映画とライフデザイン

大好きな映画の感想、おいしい食べ物、本の話、素敵な街で感じたことなどつれづれなるままに歩きます。

ザ・ファイター

2011-10-30 19:06:05 | 映画(洋画 2010年以降主演男性)
ザ・ファイターを見ました。これは面白い。
「英国王のスピーチ」とは打って変わった社会の底辺を描いた作品だ。よかった。製作にも加わり主演をつとめたマーク・ウォールバーグは映画に打ち込んでいた。それにも増して、いつも端正な姿を見せるクリスチャンベールにはあっと驚いた。一見して誰かわからない。徹底的に役作りにこだわった。その怪演ぶりはクリスチャンベール扮するバットマンのライバル役故ヒースレジャーもびっくりするであろう。


マサチューセッツ州の労働者の街ローウェルにプロボクサーの兄弟がいた。兄のディッキーことクリスチャン・ベールは、以前は実力派ボクサーとして活躍していた。しかし、傲慢で欲望に弱く、麻薬に溺れていた。一方、父親違いの弟ミッキーことマーク・ウォールバーグは、兄からボクシングを教わりプロとなった。兄とマネージャー役の母ことメリッサ・レオの言いなりで、階級上のボクサーと戦わされたり、不利なカードで負けが続いていた。
ある日、マークはバーで働くシャーリーンことエイミー・アダムスと出会う。気の強いエイミーと相性が合った。大学でスポーツを専攻したという若者は周辺にはめずらしい存在だ。二人の関係は始まった。そんな中、クリスチャンベールは不良仲間と悪さをしつくしていた。結局窃盗の現行犯で逮捕され実刑となった。兄弟2人の父は別のトレーナーに話をつけた。スポーツ経験のあるエイミーの献身的なサポート、新トレーナーの訓練メニュー、そしてマークをスターボクサーにするための対戦カードが功を奏した。あれよあれよという間の連勝が始まったが。。。。


どんよりとしたムードで始まる。ボクシングを扱った名画はみんな同じだ。
「レイジングブル」「ロッキー」「ミリオンダラーベイビー」どれもスタートから30分の暗さは一緒で、どの映画も社会の底辺をもがいている連中を描く。ハングリースポーツであるボクシング映画には共通するところだ。ここでもマークウォールバーグは何度もドツボに落ちている。しかも兄クリスチャンベールのやることはめちゃくちゃだ。例にもれずに地に落とす。そこから這い上がらせる。みていてすがすがしい時間である。前述の映画にも同様の活躍パターンがある。「水戸黄門」的ワンパターンであるが、それはそれでいい。そこからが見せどころである。ここでも紆余屈折をつくる。

アカデミー賞でクリスチャンベールが助演男優賞、メリッサレオが助演女優賞を受賞するなど、2010年度の各映画賞をとりまくった。「英国王のスピーチ」のジェフリーラッシュも素晴らしい。でもこの映画のクリスチャンベールを見るとジェフリーラッシュが不運だと思うしかない。ボクシング映画には猛獣のようなボクサーが出てくることが多い。当然主人公である。「レイジングブル」でのデニーロがいい例だ。ここでの主人公マークウォールバークは相対的に静かだ。暴れまわり方が少ない。兄が猛獣なので弟を冷静に見せる。そういう構図だけにクリスチャンベールがなおさら目立つ。極端な減量を経ての登場はプロの仕事だと思う。


「フローズンリバー」の主演でもメリッサレオは社会の底辺をさまよう女を上手に演じた。ここではパワーアップしている。じゃじゃ馬女で自分勝手だ。主人公をバックアップする立場なのに逆に足を引っ張る。こんな女の人は割と世の中にいるかもしれない。彼女に加えて一緒になって足を引っ張る小姑たちがいっぱいいる。これもスパイスのように映画にきいている。
エイミーアダムスもマンハッタンのキャリア女性を演じているときとはちがう。妙にエネルギッシュに見えるところがいい。彼女の存在もこの映画には欠かせない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英国王のスピーチ  コリンファース

2011-10-27 05:30:43 | 映画(洋画 2010年以降主演男性)
「英国王のスピーチ」を見た。オスカー受賞にふさわしいすばらしい作品である。
現在のエリザベス女王の父親にあたる英国王ジョージ6世吃音を克服しようと奮闘する姿を描く。英国王室の「王冠をかけた恋」というのはあまりにも有名だ。しかし、その弟が吃音に悩んでいた事実は知らなかった。兄のエドワードがあっさり王位を捨て離婚経験者の女性の元に行き、予期せぬ王位継承を受ける。スピーチが苦手な彼が苦悩する姿をコリンファースが見事に演じる。矯正をするジェフリーラッシュも実にすばらしい。2人のダイアログを中心に現代英国史の裏側を語っていく。



