後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

辛くて、淋しい一夜の試練・・・何故チャレンジする?

2010年06月10日 | 日記・エッセイ・コラム

霞ケ浦で、独りでセイリングをして、その夜はヨットに泊る。狭い、寒いヨットのキャビンで寝着かれない夜をまんじりともせずに過ごす事もあるのです。辛い、悲しい一泊です。そんな事は勘弁とおもいつつ一年に4、5回の挑戦をして来ました。今年は、これが2回目のチャレンジです。

辛いのに何故するのでしょう?自分でも訳が分かりません。しかしこの辛い一夜を過ごし、無事帰宅すると、なんとも言えない充実感が湧いてきます。これぞ人生の歓びだと思います。

今日もこの挑戦をするためにヨットへ一人で来ています。(と書いても、この文章は前日に書いて、10日の15時に自働掲載するようにセットしたものです)。

下の写真は今年の5月3日にヨットに泊ったときの写真です。夕方、デッキの上で飲みます。しかしその前のセイリングでは、2枚の帆を完全に上げて完璧な帆走をする事に挑戦します。

夕方から夜はデッキの上でビールをゆっくり飲む予定です。持参した野菜や牛肉でスキヤキの夕食にします。夜は前の部分にある船室で寝ることになります。寒い夜になるかも知れません。しかし試練と思って頑張ってきます。無事、朝を迎えて飲むコーヒーの美味さを楽しみにしつつ夜を過ごします。

前回、泊ったときの写真をお送りします。

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国内の珍しい観光地(6)八丈島への船旅

2010年06月10日 | 写真

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東京の竹芝桟橋から夜に出港すると翌朝、八丈島へ着きます。東海汽船の「さるびあ丸」という昔風の客船でロマンチックな船旅を楽しめます。航海は短すぎず、長過ぎず丁度良い長さです。

客船の特等船室にはプライベート・デッキがついています。昨年の1月の末に一人で八丈島へ行った時の様子を下に示します。着いた八丈島の様子は2009年2月の数編のブログ記事として掲載してあります。

お独りで旅をする。アルコール飲料は嫌いではない。そんな方へのご案内です。

まず芝浦客船ターミナルで予約していた乗船券を受け取ったら中にあるレストランへ入って生ビールのジョッキを一杯だけゆっくり飲みます。ようく内装をご覧ください。カンターの下が玉石垣になっています。八丈島の江戸幕府の島役所の回りのの玉石垣を摸したものです。玉石垣のを散策することを想像しながらジョッキを傾けていると乗船開始のアナウンスが流れます。でもあわててはいけません。500ccの缶ビールを1ケだけ買って乗り込みます。乗って船室に荷物を置いたら船内を一回りし緊急脱出の道筋を見て置きます。船室に戻ったら救命胴衣を出して確認します。それだけ済ませば、プライベート・デッキに出ていよいよ缶ビールを飲み始めました。

下の4枚の写真はデッキのテーブルの上の缶ビール、レンボーブリッジ夜景、出港後その橋を下から見上げた夜景、そして羽田空港前を過ぎて川崎の扇島の夜景を示しています。肉眼では夜景が鮮明に見え美しいものです。美しい夜景を楽しみながらゆっくりビールを飲みました。

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ビール缶が空になるころに横浜のみなと未来の大観覧車の電飾が見えてきます。出港後約1時間です。そうしたら下の写真のように持参してきたウイスキーの小瓶とグラスを持ちだしてきました。

チビチビ飲んでいると観音埼の灯台の強烈な点滅が見えてきます。出港後約2時間後です。その頃になるといささか酔いが回って来て夜景がくるくる回り出します。

下の3枚の写真はウイスキーの小瓶のグラスの写真とくるくる回る夜景の写真2枚です。

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観音埼の灯台を過ぎても浦賀、久里浜、三浦三崎の灯が遠くにかすんで見えます。

少し酩酊しているので屋外に居ても寒くありません。幸い20ノットで走る船と同じ方向へ20ノットの風が吹いているようです。心地良い夢心地になりますが、船室へ入ってベットで眠りました。時計を見たら午前1時30分でした。

明朝は八丈島へ着くことを想像していたらすぐに眠ってしまいました。

翌朝は晴れ。大きな火山のある南国の島の桟橋に船が着岸しました。そしてそれからレンタカーを借りて4日間島中を観光して回りました。八丈島には離島としての独特な文化があり興味尽きない旅でした。島の観光案内はインターネットで検索すると詳しくでています。船旅を楽しみながら八丈島へ観光に行くのも楽しいものです。ご参考になれば嬉しく思います。(終り)


日露戦争の美談・・・ロシア兵捕虜を慰めたニコライと日本人

2010年06月10日 | インポート

1904年、明治37年に日露戦争が始まりました。翌年日本の勝利で終わりましたが、日本側の死傷者は20万人、ロシア側は15万人という凄惨な戦争でした。

日露戦争勃発後の日本人のロシア人へ対する敵愾心は凄まじく、全国に散在するロシア正教関係の教会や集会所は暴徒の襲撃に会います。

しかし東京、駿河台のニコライ堂に居るロシア人のニコライは顔色一つ変えず動揺しません。

日本の政府や軍部関係者は日露戦争の間、軍隊の一小隊を常時派遣しニコライ堂を守ったのです。

特に1905年9月15日の日露講和条約(ポーツマス条約)の日には激しい日比谷公園焼き打ち事件が発生します。神田、駿河台のニコライ堂へ暴徒の群衆が押し寄せます。しかし日本の軍隊が暴徒を一歩もニコライ堂の構内へ入れなかったのです。

