後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「我が小金井の夏祭り、阿波踊り」

2024年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム
我が小金井の夏祭りは阿波踊りです。小金井では毎年7月の22日と23日に小金井阿波踊りが開催されます。
阿波踊りは、阿波国(現・徳島県)を発祥とする盆踊りです。高知のよさこい祭りと愛媛の新居浜太鼓祭りと並ぶ四国三大祭りであり日本三大盆踊りの一つとしても言います。
 現在は、阿波国以外にも伝播し、東京都などでも大規模に開催されるようになりました。阿波踊りは約400年の歴史を持つ日本の伝統芸能のひとつです。
踊る阿呆(あほう)に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々…と唄われます。
我が町、小金井でも7月の22日と23日に開催されます。
小金井の阿波踊りの写真を示します。 自分が撮った写真です。


阿波踊りの起源は精霊踊りや念仏踊りが原形であるといわれています。徳島藩が成立して以後、盛んに踊られるようになったのです。天正14年(1586年)、徳島城が竣工した際、当時の阿波守の蜂須賀家政が城下に「城の完成祝いとして、好きに踊れ」という触れを出したことが発祥と言われています。
徳島県の県人会などの指導により「東京高円寺阿波おどり」はの60年の歴史があります。その他、下北沢50年超、中目黒、三鷹、初台、神楽坂などが40年超、大塚、都立家政、中村橋、糀谷、経堂、小金井、神奈川大和、埼玉狭山ヶ丘、南越谷などが30年超の歴史を持っています。 

現在は徳島以外の各地で夏のイベントとして8月はほぼ毎日のように全国のどこかで阿波踊りが催されております。
例えば関東地方につて列記します。
東京高円寺阿波おどり(東京都杉並区高円寺)
初台阿波踊り(東京都渋谷区初台)
糀谷阿波おどり(東京都大田区糀谷)
下北沢一番街 阿波おどり(東京都世田谷区下北沢)
神楽坂阿波おどり(東京都新宿区神楽坂)
東京大塚阿波おどり(東京都豊島区大塚)
成増阿波おどり大会(東京都板橋区成増)
中村橋阿波おどり(東京都練馬区)
きたまち阿波おどり(東京都練馬区)
都立家政阿波おどり(東京都中野区)
三鷹阿波おどり(東京都三鷹市)
小金井阿波おどり(東京都小金井市)
以下、関東地方の11ケ所は省略します。

さて阿波踊りでは一つの踊りのグループの事を「連(れん)」と言います。徳島県には有名連と呼ばれる連が多数あります。
こうした有名連以外にも踊りが好きな者同士が集まって結成した連、企業が企業名を売り込む目的で結成した企業連、大学のサークルなどで結成した大学連、気の合う仲間で結成した連、商店街で結成した連等、徳島県内には大小さまざまの数多くの連が存在します。殆どの連は先頭に連名を書いた巨大な提灯を掲げて浴衣などに名前を入れて踊っています。

今日は全国的に広がった徳島の阿波踊りをご紹介致しました。小金井でも7月の22日と23日に小金井阿波踊りが開催されます。皆様の地域の盆踊りはどのようなものでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「日本中に何故、廃村や無人島がどんどん増加するか?」

2024年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日本中に何故、廃村や無人島がどんどん増加するか考えてみたいと思います。
日本全国に打ち捨てられた古里が沢山あるのです。1970年頃から始まった経済の高度成長で廃村が急増しました。現在の日本の人々はそんな事を忘れてしまったのでしょうか?
10年ほど前に八丈島へ一人旅をしました。見ると沖に八丈小富士という離島があります。昭和44年までは小学校や中学校があり2つの集落があったそうです。牧畜や漁業で生計を立てていたのです。それが完全に廃村になっているのです。八丈小富士の島を示します。10年前に私が撮った写真です。
1番目の写真は八丈小富士のある島です。
この美しい島に渡るには船をチャーターしなければなりません。人の住んで居ない島へは定期船などありませんでした。心を残しながら帰って来ました。
ところが全国の廃村を訪ね歩き、写真を撮っている奇特な人が居るのです。浅原昭生さんという1981年生まれの青年です。廃村訪問記と写真が沢山掲載されたHP、「廃村と過疎の風景」http://www.din.or.jp/~heyaneko/haison.html を出しています。感動的な内容のHPです。
その中に八丈小富士島へ船をチャーターして2度も訪問した時の感想文と写真があります。下に4枚の八丈小富士島の写真を転載させて頂きました。
2番目の写真は人が住まなくなった八丈小富士の風景です。
3番目の写真は人が住まなくなった八丈小富士の廃屋です。
浅原さんは全国の廃村を根気よく訪ね、写真を撮って記録として残しているのです。かつてその村に住んでいた人々を偲びながら記録を残しているのです。
私はこの浅原さんの気持ちに何故か感動します。
八丈小富士のある島は一つの例です。日本中に廃村や無人島がどんどん増加しているのです。
さて無人島化した離島一覧表は、「SHIMADAS」(日本離島センター刊)と「無人島が呼んでいる」(本木修次さん著,ハート出版刊)に詳しい情報が出ています。
日本には約3600位の島があります。、昭和時代に入ってから68の離島が無人島になってしまい、現在、人の住んで居る島は300位だけになってしまいました。
離島だけではありません。北海道から九州まで廃村になった村落が非常に増加しています。
何故、廃村や無人島がどんどん増加するか考えてみます。
よく田舎には就職口が無いから若い人が都会へ出て行ってしまうから過疎になると、人は簡単に納得します。
しかしそれは過疎化の原因の半分だけです。もう一つの原因は日本人の先祖の土地を守るという精神が無くなったからです。
このような現象が日本中に広がっているのです。
地方の自治体が過疎化を防ぐために都会からの移住を進めるいろいろな政策をとっています。しかしあまり成果はあがっていません。
過疎化は日本経済が豊かになり、先祖の土地を離れることに抵抗感が無くなればば当然起きる社会現象なのです。

