映画とライフデザイン

大好きな映画の感想、おいしい食べ物、本の話、素敵な街で感じたことなどつれづれなるままに歩きます。

映画「命をつなぐバイオリン」

2013-10-30 18:09:23 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「命をつなぐバイオリン」は今年公開のドイツ映画だ。

原題を日本語にすると「神童」である。
第二次大戦初期のソビエト連邦の一部だったウクライナを舞台に、音楽の才能に優れた少年少女と敵国であるドイツ人の女の子との友情を描く。子役の選択が巧みで、実力のあるバイオリンの腕を見せてくれている。


1941年春、ソ連の支配下にあったウクライナが舞台だ。
2人のユダヤ人の子供、アブラーシャという少年はバイオリンで、ラリッサという少女はピアノで、人々を魅了していた。彼らは神童(Wunderkinder)と呼ばれていた。スターリンやソ連の幹部の前で演奏したこともあった。ユダヤ人の音楽教師であるイリーナの指導のもと、アメリカのカーネギー・ホールへのツアーも決定していた。

そんな二人が遊んでいるとドイツ人の少女ハンナが一緒に遊んでくれないかと話しかけてきた。そんなハンナに対して2人は警戒して無視をしていた。そんな時、裕福なハンナの父親がアブラーシャの父親に一緒にレッスンを受けさせることをお願いする。そこには金銭も絡み最初は嫌がるが、「友達になりたかった」というハンナの性格もよく、アブラーシャとラリッサも次第にとけこんでいく。2人が作っている「友情の曲」の譜面をハンナが見て引き込まれる。
しかし、ドイツ軍がソ連に戦争を仕掛けてきた。ドイツ人は一夜にして敵となる。ハンナとその家族は身を隠さなければならなくなった。彼らを救ったのは、アブラーシャとラリッサのユダヤ人家族だった。そして、ドイツ軍がウクライナを占領する。立場が全く逆転して、ドイツ軍将校にハンナの家族が保護される。敵国の将校の前で演奏する機会もでてきた。

そして、ナチスのユダヤ人への迫害が始まった。ユダヤ人2人の祖父母が、強制収容所に送られていく。そして音楽教師イリ―ナも50歳以上ということでドイツ軍から強制招集がかかるのであるが。。。

独ソ戦をとりまく情勢は、世界史の中でも重要な出来事である。
ヒトラーもスターリンもある意味同じような人物だ。ファシズム=全体主義=共産主義だ。ユダヤ人の迫害はドイツの方が極端だが、スターリン主導の粛清はそれに匹敵する。1939年8月両者は独ソ不可侵条約を結び、世界をアッと言わせる。そして翌月ポーランド侵攻で第二次大戦がはじまる。ポーランドはドイツとソビエト両方からの挟み撃ちである。むしろソビエトのポーランド支配の方がえげつなかったというのは映画「エニグマ」でも随分と語られている。ソビエトはフィンランドやバルト三国を占領し、国際連盟を追放されるのだ。

ヒトラーとスターリンの2人似た者同士でお互いのことを信頼していない。ヒトラーは1941年独ソ戦に踏み切るのだ。これ自体がヒトラーの誤りの始まりかもしれない。これには日本の天皇陛下もヤバイと思ったようだ。むしろアフリカの方に目を向けないと「ナポレオン」の二の舞になると、ヒトラーに伝言してくれと東條英機に言ったが全く通じなかった。この映画では、そのナチス占領でウクライナにも大勢いるユダヤ人が迫害を受けるという構図だ。

ユダヤ人迫害の映画は悲劇がほとんどだ。子供を描いたものでは「縞模様のパジャマの少年」がある。結果は別の意味の悲劇ともいえるが、どれもこれも後味はよくない。この映画も同様だ。

でもここでは音楽の素養がある少年少女を起用して、音楽での見せ場を作っているのが若干違うところだろう。
それと、この映画の映像コンテが実に美しい。アングルがよく練られている撮影のうまさが光る。そういう映画としての美しさがあるので映画のレベルが高くなっている。
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映画「グランドイリュージョン」 ジェシー・アイゼンバーグ

2013-10-27 20:39:22 | 映画(洋画 2013年以降主演男性)
映画「グランドイリュージョン」を劇場で見た。


これは想像以上におもしろかった。
出足からぶっ飛ばす。最初4人のマジシャンの腕を披露する場面でまずひきつけられる。その後、マジックショーでアッと驚いた。マジックが絡む映画って割と楽しい。ここではスケール感があり、大金をかっさらう。映像に躍動感があり、カメラワークもドキドキさせる。アクション映画の色彩も強く、逃走シーンやカーチェイスなど絶対日本ではつくれない見事なものだ。
かなり大満足であった。

ラスベガスで新たな伝説が生み出された。“ザ・フォー・ホースメン”と名乗る4人組のスーパーイリュージョニスト・チームが、巨大ホールを埋め尽くした大観衆の前で「今夜、銀行を襲います!」と高らかに宣言し、前代未聞のマジックに挑んだのだ。


客席からひとりのフランス人男性を無作為に選んだ4人は、ステージの装置に彼を乗せ、パリのクレディ・リパブリカン銀行の金庫室へのテレポートを実行。その驚くべき一部始終は、男性のヘッドギアに装着されたカメラを通して会場のモニターにリアルタイム中継されていた。さらに4人は金庫に保管されていた320万ユーロ紙幣を消失させ、会場に“札束の吹雪”を舞わせる完璧なフィナーレを達成。こうしてラスベガスにいながら遠く離れたパリでの金庫破りに成功したホースメンは、一夜にしてその名を全米に轟かせた。

実際にパリの銀行から320万ユーロが消失したため、FBI当局はホテルに滞在中のホースメンの身柄を拘束し、特別捜査官ディラン(マーク・ラファロ)に捜査の指揮を命じる。その相棒としてインターポールのフランス人捜査官アルマ(メラニー・ロラン)をあてがわれたディランは露骨に彼女を煙たがり、ケチな手品師どものトリックを暴く気満々で取り調べを開始。ところがホースメンは、ディランの想像をはるかに超えた手強い相手だった。4人の釈放を余儀なくされたディランとアルマは、マジックの種明かしを生業にしているサディアス(モーガン・フリーマン)に助言を求める。(作品情報より)

豪華メンバーである。
まずは4人組のリーダーであるジェシー・アイゼンバーグ「ソーシャルネットワーク」マークザッカーバーグ役を思わせるごとくに早口でしゃべりまくる。映画のテンポにピッタリだ。

彼がいきなりカード手品をする。カードをサーと見せて、「一つのカードを思い浮かべて」という。自分もカードを見ていた。気になったカードがない。気がつくと高層ビルに「ダイヤの7」が映し出される。これって自分が思い浮かべたカードだ。ちょっとビックリだ。

催眠術の披露の後に、引田天功ばりの「水槽脱出マジック」アイラ・フィッシャーが演じる。


いきなり水の中に飛び込む。手には鎖が。。。懸命に脱出しようとするが、うまくいかない。助けを求めて、観客が水槽のガラスを壊そうとするが割れない。1分たつと、ピラニアが水槽にぶち込まれる。血に染まる水槽だ。。。。ところが、観客の中にアイラフィッシャーがいる。絶妙のマジックである。これを見てドキドキしてしまう。