英国王ジョージ5世の次男であるヨーク公アルバート王子ことコリン・ファースは、幼い頃から吃音というコンプレックスを抱えていた。人前に出ることを嫌う内気な性格であった。それでも美しい妃殿下と2人の娘に恵まれていた。
王ジョージ5世は様々な式典のスピーチを主人公に容赦なく命じる。言語矯正のため主人公は妻のエリザベスことヘレナ・ボナム=カーターに付き添われて、何人もの言語聴覚士を訪ねる。いずれも効果がない。ある日、エリザベスはスピーチ矯正の専門家ライオネルことジェフリー・ラッシュのもとを訪れる。何かが違うと感じたエリザベスは主人公を連れていく。

ライオネルはここでは私たちは平等だと宣言して王太子を愛称で呼ぶ。さらに、大音量の音楽が流れるヘッドホンをつけ、シェイクスピアを朗読するという奇妙な実験を行う。この治療は自分には合わないと告げ去る。しかし、ライオネルに渡された朗読の録音レコードを聞いて驚く。音楽で聞こえなかった自分の声が滑らかなのだ。再びライオネルを訪ねた。
1936年ジョージ5世が亡くなり皇太子である長男のエドワード8世ことガイ・ピアースが即位する。エドワードはアメリカ人で離婚暦のあるウォリス・シンプソンと交際していた。英国国教会はじめ周辺からは、王位か恋かの選択を迫られる。兄は恋を選び弟が王位を継承することに決まる。しかし、苦手のスピーチが待っていたが。。。

まずはコリンファース、ジェフリーラッシュのベテラン2人の演技を称賛したい。脚本もよく実に味のある会話である。じわりじわりと深みを帯びていく。そのまわりを包むのはやさしいクラッシック音楽である。見ていて快適な時間だった。特にジェフリーラッシュの巧妙な演技はオスカー助演男優賞をもらってもおかしくないすばらしい演技だ。円熟の演技といえよう。

主人公の兄の王冠をかけた恋というのは有名だ。その昔昭和天皇が欧州訪問に出た時、ウィンザー公ことエドワードに会っていたのが思い出される。その時にはもう少しロマンティックな話に聞こえた記憶がある。でもここで語られるのは王位を捨てざるを得ない数々の状況だ。古くは16世紀前半のヘンリ8世ローマ教皇から離婚問題を異端とされ、英国国教会を作ったのは有名な事実だ。でも離婚した女性を嫁にもらうのはどうかという話だ。チャールズ皇太子妃も完全な王妃にはなれないと言われている。

乳母たちが兄のエドワードばかりかわいがって弟がストレスになった話は興味深い。いろんな状況が重なって吃音になってしまったことが語られる。即位当時は世界の4分の1は大英帝国が支配していたとされる時期だ。その栄光ある英国史の裏側にあるいくつかの事実がおもしろい。


ネタばれスレスレであるが、最後のスピーチで気になったことが2つある。
まずはバックの音楽にベートーベンの交響曲7番を選んだことだ。ドイツとの戦いに向けてのスピーチ場面のバックミュージックにこの曲を選んだのはどうしてだろうか?たしかに雰囲気にあっているのだが、自分には若干奇妙に感じられた。

そして、国民に向けてのスピーチの最後に「WE SHALL PREVAIL」と述べて終える。訳は「我々は勝利する」と示される。うーんとうなった。prevailという単語は学生時代から「流行する」という意味でおぼえてきた。一瞬あれと思ったけれど、辞書を引くと確かに勝利すると書いてある。shallを使うのはなんとなく高尚な感じがする。prevailというのも一歩上の感じがする。格調高いスピーチに使われる英単語というのは違うんだなと感じた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アウェイク

2011-10-26 07:01:34 | 映画(洋画 2006年以降主演男性)
映画「アウェイク」は若きリッチマンが全身麻酔による手術を受けるときに陰謀に巻き込まれるサスペンスだ。若手ハンサム俳優ヘイデン・クリステンセンにジェシカ・アルバが絡む。脇を固めるのは黒人人気俳優のテレンスハワードと蜘蛛女の怪演で知られるレナオリンだ。


ニューヨークに住む 主人公である若き経営者ことヘイデン・クリステンセンは父親から莫大な遺産を継いでいた。彼は心臓に難病を抱えていた。彼は秘書ことジェシカ・アルバと交際をしていた。身分違いの恋であったのでそれを母親ことレナ・オリンには言い出せないでいた。ジェシカからは結婚を懇願されるという板挟みの状態だった。その上、心臓疾患はすぐにも移植手術が必要であった。
主人公は釣り友達の心臓専門医ことテレンス・ハワードを信頼していた。恋の悩みも打ち明けていた。主人公は背中を押され、母の反対を押し切り、二人だけで結婚式を挙げる。奇しくもその夜、ドナーが見つかったとテレンスから連絡が入る。主人公がジェシカに付き添われ病院へ行くと、母が心臓医療の権威を連れていた。医療ミス疑惑でいくつかの訴訟を抱えているテレンスに、一人息子の手術を任せられないと母は訴える。息子はテレンスの腕に委ねると言い張る。手術が始まる。全身麻酔が施され、感覚は鈍っていく。なぜか意識だけは覚めたままだったが。。。。