そして近所でも過疎化の現象が起きていたのです。団地に人が住まなくなったのです。その結果書店街が消えてしまったのです。
このコメントで気がついたのですが私の家の近所の団地でも同じことがことが起きているのです。団地に住む人がいなくなったのでそばにあった商店街も消えてしまったのです。過疎化は都会の中でも進み、商店街も消えて行くのです。
都市の中の過疎化現象と消える商店街の様子を写真でご報告いたします。
4番目の写真は完全に空き家になった団地の棟を順次取り壊している光景です。
近所にあった広大な公務員団地の様子です。空き家です。団地の建物はコンクリートの打ち放しのままの貧弱な建物で、その上一軒の面積も狭いのです。少し余裕のある人は綺麗なマンションや一戸建ての洒落た家へ引っ越してしまったのです。
5番目の写真は私の家の裏手にあった商店街の現在の光景です。
私どもが1964年に引っ越して来た当時は両側にに20軒ほどの個人商店がビッチリと並んでいました。賑やかな商店街だったのです。酒屋、肉屋、葉茶屋、菓子屋、化粧品屋、八百屋、蕎麦屋、中華料理屋、本屋、電気屋そして歯科医院まであったのです。
夏になると商店街祭りがあり野外舞台にお笑い芸人や歌手が来ました。夜になると酒屋は椅子とテーブルをそろえ生ビールを出しました。浅草でサンバ踊りがあった後に踊り子が裏の商店街祭りにも来ていたのです。それは楽しい夏の夜の思い出です。そんな商店街が消えてしまったのです。
6番目の写真は私どもが1964年に引っ越して来た当時からあった寿司屋です。この菊寿司さんから何度も寿司を取り寄せたものです。現在は主人は亡くなって子供夫婦がしています。
7番目の写真は当時からあった肉屋の取壊し前の写真です。
この田中肉屋は当時のまま主人と奥さんと主人の姉の3人で営業していました。しかし現在は廃業して空き地になっています。
8番目の写真は裏の商店街に最近出来た「フレッシュさとう」という八百屋です。昔の酒屋と肉屋とお茶屋の跡を占めて賑やかに商売をしています。

以上のように都会の中でも過疎化して商店街が消えている場所があちこちに沢山あるのです。

今日は日本中に何故、廃村や無人島がどんどん増加するか書いてみました。都会の中でも過疎化して懐かしい商店街が消えてしまったのです。夏の商店街の祭りが楽しかったです。サンバ踊りを思い出します。
それにしても栄枯盛衰は世の習いです。嗚呼。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「テレビが普及する前の懐かしい戦後の日本映画」

2024年06月20日 | 日記・エッセイ・コラム
戦後に日本全国津々浦々にテレビが普及するまでの約30年間は映画全盛の時代でした。当時は邦画や洋画の看板が映画館にはなやかに飾ってあったものです。戦前に仙台で生まれ、戦後育ちの私はこれらの映画が大好きでした。
今日はテレビが普及する前の懐かしい戦後の日本映画のポスターの写真と、それぞれの「あらすじ」をお送りいたします。私の記憶に鮮明に残っている感銘深い映画を七つ選びました。
まず7枚のポスターの写真だけをご覧ください。興味深い映画を選んで「あらすじ」をお読み下さい。次に原作の文学作品の全文を読みたくなったら「青空文庫」を検索すれば全文を読むことが出来ます。
「青空文庫」の総合インデックス、https://www.aozora.gr.jp/index_pages/index_top.html の作家別か作品別に希望の名前をクリックすると作品が出てきます。その次、次と進んで最後に「 XHTMLファイル」の圧縮なしをクリックすると原作の全文が出てきます。