そこからは次から次へと驚きの連続だ。
取り調べを受けていると、手錠がいつの間にか捜査官の手に映っているではないか。


しかも、そこに追跡アクションが次から次へと繰り広げられる。ニューオリンズの街中での雑踏の中の追跡劇が刺激的で、ニューヨークのチャイナタウンからクイーンズ橋へ繰り広げられるカーチェイスには末梢神経を激しく刺激される。それを映し出すカメラワークはアクション映画を知り尽くしている見事な映像だ。マジックの会場を俯瞰的に映し出すカメラもいい感じだ。観客をイリュージョンの渦に陥れる色彩設計も抜群だ。ラストにかけてのメリーゴーランドはヒッチコックの「見知らぬ乗客」を連想した。



この映画はマジックの種明かしをしてしまうのが親切である。
それを見ると同時にこのからくりを考えた脚本家と監督の腕に感嘆した。ルイ・レテリエ監督「トランスポーター」「ダニーザドッグ」と一連のリュックベッソン製作映画で鍛えられたのがよくわかる。ともに面白い映画だった。
これもまあ凄い映画である。
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韓国映画「容疑者X 天才数学者のアリバイ」

2013-10-26 22:40:28 | 映画(韓国映画)
映画「容疑者X 天才数学者のアリバイ」は東野圭吾の原作を韓国でリメイクした作品だ。

映画「容疑者Xの献身」は自分の好きな作品だ。
でも福山雅治演じる物理学者は本作品には出てこない。あくまで刑事が事件を追っていく。
日本版で堤真二が演じた数学者が、この映画では一層クローズアップされる。
実際このネクラ数学者のイメージには韓国人俳優のほうがあっている気がする。



団地に住む高校の数学教師ソッコ(リュ・スンボム)の隣の部屋には、女性が2人住んでいた。叔母ファソン(イ・ヨウォン)と姪の関係である。
叔母は弁当屋に勤めていて、教師はよく通っていた。
ある日数学教師が自宅に帰って、耳を潜めていると、隣から一方ならぬ物音が聞こえてきた。
女性の元夫が訪ねてきたのである。元夫はDVで2人はいい別れ方をしておらず、男に連絡先を教えていなかった。
それなのに無理やり部屋に押し入ってきた。元夫が暴力をふるうと、女性は抵抗、姪も加勢する。
そして女性はアイロンのコードで元夫を窒息死させた。2人は死体をどう処理しようかと途方に暮れていた。
その時、玄関のブザーが鳴る。来たのは隣の数学教師だった。
「何かお力になれることがあれば。。。」というのである。

海岸で正体不明の遺体が見つかった。指紋がすべて消されている死体だった。そのそばには、簡易宿の鍵が置いてあった。
警察が犯人探しに動いた。死体の身近で身分証明書が見つかってきた。男の身寄りから元妻の女性ファソンが被疑者のひとりとなった。
早速に刑事が女性の元を訪れた。「11月9日は何をしていたのですか?」
映画を見ていたと答えて、チケットの半券が証拠として提示された。

それでも、刑事が彼女を疑って、しつこく尋問調に聞き続けた。当日の映画館の防犯カメラには確かに女性と姪の映像が映っていた。
アリバイがあるのにも関わらず、動機の有無という観点から、元妻を怪しいと思い、刑事は追い続けていたのだ。
そんな刑事は隣の家に注目したところ、そこに住むのは刑事の元同級生だった。旧交を温めながら、会話を交わすうちに刑事は元同級生の発言が気になり始めていたが。。。。


東野作品で一番肝心な男が抜けている。
この映画を見ると、探偵「ガリレオ」たる福山雅治のカリスマぶりがより顕著な気がする。
「真夏の方程式」も面白かった。彼がいるだけで華がある。ここではそれがない。

韓国映画では、執念で追い続ける刑事というのがよく出てくる。これもその手法に近い。
ベースとなるストーリーを基本として、刑事を活躍させたり、数学者の心の葛藤をクローズアップさせる。
「天才数学者」なんて言葉も出てくるから、目新しい数学的論理があればと期待したがなかった。それが残念だ。むしろ数学者に「情」と「嫉妬心」を持たせる。悪くはないのであるが、やっぱり福山がいた方がいいなあ。
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映画「陽だまりの彼女」 松本潤&上野樹里

2013-10-23 20:12:59 | 映画(日本 2013年以降主演男性)
映画「陽だまりの彼女」を劇場で見た。

これは今年旧作含め185本見た中では一番泣けた。それもここ数年ダントツで。。
こんな展開はまったく予想外だった。

松本潤と上野樹里のポスターを見て、正直劇場で見る気分はまったくなかった。何気なくネットで追っていると、この作者の名前が越谷オサムということを知った。これってもしかして地名の「越谷」のことって思いながら、調べるとどうやらそのようだ。今勤務先の千葉まで電車で通う途中に越谷の街がある。以前のテリトリー内で関心のある土地だ。ふーんと思いながら、娘に聞いたらこの小説読んだと言っていた。「映画は今イチと聞いているけど」というが、気になる。そして見たら、純愛の物語だった。
後半ストーリーの肝があるが、それに向かう前半の純愛物語時点で泣けてきた。村上春樹の小説を思わせる学生時代からの腐れ縁話は好きだ。若者の目線と同じくらい思いっきり低くしながらみていると、ビーチボーイズの歌が何度も鳴り響く。美しい。恥ずかしながら泣けて泣けて仕方なかった。

主人公(松本潤)は鉄道広告の代理店に勤める若手社員だ。朝寝坊で会社に遅れたり、社会人としてはまだまだ未熟だ。そんな彼が会社の先輩とともに下着メーカーへのプレゼンに向かった。相手会社のスタッフと名刺交換を終えた時、ふと入室してきた一人の美しい女性(上野樹里)が目に入った。名刺交換をして名前を見て驚いた。中学時代の同級生だったのだ。

中学1年の時に転校してきた女の子だった。勉強はできないし、ふるまいのドンくささで他の女子生徒からバカにされていた。彼女がいじめられて、他の女子生徒からマーガリンを髪の毛に塗られているとき、とっさにかばったのが主人公だった。止めろというだけでなく、いじめている女子生徒の顔に主人公はマーガリンを塗りたくった。その後で、2人は仲良くなったが、中学3年生の時主人公は転校して、その後二人は会うことはなかったのだ。

その後、代理店の営業として、メーカーへの営業攻勢をしていたが、彼女の同僚には思いを寄せている先輩男性もいた。自分が入る余地はないと主人公は思っていた。そんな時、駅の大型看板にこれはと思う画像をプレゼンして気にいってもらった。しかし、肌の露出が著しい写真だったので、保守的な鉄道会社からは反発をもたれると上司である部長は反対した。がっかりした主人公だったが、街を歩くと肌が露出した写真の看板が目立つ。彼は都内を歩き回り、上司への説得材料となる写真を撮りまくった。夜通しやったせいか疲れ果てて公園のベンチで寝てしまった。その時、彼を起こしたのが彼女だった。事情を聞いて彼女も協力して、説得材料を集め、無事駅の看板として採用させた。そうして2人の距離は一気に近づいていった。
距離の近づいた2人は付き合うようになり、江の島をデートした。藤沢にある彼女の実家を主人公が寄ることになった。実家の両親は彼の来訪を歓迎したが、彼女には彼がそれまで知らない秘密が存在することを知らされたのであったが。。。

嵐の松本潤が主演だけに、2人の接触は「やさしいキス」に限られる。肉体的触れ合いはない。でもこれだけで上野樹里はかなりの嫉妬を一般女性から浴びせられるかもしれない。映画館内の女性比率は異様に高かった。普通に考えればそうだろう。でもこの映画は男向きかもしれない。なぜならこういう純愛は男の方が好きだからだ。