全身麻酔の手術をした時、麻酔と同時に夢の中に入っていく夢をみるような気分になった気がする。現実から離れるので、記憶は一切消えるし、痛みもない。
今回の主人公は意識が残っていた。手術をする医師が何を言っているのかわかるのである。そこで陰謀が語られている。驚く主人公だ。でも今一歩だなあ。見せ場もなく残念
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パーマネント野ばら  菅野美穂

2011-10-25 05:30:45 | 映画(日本 2000年以降主演女性)
パーマネント野ばらは西原理恵子の漫画の映画化である。海辺に面した高知の田舎を舞台にした人間ドラマだ。離婚の末に一人娘を連れて故郷に出戻った娘と母の2人で営む海辺の町の美容室「パーマネント野ばら」に集まる女性たちを見ているだけで楽しい。


海辺の町にある美容室“パーマネント野ばら”は、離婚して一人娘を連れて出戻った主人公こと菅野美穂と、その母こと夏木マリが切り盛りしている。パンチパーマをかけたおばさんたちの憩いの場所だ。母の夫こと宇崎竜童は、他の女の家に入り浸っている。家に戻ってくるよう言っても帰らない。主人公の友人こと小池栄子は、フィリピンパブを経営している。その夫は店の女の子と浮気ばかりしている。それなのに金の無心ばかりしている。主人公の別の友人こと池脇千鶴は、ギャンブルに溺れたあげく行方不明となった夫の身を案じる日々を過ごしている。そして菅野美穂は高校の理科の教師こと江口洋介と恋に落ちているということであるが。。。。

都会から離れた田舎の港町では、こういう話がいつも繰り広げられているんだろうなあ。そんな感じだ。
それぞれの俳優が個性を発揮して自分らしさを見せている。女たちの夫たちはどれもこれもぐうたらばかりだ。それでも離れられない。女に稼ぎがないとどうにもならない。一生懸命頑張っている。
特におもしろかったのは飲み屋のママ小池栄子のふるまい。自分の男が店の女に手をつけるのはいつものことと理解はしているんだろうが、強烈なやきもちをやく。笑える。彼女の出ている映画にはずれがない。いい俳優さんになった。


高知県宿毛市小筑紫町栄喜というところが舞台だと知った。なんせ自分にとっては数少ない行ったことない都道府県の一つである。地図を見た。高知市よりかなりはなれているではないか。海を渡れば九州だ。でも素敵な海辺の町だと感じた。地形がいい。海岸線の美しさは絶品だ。そこに素朴な人たちが生きている。

高知出身の西原がつくる作品なので、うまい具合にロケ地が設定されたのであろう。こういう場所を知るだけでも良かった。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

グーグーだって猫である  小泉今日子

2011-10-22 05:48:00 | 映画(日本 2000年以降主演女性)
「グーグーだって猫である」は漫画家大島弓子の自伝的作品で主人公の漫画家を小泉今日子が演じる。人気監督犬童一心の作品だ。空間庭園でいい味を出していた小泉今日子が猫好きの個性的主人公に扮する。漫画のアシスタントをはじめとして、脇役が上手に独特の雰囲気を出し、吉祥寺付近の風景とうまく溶け込んでできた映画だ。


映画は漫画家のアシスタントこと上野樹理の一人称で語られる。
主人公である天才漫画家の小島麻子こと小泉今日子は吉祥寺に住んでいる。彼女が長年連れ添った愛猫のサバが亡くなる。サバを失った悲しみは大きく、小泉は漫画を描けなくなってしまう。そんな彼女を心配するアシスタントたち。ある日、小泉はペットショップで一匹の小さな猫と出会う。彼女はその猫を連れ帰り、グーグーと名づける。猫はアシスタント達にも可愛がられ、主人公に元気な表情が戻ってくる。そんなある日、グーグーが逃げ出してしまう。必死で探す小泉の前にグーグーを連れて現れたのは一人の青年こと加瀬亮である。ちゃんと管理しなさいと叱られたが、加瀬の姿に思わず見とれてしまう。
後日、アシスタント上野樹理の彼氏のライブにアシスタント達と出かけた小泉は、そこで加瀬と再会。ライブ後の打ち上げで、気を利かせた上野は小泉と加瀬を二人きりにする。二人は徐々に距離を縮めていくのであるが。。。。