今日の「戦後の日本映画の写真とあらすじ」は以下の資料などから引用しました。
「昭和の名作邦画」、http://showa-love.jp/movie/showa1950s_japanese_movie
お楽しみ頂ければ幸いです。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は「青い山脈」 (1949年)のポスターです。
青い山脈 (1949年)は石坂洋二郎の小説を、今井正監督が、原節子を主演に迎え映画化した青春映画です。
戦後間もないころ田舎町の女学校に赴任してきた女性教師が、封建的な街の体制と戦う姿を描いたものです。
青年に池部良、少女に杉葉子、芸者に木暮実千代など懐かしい人々が出ています。
主題歌は服部良一作曲で、明るいメロディーーは今でも歌い継がれています。
封建的な町の青春映画です。戦後の自由と民主主義になろうとしていた社会に受け入れられ映画館は連日満員でした。
2番目の写真は『坊つちやん』のポスターです。
この映画は夏目漱石の小説『坊つちやん』を原作とした映画化作品です。これまでに5度映画化され、1935年版、1953年版、1958年版、1966年版、1977年版があります。
1953年版は東京映画製作。1953年8月12日公開で監督 : 丸山誠治でした。
キャストは、坊ちゃん : 池部良、 マドンナ:岡田茉莉子、山嵐 : 小沢栄、 赤シャツ : 森繁久弥、 たぬき : 小堀誠、 うらなり : 瀬良明、 野太鼓 : 多々良純などでした。
子供の頃から周囲と折り合いをつけることが苦手な不器用だった東京の青年が、愛媛の教師となり奮闘する物語です。理不尽なことを許さないもともとの性質は教師になっても抑えることはできず、己を信じて、正義のために戦うが、最後は破れて東京に帰ってしまう映画です。
坊ちゃんは子供のころから無鉄砲で、気性が荒かったので、親や兄からは嫌われていました。そんな中、いつも坊ちゃんの味方をしてくれたのは下女として働いていたおばあさんの清だけでした。
清は坊ちゃんの性格をまっすぐでいい性格だと事あるごとに褒めてくれました。
坊っちゃんにとっても清は心のよりどころであり、唯一の理解者でした。
そうして坊っちゃんは中学校の教師となりましたが生徒達と良い関係を築けません。
坊ちゃんは街の中で天ぷらそばを4杯食べているところを生徒に見られて「天麩羅先生」とあだ名をつけられたり、宿直として学校に泊まっていると、生徒に宿直室に大量のイナゴを入れられるといういたずらをされたりしました。
ある日、赤シャツと野だいこに誘われて坊ちゃんは釣りに行きます。二人は坊ちゃんのことを少しバカにしていました。
天麩羅先生やイナゴのことをネタにして陰でこそこそと笑ってました。
・・・中略・・・
坊っちゃんは、事あるごとに他人を陥れる赤シャツの横暴ぶりに堪忍袋の緒が切れ、赤シャツをこらしめる計画を山嵐とともに立てることにしましたのです。
坊ちゃんは赤シャツと野だいこが芸者遊びをしているところを取っ捕まえようと山嵐と一緒に待ち伏せをします。
そしてついに朝帰りをする二人ををこらしめてやりました。
坊っちゃんはその勢いでそのまま学校を辞めました。東京に戻った坊ちゃんは街鉄の技手となりました。
そして、清を呼び戻して、清が肺炎で亡くなるまでずっと一緒に暮らしました。
3番目の写真は「東京物語」昭和28年(1953年)のポスターです。
監督 小津安二郎、主演 笠智衆 原節子でした。
尾道から子供たち3人のいる大都会東京に出てきた老夫婦の周吉(笠智衆)ととみ(東山千栄子)でした。長男(山村聡)は開業医、長女(杉村春子)は下町で美容院を営み、戦死した次男の妻紀子がいまし。
子供たちにはそれぞれの生活で忙しく、居場所がない老夫婦でした。ただ温かくしてくれたのは血のつながりのない紀子(原節子)でした。
複雑な思いで帰途についた二人でしたが、東京で疲れたとみが倒れてやがて息を引き取ったのでした。
尾道に皆が集まりましたが、葬儀が終わっても周吉の世話をしてくれたのが紀子(原節子)でした。「あんたはいい人じゃ」と周吉がいい、周吉から妻の形見だといって時計を渡されて、紀子は号泣する。紀子はやがて新しい人生を決めたかのように尾道から東京に戻る。周吉は一人残って尾道の海を静かに眺めていた。
ちょうど朝鮮戦争が休戦となったころでした。なんの変哲もない日常の下町を描いた「小津調」と今でも慕われる名画でした。
4番目の写真は「七人の侍」昭和29年(1954年)のポスターです。
監督 黒澤明、主演 志村喬 三船敏郎でした。
戦国時代も末期、豊作の村を毎年のように襲ってくる野盗集団がいました。村の長老は侍を雇って村を守ろうとしました。その熱意に答えて七人の侍が村にきます。村人の竹槍と共に七人は柵や堀に敵を導き討ち取り、やがて追い払ったのです。
当時この人馬あいうつ死闘などが、米西部劇より迫力があって面白いと評価されたのです。黒澤明監督は大成功をおさめました。もともと黒澤監督が尊敬していたジョン・フォード監督西部劇の影響も受けていたそうです。
配役はリーダーを志村喬、菊千代を三船敏郎、その他木村功、稲葉義男、加藤大介、千秋実る、宮口精二の七人でした。
この映画は後に焼き直されて「荒野の七人」としてハリウッドでもリメイク制作され大ヒットしたのです。ヴェネチア国際映画祭銀師子賞受賞しました。
5番目の写真は「二十四の瞳」昭和29年(1954年)のポスターです。
監督 木下恵介、主演 高峰 秀子でした。
壺井栄の小説「二十四の瞳」が原作です。監督が木下恵介でロケは小豆島にある小さな分教場でした。そこの教師の大石先生を高峰秀子が演じました。時代は日本で不況がつづき、やがて満州事変、日中戦争へとまっさかさまに破局に向っていくような時代でした。島の若者も次々と出征して戦死、大石先生は軍人になりたいという教え子を「命を大切に」と諭しました。「アカ」との噂が立ちました。
やがて先生は若い遊覧船の機関士と結婚して3人の子供に恵まれました。しかし夫は召集されて戦死。そして敗戦、食糧難で娘も柿の木から落ちて死亡、先生も変転を重ねていきました。
終戦後になって分教場に戻った先生は、かっての子供たちと同窓会をして集まります。昔は子供だった瞳が大石先生を見上げていた光景を思い出します。大人になった者が戦争中の苦しみを話します。出征し戦傷を負い盲目になったソンキが哀れです。昔の集合写真の一人一人を指で差しながら名前を言って行きます。その指が少しずれてさしています。この場面は涙を抑えることが出来ません。
日本が戦争に突入し、これに呑み込まれていった女教師と子どもたち、その苦難と悲劇から戦争の悲惨さと悲劇を描いた映画でした。
6番目の写真は「野菊の如き君なりき」昭和30年(1955年)のポスターです。
監督 木下恵介、主演 有田紀子 田中晋二 でした。
原作は歌人伊藤左千夫の小説「野菊の墓」です。木下恵介監督は自然豊かな北信濃で主人公政夫(田中晋二)と二歳年上の美しい従姉妹の悲恋物語を描いた映画です。
もう半世紀を経ていた主人公政夫(演じるのは笠智衆)は年老いてから恋人だった民子(有田紀子)の墓に野菊を供えにふるさとへ帰省し、そこで当時の回想に浸ったのでした。
そのころ政夫の母が体が弱いので、従姉妹の民子が住み込みで手伝いにきてくれていました。村の住民が妬むほど仲がよくて時に喧嘩もしますが、なにはばかることもないような仲の良さが、やがて恋に変っていきました。ところが政夫は旧制中学に進み、遠くで入寮することになったのでした。ふたりは霧の流れる渡し場で別れなくてはなりませんでした。
時が流れ、民子は政夫を忘れての結婚を説得され嫁ぎましたが、嫁いだ後も政夫のことが忘れられなかったので、婚家では疎まれ続け、やがて流産をして体を痛めた末に息を引き取ってしまいました。手には政夫の手紙とリンドウの花が握られたままだったのです。
昔の場所に戻った政夫は、あの頃に自分がリンドウで、民子は野菊の花のようと語り合ったことを思い出すのでした。
当時の時代が持っていた田舎特有の因習や貧しさから、天真爛漫の二人の恋は途絶えたのでした。
経済が復興から成長を始めた世相に逆らうような純粋で美しい悲恋物語でした。
7番目の写真は「無法松の一生」昭和32年(1957年)のポスターです。
監督 稲垣浩、主演 三船敏郎 高峰秀子 でした。1958年にベネチア映画祭グランプリを受けました。
この映画は、かって戦時中1943年に一度稲垣監督で映画になっていて、公開がちょうど学徒出陣のころで、戦局は負けの様相で、生活も窮乏を極めたころでした。
舞台は九州の小倉、独身の人力車夫松五郎(坂東妻三郎、1957年のリメイクでは三船敏郎)は飲む打つ買うの無軌道な男で曲がったことは大嫌いでした。
ある日堀に落ちてけがをした少年・敏雄(長門裕之)を助ける。敏雄の父親は陸軍吉岡大尉(永田靖)で、その性格を気に入られた松五郎はその家に出入りするようになりました。しかし大尉はやがて急病で亡くなり、後には良子夫人(園井恵子、リメイクで高峰秀子)と一人息子敏雄が残される。婦人は息子を強い男にしてほしいと松五郎に期待したのです。松五郎もやる気で張り切り、やがて夫人への思いが募りだしたのです。
敏雄はやがて剛毅に育つが松五郎が「ぼんぼん」と呼ぶのを嫌って離れだすのでした。祭りの祇園太鼓を情熱をこめて叩く松五郎は恋慕の表情だったが、暗い時代は恋慕の画面を検閲でカットしました。やがて衰えて死んでいった松五郎、その貧弱な遺品の中から、夫人と敏雄のために預金を貯めていた通帳を見つけ、夫人は松五郎の真情をこのときに気づき泣き崩れるのでした。
稲垣監督のリメーク版はカラーででした。その後、「無法松の一生」は舞台演劇や歌謡としてもたくさん上演されてきました。

