでないと機関銃のように続く撮影をこなしきれないだろう。

(eiga.comのオルガ・キュリレンコの記事を引用したい)
キュリレンコと本作の出合いは、シナリオもない1枚のメモによるオーディションだった。セリフを言葉にするのではなく、思い描いたキャラクターが表情に現れるかどうかが試され、むきだしの演技が引き出されたという。撮影開始後もシナリオが用意されることはなく、マリック監督との会話のなかですべてが与えられた。「彼がシナリオを与えないのは、事前に用意されたもので俳優に演技してほしくないから。その瞬間の反応を俳優に求めているのよ」。キュリレンコは撮影を通して、役どころから抜け出せなくなるほどに一体となった。

これは随分と高度なことを求められている
実際にシナリオがなかったのかもしれない。しかもカットが多い。


あまりにカット割りが多いので、1分間にいくつカットあるのかストップウォッチ使いながら数えてみる。
だいたい1分間に12~15くらいのカットがある。映画の長さは実働1時間48分(108分)だ。
全部を数えているわけではないけど、約1500を超えるカット映像があることになる。
この映像のほぼすべてが完璧に美しいコンテである。
当然テリンスマリックの指示もあると思うが、ファインダーをのぞくのはエマニュエル・ルベツキだ。
いやはや参った。いかにも当代きっての撮影監督と評価されるべきだろう。
同時に編集の緻密さも感じた。5~10秒くらいのそれぞれのカットだが、撮影している時間はもう少し長いだろう。
これで満足という映像を探しあて、一本の映画にしていく作業は楽ではないはずだ。

まったく予想外の映像美に魅了されたすばらしい至福の時間だった。

参考作品

アルゴ
ベンアフレックがアカデミー賞作品賞受賞


トゥ・ザ・ワンダー
カット割りの美しい映像を堪能する
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映画「ロスト・ハイウェイ」 デイヴィッド・リンチ

2014-01-15 07:11:55 | 映画(洋画 99年以前)
映画「ロストハイウェイ」は鬼才デイヴィッドリンチ監督による97年の作品だ。

今回は2回目の鑑賞だ。あまりに不可解な展開なので、感想を書いていない。だからと言って不満足なわけではない。
デイヴィッドリンチ監督「マルホランド・ドライブ」はすばらしい作品だと思う。夢と現実の見極めができなくなる。この作品も見直してみるとリンチワールドの典型のような映画だ。ただこの映画の展開を一度見ただけで理解するのは無理だと思う。よくわからないなあと感じながら見終わった後、もう一度dvdを見直して、ディテイルを確認した。牢屋の中の人物が入れ替わっているという超能力じみた世界はあるが、あとは筋がつながっていくことに気づく。全部が虚構の世界ではない。


真っ暗なハイウェイのセンターライン上を走る光景がタイトルバックだ。
サックス奏者フレッド(ビル・プルマン)は妻レネエ(パトリシア・アークエット)と2人で暮らしていた。ある朝、疲れ切った様子のフレッドが自宅にいるとインターホンが鳴る。男の声だ。「ディック・ロラントは死んだ」

その翌日から自宅の玄関先にビデオテープが届く。それは封筒に入れてアプローチ階段に置かれていた。妻のレネエと2人で見てみることにした。それは、彼らの自宅が外部からほんの数秒映されているというものだった。不動産屋が置いていったのかと思った。翌日も同じようにビデオの入った封筒が置かれていた。家の中を廊下、リビングから寝室までカメラが入り、2人がぐっすり寝ているところが映されていた。2人はあわてて警察に連絡した。

その夜、レネエの友人アンディのパーティに夫婦で出席する。白塗りの奇怪な顔の男(ロバート・ブレイク)がフレッドの前に現れる
。「前に会ったことありますね」
フレッドは「記憶にありませんよ」

「私はあなたの家にいるのですよ」
フレッドが彼の言うまま、自宅に電話してみると、目の前の男の声が自宅から響く。パーティ主に聞くと、彼はディック・ロラントの友人という。混乱したまま妻と帰宅する。誰かがいるかと懸命に探すがいない。そしてフレッドに、またビデオの封筒が。。。映っていたのは何とレネエのバラバラ死体の前にいる自分だ。
刑事に殴られ、妻殺しを罵倒される。フレッドは殺しの記憶がない。裁判の結果、妻殺しの容疑で彼は死刑を宣告される。ところが、独房にいたはずのフレッドは、いつしか別人の修理工の青年ピート(バルサザール・ゲティ)に変わっていた。

このあとピートを中心にストーリーが展開される。
フレッドはいったいどうなってしまったのであろう?と思いながらストーリーを追う。
ピートが働いている自動車工場の上客エディとその情婦と思しきアリスが登場する。

