後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

キリスト教が犯した大罪の謝罪を祈るローマ法王のヨハネ・パウロ2世

2018年09月15日 | 日記・エッセイ・コラム
周りの人々へ時々、「私はキリスト教の信者です」と言います。すると親しい人は、「私は宗教は嫌いです!宗教は戦争の原因になるから嫌いです!」とニベも無く言い放つ人がいます。「そうですか。そうですね。」と答えて話題を変えます。
2009年の11月、読売新聞の「時代の証言者」という連載記事でヨゼフ・ピタウさんの話が二十数回続いていました。
この連載でピタウさんは一般の人々の宗教への疑問に対してとても明快な解答を出ています。
例えば2009年11月17日の「時代の証言者」では、ピタウさんが2つ重要な解答を出しています。

(1)ヨハネ・パウロ2世はキリスト教の全ての宗派を再び融合・統一する努力をした。
例えば聖ピエトロ寺院での祭祀にはイギリス教会(聖公会など)のカンタベリー大主教と東方の正教会のコンスタンティノポリス総主教と一緒に司祭しました。
東方の正教会とはギリシャ正教、そしてロシア正教、日本正教会などを含みます。
2000年前のイエス様が生きていた頃はこれらの別々の宗派は存在しなかったのです。
その状態へ戻し、正しいあり方に復帰しようとする運動をエキュメニズム(教会一致促進運動)と言います。
ヨハネ・パウロ2世は、別々の宗派の存在がキリスト教としてあるべき状態でないという強い信念を持っていたのです。

(2)キリスト教が犯した大罪を認め謝罪し、神に許しの祈りを何度もした。
十字軍のイスラエル奪還の為の遠征と殺戮、それも正教徒も殺戮した大罪。
ガレリオ・ガレリイなどの科学者の裁判。
魔女狩りと種々の異端裁判。
そして数々の宗教戦争。
これらの大罪の謝罪をローマ法王のヨハネ・パウロ2世は神へ祈ったのです。
これは画期的なことです。従来のローマ法王は謝罪の祈りをしなかったと言われていたのです。

日本人の常識から見て明らかな大罪をローマ法王として始めて公式に認めたのです。その上、その大罪の許しを神へ祈ったのです。
特に2000年(キリスト生誕2000年の大聖年)の3月の許しを求める祈りは壮絶だったそうです。体力が衰え倒れそうな体で長時間、ひざまずいて祈ったそうです。

日本人の常識ではヨーロッパの中世にはキリスト教が原因になっている戦争が幾つかありました。
しかし洗礼を受けて信者になってみると違う理解になります。
「人間はどんな理由でも戦争をする。他民族を殺戮する本能を持っているからそうするだけです」、そして「キリスト教が原因ではないのです。ただ戦争の口実にキリスト教の名を利用するだけです」と理解できます。

ですからヨハネ・パウロ2世の神に許しを求めた内容は2つに分けられと自分は考えています。

十戒の一つの殺人を大量にした罪。
その殺人の正当性を主張するために、それを禁じていたイエス・キリストの名前を勝手に使った大罪。

この二つを一緒にして神の許しを祈ったのだと、私個人は理解しています。

ローマ法王のヨハネ・パウロ2世は1881年に日本への巡礼の旅をして日本人へ深くかかわったのです。

1番目の写真は1920年にポーランドで生まれ12歳になった時の写真です。

2番目の写真はローマ法王当時の写真です。(2005年4月2日、84歳で旅立ちました)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)