意地の悪い女にいじめられているのを自ら助けたあと、ずっと心の奥底に何かを感じていた女性と久々再会する。しかも、その彼女は格段に美しくなっている。男性からするとその話には興奮するしかない。同窓会で久しぶりにご対面というのは、その時点の年齢によってドラマが異なる。20代でなく、それが30代後半から40代での再会ということになると、大人になった女性と若干ナマ臭い雰囲気もある。それでも純愛のムードを残すものである。我々も同じようなことがあった。共学ならではの楽しみだ。こういう場面が好きなのはむしろ男性であろう。

しかも、今回テーマミュージックとして流れるのはビーチボーイズである。現役できいているのは60代以上であろう。でも、その下の年代でもこの歌は何度も耳にしていると思う。サーフミュージックは時代を経て繰り返し人気になっているからだ。

その流れを組んで最後のエンディングロールには山下達郎のテーマ曲が流れる。これが抜群にいい。
いつもは早くに席を立つ自分もなかなか席をたてなかった。

2人のデートで江ノ電に乗るシーンがある。しかも、軽いミステリー&ファンタジー仕立てのムードがあるこの映画で「江の島」それ自体が舞台になる。江の島を眺めるベイエリアでの映画シーンは古くは黒澤明監督「天国と地獄」を始めとして数多くあるが、江の島自体がクローズアップされるのは珍しい。自分が小さい頃、鎌倉から江ノ電で向かい「江の島」一つ手前の「腰越」に実家の別荘があった。海岸のすぐ近くだった。その時は映画にも出てくる江の島水族館によく行ったものだ。2人のデートを見ながら、脳裏にたくさんの思い出が浮かんできたのも感激した一つの理由かもしれない。

2人の純愛に進展があった時、時計を見たら1時間たったところだ。まだ時間があると思った矢先から、別の展開が始まる。伏線はいくつか打ってあったが、ファンタジー色が少しづつ見えてくる。それでも、CGを使った露骨なファンタジー映画にしていないのに好感が持てる。

俳優の演技もみんなよかった。ちょっと男前すぎるのでは?という評価をした人がいたが、松本潤は大健闘だ。嵐の中では長身の松本が普通ぽく見えるように、職場の先輩にあえて長身の男を起用したのもキャスティングの妙かもしれない。上野樹里も可愛いすぎる。終電時にいったん帰ると言って、電車からドアクローズ寸前に降りてきたシーンが強く印象に残る。あらゆる男性はこのシーンにすべてノックアウトだ。
何もかもうまくできていた気がする。

(参考作品)
陽だまりの彼女
涙なくして見れない純愛
コメント (3)
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映画「日本の夜と霧」 大島渚

2013-10-17 21:15:34 | 映画(日本 昭和35年~49年)
映画「日本の夜と霧」は1960年安保闘争直後に製作された大島渚監督作品だ。

先日大島渚監督の作品「青春残酷物語」を見た。その同じ年に松竹映画として製作された作品だ。
ところが、公開後4日で松竹は上映中止とする。大島渚監督は猛抗議したが、結局松竹を退社することになる。どんな映画なんだろうと思っていたが、まあクズたちがつまらない会話を繰り広げるひどい映画だ。60年安保にとらわれた学生たちを見て、こんな時代に学生生活をすごさなくて本当に良かったと実感させられる作品だ。
日本史の裏の一面を探るという意味では意義があるといってもいい。

ある集会所で、結婚式が始まっている。雛壇には新郎の野沢(渡辺文雄)と新婦(桑野みゆき)と媒酌人を務める大学教授(芥川比呂志)がいる。司会を務めるのは学生運動の元リーダーと思しき男とその妻(小山明子)だ。リーダーは共産党員らしい。
1950年代初頭に学生活動家だったと思しき面々が参列者に集まっている。宴が進む中、突然1人の全学連活動家(津川雅彦)が乱入してくる。彼は安保闘争で指名手配中の身だ。彼はその日もデモに参加してきたという。

安保反対デモのときは5万人集まっていたのに、今では500人しか集まっていないと不満そうな津川だ。そうしていくうちに、津川はここに集まっている元活動家の男女関係について暴露し始めるのだが。。。。

映画では共産主義思想に満ちあふれたような連中がしゃべりまくっているようだけど、中身はない。

以前戦後の知性を代表する加藤周一がこう言っていた。
「左翼政治理論というものは、しばしば、私たちの理解を絶していることがあります。耳慣れぬ抽象的な言葉がたくさん出てきて、どこへ続くかわからない。。。。。問題なのは、そういう論文を書いた筆者の知的能力である。。。。言葉の定義があきらかでなく、整理もつかず、つじつまも合わず、何を言っているのか誰にもわからないというのは筆者の頭の混乱を示している」
まさしくここに出てくるクズどものセリフはまさにその通りだ。安保反対の論陣を張った加藤周一がまわりのバカどもに呆れていったセリフだけど、60年代後半の学生運動のバカも同じようなレベルと言っていい。




何か高尚な話をしているようだけど、映画の主題は単なる不健全な男女関係のもつれである。
連合赤軍のような悲惨な事件にはなってはいないけど、大して変わらない。
フォークダンスなんかを劇中踊ってというのもいやなかんじだ。
ここで踊っているようなババアたちが今も共産党の署名活動なんかやっているのかなあ。
それにしても、普通の工員をスパイ容疑と言って学生寮に監禁する話が恐ろしい。

自分の大学時代には全くこういう雰囲気が学内になかった。
1度や2度学内で過激派と思しき野郎を見たことあるけど、それだけだ。
先日佐藤優「私のマルクス」を読んだ。彼は自分とほぼ同世代だけど、まったく違った高校大学時代を送っていたので驚いた。浦和高校ではアカ教師の影響を受け、同志社大学に入ったら学生運動家や思想家と付き合う。結局外務省に入る彼は若干違った方向に進んだが、自分からすると異常な学生生活だ。京都は東京とは違って共産党の強いところだからそんな感じになったのかなあ??大島渚も京大出身のアカかぶれだ。でも意外にアカ男ってもてるんだよなあ。

元学生運動家の役には、昭和40年代のテレビドラマによく映っていた面々がそろう。戸浦六宏や佐藤慶なんていうのは、名悪役といっていいだろう。現代劇だけでなく、悪代官の典型みたいな役が多かった。
渡辺文雄がどちらかというと、ナイスミドルの中年男性のイメージで、津川雅彦も同様のイメージ、ここではまだ若い。津川は石原裕次郎主演の「狂った果実」の青年役で痛烈な印象を残したが、ここでは軟派と真逆の左翼青年となる。
芥川比呂志がいかにも大学教授といった風貌だ。ぴったり合っている。それにしても驚くのが小山明子の美貌である。本当に美しい。自分が知っている彼女は昭和40年代以降にテレビドラマで演じていた良妻賢母役だ。ここでは女を感じさせる。このあとすぐ大島渚と結婚する。これはうらやましい。

本当にこういう時代に大人になっていなくて良かった。

日本の夜と霧
60年代安保時代の狂った若者たち
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映画「バベットの晩餐会」 

2013-10-14 15:53:11 | 映画(自分好みベスト100)
映画「バベットの晩餐会」は1987年のデンマーク映画である。日本では1989年の公開だ。
これぞ傑作という素晴らしい映画である。