ものすごくよかったという映画ではない。でも後味は悪くなかった。やさしかった。
吉祥寺はあまり縁がない。荻窪で働いたことはあるが、その先はめったに行かなかった。でも基本的遊びスポットは知っている。井の頭公園や商店街の中をロケ地としながら、映画はやさしいムードで進んでいく。赤白の外壁で訴訟問題になった地元の楳図かずおがチョイ役で出るのが御愛嬌、あの訴訟はひどい話だが、吉祥寺はまあそういううるさい街ということだ。小泉がもつ独特のムードが映画を支配する。


アシスタント役の4人がいい。お笑い系の匂いがして心がなごむ。上野樹理の彼氏が女子高生と浮気をして、それを追いかけるシーンや病院でのお見舞いシーンは他の映画にないいい感じであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

セルピコ アルパチーノ

2011-10-21 21:23:43 | 映画(洋画 89年以前)
セルピコは「ゴッドファーザー」の後まもないアルパチーノの初期の作品だ。アメリカ警察の腐敗を描いた作品は多い。この映画はニューヨーク市警の腐敗に立ち向かう一人の警察官の物語だ。
彼の後ろに映る911テロで襲撃を受けたワールドトレードセンターがまだ新しい。

映画はニューヨーク市警の警官フランク・セルピコことアル・パチーノが重傷を負って病院に担ぎこまれるシーンからスタートする。その話を聞いた上司は、「彼を狙おうとする同僚は自分の知っている限りで6人はいる。」とのたまう。映像はセルピコの新入り時代にもどる。
11年前、セルピコは警察学校を卒業した。セルピコには日常茶飯事として行なわれていた同僚たちの収賄が耐えがたいものに感じられた。ある日、セルピコは何者かにワイロの分け前を渡された。ブレアに相談し、調査部長に報告したが、部長はただ忘れてしまえと忠告するだけだった。そんな中セルピコは潔癖さをまわりに煙たがれるが。。。。

ゴッドファーザーで人気俳優となったアルパチーノの声は今のようなかすれ声ではない。声が若々しい。若き日のアルパチーノの良さがにじみ出ている。ゴッドファーザーではマフィアの坊ちゃんから若いボスに転換するひ弱さも感じさせるが、ここでは大暴れである。若気の至りというべきか、激しい動きは見ていて気分がいい。銃撃戦で有名な映画「ヒート」あたりと比較してみるといいかもしれない。
それにしても、アメリカ映画には警官の腐敗が主たるネタの作品が多い。ロス市警が多い気がする。ニューヨーク市警はめずらしいのではないか。でも、これは実話にもとづいているといわれているので、実際にはニューヨークにもかなりのやばい話があったのであろう。

こういう映画をまとめるとシドニールメット監督は実にうまい。「狼たちの午後」「ネットワーク」というヒット作を生み出しているこの時期は彼にとっても全盛の時期だ。アルパチーノを狂犬のように走りまわさせる。裏の世界をじっくり描き出す社会派監督のうまさが光る。70年代前半のニューヨークの猥雑な姿がいかにもやばい。悪の住処の色彩を強くにじみだす。
映像は若干古目であるが、アルパチーノのパワーは一見の価値があろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

洋菓子屋コアンドル  蒼井優

2011-10-15 12:50:10 | 映画(日本 2011年以降主演男性)
洋菓子屋コアンドルは田舎から上京した新米パティシエの奮闘記である。主演は蒼井優で鹿児島弁を使ってわざと田舎者の感じを出している。脇を固めるのは戸田恵子、江口洋介の芸達者でストーリー展開は普通だが、本質的な愛情のようなものが根底に流れているので、後味は悪くない。


東京の洋菓子店“パティスリー・コアンドル”に、大きな荷物を持った鹿児島弁丸出しの娘こと蒼井優が、パティシエ修行中のはずの恋人を探して店を訪ねてくる。だが彼は既にコアンドルを辞めていた。
店にはオーナーでシェフパティシエこと戸田恵子と夫ジュリアン、そして女性助手こと江口のりこが働いていた。そこにスイーツの評論家こと江口洋介がよく訪ねて試食にきていた。彼はもともと天才パティシエだったという。
行くあてもない蒼井は途方に暮れた末、戸田に店で働かせて欲しいと頼み込む。自らをケーキ屋の娘であると売り込み、得意のケーキを作ってアピールするが、店に出せる代物ではない。それでもなんとか見習いとして雇ってもらうこととなり、泊り込みで働き始める。
働き始めていたが失敗ばかり毎日で先輩助手の江口のりこから叱られっぱなしだ。そんな中、蒼井は探していた恋人が現在勤める店を知る。やっと会えた恋人に鹿児島へ一緒に帰ろうと説得するが、彼は東京で修行を続けると言う。しかも、そこに新しい彼女が現れたが。。。。


