◇カナダの宣教師の布教活動
カナダからアルフレッド・ラッセル・ストーン牧師戦前から布教活動で長野県を中心に「農村伝道」の実践をしてきた。
終戦後昭和21年(1946)戦争で荒廃した日本に再び来日し、農村伝道を始めた。
◇此処多摩平の森の出会い
当時、日本には未だ布教活動の拠点と言えるようなものがなく、農村伝道の拠点作りに東京近郊をあちこち探し回り 昭和22年(1947)彼の故郷を思わせる美しい森である、此処多摩平の森に出会う。
この樹林はもともと大正天皇の御料地として宮内庁が造林した森で、ストーン牧師は一目見て、感動した。
昭和23年(1948)4月14日、念願であった農村伝道の拠点、「中央農村教化研究所」をこの地多摩平に作った。
<ストーン牧師の足跡物語がこのとんがり帽子の展示物に詳しく描かれる。>
当時の写真から 教会の開所式を祝福するかのように桜が満開であった。(現水道局の桜と推定される)
◇洞爺丸事故に遭遇し不慮の死
ストーン牧師は「日本復興のために農村伝道に身を捧げるよう、新たな決意を胸に誓った。
その後、東京近郊から日本全国に跳び回る多忙な日々を送る事になり、農村伝道の活動は北海道にまでに及んだ。
昭和29年(1954)9月、函館の教会で説教を終えたストーン牧師は東京へ戻るため、青函連絡船に乗り込もうとしていたが、不運にも洞爺丸事故に遭遇する。
身につけた救命胴衣を外し、日本は若い人が作りあげるのだと言って青年に譲り渡す。
この後、洞爺丸は沈没し、死者1155名、生存者僅か159名のという、タイタニック号に匹敵する海難事故になった。
9月28日の朝、ストーン牧師は遺体となって発見された、享年52歳。一緒であった米国出身でキリスト教宣教師ディーン・リーパーも亡くなる。享年33歳。
遭難の翌日、それぞれの母親によって、米国人宣教師に救命胴衣をもらって助かったという情報が新聞社に持ち込まれ、「北海に散った神の使徒」という題で報道された。
死後に、勲五等双光旭日章を追贈された。
作家三浦綾子氏の小説「氷点」の中でも洞爺丸に乗り合わせた悲憤の牧師のモデルになっている。
◇日野台幼稚園の歴史
1947年現在の多摩平の森に相当する土地はストーン牧師の尽力により宮内庁から購入する。造林した土地で、その規模は3万2千余坪に及び、当時の面影は今日にも散見される。
1951年(昭和26年)この一画約800坪は教会堂と園舎と宣教師住宅が残された農村伝道神学校
と附属保育園として日野台保育園が誕生する。
その後、取得した大半の土地は日本住宅公団に譲渡され、今日の公団の原型となる。
1959年、保育園から日野台教会附属幼稚園となる。
当園は、日野市で最初に認可された幼稚園で、当初からキリスト教保育を掲げてきた。
<植え込みの中、現在の日野台教会附属幼稚園で背後は協会が隣接する>
我が家の子供たちも、今は成人し、それぞれ独立したが、学校に上がる前の幼児時代に此処で世話になった。
父兄として、クリスマスや幼稚園の定例行事など呼び出され、園舎やグランドで一緒に、楽しみ、子供たちの逞しい成育振りを見守った。
◇その遺志が今日に継がれる
ストーン牧師は日野台の森にユートピアを作ろうと思っていた。この森を作り育て、ストーン牧師の精神と共に次世代引き継ぐものである
前述の通り、ストーン牧師は志半ば、不慮の事故で亡くなってしまったが、最後の最後まで、愛の手は差し伸べ、尽くされた。
日野台教会附属幼稚園では毎年、冬の時期になると、大きな木に電飾が飾られ、頂上には十字架が周囲を見下ろすようにさんぜんと輝いている。
ストーン牧師の追悼にも、思えてくるかがり火である。
子どもたちが、神様の愛に守られて、生きることの喜びを感じ、人間性豊かな心が育まれることを祈る。
そんなメーセージが託された、特別な意味を込められた、正に巨大なクリスマスツリーである。
一方ではストーン牧師が広大な大正天皇の御料地を買い上げ、此処に教会や保育園を建て、活動の拠点としている。後に周辺一帯は多摩平の森となる中核になり、このツリーがそのシンボル的な存在の役割を果たしている。
季節柄厳寒の中、人影も見えない漆黒の世界に、色取り取りの光が、クリスマスの温かい雰囲気を造っている。
遠目では見ていたが、一度、真直にこの姿を捉えて見たかった。
三脚を持参し、カメラを固定し、ISOの感度200、シャッター速度を2秒の長秒時撮影で、こんな画像が捉えられた。
真っ暗闇の世界で、見た目はもっと暗いが、シャッターの長時間解放が路面の様子までくっきりと、別次元の世界を捉えることが出来る。
『さあ~夜明けだ』漆黒の闇の世界がら、日の出を迎え、ロマンを呼んだ幻想の世界は終わった。