1987年にアカデミー賞外国語映画賞を受賞しており、雑誌の「グルメ映画」特集では常連である。何度も借りようとトライしたが、レンタルはないし、アマゾンの中古品も高い。たまに劇場でやっていてもスケジュールは合わない。その繰り返しだった。先日、ツタヤに行ったらこれが置いてあった。ビックリして借りたら確かにすばらしい作品だった。
やさしいムードで流れていくあとで、グルメ場面に突入する。
「おいしそう!」というよりハートフルなムードに心がいやされる。実に心温まる映画だ。 

19世紀半ばデンマーク・ユトランドの小さな漁村が舞台だ。
厳格なプロテスタント牧師(ポウエル・ケアン)の美しい娘、マーチーネ(ヴィーベケ・ハストルプ)とフィリパ(ハンネ・ステンスゴー)が3人で住んでいた。マーチーネには謹慎中の若い士官ローレンス(グドマール・ヴィーヴェソン)が、フィリッパには休暇中の著名なオペラ歌手アシール・パパン(ジャン・フィリップ・ラフォン)がそれぞれ求愛するが、二人は父の仕事を生涯手伝ってゆく決心をした。

時がたち1871年のある嵐の夜、父が亡くなった後も未婚のままでいたマーチーネ(ビアギッテ・フェザースピール)とフィリパ(ボディル・キェア)のもとにフランスの歌手パパンからの紹介状を持ったバベットという女性(ステファーヌ・オードラン)が訪ねてきた。彼女はパリ・コミューンで家族を失い、逃げるように亡命してきたのだ。無給でよいから働かせてほしいという申し出に、二人は家政婦としてバベットを家におくことにした。やがて彼女は一家になくてはならない一員となった。

それから14年の月日が流れ、父の信者たちも年老いてきたころ、姉妹は皆が慕っていた父の生誕百周年の晩餐を行うことを思いつく。そんな時バベットにフランスから手紙が来る。封書を開けると、1万フランの宝くじが当っている知らせだった。バベットは晩餐会でフランス料理を作らせてほしいと頼む。しかも、お金は全部出すという。姉妹はいったん断るが、それまで一度も無理な注文をしてこなかった彼女の初めての頼みを聞くことにした。準備のためにお暇をいただいた彼女が戻ってきたあと、料理の材料が続々と届いてくる。ウミガメや鳥など食材をみて姉妹は驚く。質素な生活を旨としてきた姉妹は天罰が下るのではと悪夢を見てしまう。晩餐会の夜、将軍となったローレンス(ヤール・キューレ)も席を連ね、バベットの料理が次々運ばれていくが。。。

3つの時代が語られる。バベットがデンマークに来たのが1871年と映画に出てくるので、晩餐会は14年後で1885年ということになる。その時2人の姉妹は60歳前後とするなら、最初の場面は1850年前後と推定すべきであろう。
デンマークはナポレオン戦争時も中立で末期に英国との戦争に巻き込まれるが、その後は安定した状態が続いていた。アンデルセンなんて超有名人も出ているのが、そのころだ。しかし、このロケに映るエリアは田舎町で浮世離れした生活が続いていたところであろう。デイヴィッドリーン監督作品の「ライアンの娘」のロケ地にイメージが似ている印象を受けた。

デンマークの平和と比較すると、フランスは大変な時期が続いていた。二月革命成立後にナポレオン3世が即位したあと、メキシコ、イタリアへの干渉、ロシアとの戦争やパリコミューンでの帝政終了など、世界史上に残る事件が続く。バベットも帝政終了と同時にデンマークに逃げてくる。旧友のオペラ歌手が自分が過ごした平和な地ということで紹介受けたのだ。その後は大きな事件が起きないままに14年たったのだと思う。そんな時宝くじが当たってしまう。晩餐会の料理を用意させてくれと、バベットが言い姉妹も喜ぶが、ウミガメなどの生きた食材が料理されるところを想像すると、ビビってしまうのである。そして姉妹は招待した人たちに、料理を食べている時にあえて「料理の話」をしないようにといってしまうのだ。せっかくの料理なのに。。。


(若干ネタばれ気味に今回は追っていく。)
そんな時昔出入りした軍人がぜひ出席したいと言ってくる。マーチーネにぞっこんだった彼はいまや将軍になっているのだ。フランス駐留の経験もある。彼も食事を一緒にする。彼は信者と裏話ができているわけでない。素直な反応をし始めるのだ。
食前酒はアモンティラード
ウミガメのスープが運ばれる。そのおいしさに将軍は驚く。「これは本物だ。」
そして、シャンパンを味わう。将軍曰く「ヴーヴクリコの1860年」だ。このブランドなら自分もわかる。
ブリニのデミトフ風にはキャビアが一杯だ。
おいしさに感嘆する将軍が何かをしゃべると、まったくトンチンカンな反応を信者たちがする。
このアンバランスが滑稽だ。
そしてメインが
「ウズラのパイ包み石棺風」だ。ワインはクロ・ヴージョ(熟成の赤ワイン)
将軍がウズラの頭を食べるのを見て、驚く姉妹と信者たち
将軍がのたまう。これはパリでも有名な「カフェ・アングレ」で出されたものだ。その店は有能な女性シェフがいたと。。。
肉を食べながら、ソースを味わうためにスプーンを使う将軍。食べ慣れない信者たちが一斉に真似する。このシーンに既視感がある。伊丹十三「タンポポ」のようで笑える。


あとは語らない。。。
でもこの映画、最後に向けての簡潔さがすばらしい。余分な言葉をしゃべらずに美しく仕上げる。
いかにもグルメ映画史上最高の傑作である。

バベットの晩餐会
グルメ映画の最高傑作


バベットの晩餐会 (ちくま文庫)
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映画「ザ・マスター」  ポールトーマスアンダーソン

2013-10-14 07:37:49 | 映画(洋画 2013年以降主演男性)
映画「ザ・マスター」は2013年日本公開のアメリカ映画だ。

名匠ポールトーマスアンダーソン監督の新作。日本のみならず、キリスト教の国アメリカにも新興宗教は存在する。戦争終えたばかりの元軍人が本来の職業にうまくなじめないときに、一人の教祖に出会う。その教祖と主人公の触れ合いを描く。
戦争が終わった後に、精神が錯乱して一般社会となじめない軍人を描いた作品は多々ある。これもその一つだが、新興宗教に結びつけるところが興味深い。大きな波や意外性があるストーリーではない。それぞれの場面の映像コンテが非常に美しく、映画の格をあげている。

第二次世界大戦末期。海軍勤務のフレディ・クエル(ホアキン・フェニックス)は、ビーチで酒に溺れ憂さ晴らしをしていた。やがて日本の敗北宣言によって太平洋戦争は終結。だが戦時中に作り出した自前のカクテルにハマり、フレディはアルコール依存から抜け出せず、酒を片手にカリフォルニアを放浪しては滞留地で問題を起こす毎日だった。

ある日、彼はたまたま目についた婚礼パーティの準備をする船に密航、その船で結婚式を司る男と面会する。
その男、“マスター”ことランカスター・ドッド(フィリップ・シーモア・ホフマン)は、フレディのことを咎めるどころか、密航を許し歓迎するという。フレディはこれまで出会ったことのないタイプのキャラクターに興味を持ち、下船後もマスターのそばを離れず、マスターもまた行き場のないフレディを無条件に受け入れ、彼らの絆は急速に深まっていく。

マスターは“ザ・コーズ”という団体を率いて力をつけつつあった大物思想家だった。独自の哲学とメソッドによって、悩める人々の心を解放していくという治療を施していたのだ。
1950年代。社会は戦後好景気に沸いていたが、その一方では心的外傷に苦しむ帰還兵や神秘的な導きが欲されていた時代であり、“ザ・コーズ”とマスターの支持者は急増していった。フレディにもカウンセリングが繰り返され、自制のきかなかった感情が少しずつコントロールできるようになっていく。マスターはフレディを後継者のように扱い、フレディもまたマスターを完全に信用していた。