以上ここには7つの映画だけをご紹介しましたが、他にも沢山名作がありました。戦後の約30年間は映画全盛の時代だったのです。

「遥かなる我が故郷、仙台の近世の歴史」

2024年06月20日 | 日記・エッセイ・コラム
仙台は私が生まれた故郷です。1936年に生まれ1960年にアメリカへ留学するまで24年間住んでいた懐かしい故郷です。
今日はこの仙台の近世の歴史、郷土史をご紹介致します.
(1)伊達政宗が青葉山に仙台城を作り城下町を作った。
近世になるまでの仙台市域の大部分は国分氏の支配下にありました。国分氏は現在の多賀城市や仙台市岩切などを拠点とする留守氏と激しく対立していたのです。しかし戦国時代に入ると両氏とも戦国大名として台頭してきた伊達氏の軍門に下り伊達氏に隷属してしまいます。当時は仙台は「千代(せんだい)」と呼ばれていました。 
慶長5年(1601年1月28日)に伊達政宗が青葉山に仙台城を作り城下町を整備します。そして名前を「仙臺(仙台)」と改称したのです。
これが仙台の都市としての始まりでした。 62万石の仙台藩は、加賀藩(102.5万石)、薩摩藩(77万石)に次ぎ、尾張藩(約62万石)と並ぶ大藩だったのです。
(2)仙台の商業を発展させた近江商人たち
伊達政宗は仙台発展の体制を作りました。しかし実際に街造りを担ったのは商人たちでした。
城下町を豊かにしたのは士農工商のなかの工商階級でした。仙台にも鉄砲町や鍛冶町があり職人が鉄砲や刀剣を、そしていろいろな農機具を作っていました。そしていろいろな商店も出来ます。
郷土史家、田村昭さんによると仙台で一番古い店は田善銅器店(1596年)で、それから河原町にあった五軒茶店(1623年)や千松島酒造(1673年)などが記録に残っているそうです。
仙台藩は近江に飛び地の領地を持っていたこともあり、江戸中期に京都や滋賀からの商人が移住して来ました。奥州街道と仙台の大町通りの交差点にある「芭蕉の辻」近辺に店を構え、京都、大阪との商売で大きな儲けをもたらし、仙台を潤したのです。そのような豪商の代表は江戸中期の日野屋の中井新三郎です。現在の滋賀県の日野村からの移住者でした。
そしてもう一人居ます。現在の京都府の丹波の八木村から移住してきた豪商の八木久兵衛です。(八木久兵衛は代々同じ名前の八木久兵衛を使っていますのでご注意ください)
移住してきた始めの八木久兵衛は仙台の芭蕉の辻の近くに、「紅久」という化粧品や小間物を売っていた店を構えたそうです。「紅久」の創業は天明3年の1783年と言われています。その他、近江商人が何人も移住して来て、薬品店、小間物店、呉服店などなどを開業し、仙台の城下町は繁栄の時代を謳歌したのです。
仙台と京都の物流は西の峠を越して最上川に出て、酒田まで川を下って行いました。酒田には近江商人の町があり、そこを経由して北前船で京都、大阪と取引をしていたのです。現在、酒田や鶴岡、そして北海道の松前へ観光旅行をすると当時の近江商人の豪商の屋敷などがあって、北前船の重要性がよく理解できます。
明治維新が起きましたが、商人や職人は江戸時代のままの活躍を続けたのです。鉄道や銀行を作ったのは仙台の豪商たちでした。明治20年頃になって政府がやっと整い税収が増大してから鉄道も銀行も民間から買い上げて国有にしたのです。
(3)4代目、八木久兵衛が東北本線をつくった。
その明治時代に活躍した豪商の一人に「紅久」の4代目、八木久兵衛がいました。現在も仙台にある七十七銀行を作り、仙台味噌で大儲けをし、上野から仙台まで鉄道を敷き、兎に角、八面六臂の活躍をします。
終いには勅撰の貴族院議員になります。そうして仙台城の南西の広大な裏山を全て買い取る決心をするのです。実際にこの広大な国有の土地を買収する事業を完成したのは五代目の八木久兵衛の時です。そのお陰で、現在の仙台市に、「八木山」という地名が残りました。