アリスの顔に見覚えがある。そうだフレッドの妻と同じではないか

(謎解き映画)
デイヴィッド・リンチの映画には謎が多い。この映画も同様だ。
黒澤明の映画「羅生門」芥川龍之介の小説「藪の中」を題材にしている。芥川龍之介は小説の中で、3人の登場人物にある事実を語らせている。その内容を三船敏郎、京マチ子、森雅之の3人が演じた。そして黒澤明なりの解釈を通りがかりの男こと志村喬に語らせる。それが一番正解に近い気もしてくる。黒澤は4人の中でどれが正しいか?選択させようとしているが、必ずしもどれが正解と言っているわけではない。「羅生門」の最後に無情とも言うべき言葉が流れる。。
この映画でも謎だらけの映像を客席に向かって放つ。謎解きを観衆に想像させるのだ。これは難問だ。ネットを追っていくと、すばらしい解釈をしていらっしゃる方がいる。大したものだ。でも全部には賛同できない。自分なりにこうかと思うこともあるが、言葉にならない。
この映画の解釈にも正解はないと思う。



(リンチの得意技)
謎の奇怪な顔をした男を登場させる。いつもリンチはそれらしき奇怪な人物を映画に放つ。「マルホランド・ドライブ」でいえばカウボーイだ。いつも後味が悪い連中たちだ。
この男はその中でも特別に気味が悪い。単なる故買屋という存在でもないだろう。殺された女の幻なのであろうか?これもいか様にも解釈できる。こう書いているうちにも訳がわからなくなる。


(豊満なバストをもった女性)
デイヴィッドリンチ映画に共通するのが、豊満なバディをもった女性の登場だ。マルホランドドライブでもスレンダーなナオミワッツに対比させるようにドキッとさせるようなバディの持ち主ローラ・エレナ・ハリングを登場させる。ここでも同様だ。

バーで知り合った男アンディに紹介されて、悪のアジトに連れて行かれる。そこにはマフィアの親分がいて、彼女は一枚一枚脱がされる。バックでは「アイ・プット・ア・スペル・オンユー」が流れる。CCRも歌っていたが、この曲いろんな映画で使われる。名画「ストレンジャー・ザン・パラダイス」でも使われる。スクリーミン・ジェイ・ホーキンスによる原曲だ。「ロストハイウェイ」のバージョンは2つとまた違う。いかにもリンチ映画らしい怪奇的ムードだ。「お前に呪いをかけてやる」と訳せばいいのであろうか?いかにも歌詞通りに自我を忘れたパトリシア・アークエットが脱いでいく。呪いにかかった表情がエロティックな場面だ。これもリンチの得意技だ。

自分なりの謎解きについても書きたかったが、ブログ書こうと風呂に入ったら頭脳の中が錯綜する。
訳がわからなくなる。

(参考作品)
マルホランド・ドライブ
リンチワールドの最高傑作
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淡路恵子死す

2014-01-13 11:37:32 | 偉人、私の履歴書
淡路恵子さんが亡くなったと伝えられている。
島倉千代子さんの時もブログに綴ったが、彼女は母より1つ年上で品川出身の同郷だけに一言書いておきたい。

晩年は口うるさい人生相談のおばさんでtvに登場することが多かった。
世紀の人気者中村錦之助(萬屋)と一時結婚していた。当時あれだけの人気者がバツイチ子持ちにもかかわらず、嫁にもらうくらいだから相当いい女だったというのがわかるだろう。

映画界へのデビュー作「野良犬」は黒澤明作品の中でも好きな映画である。
戦後まだ東京が荒廃から抜け切れていない中で撮られたこの映画の中でダンサーを演じる。
まだあどけない顔をした少女である。

それが10年しないうちに色気たっぷりの女性になる。
森繁久弥、加東大介、三木のり平といった面々と駅前シリーズを撮る。クレイジー映画でも常連だ。
まだ喜劇役者であった森繁社長が遊びに行くバーのマダムをやらせたら、天下一品である。

高峰秀子主演「女が階段を上る時」という成瀬巳喜男監督作品がある。
高峰秀子が気品ある銀座のママ役で、非常にいい味を出している作品である。
この映画では、高峰の店を独立して新しい店を開き、高峰の店から客を大勢奪っていくママ役を淡路が演じる。「野良犬」から10年たった姿が非常に美しい。

そのあと錦ちゃんと結婚する。
有馬稲子の後である。以前日経新聞「私の履歴書」で、有馬稲子さんが市川崑監督と不倫していたという重大告白をしたことがあった。そこでは、天真爛漫な錦ちゃんの振る舞いを書かれていたが、錦ちゃんにこっそり市川監督と浮気していた話だった。これを読んだ時淡路恵子はどう思っただろう。個人的にはそれが気になっていた。