日露戦争になる前にニコライはロシアへ逃げ帰ることも出来たのです。しかし彼は、「私はロシアに仕えるのでない。キリストに仕える者です」と明言して断固日本に残留したのです。日本の信者を見捨てる筈はなかったのですが、それを実際に見た日本の政府関係者や軍部も武士道精神に従ってニコライを大切にしたのです。

これだけではありません。日本政府と軍部がロシア正教の日本人信者がロシア兵の捕虜の慰問を行うことを許可したのです。慰問にはロシア正教の礼拝式を捕虜収容所で行うことも含まれていました。

1905年にはおびただしい数のロシア兵捕虜が日本の収容所へ送られて来ました。旅順や奉天での捕虜も含めるとその数は7万人以上と言われています。

日本国内に収容所が急遽作られ、弘前から始まって仙台、京都と南の熊本まで各地に合計27ケ所も散在していました。

ロシア語の出来る日本人の司祭がそれぞれの収容所を担当して、死者の埋葬、病者の見舞い、家族からの郵便の配布、ロシアからの慰問袋の仲介、礼拝式や祈りの会の開催などを行ったのです。その上、行方不明者の調査などまでを日本人司祭が手を尽くして行ったのです。

私の手元にはそのような当時の写真があり、それを見ながらこの文章を書いています。

捕虜収容所を訪問したニコライと日本軍幹部との記念写真。イオアン小野帰一司祭の指導による大阪、浜寺捕虜収容所の祈りの会の風景。松山捕虜収容所を担当したセルギイ鈴木九八司祭の上半身肖像写真。ペトル内田 補司祭と信者の家族とロシア兵捕虜との集合写真。京都、伏見捕虜収容所を担当したシメオン三井道郎司祭の上半身肖像写真。習志野捕虜収容所でのイアコフ藤平新太郎司祭とロシア兵との集合写真。神田、駿河台のニコライ堂前でのロシア兵捕虜慰問会の集合写真。

ここで皆様に是非ご想像して頂きたいのです。1905年と言えば、1917年の共産党ソ連の出来る随分前です。ロシア人はロシア正教徒でした。戦いに敗れ、呆然自失の状態で敵国の収容所へ送られたのです。そのような傷心の時、突然ロシア語の話せる日本人の司祭が現れたのです。日本人信者がロシア人捕虜を慰めるために子供連れで遊びに来てくれたのです。彼らの心が躍った様子が目に見えるようではありませんか?

それを許した明治時代の日本政府と軍部の人々の心は広かったのです。本当に偉かったと思います。1912年、聖ニコライは75歳で日本の土になりました。明治天皇が大きな恩賜の花輪を供えました。

第二次大戦のアメリカ兵の捕虜に対して軍部は過酷な扱いをしました。アメリカからのキリスト教牧師が慰めに行くのを許しませんでした。それどころか敵性外国人として監視やスパイの嫌疑で逮捕していたのです。

明治時代の日本人のロシア兵に対する寛大な処置は長く外国から称賛されたのです。我々日本人はこのような明治時代の日本人をもっともっと誇りに思うべきではないでしょうか?

そして日本のロシア正教が実質的に日本正教会への育って行ったのはこの日露戦争の頃からと私は感じています。皆様は如何お考えでしょうか?(終り)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。   藤山杜人

===聖ニコライに関する参考情報==========

Nikolaikasatkin1ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の7年前の1860年、24歳の時日本へ宣教のために行く決心をします。着いた1861年はまだ江戸時代です。翌年、函館に着いてから終生日本に居ました。もっとも短期間、2度、祖国へ帰ったことはありましたが。

 着いた1861年から51年後の1912年に75歳で永眠し、谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。

函館着任後に血の滲むような努力をし日本語を習得します。書道も研鑽し、日本の歴史や佛教も勉強しました。古事記や日本書紀も読破する勉強家でした。

ニコライの日本を愛する心は強く、数々の感動的なエピソードが残っています。

今日はその中から一つをご紹介します。

1904年、1905年は日露戦争でした。戦争勃発と共に在日ロシア人は一斉に帰国して行きます。ロシア公使のローゼン男爵もニコライに帰国するように薦めます。ニコライは静かに断ったそうです。

ニコライは日本人信徒の一人一人を強く愛していたのです。ロシアへ逃げ帰るなど考える筈がありません。

1912年、持病の心臓病が悪化し、聖路加病院で天に帰りました。駿河台のニコライ堂から谷中の墓地まで、葬列を見送る人垣が沿道の両側を埋め尽くしました。明治天皇からの「恩賜の花輪」を抱きかかえた人が葬列の中に見えます。(葬列の写真10枚ほどを見ながらこの文章を書いています)。 

Wikipedea でニコライ・カサートキンを検索すると詳しい紹介があります。(終り)