そんな中、マスターの活動を批判する者も現れるが、彼の右腕となったフレディは、暴力によって口を封じていく。マスターは暴力での解決を望まなかったものの、結果的にはフレディの働きによって教団は守られていた。
だが酒癖が悪く暴力的なフレディの存在が“ザ・コーズ”に悪影響を与えると考えるマスターの妻ペギー(エイミー・アダムス)は、マスターにフレディの追放を示唆。

フレディにも断酒を迫るが、彼はそう簡単にはアルコール依存から抜けることができなかった。やがてフレディのカウンセリングやセッションもうまくいかなくなり、彼はそのたびに感情を爆発させ、周囲との均衡が保てなくなっていく……。(kine note引用)

新興宗教そのものが、本質的にはデタラメなものである。ただ、宗教に頼らないと精神の安定を取り戻せない人が多い。それだから、オカルトなものであっても意外に続いていくのだ。マインドコントロールで信者を狂わせる映像はここでは多くはない。逆にオカルトだと疑われてもおかしくないわけであるから、新興宗教の教祖を論破しようとする人が必ず出てくる。その時にヤクザの用心棒のように、厄介な出来事を暴力で解決しようとするのがホアキン・フェニックスだ。解決にあたる主人公の猛獣性が印象的。日本における新興宗教がらみのいくつかの事件を連想した。

ここではポールトーマスアンダーソンの映像づくりに関する天才ぶりを見せ付けてくれる。
映像の色合い、コンテいずれもなんて美しいのであろうと思わせる。格調が高い。
プロットというよりも映像そのものに魅かれる。
序盤戦、海辺のシーンでの美しさでうならせてくれるが、もっと凄いと思わせるのは荒野のバイクシーンだ。果てしなく続く、乾ききった荒野でフィリップ・シーモア・ホフマンとホアキン・フェニックスが猛スピードでバイクを走らせる。こんなロケ地はおそらく日本ではない。見ていていつバイクが転倒してしまうのか?とドキドキしながら見てしまう。何気ないようで重要な場面だ。


あとは牢獄におけるホアキン・フェニックスの暴れっぷり。牢屋の柵の中で、便器を蹴って蹴って蹴りまくる。これも印象に残る。


ポールトーマスアンダーソンというと、何よります「マグノリア」のカエル落下シーンだ。これには本当に驚いた。もしかして、驚きの度合いはたくさん見た映画の中でも5本の指に入る。そして、「ゼア・ウイル・ビーブラッド」における猛獣のようなダニエルデイルイスの演技だ。この映画見た後、あまりにも強烈なインパクトでブログ記事まとめようと思っても全然うまくいかない。そのうちに時間がたってしまった。いずれ書こうと思うが、それくらい鮮烈な印象を与えた。それと比べると、衝撃度は薄いが、さすがポールトーマスアンダーソンと思わせる作品だと思う。
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映画「青春残酷物語」 大島渚

2013-10-13 09:24:36 | 映画(日本 昭和35年~49年)
映画「青春残酷物語」は1960年制作の大島渚監督作品だ。

大島監督の初期の傑作として名高いが、ずっと見ていなかった。
小津安二郎、木下恵介といった松竹独特のホームドラマ的作風と違った日本版ヌーヴェルヴァーグ作風を生みだしたという評価だ。まさに60年安保阻止で民衆がデモで荒れ狂う街中で、ある学生と女学生の出会いを描いている。何よりカラー作品であるがゆえ当時の世相がくっきり浮かび上がる。貴重な映像だ。

夜の盛り場で遊び疲れた女学生(桑野みゆき)が、中年男性(山茶花究)が運転する乗用車に声をかけて自宅まで送ってもらおうとしているシーンからスタートする。中年男性は連れ込み宿に彼女を無理やり誘おうとしていた。そこへ一人の大学生(川津祐介)が助けに入る。彼女は助かる。
翌日2人は木場でおちあいデートする。男性が自分のことを好きかどうかを確認しつつ、2人は交わる。
ところが、デートを確認した後しばらく連絡がこないのに不安に思った彼女は彼のたまり場とするあたりを夜彷徨う。
そこには不良愚連隊がたむろしていた。危うく彼女はグループにからまれそうになったとき大学生が駆けつけて、乱闘になる。そこに顔を出したのが愚連隊の親分格(佐藤慶)だ。彼は金でカタをつけようとして、その場は収まる。
2人は支払いに充当する金を稼ぐために、女学生をおとりに中年を誘惑させて、金をむしり取ることを思いつく。早速おとりにかかる中年(森川信)がいたが、そうはうまくは続かないのであるが。。。




DVDのジャケットに写る若い2人の姿は白黒写真である。それなので、ずっと白黒映画だと思い込んでいたので、なおのこと映像が鮮烈である。いきなり安保闘争で大暴れのデモ隊の姿を映す。これって本物じゃない?と思わせてしまう迫力ある映像だ。手持ちカメラを使って実際のデモの横で撮った映像もあるようにも見れる。その後ろに映る自動車が昭和35年という時代背景を感じさせる。マツダの三輪車などが走っているとよりリアルに映る。あとは色彩設計もしっかり考えられていて、桑野みゆきの着る服はなかなか色合いもよくハイセンスだ。よく見るとクレジットに衣装は森英恵となっている。なるほどとうなずかされる。

夜の街にたむろう愚連隊という設定は、今ではない世界だろう。
ヤクザと不良グループを混ぜ合わせたようなものだが、渋谷あたりはこういう人種がたくさんいたような気がする。父と渋谷センター街を夜歩くとサングラスをしたお兄ちゃんがたくさんいて歩くのが怖かった。今とのギャップが一番大きい。ここに映る佐藤慶がいかにも適役だ。でも殴るのがいかにも嘘っぽい。それがどうも気になってしまう。

デビューして日の浅い川津祐介は若さを発散させている。家庭教師先の母親とできている大学生という設定である。身体で結ばれているせいか、その中年女にはずいぶんとぞんざいな態度をとるが、別の女がはらんだ時の中絶費用を中年女からむしり取ろうとしたり、割といい加減な男を演じている。それでも、木場で材木の原木に乗り桑野みゆきと戯れるシーンは当時としてはかなり鮮烈だったのではないか?桑野みゆき が行為の後に、何度も「私のこと好きなの?」と川津に聞き返すところがいかにも時代を感じさせる気がする。

この作品より後になるが、小学生のころ、川津祐介が主演のテレビドラマがあった。当時人気の007的アクションで、子供が見ても楽しめるように、シボレーコルベットをホバークラフトのように水上を走らせていたのがずっと目に焼き付いている。それ以来自分の川津への印象があのカッコいい60年代のシボレーと連結されている。
コメント (2)
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ソウルメン 

2013-10-13 09:24:14 | 映画(洋画 2006年以降主演男性)
 映画「ソウルメン」は2008年のアメリカ映画だ。
2人の元ソウルシンガーが、元相棒の葬儀で歌うためにアメリカ大陸を西から東へ車で縦断するロードムービーだ。
これも想像していたよりも楽しい映画だ。出演者にサミュエル・L・ジャクソンがいるのが気になるのでdvd手に取った。日本未公開だ。
しかし、この映画はとてつもない意義を持つ作品だ。なぜなら、この映画を撮影している途中に出演者のアイザックヘイズと主役のバーニー・マックが亡くなっているのだ。2人の遺作になってしまった。これには驚く。映画を見終わる時までまったく知らなかった。