カナダからアルフレッド・ラッセル・ストーン牧師戦前から布教活動で長野県を中心に「農村伝道」の実践をしてきた。
終戦後昭和21年(1946)戦争で荒廃した日本に再び来日し、農村伝道を始めた。
◇此処多摩平の森の出会い
当時、日本には未だ布教活動の拠点と言えるようなものがなく、農村伝道の拠点作りに東京近郊をあちこち探し回り 昭和22年(1947)彼の故郷を思わせる美しい森である、此処多摩平の森に出会う。
この樹林はもともと大正天皇の御料地として宮内庁が造林した森で、ストーン牧師は一目見て、感動した。
昭和23年(1948)4月14日、念願であった農村伝道の拠点、「中央農村教化研究所」をこの地多摩平に作った。
<ストーン牧師の足跡物語がこのとんがり帽子の展示物に詳しく描かれる。>
当時の写真から 教会の開所式を祝福するかのように桜が満開であった。(現水道局の桜と推定される)
◇洞爺丸事故に遭遇し不慮の死
ストーン牧師は「日本復興のために農村伝道に身を捧げるよう、新たな決意を胸に誓った。
その後、東京近郊から日本全国に跳び回る多忙な日々を送る事になり、農村伝道の活動は北海道にまでに及んだ。
昭和29年(1954)9月、函館の教会で説教を終えたストーン牧師は東京へ戻るため、青函連絡船に乗り込もうとしていたが、不運にも洞爺丸事故に遭遇する。
身につけた救命胴衣を外し、日本は若い人が作りあげるのだと言って青年に譲り渡す。
この後、洞爺丸は沈没し、死者1155名、生存者僅か159名のという、タイタニック号に匹敵する海難事故になった。
9月28日の朝、ストーン牧師は遺体となって発見された、享年52歳。一緒であった米国出身でキリスト教宣教師ディーン・リーパーも亡くなる。享年33歳。
遭難の翌日、それぞれの母親によって、米国人宣教師に救命胴衣をもらって助かったという情報が新聞社に持ち込まれ、「北海に散った神の使徒」という題で報道された。
死後に、勲五等双光旭日章を追贈された。
作家三浦綾子氏の小説「氷点」の中でも洞爺丸に乗り合わせた悲憤の牧師のモデルになっている。
◇日野台幼稚園の歴史
1947年現在の多摩平の森に相当する土地はストーン牧師の尽力により宮内庁から購入する。造林した土地で、その規模は3万2千余坪に及び、当時の面影は今日にも散見される。
1951年(昭和26年)この一画約800坪は教会堂と園舎と宣教師住宅が残された農村伝道神学校
と附属保育園として日野台保育園が誕生する。
その後、取得した大半の土地は日本住宅公団に譲渡され、今日の公団の原型となる。
1959年、保育園から日野台教会附属幼稚園となる。
当園は、日野市で最初に認可された幼稚園で、当初からキリスト教保育を掲げてきた。
<植え込みの中、現在の日野台教会附属幼稚園で背後は協会が隣接する>
我が家の子供たちも、今は成人し、それぞれ独立したが、学校に上がる前の幼児時代に此処で世話になった。
父兄として、クリスマスや幼稚園の定例行事など呼び出され、園舎やグランドで一緒に、楽しみ、子供たちの逞しい成育振りを見守った。
◇その遺志が今日に継がれる
ストーン牧師は日野台の森にユートピアを作ろうと思っていた。この森を作り育て、ストーン牧師の精神と共に次世代引き継ぐものである
前述の通り、ストーン牧師は志半ば、不慮の事故で亡くなってしまったが、最後の最後まで、愛の手は差し伸べ、尽くされた。
日野台教会附属幼稚園では毎年、冬の時期になると、大きな木に電飾が飾られ、頂上には十字架が周囲を見下ろすようにさんぜんと輝いている。
ストーン牧師の追悼にも、思えてくるかがり火である。
子どもたちが、神様の愛に守られて、生きることの喜びを感じ、人間性豊かな心が育まれることを祈る。
そんなメーセージが託された、特別な意味を込められた、正に巨大なクリスマスツリーである。
一方ではストーン牧師が広大な大正天皇の御料地を買い上げ、此処に教会や保育園を建て、活動の拠点としている。後に周辺一帯は多摩平の森となる中核になり、このツリーがそのシンボル的な存在の役割を果たしている。
季節柄厳寒の中、人影も見えない漆黒の世界に、色取り取りの光が、クリスマスの温かい雰囲気を造っている。
遠目では見ていたが、一度、真直にこの姿を捉えて見たかった。
三脚を持参し、カメラを固定し、ISOの感度200、シャッター速度を2秒の長秒時撮影で、こんな画像が捉えられた。
真っ暗闇の世界で、見た目はもっと暗いが、シャッターの長時間解放が路面の様子までくっきりと、別次元の世界を捉えることが出来る。
『さあ~夜明けだ』漆黒の闇の世界がら、日の出を迎え、ロマンを呼んだ幻想の世界は終わった。
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