別に淡路さんのファンというわけではないが、同郷のよしみと晩年のご苦労に敬意を表してご冥福を祈りたい。
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2013年キネマ旬報ベスト10について

2014-01-13 10:01:31 | 映画 ベスト
毎年これが発表になるとコメントしている。
今年はここ数年よりも見ていない作品が選出された。
今年は両方の一位にビックリです。

日本映画ベスト・テン
1位 ペコロスの母に会いに行く
2位 舟を編む
3位 凶悪
4位 かぐや姫の物語
5位 共喰い
6位 そして父になる
7位 風立ちぬ
8位 さよなら渓谷
9位 もらとりあむタマ子
10位 フラッシュバックメモリーズ 3D

1位、3位、9位、10位は見ていない。早めにみてみたい。
後日追記(3位見た。凶悪犯は本当に怖い。そういう人に会わないように生きていきたい。1位は予想以上にいい。9位は前田敦子に自然な演技をさせている。長回しのムードもいい。)「舟を編む」は好き、宮崎あおいが良かった。
個人的には8位を推したい。真木よう子よかったけど、相手役の大西君もよかったなあ。
「かぐや姫」はそんなにいいとも思えない。
後日追記
1位から9位までを自分なりに順位つけると
1.さよなら渓谷2.ペコロス3.舟を編む4.凶悪5.そして父になる6.もらとりあむタマ子7.共喰い8.風立ちぬ9.かぐや姫


外国映画ベスト・テン
1位 愛、アムール
2位 ゼロ・グラビティ
3位 ハンナ・アーレント
4位 セデック・バレ 第一部 太陽旗/第二部 虹の橋
5位 三姉妹〜雲南の子
6位 ホーリー・モーターズ
7位 ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日
8位 ザ・マスター
9位 熱波
10位 もうひとりの息子

1位の作品そんなにいいと思えない。感想書く気にもならなかった。
「ニーチェの馬」でも思ったけど、審査員に変態が多い気がする。
それでも数人自分の好きな評論家がいるので、この映画についての評価が知りたい。
3位、4位、5位、10位は見ていない。5位はたぶん嫌いなタイプだと思う。3,4、10位は早めに見る。(3位鑑賞済good 4位鑑賞済:確かに迫力あるけど、長すぎだな.10位は傑作、取り違え子が題材の「そして父になる」よりもいい。)

意外なのは「ジャンゴ」が入っていないこと、あれ?前年の対象映画だったっけ?と前年ベスト10見直してしまった。
週刊文春のシネマチャートはいつも確認しているけど、25点中24点だったよ。たぶんこの2年で最高点なのにどうして?

外国映画のベスト10の中では6位「ホリーモーターズ」を強く推す。
レオンカラックスの映像美に完全に引き込まれた。これは素晴らしい
7,8位も美しい映像コンテあったよね。それぞれにいい感じだけど。

笑ってしまったのは、自分が強く推す作品が外国も日本も両方とも次点になったこと
「フィギュアなあなた」「嘆きのピエタ」である。
特に「嘆きのピエタ」が外れたのはしっくりこない。「フィギュアなあなた」は女性審査員が見ていないかもしれない。

「キャプテン・フィリップス」「ゼロダークサーティ」も圏外だ。審査員ノンフィクション嫌いな人多いのかな?

まあ映画は個人の好みだから。。。
コメント (4)
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映画「存在の耐えられない軽さ」 ダニエル・デイ・ルイス

2014-01-12 13:11:21 | 映画(洋画 89年以前)
映画「存在の耐えられない軽さ」は88年の作品

傑作である。2時間50分に及ぶ上映時間の長い映画だ。
1968年のプラハが舞台である。チェコへソビエトが出兵した激動の情勢を背景に、若き医師が彷徨う姿を描いている。ベストセラー小説の映画化である。
オスカー俳優ダニエル・デイ・ルイスがまだ30になる頃出演していた作品で、2人の大物女優ジュリエット・ビノシュ、レナオリンが主演にからむ。3人は激動の情勢の中で困難に遭遇して彷徨う。単なる遊び人の主人公も少しづつ変わっていく。若き日の2人が大胆に脱いでいる。特にレナオリンのセクシーショットは当時話題になったであろう。


時は1968年、チェコスロバキアの首都プラハが舞台だ
主人公トマシュ(ダニエル・デイ・ルイス)は独身の有能な脳外科医だ。身近にいる看護婦に手を出したり、自由奔放に女性とつき合っている。そのうちの一人が画家のサビーナ(レナ・オリン)だ。2人が逢う時は、必ず、サビーナの黒い帽子と楕円形の鏡がそばに置かれていた。ある日トマシュは郊外に出張手術に行く。その先でカフェのウェートレスであるテレーザ(ジュリエット・ビノシュ)と知り合い、お互い惹かれる。トマシュがプラハに戻った後、テレーザはトマシュのアパートに押しかけ、2人は同棲生活を始める。