数日前、富士山で遭難した旧友の思い出

2018年09月15日 | 日記・エッセイ・コラム
老境にいたり達観の境地というものが少し見えてきました。もうどんなことが起きても驚かないようになります。何事も自然の摂理のままに日々が流てゆくのです。
こんな悠然とした気分でいましたら高校時代から親友だったOT君が富士山で行方不明になったという知らせがありました。
9月2日の午前4時半に山行きの服装で出発したそうです。そして富士山8合目の山小屋に記帳しています。
その後、行方不明になったのです。もう10日以上も経過しています。
OT君とは大学の同じ学科を1958年に卒業しました。そして彼は当時の石川島重工に就職して停年まで技師として過ごしました。
仕事の内容はジェットエンジンの製造でした。アメリカから設計図を供与され戦闘機やヘリコプターを作り航空自衛隊へ納入していたのです。
その田無工場に私を招んでくれて工場見学をさせてくれました。その工場の玄関には日本軍の開発した「桜花」のジェットエンジンが飾ってあったのです。
彼は葉山に住んでいたので葉山マリーナで一緒によくでヨットにも乗りました。
ある時葉山マリーナから彼と一緒に船で熱海沖に浮かぶ初島へ一泊の船旅をしたことがありました。船は払下げられた古い巡視艇でした。マリーナから操船のためにスタッフが3人加わり、総人数5人の船旅でした。

1番目の写真は熱海から初島へ行く連絡船から撮った初島です。

2番目の写真は連絡船の後部デッキから熱海方向を見た風景です。熱海の町が白く輝いています。

3番目の写真は40分後に着岸した初島の港です。はるか向こうに熱海の町が小さく見えています。
葉山マリーナからOT君と一緒に行ったときはこの港ではなく島の反対側の入り江の突堤に古い巡視艇を舫ったのです。
それは20年位前のことでしたが元気だったOT君の顔を鮮明に思い出します。
古い巡視艇は船足が遅く葉山から3時間もかかったのです。そのせいで遠方の孤島へはるばる渡ってきたという感じがしました。
島ではOT君と民宿に泊り、宿の主人に船を出して貰いサバを釣りました。夜にそのサバを刺身にして貰い、ビールを飲みましたが、サバは不味かったのが印象に残りました。新鮮過ぎるサバは不味いそうです。
帰りは葉山に直行しないで三崎港に寄りましたが、そこで古い巡視艇のエンジンから煙が上がったので大変な経験をしました。私が舵の舵輪を握っている間にプロの船長が消火器で火を消したのです。船火事の恐ろしさがよく分かりました。
火が出たエンジンはもう使えません。葉山マリーナから高速艇が来てくれて我々を連れ帰ったのです。
その間中、OT君は沈着冷静でした。「船長が火を消したのですぐ傍の三崎港から救いの船が来るよ」と笑っていました。

そして皆の定年後からは3ケ月ごとに大学の金属工学科の30人の同級生が集まって昼食会をして来ました。OT君は律義に毎回出席してました。軽い冗談を言ってみんなを笑わせていました。
今年の夏に東京駅の地下のビアホールでの昼食会でOT君と話したのが最後になりました。
この昼食会もみんなが年老いたからそろそろ止めようと話し合った矢先でした。
OT君の晩年の趣味は古文書を読むことでした。特に鎌倉幕府の歴史書の吾妻鏡は熱心に読んでいました。この本は鎌倉時代研究の非常に重要な史料なのだそうです。
OT君と一緒に一泊した初島へはその前後7回ほど家内と一緒に行きました。
だんだん観光開発され、豪華なホテルや東南アジアの植物を植えた公園も出来て、島の内部はすっかり観光地化しています。
以前は夏ミカンの木が生い茂り、そこここに熟れた実が転がっていました。広い大根畑に沢山の臭い漬物の樽がありましたが、それらはすっかり姿を消してしまいました。
港のそばに民宿や食堂が沢山あり、地魚の美味しい昼食が食べられます。
私にとっては懐かしい思い出の沢山詰まった小さな島です。

それにしても富士山で遭難したOT君はどうしたのでしょうか?
健脚だったOT君は安全な登山道をはずれ冒険の道に踏み込んだのでしょうか?
私はOT君の無事を信じて、祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)


4番目の写真は2月に咲いた初島の菜の花と桜の花の写真です。

5番目の写真も2月に咲いている 菜の花と桜の花の写真です。

6番目の写真は昔、大根畑だった所に芝生が植えてあり、美しい公園になっている風景です。