575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

望月さま   遅足

2006年10月04日 | Weblog

愛知県の奥三河に望月峠と呼ばれる峠があります。
織田・徳川連合軍と武田の騎馬軍団が激突した長篠の合戦。
武田軍が敗れ、望月某という武者が信濃に落ちて行く途中、
村人に殺されました。
武者の死体は、放置されたままでしたが、間もなく疫病が流行。
村人は「望月さま」の祟りと恐れ、信濃の見える峠に丁寧に葬りました。
峠には、今も「望月さま」と呼ばれる祠があります。

      

「望月さま」のことはすっかり忘れていましたが、
先日、中仙道の望月宿を訪れる機会があり、望月一族のことを知りました。
望月宿は、佐久市の千曲川と鹿直川が合流するあたりにあります。
古代から望月の牧と、呼ばれる有名な馬の産地で、
望月氏は、この牧を掌握した武士団でした。
歴史に登場するのは、源平合戦の頃。木曽義仲に従って京に上っています。
その後も、鎌倉幕府に仕え、勢力を誇っていました。
南北朝の動乱の頃、南朝方についたのが躓きのもと、次第に衰えて行きます。
新興勢力の武田信玄と戦って降伏。長篠の合戦に参加しました。
そして武田氏の滅亡後、間もなく、歴史から姿を消していきます。

      

私は、なぜか南北朝時代に活躍した後醍醐天皇の皇子のひとり、
宗良親王に関心があって、その遺跡を訪ねてきました。

  都へといそぐをきけば秋をへて雲ゐに待ちし望月の駒

この歌は、宗良親王の歌集「玉葉集」にある歌です。

  信濃国に住み侍りし頃、人々に歌よませ侍りし次に、駒迎のこころを

という前書きのある歌です。
信濃の望月氏に身を寄せていた頃に詠んだ歌でしょうか。
皇子の悲願は、戦に勝利して都に帰還することです。
望月氏の助力に感謝する心を込めて詠んでいるのでしょう。

望月さまと宗良親王が繋がっているとは思いもよりませんでした。

      

南北朝から戦国時代にかけては、日本の大きな転換期。
この時代に、古代からの名族の多くが滅んでいます。
そうした中で、見事に生き残った天皇家。
現代の天皇制の原点が、この時代にあるという歴史学者もいます。
そんな興味が、宗良親王への関心の根っ子にあるのかも知れません。




コメント (2)
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