フォトアルバムへ追加した2枚の写真です。上の写真は通りすがりの堤防の上から見て、その窓のロマンチックな配列に持ち主の夢多い人柄を想像してしまいます。キャビンの内装もフランス艇のように芸術的なものに違いありません。持ち主へ敬意をお送りします。
下の写真は購入の予定で持ち主に一緒に機走してもらったヤマハ29スカッピーです。大きめのエンジンがキャビン内部の前方にあり、チャートテーブルも完備した外洋仕様の頑丈なつくりのヨットでした。買いたいと言う筆者へ家人が、「貴方、湖でだけセーリングするのにこの艇が要るの?もっとキレイな色の船体の方が良いと思うわ」「でも男ならスカッピーを選ぶよ」、「スカッピーなら私は来ないわ。キャビンの内装が暗すぎるし。」
家人には負けるのが人生円満の鉄則と思いYamaha29スカッピーは諦める。しかし今でも前を通る度に心がうずく。(終わり)
クルザーヨットを選ぶ時、その使用目的は?、1ケ月に何回船の所へ行けるか?、購入前にチェックすべき箇所は?などの問題点を示す写真をしめしています。
このフォトアルバム単独のアクセス件の数が開設以来3500件にもなりましたので、さらに8枚の写真を追加しました。アクセス数でこれに続くフォトアルバムは「山林の中の小屋」です。
そちらも併せて、御贔屓にして下さい。
ただ非常に残念なことに、どちらも写真の提示順序がよく整理されていません。申し訳ありません。
記事として総合的な解説記事をいずれ掲載予定です。下の写真は筆者が以前10年間愛用していたヤマハ19の写真です。水漏れ皆無、トラブルなしの優等生でした。(でも優等生はつまらないですね)
車で20分ほどの所にある雑木林を撮ってきました。クヌギ、コナラ、エゴの木、シデ、カシワなどの落葉樹にシイ、ヒノキ、スギ、マツなどの常緑樹も少し混じっています。
大きな写真をNo.1とし、下の小さな写真をNo.2とし順に右方向へ番号をつけるとNo.10まで番号がつきます。それぞれの撮影場所は;(1)府中市北部の浅間山がNo.2,3,5,7,10、(2)浅間山から甲州街道へでる欅並木がNo.6、(3)府中市営、郷土の森博物館敷地内がNo.1、8、9、(4)武蔵境浄水場近くの千川上水の写真がNo.4です。
撮影場所;東京都調布市、都立神代植物公園、深大寺門より入ったアカシデ林
撮影日時;2月20日12:00時ー13:00時
武蔵の国の国府は現在の府中市にありました。701年の大宝律令により全国に60余のくにぐにが出来た時に造られ、相模、甲斐、信濃、上野、下野、下総、上総、安房のくにぐにに取り囲まれていました。府中市では1975年以来、1000ケ所をこす地点で発掘調査が実施され奈良時代の武蔵の国府の実態がかなり明らかになっています。現在の伊勢丹デパートから大国魂神社にかけて上の写真の国庁とそれを取り囲む役所群があり、国衙(こくが)を形成していました。その東西南北約3kmには市街地が存在し、4000棟の竪穴建物遺跡と900棟を越す掘立柱建物遺跡が発見されています。下の2枚の写真は国衙の中から発掘された食器、日用品などで国司(守・介・じょう・目の4階級の役人群)が日常に使用していたと考えられています。一般の住宅跡からは鎌、鋤、手斧、鋸、などの道具類や矢じりなどの武器なども出土し当時の人々の生活をしのばせています。これら発掘調査の結果の詳細は府中市郷土の森博物館に展示されています。(終わり)
◎50年前のアメリカの黒人差別の実状
1960年から二年間、オハイオ州の州都コロンバス市に住んだ。バスに乗ると、白人は前半分の席、黒人は仕切りの後ろ。遠慮して黒人の席に座ったら、白人男性が寄って来て、君は前半分に座れと言う。それ以来、白人席の末席に座る。
コロンバス市の南半分は黒人街、北半分は白人が住む場所と厳格に分かれていた。白人街にある映画館やレストランは白人専用で、黒人はよほどのことがない限り立ち入らない。
オハイオ州立大学には黒人学生がいたが、その数は圧倒的に少ない。教授は皆白人である。実験室の掃除人はメキシコ人で、黒人はいなかった。初めのころは差別に心が痛み暗い気持ちになる。しかし、少し経つと慣れてしまい、当然と思うようになる。
日本の芝居ではよく黒子が出入りするが、だれも気にしない。黒人をこの黒子と思えば黒人が見えなくなる。この秩序は慣れてしまうと実に快適である。アパート代の安い黒人街の物件を見に行った。案内の黒人女性は柔和で親切である。アパートも当時の日本の住宅事情に比較すると上等だ。