その5代目、八木久兵衛の息子が八木栄治さんです。私が向山小学校へ通って居た頃、この栄治さんの一人娘が同級生に居ました。あまり目立たない大人しい子供でした。
八木栄治さんは小学校のPTA会長をしていたので何度かお会いしました。いかにも金持ちという鷹揚な態度で、やさしい話ぶりだったのを覚えています。
八木栄治さんの家は八木山の松林の中にある一軒家でしたが決して贅沢な家ではありませんでした。当時はそれでも広大な八木山一帯の土地を持っていて、その後、仙台市が動物園を作る時土地を寄付したり、住宅地へ開放したりして戦後の仙台の発展へも貢献していました。
さて最後に上記の記事に関連した写真を掲載します。

1番目の写真は私が昭和17年から23年まで通っていた向山小学校です。戦争中は向山国民学校という看板が石の門柱にかけてありました。日本軍が昭南島を占領した戦勝祝いに生徒全員がゴムマリを貰ったのを思い出しました。

2番目の写真は私が卒業した東北大学の金属工学科の建物です。現在は青葉山のキャンパスに引っ越して使っていませんが、赤レンガの建物が80年前と同じように残っています。

3番目の写真は青葉城の石垣です。城の建物はすべて戊辰戦争のおりに焼かれてしまいこの石垣だけが残ったのです。この石垣の下を右方向に車で登ると見晴らしの良い城跡に上がれます。

4番目の写真は城跡にある伊達政宗の騎馬像です。

5番目の写真は城跡から見下ろした現在の中心街の風景です。昭和20年の大空襲で一面の焼け野原になった町がこのような風景になったのです。

6番目の写真は広瀬川の評定河原橋付近から見た風景です。写真の左の小高い山に伊達政宗のお霊屋の瑞鳳殿があります。それで瑞鳳殿の下の町を「霊屋(おたまや)下」という地名になっています。この霊屋下には友人達が幾人か住んでいたのでしょっちゅう遊びに行った場所でした。

7番目の写真は伊達政宗のお霊屋の瑞鳳殿のある経ヶ峰の広瀬川に面した断崖の風景です。この写真の右手に家内が若い時に少しの間住んでいた公務員住宅があります。父親が東北大学で働いていたので一緒に少しの間住んでいました。この時見合いをして結婚した思い出の場所です。妻は鎌倉生まれ東京育ちですが偶然にもこの場所に住んでいたの結婚したのです。不思議な縁です。

さて皆様の生まれ故郷はどこでしょうか?遠方にある故郷は懐かしいものですね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「鎌倉の和食処の『鉢の木』の思い出」

2024年06月19日 | 日記
4月4日は家内が鎌倉で生まれた日です。数年前に車を走らせて、鎌倉の海を見て鉢の木という和食処で妻の誕生日の食事をしました。
写真は海の風景1枚と続いて鉢の木での写真3枚です。
鎌倉は何時行ってものどかな昔の日本の風情があって良いものです。

「古都、鎌倉の古刹めぐりの魅力ーその静寂の世界」

2024年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム
鎌倉は妻が生まれ育った町です。妻が懐かしいと言うで何度も行きました。そのうち私の故郷のように感じるようになりました。
今日はそんな鎌倉をご紹介致したいと思います。鎌倉の古刹めぐりの魅力を書きたいと思います。
鎌倉のお寺は円覚寺と建長寺の二つ以外のお寺は規模が小さくて質素なたたずまいです。京都の寺のように華やかでありません。静かな小さいお寺が沢山あるのです。
私はもう50年くらい前の中年になってからその魅力にとりつかれ何度も訪れました。円覚寺と建長寺をはじめ瑞泉寺、明月院、寿福寺、杉本寺、海蔵寺、報国寺、光明寺、などなど20位のお寺には何度も行きました。
ある時は鎌倉や逗子や江の島の宿に泊まり、まだ人のいない朝早くから、読経の声が響く境内を散歩したものでした。そして鎌倉のお寺から禅の精神を感じたのです。
そんな鎌倉のお寺を写真でご紹介したいと思います。

1番目の写真は円覚寺です。写真の出典は、https://www.engakuji.or.jp/about/ です。
円覚寺は臨済宗大本山で鎌倉時代後半の弘安5年(1282)執権北条時宗が中国・宋より招いた無学祖元禅師により開山されました。開基である時宗公は18歳で執権職につき、無学祖元禅師を師として深く禅宗に帰依していました。国家の鎮護と禅を広めたいという願い円覚寺を建てました。そして蒙古襲来による殉死者を、敵味方の区別なく平等に弔うたのです。
私は円覚寺の優しいたたずまいが好きで鎌倉に行くたびに訪れたお寺です。そして裏山に登り円覚寺の堂宇を見下ろしたものです。
円覚寺は北鎌倉駅の前にあります。鎌倉生まれの家内がまだ鎌倉を訪れたことの無かった私を連れて行った懐かしいお寺です。