 1960年代から70年代にかけて人気を博したコーラス・グループ、マーカス・フックス&ザ・リアル・ディール。のちにマーカスは脱退してソロで成功したが、対照的にコーラス・デュオとして再出発したルイスとフロイドはケンカばかりで大成することなく音楽界を去り、離ればなれに。それから約20年後、彼らにマーカス訃報の報せが届き、ニューヨークのアポロシアターで行われるマーカスの追悼コンサートのため、ザ・リアル・ディールの再結成を依頼される。しかし、久々に再会したルイスとフロイドは相変わらずの険悪ムード。5日後のコンサートに向け西海岸から車で移動中もケンカが絶えず、行く先々でトラブルを引き起こす始末。さらには、彼らの過去に深く関わる若い娘クレオもメンバーに加わり、一行はニューヨークへと急ぐのだが…。

まず、2人が所属したマーカス・フックス&ザ・リアル・ディールの歴史をたどる。
モータウンサウンドの男性ヴォーカルグループらしい3人のコーラスグループが映し出される。そのあとは、テレビ「ソウルトレイン」でアフロヘアで踊りまくる3人だ。そしてディスコブームになる。クロスオーバーなのリズミカルなサウンドとソウルミュージックの系譜をたどるような映像が映し出される。
リードヴォーカルがソロデビューした後、残りの2人がコンビを組む。「ツービート」のビートたけしに対するきよし内山田宏とクールファイブの前川清以外といった存在感の人たちがデビューしてもうまく行ったという話はあまりない。同じように2人は転落していく。そして時がたった。そのリードヴォーカルが亡くなり、葬儀の席での追悼コンサートにお呼びがかかる。2人に大金を出すスポンサーもいるらしい。バーニーが誘いをかけるが、サミュエルはもう一度コンビは組みたくないと言い切る。それでも結局は付いていく。
そこからの2人の珍道中である。

このドタバタ劇はロードムービーコメディの定番だ。「ブルースブラザース」を連想させるコメディだ。

主役2人に均等に存在感を持たせようとする。でもコミカルで動きが大きいのはバーニーマックだ。コメデイ映画中心の彼のショーマンシップが光る。似たようなものだが、より強面のサミュエルより柔らかさがある。素人上がりの雰囲気を醸し出しているところがいいのではないか。

アイザックヘイズを初めて聴いたのは70年代初め、自分もまだ少年だ。当時全米ヒットチャートオタクだった自分は、「黒いジャガー」のテーマのテイストに戸惑った。何せ途中までヴォーカルがない。
ソウルフルなインストルメンタル音楽が流れた後、ようやく「シャフト」と主人公の名を呼ぶ声が聞こえる。こんな音楽がなんで全米ヒット№1になるのかがよくわからなかった。
当時は白人と黒人の曲が交互にトップ1になっている。まだ自分自身ソウルミュージックの世界に入っていけなかった。
その彼がこの映画を撮っているときになくなる。この事実は重い。
そういえば、「ブルースブラザース2000」にも出ていたっけ、ブルースブラザースバンドが最後コンテストで争う超豪華メンバーはエリッククラプトン、BBキングなど本当にすごかった。その中でも存在感あったなあ。

それにしても2人とも死んでしまうなんて、なんかたたりでもあったんではと思ってしまう。

(参考作品)
ソウル・メン
あるソウルバンドの盛衰物語


黒いジャガー
アイザックヘイズの全米ヒット1位の主題歌がソウルフル
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柳井正「わがドラッカー流経営論」

2013-10-13 05:32:53 | 
1.お店に来ていただけるお客様だけをターゲットにモノを売ってみても、それ以上の広がりは望めない。本来我々がターゲットにすべきは、まだお店に来ていないお客様なんです。
すでにある需要に対して何かを提供するだけでは、顧客の要望に応えているということにはならない。お客様が潜在的需要として持っているのに、まだ世の中に存在しないものを形にして、「これなんかいかがでしょう?」と提示してあげることが、ビジネスで付加価値を生むという意味だ。
2.その店や企業が何をやっているか、何を売っているかをきちんとお客様に伝えなくては何も始まらない。
3.2万セットを無料で配布するというと、費用対効果で問題があると思う人がいるかもしれませんが、なぜこのような大掛かりな戦略をとったかには、ちゃんと理由がある。ヒートテックの場合は、見た目もそれなりにスタイリッシュですが、一番の魅力は見た目というよりも、着心地の良さや保温性、保湿性にあるために実際にきていただかないと本当の良さはわからない。つまり、まず商品をきていただいて、そこから発生するであろう口コミを狙った。
4.ドラッカー「あらゆる者が、強みによって報酬を手にする。弱みによってではない。最初に問うべきは、我々の強みである。」(乱気流の経営)
5.不思議なことに長所を伸ばしていくと、欠点というものはどんどん消えていく。
6.ドラッカーの経営理論の中心には「人」がいる。
7.ドラッカー「知的労働者は、すべて企業家として行動しなければならない。知識が中心の資源となった今日では、トップだけで成功をもたらすことはできない。」従業員一人一人の知識や判断が企業経営を支えている。
8.現場でお客様の動向を直に感じているのは店長だ。それでユニクロでは、店舗、店長が事業の主役で、本部はそれをサポートしている。店長こそが組織内で一番偉いという考え方だ。。。生涯一店長というのを理想と考えている。店長になった時点で、サラリーマンという意識は捨てて、自営業者の意識になってもらう必要がある。
9.ドラッカー「成果をあげる者は仕事からスタートしない。時間からスタートする。計画からもスタートしない。時間が何にとらわれているかを明らかにすることからスタートする。」自分の得意のものに集中するということも肝心です。不得意のものをダラダラと時間をかけてやっていては意味がない。
10.ビジネスも一種の団体競技だと考えるべきなんですよ。個人競技で優勝を狙えなくても、みんなで一緒に努力すれば団体優勝を狙うことはできる。。。。お互いに補いながら、自分の得意なところを伸ばしていけば、企業としての全体のポテンシャルはどんどん高まっていくんです。
11.「店舗経営ができて、お客様に満足していただける店舗を作る自信があります。」と面接で答えるべき
12.一番いい会社というのは「社長が行っていることがそのまま行われない会社」
言われたことを右から左へと聞き流せということではなく、その本質をつかみ、具現化するのは現場スタッフの務めなのだ。
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映画「新宿インシデント」 ジャッキーチェン

2013-10-07 21:24:27 | 映画(アジア)
映画「新宿インシデント」はジャッキーチェン主演の2009年の作品だ。


日本でロケを行った作品。先入観なしで見たが割と面白い。
ジャッキーチェンがいつものようなアクションを新宿で全開させる映画と思っていたが、少し違う。
不法に日本に移住した中国人が、新宿の闇の中でのし上がっていく姿を描く。そもそも貧しい中国人労働者がのし上がっていく構図なんてありえなさそうだが、このストーリーの流れは不自然には感じない。
日本で製作されたら、こうは脚本の展開はならないだろうというのがいい感じだ。