引っ越そうとして大学の白人学生に相談した。ものすごい勢いで反対される。黒人は親切だが、貧しい親戚がしょっちゅう君のアパートに来て食べ物をねだる。勉強なんかできないと言う。反対の理由はそれだけでないようだ。黒人差別の秩序が壊れるのも反対理由である。
アメリカは自由と平等の国というが、50年前には凄い黒人差別が厳然としてあった。
@黒人差別克服への努力、そして色々な試みの挫折
その後、ベトナム戦争があった。黒人兵は危険な最前線に出て活躍したという。国内では黒人差別撤廃の公民権運動が盛り上がる。リーダーは、後に白人に暗殺されたキング牧師。師の亡くなった日を哀悼の休日とする州が数多いが、オハイオ州も全官公庁・学校が休みになる。
1990年前後にもコロンバス市に二年間住んだ。バスの白人席と黒人席はなくなり、皆一緒に座っている。オハイオ州立大学も黒人学生が半分くらいになった。周辺レストランの客席に区別はなく、混じって座っている。
同僚のR教授とビールを飲みながら、「30年経って住んでみると、黒人差別がなくなっているので驚いた」と言うと、R教授は「先祖の犯した罪は子孫が償う。公共の場所での差別はなくなった。しかし、居住地は相変わらず南と北に分離されている。黒人学校と白人学校は依然存在している」。
R教授は悩ましそうに目を宙にそらし、「表面的な差別は撤廃できるが、心の中の差別は簡単になくならない」と続ける。「でも、先日、白人と黒人の若者が一緒に楽しそうにバーベキューをして騒いでいたが…」「そのような慈善活動をする若者グループが多くあり、混合ダンスパーテイなども実行する。しかし、帰る家は別々の住宅街にある」。
コロンバス市では、黒人小学校と白人小学校の児童分布を平等にするため、毎日、バスを黒人街へ黒人児童を迎えに行かせ、白人小学校へ送り込む。白人住宅地域へもバスを送り、その逆を行う。こうしたバス送迎を徹底し、白人と黒人の児童が完全に交じり合った教育を三年間続けた。
しかし、黒人学校は特有の教え方と遊び方がある。それは白人学校の教育や友達同士の付き合い方と異なる。大人の偽善的な試みの犠牲になるのは両方の生徒である。この試みは両方の反対に遭い挫折した。
@黒人差別撤廃への白人による社会運動の成功
1990年以後にもアメリカ各地を旅行した。色々聞くと、どの会社も黒人を一定割合以上採用しなければならない。テレビ・マスコミも黒人差別撤廃のキャンペーンを繰り返す。白人だけの高級住宅地区へ黒人も混じって住んでいる。黒人市長があちこちで現れる。黒人女性のライス国務長官の活躍や大統領候補として黒人のオバマ氏が有力視されている情勢である。
公民権運動のさなか銃弾にたおれたキング牧師は喜んでいるだろうか?
人々の心のなかでの差別意識が消えるまでキング牧師は喜ばないに違いない。
(この項の終わり)
SHANTIAN様から、「あるテレビマンの死」に関して下のようなコメントを頂きました。
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良心的なジャーナリストに感謝。合掌。
最近の記事より以前の
過去の記事が読みたいのですが...
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読売新聞2月5日の夕刊2版13ページに、昔の友人の村木良彦の追悼記事が
大きく出ています。人間的な側面も書きこんだ名文です。執筆した読売東京本社編集委員の鈴木嘉一氏に感謝します。これで村木君も成仏できるでしょう。
SHANTIANさま、コメント有難う御座います 藤山杜人
東京の西郊には青梅街道、五日市街道、甲州街道などがあり沿道には欅の大木がある。四季折々、大木の下を通る人々の心を豊かにしてくれる。
昨日の雪空が晴れ上がり雲一つ無い青空が広がる。カメラを手に散策に行く。
武蔵のくにの国府があった場所に隣接した大国魂神社とその欅並木9枚、聖武天皇がつくった国分寺と国分尼寺の風景写真4枚の合計13枚です。
尚、写真を撮ったあたりの歴史にご興味のある方々は下記をご笑覧下さい。
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「律令による武蔵のくにの成立と樹木のたたずまい」
645年の大化の改新以後、国家統治がすすみ701年の大宝律令によって全国にくにぐにが出来た。その時出来たのが武蔵のくにで現在の横浜東部、川崎、東京、埼玉にまたがる。その国府は府中市に置かれた。