温かみのあるような印象を受けてこのDVDを手に取った。おいしそうなケーキの画像を見てみたい気もしていた。その印象ははずれではなかった。
昭和30年代から40年代にかけて集団就職の全盛の時は、地方から上京して職について修行するという設定は映画でよくある設定だった。今は地方から上京する学生という設定はあるかもしれないが、昔のようなパターンは少なくなった。比較的最近の映画「三丁目の夕日」はあくまで昭和30年代前半の設定だ。そういう素朴な女の子を演じるには蒼井優は適役だったかもしれない。

この映画での蒼井優はおっとりしたというよりも、田舎のおてんば娘である。気も短いし、自分勝手だ。そんな女の子だけれど、応援してあげたいと思う気を起させる。そういう年に自分がなったからであろうか?同時に先輩パティシエである江口のりこの存在がこの映画の中でいいスパイスとなっている。職人を思わせる身のこなしで無口だ。言葉を発するときつい。一重まぶたの目もきつい。でも気になる存在だ。腕を競い合う2人は心が親しく交わることはない。鋭角に交わる。でも本質的なやさしさやふれあいがどこかに見える気がした。
戸田恵子は貫禄が出てきた。加賀まりこや80を超えるベテラン鈴木瑞穂、佐々木すみ江の使い方がうまい。彼自身は悪くないけれど、江口洋介の過去の見せ方がちょっとくさいなあと思う以外はうまくまとまっていると思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛する人  ナオミワッツ

2011-10-15 08:01:12 | 映画(洋画:2006年以降主演女性)
「愛する人」は恋愛オムニバス映画である。アネットベニング、ナオミワッツと2人の自分の好きな女優の共演となれば見るしかない。「Mother & Child」という原題が示すごとく、劇中には多くの母と娘が登場する。若くして生んだ娘を手放した事を悔やんで生きる母親。その母に捨てられ、立派なキャリアを積みながらも醒めた目で生きていく娘。子どもが欲しいと願い、なんとかして養子をもらい受けようとする女性。ロドリゴ・ガルシア監督は、3人の女性がさまよう情景を映し出す。


3つのストーリーが同時に流れる。
アネット・ベニングは介護の仕事をしながら年老いた母と暮らしていた。37年前、14歳の時同級の恋人と交わりその子供を身籠る。まだ若すぎて赤ちゃんを手放さざるをえなかった。それもあってか気難しく女性に育っていた。人と素直に接することができないでいた。今の職場の同僚にはそんな彼女を理解してくれる人がいるが。。。。
母親の愛情を知らずに育った娘ことナオミ・ワッツは弁護士となった。人もうらやむ輝かしいキャリアをつんでいったが、一つの事務所にはおさまらない。新しい法律事務所では上司こと黒人弁護士のサミュエル・L・ジャクソンと親しくなった。そして誘惑する。また、隣の家に住む新婚夫婦の夫をナオミは誘惑する。しばらくたち、生理が来ないことにナオミは気づく。どうやら妊娠してしまったようだ。どちらの子かはわからないが。。。。
黒人女性ことケリー・ワシントンは、愛する夫と家庭を築きながらも、子供を産めない体であるため、養子縁組を決意。教会に登録し、ある妊婦と巡り会う。不意の妊娠で生まれてくる子供を養子に出そうとしていた女性だった。きついことをその女性から言われながらも、養子にもらおうとするのであるが。。。

この母娘の気持ちはよくわかる気がする。こころの中にわずかな隙間を作りながら生きていくのは何か辛いものである。後半戦に入り、鋭角的肌合いから少しづつ色彩を穏やかにしている。母娘それぞれの持つ本質的な愛情のようなものを見せられて、心が洗われるような気もした。

相変わらずナオミワッツがなまめかしい。かわいい顔をして大胆なことをする役はお似合いだ。マルホランドドライブからすでに10年はたつが、全く衰えは感じない。ここでもバストトップを見せる。女優魂に磨きがかかっている印象だ。逆にアネットベニングの衰えが目立つ。映画が始まり、気難しい女性を演じる。なんか嫌味な感じだ。個人的には「アメリカンビューティ」での普通の主婦役が一番似合う気がする。

それでもアネット・ベニングとナオミ・ワッツが、映画が進展するに従って、顔つきや表情まで変化していく。演技は素晴らしいと感じた。さすが当代アメリカ女優のトップクラスに君臨するわけだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アンノウン  リーアムニーソン

2011-10-13 06:01:50 | 映画(洋画 2010年以降主演男性)
「アンノウン」はリーアムニーソン主演のサスペンスアクション映画だ。大好きなダイアンクルーガーも出演している。ジャウム・コレット=セラ監督はその恐ろしさにたじろいでしまった「エスター」をつくった。これは見るしかない。現代ベルリンが舞台で、街の中を縦横無尽に出演者を動かす。見るものを幻惑させるストーリー作りが巧妙でなかなか良くできた映画だ。