2番目の写真は建長寺です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E9%95%B7%E5%AF%BA です。
このお寺は臨済宗建長寺派の大本山です。鎌倉時代の建長5年(1253年)の創建で、開基(創立者)は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼でした。開山(初代住職)は南宋の禅僧・蘭渓道隆です。建長寺といえば隣にある「鉢の木」という和食の店にもよく寄ったものです。
3番目の写真は海蔵寺です。写真の出典は、http://c-saito.at.webry.info/theme/b81436e5da.html です。
このお寺は鎌倉駅の裏側にあり駐車場も広いので何度も行きました。鎌倉仏教らしい質素なたたず枚が魅力でした。
4番目の写真は報国寺です。写真の出典は、http://matome.naver.jp/odai/2139072013871894901/2139088534565345703 です。
竹林が美しいので竹林を見に行ったお寺です。
5番目の写真は光明寺です。写真の出典は、http://blog.takuzousuinari.com/?eid=674527 です。
この光明寺の山門だけは例外的に壮大です。浄土宗の本山の一つの「大本山」なので大きいようです。鎌倉の寺は円覚寺、建長寺とこの光明寺以外はとにかく小さいのです。お寺の雰囲気が侘しいのです。それは質実の世界なのです。
しかしその侘しさが何とも言えぬ魅力なのです。日本文化の底に流れる清冽の精神が強く感じられるのです。

その魅力にとりつかれて以来、何故、鎌倉のお寺はそのような雰囲気を持っているか考えてきました。
一番大きな原因は古来からの天皇や貴族のための仏教を改革し、武士や庶民の為の仏教にしたからです。分かりやすく言えば鎌倉時代に起こった日本の宗教改革が原因なのです。
この宗教改革は主に京都で起きましたが、その当時の政治権力が鎌倉にあったので、新しい宗派の寺を鎌倉に建てたのです。
その改革によって生まれた6つの宗派を鎌倉仏教と言います。1、浄土宗 、法然(源空)、2、浄土真宗(一向宗) 親鸞、3、時宗(遊行宗) 一遍(智真)、4、法華宗(日蓮宗) 日蓮、5、臨済宗、栄西、6、曹洞宗 、道元、の6宗派です。
現在、鎌倉にあるお寺の一覧表は末尾の参考資料にありますが、その大部分はこの新しい仏教宗派のお寺なのです。
古い時代に鑑真の開いた奈良仏教の宗派や、空海の真言宗や最澄の天台宗はその教義とは関係なく、天皇や貴族によって保護されたために京都にある寺院仏閣はどうしても華美なものになっているのです。

ところで、これらの宗派のお寺も鎌倉にもあります。真言宗や天台宗のお寺も幾つかあります。
しかしそれらのお寺も質素なたたずまいです。鎌倉の武士や庶民の信仰の対称になったいたので、華美な雰囲気はありません。
さて、鎌倉のお寺を訪れると「鎌倉五山」とか「京都五山」という言葉が出てきます。
当時の政治権力者が新しい禅宗の臨済宗の寺院を格付けし、管理コントロ-ルをする制度で選ばれたお寺です。第一位の建長寺から順々に円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺(第五位)というランクがあったのです。幕府が住職を任命していたのです。
現在の政教分離の考えからあまり尊敬すべき制度ではありません。
しかし、この鎌倉五山のお寺も贅沢とはほど遠いたたずまいを見せています。

そんな鎌倉なので茶道も盛んでした。お寺の僧たちが茶道を愛したのです。現在でも抹茶を出してくれる店があちこちにあります。
鎌倉のお寺めぐりの魅力は「質朴の世界」にあるようです。日本人の心の琴線を掻き立てるのです。勿論外国の観光客もこの精神世界に触発され鎌倉を再訪する人も多いのです。

今日は鎌倉のお寺を写真とともにご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=================
(1)鎌倉の寺院一覧:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B8%82%E5%86%85%E3%81%AE%E5%AF%BA%E9%99%A2%E4%B8%80%E8%A6%A7
鎌倉地域
扇ガ谷 英勝寺  東光山 浄土宗 玉峯清因 英勝院 1636年(寛永13年)
鎌倉地域
扇ガ谷 海蔵寺  扇谷山 臨済宗建長寺派 心昭空外 上杉氏定 1394年(応永元年)
鎌倉地域
扇ガ谷 護国寺 (鎌倉市)  立正山 日蓮正宗   日達 1969年(昭和44年)
鎌倉地域
扇ガ谷 寿福寺 亀谷山  臨済宗建長寺派 栄西 北条政子 1200年(正治2年) 鎌倉五山第三位
鎌倉地域
扇ガ谷 浄光明寺  泉谷山 真言宗泉涌寺派 真聖国師 北条長時 1251年(建長3年) 鎌倉観音霊・・・・以下省略します。
(2)日本の仏教宗派一覧:http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/bukkyou26-4.htm
(3)鎌倉仏教:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E4%BB%8F%E6%95%99
「鎌倉新仏教」とは、一般には次の6宗を示している。
浄土宗 法然(源空)
浄土真宗(一向宗) 親鸞
時宗(遊行宗) 一遍(智真)
法華宗(日蓮宗) 日蓮
臨済宗 栄西
曹洞宗 道元
(4)鎌倉五山:
我が国の禅宗のうち、臨済宗の寺院を格付けをする制度。すなわち、幕府が任命した住持(住職)を順次上位の寺に昇進させることにより、幕府の管理下に置き、コントロールしようというもの。 鎌倉幕府の五代執権、北条時頼の頃、中国の五山の制に倣って導入したのが始まりで、その時々に応じて入る寺院や順位などが変動した。最終的には、京都と鎌倉にそれぞれ五山、その上に「五山之上(ござんのうえ)」という最高寺格として南禅寺が置かれた。現在の五山の順位が決まったのは、至徳3(1386)年、室町幕府三代将軍・足利義満の時。ちなみに、五山の下には、十刹、諸山がある。
(京都・南禅寺 - 別格上位)
建長寺 - 第一位
円覚寺 - 第二位
寿福寺 - 第三位
浄智寺 - 第四位
浄妙寺 - 第五位
(5)鎌倉の寺院マップ:http://www5d.biglobe.ne.jp/~shocoma/tp/kmmp.htm
そして、https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=znOgXTlC1ISA.k2mXDagL2b0E&hl=en_US