トマシュはテレーザをサビーナに紹介した。テレーザは彼女の計らいで写真家としての仕事を始める。そのころチェコは「プラハの春」と言われる改革運動が進んでいた。トマシュはロシアから共産主義の指導に来ている役人たちを皮肉たり、オイディプス論を論じていた。同棲しているにもかかわらず、トマシュはサビーナとの逢引きを続ける。女の影が常に付きまとうテレーザは憤慨して家を飛び出そうとする。外へ飛び出したら、プラハの町にソ連が軍事介入を始めて、戦車が多数乱入して来た。サビーナは、プラハを去り、ジュネーブへと旅立つ。テレーザはソ連の軍事介入の証拠写真を現場で取りまくっていた。そして一部のネガを外国へ移る人たちに渡して、チェコの現状を知らせようとした。テレーザは当局のおとがめを受ける。こうして、トマシュとテレーザは状況把握をした後でジュネーブヘ向かった。

3人はまた再会する。サビーナは大学教授フランツ(デリック・デ・リント)と知り合い、交際をはじめていた。フランツは妻帯者だったが、ザビーナの魅力に圧倒される。テレーザはジュネーブでも写真の仕事を探した。ヌード写真を撮る仕事をもらう。ジュネーブでもトマシュの浮気癖は直らない。相変わらず女性と遊んでいるトマシュにイヤ気がさしてきたテレーザは、衝動的にプラハへと戻ってしまうのであるが。。。。

(チェコへの出兵)
この映画では、プラハへの軍事介入が映像で出てくる。それ以前は「プラハの春」と言われる民主化運動が盛んになりつつあった。若者は反ソ連を強めていた。
当時まだ小学生だったが、テレビで再三報道されていた記憶が強く残る。プラハに戦車が乱入するシーンがテレビに映し出されて、ソビエトの軍事行動に恐怖を覚えた記憶がある。


1968年はメキシコオリンピックが開催されていた。チェコスロバキアの美人女子体操選手チャスラフスカは大会の華である。ライバルソ連にも可憐なクチンスカヤという体操選手がいた。
金メダルを争う2人の戦いでは、日本人の多くがチャスラフスカを応援していたと思う。西側陣営の末席にいた日本人としては、当然ソ連には強い嫌悪感がある。彼女は個人総合で見事優勝した。その際には、必ず祖国のことが話題になったものだ。

この映画の見事さは編集にある。実際に編集者が取得したニュースフィルムに、ダニエル・デイ・ルイスとジュリエット・ビノシュの2人をかぶせる。これがなかなかうまい。
94年のフォレストガンプでは主人公がホワイトハウスにまねかりたりする合成映像が出ている。これには感心したものだったが、88年当時の映画技術はどうだったのであろうか?


(レナオリン)
さすがのオスカー俳優ダニエル・デイ・ルイスもここではまだ若いアンちゃんである。「ゼアウィルビーブラッド」や「リンカーン」のような卓越した演技をするわけではない。その一方で強い存在感を示すのがレナ・オリンだ。その後「蜘蛛女」で世紀の悪女を演じるが、ここでもその片鱗を示す。黒い下着姿がセクシーだ。しかも、男に纏わりつく強い性の匂いをプンプンさせる大人の女性だ。これは凄い。

アメリカ映画への出演はこれが始めてだったらしい。自由奔放で一流の美術家だが、1人の男から束縛されるのを嫌がる。自分の好きなスタイルで男を愛するタイプだ。影響を受けた女性も多いであろう。彼女がジュネーブに行ったときのシーンで、チェコの愛国者がソ連に反発する発言をするシーンがある。その際それを聞いて、レナオリンが「それだったらチェコに戻って戦争したらいいじゃないの」と愛国者を罵倒する場面がある。これが実にかっこいい。年寄りが愛国主義で過激な発言をするのは、今も日本も同じだ。でもいざ戦争になったら戦うのは若い人なのだ。ある意味無責任じゃないかな


(ジュリエット・ビノシュ)
大女優になった彼女もまだ20代だ。主人公が郊外へ出張手術にいきに知り合ったときには、なぜかトルストイ「アンナカレーニナ」を読んでいた。そのときの彼女の表情は素朴で、いかにも田舎娘といった純朴な雰囲気だ。この映画の前にレオンカラックス監督の「汚れた血」にでている。同様なタッチである。純朴な姿が映画が進むにつれ、少しづつ垢抜けていくようになる。少しづつ変わっていく姿を見るのは悪くない。

(参考作品)
存在の耐えられない軽さ
レナオリンのセクシーさが際立つ


存在の耐えられない軽さ
プラハの春の若者


蜘蛛女
映画史上空前の悪女
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