生物学者である主人公マーティン・ハリス博士ことリーアム・ニーソンは、学会に出席するために、妻ことジャニュアリー・ジョーンズとベルリンへ到着した。ホテルに着いたところで忘れ物に気付いたリーアムは、タクシードライバーことダイアンクルーガーが運転するタクシーで空港へと引き返す。途中で交通事故に遭遇してしまい、タクシーは川の中に転落する。とっさの判断でダイアンはリーアムを川の中から救出する。気がつくと病院のベッドの上だった。自分が誰かもわからない。
TVニュースで学会のニュースをやっていて、自分の存在を思い出す。急いで学会の行われるホテルへ向かい、妻の姿を見つけた。しかし、妻は自分を知らないと言う。そればかりか、自分の名を名乗る見ず知らずの男が彼女のそばにいた。自分を名乗る男は、パスポートはもちろん、妻との新婚旅行の写真まで持っていた。自らの正気を疑い始めるリーアムだが、何者かに命を狙われた。病院であやうく殺されそうになる。真実を探ろうとして、リーアムはタクシー運転手ことダイアン・クルーガーのゆくえを探しに向かい、事故にあった時の状況を聞きだそうとする。ダイアンは拒否するが、不法入国でベルリンにいる彼女に金目の物を渡して、状況を聞きだす。しかし、その二人の元をまた誰かが襲撃してくるのであるが。。。。


エスター同様、ジャウム・コレット=セラ監督は観客をだますのがうまい。しかも、次から次へとリーアムニーソンは波状攻撃にあう。カーアクションもなかなか鋭くベンツをはじめとしたドイツ車を次から次へとむちゃくちゃにする。それにしてもかなりやばいアクションだ。ベルリンはいったことがないが、今まで映像で見たことがある有名な場所を次から次へと映す。そして市内のあちらこちらをここぞとばかりにむちゃくちゃにする。ドイツは意外にも映画づくりに寛容だ。激しい映像にはどっきりした。


「96時間」もそうだったが、リーアムニーソンは50をすぎてアクションに目覚めた印象がある。彼をみると「シンドラーのリスト」を連想するのでドイツが舞台でも不自然さがない。
ダイアンクルーガーはいつもながら美しいが、素敵な衣装に身を包んでいるわけでなく、不法入国でドイツに入国した女性をうまく演じる。そういえば「すべては彼女のために」ではフランス語を流暢に話していたが、そもそもはドイツ人である。美しいばかりでなく語学力も堪能である。
衣装もあでやかだったのがジャニュアリー・ジョーンズだ。リーアムに対して知らないといいきる妻役だ。パーティドレスの着こなしは素敵だ。2人の美女に囲まれ、リーアムニーソンは楽しかったろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヒア・アフター  クリントイーストウッド

2011-10-12 17:09:27 | クリントイーストウッド
クリントイーストウッドの新作である。劇場で見ようとしていたが、東日本大震災の影響で急きょ上映中止となり見ることができなかった。その後名画座等でもやっていないようだったので、DVD化を待った。上映開始10分程度であるが、津波の描写がある。これはこれでよくできた表現であるが、現実としての津波映像を何度も何度もテレビなどで見せつけれたので、さすがに地震直後の状況では上映中断はやむを得なかったのかもしれない。


パリ、サンフランシスコ、ロンドンの3か所で繰り広げられるストーリーが並行して進んでいく。
パリで活躍するジャーナリストことセシル・ドゥ・フランスは、恋人と一緒に休暇で訪れていた東南アジアのリゾート地で、津波に遭遇する。波に飲まれて生死の境を彷徨ったものの、何とか一命を取り留める。しかし、帰国した後も、呼吸が停止した時に見た臨死体験を忘れることができず、TVキャスターの仕事がちぐはぐになってしまう。。。。
サンフランシスコでは、かつて霊能者として活躍したマット・デイモンが工場で働いていた。今でも彼のところには死者との出会いを求めて依頼者が絶えない。しかし、疲れ切った彼は引き受けようとしない。人生を変えようと通い始めた料理教室で知り合った女性に好意を寄せる。彼女の手を握るとそこには不思議な世界が見えてしまう。彼女はそれは何かと彼に問いただすのであるが。。。
ロンドン。ヘロイン中毒の母親が双子の少年と住んでいる。児童相談所にマークされている家庭である。双子の弟は、突然の交通事故で兄を亡くす。弟は母と別れ、里親に預けられたが、どうしてもなじめない。もう一度兄と話したいといろんな霊能者を訪ね歩くがいづれも胡散臭い。そんな時、ネットで霊媒者マットデイモンのHPを見つけるのであるが。。。。
3人の人生が交錯し、そして静かに接近していく。