国府の場所は長年の発掘調査により京王線、府中駅の南側から大国魂神社の東半分にかけて存在していたことが分かっている。大国魂神社の歴史は国府の置かれた時よりはるか昔から続いていたという。したがって国府の守護神社の役割もした。
この神社の欅並木は1051年からの前9年の役で源氏の頭領、八幡太郎義家が蝦夷の安部一族を平定した戦勝祝いに欅1000本を寄進した。これが現存する欅並木の始まりである。欅の木は老化し朽ちるので世々代々植え続けられて来た。
国分寺と国分尼寺は741年の聖武天皇の勅により全国に造られたもので、武蔵のくにの国分寺と尼寺は20年の歳月をかけて完成したと言われている。七重塔跡の礎石をふくめて数多くの礎石群は現在の国分寺市の西部に広がっている。(終わり)
(挿絵です。山梨の造り酒屋の昔の応接室です)
◎お国自慢の食べ物
外国人と話していて気まずい雰囲気になることがある。そんなとき、その場の空気を一転させるのがお国自慢の食べ物の話題である。アメリカでは11月の感謝祭の七面鳥、中国では餃子の話題、スウェーデンでは秋のバルチック海でとれる小型ロブスター、ドイツではクリスマスのころの野鳥のオーブン焼きなどである。
@アメリカの七面鳥
開拓時代のアメリカには、野生の七面鳥が野山にたくさん棲んでいたそうである。秋の終わりの収穫祭、感謝祭にはどこの家庭でも七面鳥のオーブン焼を食べる。クリスマスの時も食べる。大切なお客が来ればその時も七面鳥を出す。
家庭へ招待されると、テーブルの上に焼き上げた大きな七面鳥がドッカリと置いてある。副食はゆでたジャガイモやブロッコリ、蕪、人参など。テーブルを囲んで全員が座ると、短い感謝祭のお祈りがあって、一家の主人が皆に七面鳥を切り分け、めいめい塩、コショーや各家庭独自のグレイビーをかけて食べる。
七面鳥は鶏の三、四倍と大きい。大きいだけで美味しくない。肉の身がパサパサして、味が淡白すぎると思う。
感謝祭やクリスマスのころになると、アメリカ人は「七面鳥を食べたか?」と、あいさつ代わりに聞く。これはあいさつで深い意味はない。「食べた」とか「これからだ」と食べる意思表示をする。それでよい。正直に「まずいから食べない」などと言うと、「なぜ食べない?家庭はないのか?家族と一緒に食べた楽しい思い出がないのか?」と、面倒な会話に発展する。
アメリカ人の多くは、幼少のころの楽しい家庭の思い出と、オーブン焼きの味が溶け合って、七面鳥が世界で一番美味しい食べ物と思い込んでいる。アメリカ人と気まずい雰囲気になったら、七面鳥の話題を持ち出すのが肝要である。
@中国人と餃子
北京よりも北の地方では稲があまり育たない。小麦粉の饅頭や餃子や麺類をよく食べる。日本では中華料理店とか、冷凍餃子をフライパンで焼いて食べる。美味しいとは思うが、特に人生にとっての家庭の重要性などを考え込んだりしない。ところが、中国では家族が集まるような楽しいときのたびに、全員粉まみれになってワイワイ騒ぎながら餃子を山盛りに作る。
中に入れる具は、白菜、韮(にら)、竹の子、葱(ねぎ)、何でもよい。豚肉の脂だけでも、肉だけでもよい。刻んだ野菜に混ぜ、調味料を入れて具を仕上げる。皮も家族全員で練った小麦粉を小さな麺棒で各自が伸ばして作る。厚いのも薄いのもお構いなしで、包み方や格好も自由である。その中に家族の数だけ甘い餡(あん)を入れた幸運の餃子を混ぜ、ゆで上げる。
丸く座った家族全員のだれかが幸運の甘い餃子に当るたびに大騒ぎになる。とにかく餃子だけを腹いっぱい食べる。中国人にとって、餃子は楽しい家庭の思い出と融合し、それを食べるたびに楽しくなるものらしい。餃子は家庭で皆がワイワイ作るもので、その過程が楽しい。
日本で安直に餃子を食べているのを見て、東京の大学に一年間研究留学していた金先生が「日本の餃子と中国の餃子は違うのだが、その違いを説明するのが難しい」と、何度も言っていた。北方の中国人へ餃子の話題を出すと、途端にニコニコする。
日本の自慢の食物は何であろうか。生活が苦しかった時代は正月のご馳走が、家族と一緒に過ごした楽しい時とともに思い出される。そのころは、地方によって違うお雑煮の作り方、お汁粉の作り方、年越しのご馳走やおせち料理の違いなどが、楽しい話題として職場でよく話されていた。それも遠い遠い昔になってしまった。
現在の若者に楽しい食べ物の話は?と聞けば、「家族全員で一緒に良いレストランで食事をしたとき」といった返事になり、特定の食べ物が挙がらない。グルメ文化の功罪である。(この稿の終わり)