中国人を多数乗せた密入国船が若狭湾に到着するシーンから始まる。その中には鉄頭(ジャッキー・チェン)がいた。同郷の阿傑(ダニエル・ウー)を頼って新宿歌舞伎町に向かう。そこで同じような中国人たちと寝床をともにした。そして仲間とともに生活のために日雇いの仕事をはじめる。
日本では外国からの不法移住者が急増していた。ある日、彼の仕事場に警察の手入れが入る。逃げ出した鉄頭は刑事の北野(竹中直人)に追われるが、追っている北野が下水道に転落。溺れかけた彼を助けたのは鉄頭だった。北野は鉄頭を見逃す。
やがて鉄頭はナイトクラブの厨房で働くようになる。消息を絶った恋人シュシュ(シュー・ジンレイ)を発見。だが、彼女は既に新宿を仕切るヤクザ、三和会幹部の江口(加藤雅也)の妻となっていた。2人は視線を合わせたが、それ以上のことはなかった。

その後鉄頭は犯罪に手を染めていく。盗品や偽造カードの売買といった裏仕事をこなしながら生計を立てていく。警察沙汰と背中あわせの裏仕事を積み重ねていき、鉄頭らの寄合は次第に歌舞伎町の中で勢力を拡大していく。鉄頭もクラブで働く麗麗(リリー)という美しい女性と恋仲になり、全てが順風満帆に進み始めた。

ある日、阿傑は寄合のみんなから天津甘栗の屋台をプレゼントされる。その阿傑がパチンコ店で打っていた際に、パチンコ台に細工をしたとして台湾マフィアの幹部の逆鱗に触れる。中国系ヤクザから仕返しに拷問を受けるという事件が起きてしまう。
その仕返しに向かった先で偶然、鉄頭は殺されかけた江口を救う。江口の自宅で鉄頭はついにシュシュと再会。江口は向こう見ずな鉄頭を自分の野心のために利用しようとする。跡目相続で揺れる三和会。その後継者候補(峰岸徹)を暗殺して自分がのし上がろうというのだ。そして、対立派閥の2人は鉄頭により暗殺され、江口が三和会会長の座に着く。

こうして、表では東華商事という堅気の商売をしつつも、鉄頭はいつの間にか外国人ヤクザ組織のトップに立っていた。だが、彼とは反対にギャングの襲撃で片手を失った阿傑は人柄が豹変。柔和だった性格は凶暴になり、麻薬取引にも手を出す始末であるが。。。

中国人目線での新宿を描いているところがいい。
意外にこういう視線になる映画はすくない。中国人不法侵入者がいかにして、日本国内で生きていくのかを詳細に描く。日雇い人夫として、ごみ処理や下水道工事など人がやらない仕事で金を稼ぐ。その仕事にしては決して賃金は高くないが、仕方ない。それなので、犯罪そのものと言える盗品や偽造カード販売に手を出す。ひと頃、よく外国人の窃盗団のことが話題になった。そのものだ。この映画でも、店頭のものを次々と拝借して、盗品を買い取るブローカーに持ちこむ。良品であれば市価の20%で買い取る。それ自体を東南アジアから買い取りに来るやつがいるなんてセリフもあった。映画の中に「高島屋で盗んだ」なんて固有名詞まで出てくるのは御愛嬌。


相手の傷つけ方がいかにも香港マフィア映画流だ。顔面に強烈な傷をつけるだけでなく。相手の手首をもぎとってしまう。
このむごさは日本映画ではあまりない。
しかも死ぬときには内臓まであぶり出す。えげつない。

この映画では、不法侵入の中国人と刑事が友情を持つ。こういう映画の構図は日本では少ない。その昔菅原文太の刑事と松方弘樹のヤクザが友情で結ばれている「県警対組織暴力」というムチャクチャ面白い笠原和夫脚本深作欣二監督の名コンビによる傑作があった。監督は香港人だがきっとこの映画を見ているだろう。そういう関係を意識しているテイストをどことなく感じさせる。

(参考作品)
新宿インシデント
新宿で大暴れのジャッキーチェン
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映画「八甲田山」 高倉健&北大路欣也

2013-10-06 16:20:31 | 映画(日本 昭和49~63年)
映画「八甲田山」は昭和52年の作品だ。

当時大ヒットしたが、そのときは見に行かなかった。
その後、DVDレンタルで借りようとしたが、どこにも置いていない。今回はじめてみた。
こうしてみると、強烈な吹雪の中過酷な撮影に俳優さんたちはよく耐えたものだ。
そして吹雪の中カメラファインダーを覗くのは名カメラマン木村大作だ。これこそ名人芸といえる。

日露戦争開戦を目前にした明治三十四年末の出来事だ。
露軍と戦うためには、戦場となる中国東北部の寒さに耐えねばならない。軍部は寒地訓練が必要であるというの考えをもった。そして冬の八甲田山がその演習場所に選ばれた。青森第五連隊の神田(北大路欣也)と弘前第三十一連隊の徳島(高倉健)の二人の大尉は演習を指揮するよう指示を受けた。雪中行軍は、双方が青森と弘前から出発、八甲田山ですれ違うということであった。
年が明けて一月二十日。徳島隊は、わずか二十七名の編成部隊で弘前を出発。行軍計画は、徳島の意見が全面的に採用され隊員はみな雪になれている者が選ばれた。出発の日、徳島は神田に手紙を書いた。それは、我が隊が危険な状態な場合はぜひ援助をというものであった。

一方、神田大尉も小数精鋭部隊の編成をもうし出たが、大隊長山田少佐(三国連太郎)に拒否された。そして二百十名という大部隊で青森を出発した。神田は案内人を用意したが、山田が断った。いつのまにか随行のはずの山田に隊の実権は移っていた。神田の部隊は、猛吹雪に襲われ、磁石が用をなさなくなり、方向を失った。次第に隊列は乱れ、狂死するものさえではじめた。

一方徳島の部隊は、女案内人(秋吉久美子)を先頭に八甲田山に向って快調に進んでいた。体力があるうちに八甲田山へと先をいそいだ神田隊。耐寒訓練をしつつ八甲田山へ向った徳島隊。狂暴な自然を征服しようとする二百十名、自然と折り合いをつけながら進む二十七名。神田隊は次第にその人数が減りだした。二十七日、徳島隊はついに八甲田に入った。降り積もる雪の中で神田大尉の従卒の遺体を発見した。

なんてバカなことをしたと思ってしまうが、武士道の心意気が残っている明治時代では、このくらいなことに耐えなければという気運が強かったのかもしれない。満州の寒さは厳しい。
そこで戦うために耐える訓練をするという軍人の気持ちもわからなくもない。
それでも、亡くなった人たちは本当にかわいそうだ。

三国連太郎演じる少佐は案内を拒絶する。田舎者にガイドしてもらわなくても磁石もあるし、地図もある。自力でいけるというのだ。ところが、うまくいかない。本来指揮を依頼されたのは北大路欣也の方だ。しだいに焦りが募る。その一方で、高倉健の部隊は田舎娘にガイドを頼む。若かりし時の秋吉久美子だ。素朴さがにじみ出ている新妻だ。さっそうと雪山を闊歩する姿がいい。ガイドを選ぶか選ばないかというこの分かれ目を境に猛吹雪の中の映像が続く。



これは映画である。誰かが撮影して、誰かが撮られなければならないのである。
映像に映る吹雪はここぞとばかりに強く吹き荒れる。極寒の中、俳優もしんどい。
今も現役である撮影の木村大作は山と雪を知り尽くしているといえよう。その彼の苦労がにじみ出る。
先般も「北のカナリア」で北海道を美しく映し出した。「剣岳」に至っては、メガホンを取り、美しい雪山を映像にしてくれた。職人の仕事にうならせられる。たぶん日本映画史上これほどまで過酷な撮影条件の映画もないのでは?
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映画「そして父になる」 福山雅治