「フィリピンの世界遺産」

2024年06月18日 | 写真
ビガン歴史都市などフィリピン国内には、文化遺産・自然遺産あわせて6つの世界遺産があります。 写真を示します。

1番目の写真はバロック様式教会群です。
2番目の写真はフィリピン・コルディリェーラの棚田群です。
3番目の写真はビガン歴史都市です。
ビガンは、ルソン島の北部にある港町です。16世紀後半にスペインの植民都市として、中国やメキシコとの交易で繁栄しました。ここはスペインの伝統的な都市設計と同じく碁盤の目のようになっていて、2つの広場や大司教の宮殿、市庁舎、議事堂なども配置され、合計で233の歴史的建造物が残り、現在もスペインの植民地時代の名残が見られます。

 ビガンは太平洋戦争中に一度、崩壊の危機を迎えたことがあります。当時、この街に日本軍が籠城したことでアメリカ軍によって破壊される寸前でしたが、日本軍の中には現地の女性たちと結婚していた兵士がいたものの、ビガンの町並みを守るためにあえて去って街を守ったというエピソードがあり、現地では映画になっています。

「南ドイツの美しい世界遺産、バンベルクの町」

2024年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は以前ドイツに住んでいた頃に訪問した美しいバンベルクの町をご紹介致します。1000年以上古い南ドイツの町です。
その町バンベルクはレグニッツ川の中洲にあります。古都です。神聖ローマ皇帝のハインリヒ2世が1007年に司教座を置いてキリスト教の町として発展しました。
石畳の路地に軒を連ねる家々が中世の町並みのままです。第二次世界大戦の戦禍を免れたバンベルク旧市街は1993年に世界遺産に登録されました。 
写真をご紹介致します。
1番目の写真はンベルクの司教は市庁舎 です。レグニッツ川の中州に建っています。
2番目の写真はレグニッツ川の中洲の庶民の街インゼルシュタットです。 
3番目の写真も川の中洲の庶民の街インゼルシュタットです。 
4番目の写真はバンベルクの町です。人口8万人ほどの小さい町で中世の趣が感じられる古い町です。 
2度の世界大戦でも大きな被害を受けることがなかったため、1000年前に成立した街並みがそのまま今に残っています。 
バンベルクへは、近隣の大都市のニュルンベルクかヴュルツブルクから鉄道で行くのが一般的です。在来線の快速列車で1時間ほどで到着します。
 以前にドイツに住んでいた頃は私は車で行きました。ローテンブルグも近いので一緒に訪れました。茫々50年前の思い出です。

今日は美しい世界遺産のバンベルクの町をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群は世界遺産」

2024年06月17日 | 日記・エッセイ・コラム
縄文時代は日本人が好きな時代のようです。試しに「縄文まつり」を検索すると、全国のあちこちで OO縄文まつりの情報が沢山出てきます。
縄文人は日本人の祖先です。弥生時代や古墳時代にアジア各地から移住して来た人々と混血して日本人になりました。一方、北海道の縄文人は擦文土器時代を経てアイヌ文化を作ったのです。
ですから縄文時代に限ってみると北海道と北東北は共通の縄文文化が栄えたのです。勿論、縄文土器は八ヶ岳山麓を含めて全国から出土しますが、北海道と北東北は間違いなく縄文文化の栄えた一つの地域でした。
そんな理由から、北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群が、ユネスコの世界文化遺産になっているのです。
北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群は北海道・青森県・岩手県・秋田県の1道3県に点在しています。
構成資産一覧を示します。
北海道
1、キウス周堤墓群(千歳市)
2、北黄金貝塚(伊達市)
3、入江・高砂貝塚(洞爺湖町)
4、鷲ノ木遺跡(森町)
5、大船遺跡(函館市)
6、垣ノ島遺跡(函館市)

青森県
7、三内丸山遺跡(青森市、特別史跡)
8、小牧野遺跡(青森市)- ストーンサークル
9、是川遺跡(八戸市)
10、長七谷地貝塚(八戸市)
11、亀ヶ岡石器時代遺跡(つがる市) - 遮光器土偶
   および、田小屋野貝塚(つがる市)
12、大森勝山遺跡(弘前市)
13、二ツ森貝塚(七戸町)
14、大平山元I遺跡(外ヶ浜町)

岩手県
15、御所野遺跡(一戸町)

秋田県
16、大湯環状列石大湯環状列石(鹿角市、特別史跡)
18伊勢堂岱遺跡(北秋田市)

以上の遺跡は津軽海峡を挟んだ北海道・北東北に集中して発見されています。それらは縄文時代の各時期の人々の生活跡の実態を示す遺跡(集落跡、貝塚、低湿地遺跡)や、祭祀や精神的活動の実態を示す記念物(環状列石、周堤墓)で構成された17遺跡で、世界的にみても貴重な文化遺産です。

それでは縄文時代の生活はどのようなものだったのでしょうか?
縄文時代の人々は円形の小さな小屋に住み、原始的な狩猟、採集で生活をしていたのです。
その時代は約12000年間もの長い時代が続いたのです。土器や石器は使っていましたが、農業は無く、村落の規模も小さく、文字文化はありませんでした。そんな時代が12000年も続いたのですから驚きです。
一例として青森県にある三内丸山遺跡と出土品の写真を示します。
1番目の写真は三内丸山遺跡に復元された建物群の写真です。写真の出典は、http://www.geocities.jp/tadoru_ono/osaka-49.html です。
遺跡には大型家屋の跡があり、整然と並んだ小型住宅の跡もありました。その上、食料貯蔵用の高床式倉庫群もあり、祭祀用の神秘的な巨大な柱や整然とした墓地もあったのです。
それは小さいながら一つの王国のようです。残念ながら文書だけは存在していなかったので、その王国の統治組織や社会階組織は全く不明です。
しかし祭祀の場所、居住区の場所、お墓のある場所が整然と分けて存在してある事実をみると高度な文化社会が存在していたと考えざるを得ません。
それは弥生時代や古墳時代の地方の豪族の領地支配の歴史へと繋がる社会と文化だったのです。
三内丸山遺跡はこのような縄文中期の高度な文化を示す驚異的な遺跡であり、実に多彩な出土品も出ているのです。
2番目の写真は山の土を掘って自然薯や食用にする根を採った道具です。あるいは住居の周囲に堅果類の木を植栽するときに植える穴を掘ったのかも知れません。原始的な農業用の道具です。