スピルバーグが制作にかかわっているせいか、死後の世界の話となるが、いつものイーストウッド映画とは違うイメージを持つ。しかし、映画を流れる基調は今までとは変わらない。いつも通り音楽は静かに流れ、上品だ。ラフマニノフのピアノ協奏曲2番の2楽章を思わせるピアノの響きがいい。でも正直他のイーストウッド作品ほど感動することはなかった。
マットデイモンの役は東北の恐山の霊媒者のような存在である。こどもの時に病気になり、霊媒者の能力を持った。こんな人っているかもしれない。自分は霊媒者だと周囲にいいまわって、金を稼ごうとする人は多いが、この映画のマットデイモンは積極的にはやりたがらない。我々が知らない人で、爪を隠す鷹のごとく本当にこういう能力を持った人はいるかもしれない。
臨死体験というと、全身麻酔で手術をしたときのことを思い出す。夢の中に入っていく夢を見ながら、手術中たくさんの夢を見た。不思議な体験だった。麻酔から覚めしばらくたった時、激痛が走って大変だったが、麻酔中は何かが聞えている気もしたが穏やかだった。死に直面しさまよう女性のシーンを見ながらて自分の体験を思い起こした。死ぬときはぎりぎりのところでさまよいながら無になっていくのであろうか?母が死ぬ間際我々の声は聞こえていたのであろうか?
イーストウッドも80をすぎ、当然自分の死が近づいていると感じているのであろう。だから今までと違う異色の映画ができたのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

韃靼の馬2

2011-10-10 09:15:16 | 
ブログにコメントして何かいい残しているなあと思った。
朝鮮通信使と対馬の話を書いているけど、肝心な韃靼の馬について触れていない。

韃靼の言葉の定義は難しい。モンゴルから中央アジアにかけてのことを指すといったらよいのであろうか?日本では朝鮮から中国を北に向かった方のエリアを総称していたらしい。もともと中国で韃靼という言葉をモンゴル方面で使っていた時期もあるが、今は蒙古に戻っているらしい。
いずれにしてもそのあたりらしい。

でも鎖国の日本人が何でそんなところまで行くの?というわけである。
前のコラムで新井白石の話を書いた。綱吉以降若い将軍が政治の中心を占めていたが、紀州より吉宗が来て将軍職に就くことになった。前任の否定というのは今の世の中も昔も変わらない。
新井白石は追放される。同時に将軍徳川吉宗が強い色を出す。これはいろんな時代劇で見られる話である。江戸幕府が出来て100年、武士が武士らしくなくなっている気運に吉宗が疑問を持っていたわけである。鷹狩りも復活させた。中国の王朝が周辺の騎馬民族に攻められて苦慮していたのは歴史が証明している。特に劉邦が天下統一した漢王朝において、騎馬民族匈奴にいきなりコテンパンにやられた。それをしばらくたって武帝が馬には馬をとばかりに復讐するのである。そして中央アジアから天馬というべき堂々とした馬を連れてくるという話が語られる。
中国史を学んだ吉宗はその天馬を幕府に連れて来いと対馬藩に命令を出す。そんなことできるかい?ということだが、またまた朝鮮にいる主人公阿比留克人に命が下されるわけである。
馬が欲しいのは江戸幕府だけではない。朝鮮馬というのは比較的貧弱だ。大陸でも堂々とした馬が求められているのである。高く取引される。昔も今の商社のような存在がいたが、金を出せばうまくいくというわけではない。馬によって国の命運が左右されるのだ。天馬はそう簡単に異邦人に提供されるものではない。

この第2部はその話だ。
そんなに単純にはいかない。第1部の朝鮮通信使の来日で様々なトラブルが起きている。その中でいろんな人物が死んで、死んでいるようで死んでいず生き延びている人物もいる。今の世の中であれば、すべてがわかってしまうが、当時は形を変えて生きていくということが可能であったかもしれない。この例をあげるのには少々ためらうが、北朝鮮に拉致された人たちが朝鮮語の教育を受け、向こうの国で堂々と生きてきた事実もある。主人公やその他の人物存在自体と拉致されてきた人たちの生きざまの世界を作者がオーバーラップさせた可能性もあるかもしれない。

そんな無理難題を受け主人公は走る。仲間が加わる。旅の途中で予想もしないことが次々と起こる。ロシア、すでに清となった中国そして中央アジアの騎馬民族の民族が入り乱れた中ストーリーが展開される。ネルチンスク条約、キャフタ条約、ジョーンモドの戦いなんて実在の世界史にも強くかかわる。
ロシアのピョートル一世、清の康熙帝といえば名君として名高い。言葉も違う両国が17世紀後半広大な中央アジアを舞台に交渉して国境条約を結ぶということに妙に関心を昔から持っていた。西欧史と異なる響きがしてなんか素敵な匂いがする。もちろん現場は荒れ狂う連中たちの先陣争いがあったとは思うけど。
これらの歴史の事実とフィクションとの交錯で、登場人物たちのふるまいにリアリティを感じさせる。