2013-10-03 05:47:04 | 映画(日本 2013年以降主演男性)
是枝裕和映画「そして父になる」を劇場で見た。

イーストウッド作品で「チェンジリング」という作品があったが、意味合いはまったく違う。
生まれてすぐに病院の間違いで、別の子供を自分の子供として育てることになってしまった。それが6歳になって発覚してしまう話だ。違う生き方をしている2つの家族でそれぞれ育てられてきた子供と一緒に暮らせるものなのか?逆に今まで一緒だった子供と別れられるのであろうか?映画を見ながらずっと考えていた。
グレングールドが弾くバッハのピアノソナタが淡々とながれるなか、静かにストーリーは進んでいく。

学歴、仕事、家庭といった自分の望むものを自分の手で掴み取ってきたエリート会社員・良多(福山雅治)。自分は成功者だと思っていた彼のもとに、病院から連絡が入る。それは、良多とみどり(尾野真千子)との間の子が取り違えられていたというものだった。6年間愛情を注いできた息子が他人の子だったと知り、愕然とする良多とみどり。

取り違えられた先の雄大(リリー・フランキー)とゆかり(真木よう子)ら一家と会うようになる。血のつながりか、愛情をかけ一緒に過ごしてきた時間か。良多らの心は揺らぐ……。(kine note引用)

福山の妻が前橋の実家に帰って出産したときに起きた出来事だ。東京で心細いからだという。別におかしな話ではない。
ストーリーは発覚してから、病院の仲裁で両方の家族が一堂に会うようになる。両方の接触自体は少しづつ進んでいく。最初は子供を片方の家族の家に一泊させる。それが続いた後、一気に同居となっていく。そのあといくつかの事件が起きる。そのいくつかには、胸にジーンとする場面もあった。


悪くないと思うが、設定に難ありという気がする。ネタばれでもあるが、いくつかあげる。
1.福山は建設会社のエリート社員という設定だ。
東京の高層マンションに住んでというのは不自然ではない。今回福山が両方の子供を2人とも引き取ろうという話になる。子供を引き取るために金銭が介在しても、それなりの蓄えもあるから大丈夫というが、実際そんなにリッチなのであろうか?現実的ではない。福山の父親夫婦は三ノ輪の小さなアパートで暮らす。暮らし向きはいいようには見えない。とすると、親からの援助が期待できない。この映画に出る高層マンションに住もうとしたら、かなりの住宅ローンを抱える必要があると思う。それに加えて、子供を私立小学校に入れたうえで、余分な蓄えなんてあるだろうか?サラリーマンではありえない気がする。

2.リーフランキー夫妻は前橋に居住している設定だ。
福山の妻が前橋の生まれで実家がある。すぐさま両方の家族が行き来するようになるが、こんなに簡単に往復することができるであろうか?けっして遠くはないが、まるですぐ近くに両方の家族がいるような感じで表現されている。ましてや、福山の家から子供が家出する。電車にのって前橋まで帰るのだ。小学校一年生ではこれってかなり難しいと思う。東京から新幹線にのらないと群馬まで時間がすごくかかる。高崎線にのってなんて構図は難しいだろう。自力で移動したことが一度でもあれば、話は別だが、父である福山は東京前橋間を車で移動する。違うかな?といった感じだ。子供の時に福山が家出したことあるという設定だ。その遺伝子を持っているということを強調したかったのはわかる。でも少し無理がある。

他にも、ピアノの発表会のパフォーマンスや病院の看護婦の話、宇都宮に異動になったとにもかかわらず東京のマンションに住むことなど違うかな?という部分がたくさんあった。
映画としてみる分には悪くないけど、脚本設定はもう少しもんだ方がいいのではないか?

グレングールドが弾く「ゴールドベルク変奏曲」は効果的に使われていたと思う。最初日本人のだれかが、弾いているのかとも思ったが、しばらくして演奏者の唸るような声が遠く聴こえる。それでグレングールドの演奏だとわかる。あのスローな鍵盤タッチがなんとも言えず美しい。映画にはあっている。

そして父になる
是枝監督とのコンビ
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映画「愛のあしあと」 カトリーヌ・ドヌーブ

2013-10-02 16:57:27 | 映画(フランス映画 )
カトリーヌ・ドヌーブとキアラ・マストロヤンニが母娘役で親子共演を果たしたドラマ。フランス人の母と娘が2代にわたって繰り広げる愛やセックスにまつわる人間模様を、ミュージカル場面も交えて描く。

1960年代のパリ。靴屋で働きながら売春婦のアルバイトをしていたマドレーヌは、チェコ出身の医師ヤロミルと恋に落ちる。2人はプラハへ行き、やがて娘のヴェラが生まれる。時は流れ、ヴェラは美しい女性へと成長。クレモンという優しい恋人のいるヴェラだったが、ロンドンで知り合ったヘンダーソンと激しい恋に落ちる。

1964年、パリ。靴屋で売り子をしているマドレーヌ(リュディヴィーヌ・サニエ)は、ある日売り物のハイヒールを履いて帰る。すると、自宅近くで街娼に間違われ、男に声をかけられてしまう。それからパートタイムで小遣い稼ぎに娼婦をするようになる。そのうち、チェコスロバキアから来たパリ滞在中の医者ヤロミルと恋仲になり、求婚される。

1968年、プラハ。ヤロミルと結婚したマドレーヌは、チェコスロバキアで娘ヴェラとヤロミルの実家で暮らしていた。ある夜、マドレーヌはヤロミルの勤め先へと向かう途中、街中で戦車の隊列に出くわす。民主化運動プラハの春の終焉となったチェコ事件(ソ連軍主導のワルシャワ条約機構軍の侵攻)である。ヤロミルの浮気もあって、マドレーヌは娘ヴェラを連れてフランスに戻る。

1978年、パリ。憲兵のフランソワと再婚したマドレーヌは、14歳になった娘ヴェラと憲兵宿舎で暮らしていた。ある日、学会でパリに来ていたヤロミルから電話がかかり、ホテルで一緒に過ごす。ヤロミルは、マドレーヌにヴェラと家を出て親子三人で過ごすことを提案するが、結局一人でパリを去ってしまう。

1997年、ロンドン。ヴェラは、同僚で元恋人でもあるクレマンと共に、ロンドンを訪れる。クラブで演奏しているバンドのドラマーのヘンダーソンと出会ったヴェラは、彼の後を追いかける。クレマンとの間がぎくしゃくしたヴェラは、予定より一日早くパリのアパートへ帰る。

1998年、ロンドン。ヘンダーソンの事が忘れられないヴェラは、ロンドンを再訪する。そこで、アメリカ人のヘンダーソンがロンドンに移り住んだ経緯を聞かされる。

2001年、モントリオール。ヴェラはニューヨークに住むヘンダーソンのもとへと旅立つが、アメリカ同時多発テロ事件が起き、ヴェラの乗った旅客機はアメリカの空港に着陸できず、カナダのモントリオールへ着いてしまう。
2007年、パリ。クレマンはマドレーヌの誕生会に来るようフランソワから誘われ、彼らの住むランスを訪れる。クレマンは落ち込んでいたマドレーヌを外へ連れ出す。二人は、マドレーヌがヤロミルと出会った頃に住んでいたパリのアパートを訪れる。

キアラ・マストロヤンニが妙に不健康に見える。父親に似ているのであるが、体たらくな印象でよくない。
ここではリュディヴィーヌ・サニエが抜群にいい。いつもながらピチピチした感じだ。
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