3番目の写真は墓地の発掘現場です。楕円形に並んだ石の中心に墓穴が掘られ、人骨が埋葬されていたものと推定されています。
4番目の写真は植物の繊維で編んだ袋です。木の実採集の時に使ったり、小物入れにして使ったと想像できます。このような繊維製品や漆器も出土していて文化の高さを示しています。

さてこのように北海道や北東北に栄えた縄文文化は、その後の縄文時代後期の突然の寒冷化で衰退してしまうのです。
縄文前期の日本全土の縄文人の総数は2万人位でした、中期には26万人まで増加します。しかし、後期の寒冷化によってまた数万人までに減少するのです。
人口が確実に増加に転ずるのは稲作が始まった弥生時代からです。
このようにして青森県の三内丸山遺跡も縄文後期には衰退してしまうのです。
なお縄文時代後期の急速な寒冷化に関する厳密な学術調査の結果は、http://web.joumon.jp.net/blog/2011/07/1291.html に説明してあります。合わせてご覧ください。

それにしても縄文時代は想像していたよりも遥かに文化程度も高く、社会の統治組織も出来ていたのですね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「それにしても懐かしい世界遺産の頤和園の長い廊下」

2024年06月17日 | 写真
昆明湖の北岸に沿って伸びる長い長い回廊が懐かしいです。1980年に家内と歩きました。「長廊」は長さ728メートルの道です。その梁には、花鳥画、風景画、歴史画など14000枚もの絵が描かれているのです。
写真の出典は、https://www.travel.co.jp/guide/article/9771/ です。


「中国の世界遺産の写真」

2024年06月17日 | ブログ
中国は57の世界遺産があり世界の第二位です。その幾つかの写真を示します。出典は、https://www.travel.co.jp/guide/matome/1599/ です。

1番目の写真は中国の湖南省に位置する世界遺産「武陵源(ぶりょうげん)」です。

2番目の写真は4世紀から約1000年に渡り造られた石窟が集まる仏教遺跡「莫高窟」です。

3番目の写真は田んぼのど真ん中にある世界遺産「開平の望楼群と村落」です。

4番目の写真は明と清の時代に歴代皇帝が五穀豊穣を願って祭祀を行った祈りの場所「天壇」です。

5番目の写真は清朝第6代皇帝の乾隆帝が、母親の還暦を祝って造営した北京最大の皇族庭園「頤和園」です。

「日本にある世界遺産とイタリーの世界遺産」

2024年06月17日 | 日記・エッセイ・コラム
日本にある世界遺産は全部25です。それに対してイタリーには世界最多の58もあります。中国は57で世界の第二位です。
今日は日本とイタリーの世界遺産をご紹介したとおもいます。
まず日本の世界遺産一覧をご紹介致します。





1法隆寺地域の仏教建造物奈良県平成5年文化
2姫路城兵庫県平成5年文化
3屋久島鹿児島県平成5年自然
4白神山地青森県・秋田県平成5年自然
5古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)京都府・滋賀県平成6年文化
6白川郷・五箇山の合掌造り集落岐阜県・富山県平成7年文化
7原爆ドーム広島県平成8年文化
8厳島神社広島県平成8年文化
9古都奈良の文化財奈良県平成10年文化
10日光の社寺栃木県平成11年文化
11琉球王国のグスク及び関連遺産群沖縄県平成12年文化
12紀伊山地の霊場と参詣道三重県・奈良県・和歌山県平成16年文化
13知床北海道平成17年自然
14石見銀山遺跡とその文化的景観島根県平成19年文化
15小笠原諸島東京都平成23年自然
16平泉‐仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群‐岩手県平成23年文化
17富士山‐信仰の対象と芸術の源泉‐山梨県・静岡県平成25年文化
18富岡製糸場と絹産業遺産群群馬県平成26年文化
19明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県・鹿児島県・山口県・岩手県・静岡県平成27年文化
20ル・コルビュジエの建築作品‐近代建築運動への顕著な貢献‐東京都
※フランス・ドイツ・スイス・ベルギー・アルゼンチン・インド
平成28年文化
21「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群福岡県平成29年文化
22長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産長崎県・熊本県平成30年文化
23百舌鳥・古市古墳群‐古代日本の墳墓群‐大阪府令和元年文化
24奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島鹿児島県・沖縄県令和3年自然
25北海道・北東北の縄文遺跡群北海道・青森県・岩手県・秋田県令和3年文化
これに対してイタリーには58もの世界遺産があるのです。
ヴァルカモニカの岩絵群をはじめ58もあります。イタリア北部、アルプスの麓を流れるオリオ川のカモニカ渓谷に、イタリアで最初に登録された世界遺産「ヴァルカモニカの岩絵群」があります。 
紀元前8000年から約8000年間にわたる線刻画が残っており、その数は14万点。古代人の生活や農耕の様子、航海、戦争、ローマ帝国時代の文字などさまざまな絵が描かれています。 
その他は、https://skyticket.jp/guide/80201/ に掲載されています。
ここでイタリーの世界遺産の写真を示します。
1番目の写真はイタリア北部のオリオ川のカモニカ渓谷です。イタリアで最初に登録された世界遺産「ヴァルカモニカの岩絵群」があります。
2番目の写真はピサの斜塔です。
3番目の写真はヴェネチアです。

4番目の写真はヴァチカンです。
さて最後に世界遺産の多い国々を示しておきます。

イタリア59

中華ちゅうか人民じんみん共和国きょうわこく(中国)57

ドイツ52

フランス52

スペイン50

インド42

メキシコ35

英国えいこく33

ロシア31

イラン27

日本25
日本は11位です。意外にもメキシコは8位で35も世界遺産があります。

今日は日本にある世界遺産とイタリーの世界遺産をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)