映画化を望むといったが、この作品は大河ドラマ向きかもしれない。映像にしたらどんなに素晴らしいと思うシーンが実に多い。朝鮮通信使が日本を縦断する様子もあでやかに映るだろう。大坂のお堀の上を朝鮮の衣装で船を走らせる映像コンテなんてなんて美しいのであろう。中央アジアの壮大さも見モノだ。
そういう日が実現することを祈りたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

韃靼の馬

2011-10-06 19:12:48 | 
辻原登「韃靼の馬」は今年初めまで日経新聞朝刊に連載されていた新聞小説である。
日経新聞の歴史小説の連載を読むのはあんまり得意ではない。しかも異国の話でちょっと違うのかなと「私の履歴書」から裏面下の部分に一瞥もなく通り過ぎることが多かった。

ところが、ある日目を向けると日本の光景の描写がある。あれ?と思うと、江戸時代の大坂が表現されているではないか?大淀の河口九条に浮かぶ大量の朝鮮船の話に一瞬驚いた。鎖国の日本しかも大坂になんで朝鮮人がいるの?しかも大坂の街を堂々と闊歩するではないか!

そうか朝鮮通信使の話かと思い浮かんだ。歴史教科書で朝鮮通信使の存在をしっていても、どういうものかは知識がない。ときおり新聞の連載部分に目を留めるようになった。
スケールの大きな話である。実際の江戸将軍、新井白石など実在の人物が出てくるのに加えて、朝鮮語に堪能な対馬の武士である主人公阿比留克人がものすごい存在感を示す。ライバルの朝鮮人柳の存在も凄味がある。
今回改めて一冊の本としてのこの本をじっくりと読んだ。すばらしい!

秀吉の朝鮮遠征で、日本軍は朝鮮本土をめちゃくちゃにした。明軍の参戦や秀吉の病気で日本軍は引き揚げたが、朝鮮との関係は最悪であった。そのころ、朝鮮との間に浮かぶ対馬はむしろ日本本土よりも朝鮮に近いこともあり、両国の通商のかなめになっていた。日本から売買代価が銀貨で支払われ、朝鮮からは薬用朝鮮人参が運ばれる。中国には朝鮮から銀貨からつくられた銀が輸出される。朝鮮にとっても重要な銀の存在である。
時は1711年、対馬藩から釜山には大使館というべき倭館がつくられて、主人公阿比留克人が派遣されていた。朝鮮通信使は17世紀初めから交流があったが、30年以上交流が途絶えていた。それが復活して再度朝鮮通信使一行が大挙江戸に向かうことになった。しかし、朝鮮から日本への文書に将軍のことを「大君」から「国王」とするように交渉するよう対馬藩へと命令が出た。朝鮮語に堪能で、対馬独特の和語もできる文武両道に優れる阿比留克人に朝鮮側と交渉する重要な任務が出される。阿比留克人はほとんどの人が知らない「銀の道」という道をソウルまで馬でかけていく。しかし、隠密の任務で行く途中に、日本でいえば警察にあたる監察御史とすれ違うのであったが。。。。

600ページを超す大著である。対馬についての予備知識がなく、改めて地図をみた。日本よりも韓国に近い。これだけ近いのであれば、お互いに交流がされていたのはよくわかる。昔の外国の交流にあたっては言葉についてどういう様にかわされていたのかと思うものであるが、朝鮮語に堪能な人間がいたとしてもおかしくはない。それと同時に人種が入り乱れていたとしても不思議ではない。
何かと韓国との間には恨みつらみのようなものが混在しているようだが、こういう小説を読むともっとお互いに近い存在だったのではと思うしかない。あの民俗学者宮本常一は対馬に行き、600年以上昔からの古文書が各集落に多数残されていることに驚かされたという。戦後間もなくまで日本の中世がそのまま残っていたのだ。今の韓国の「対馬を返せ」議論の貧弱さには笑うしかない。対馬に一度行ってみたい。

登場人物が多彩でみな魅力的である。そこに新井白石などの実在の人物をからめてくる。フィクションでありながら、実在の風景、人物の存在がリアルなものに感じさせ、読む自分のこころをとらえる。大航海時代に突入したあとの東西交流と有史以来続く日朝貿易の経済的な交流のとらえ方が実にうまく書かれていてある意味経済小説にも読めてしまうところにより一層凄味を感じる。
映画化を希望するが、難しいだろうなあ。でも実現したらどんなに素晴らしいことかと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする