愛知県の奥三河に望月峠と呼ばれる峠があります。
織田・徳川連合軍と武田の騎馬軍団が激突した長篠の合戦。
武田軍が敗れ、望月某という武者が信濃に落ちて行く途中、
村人に殺されました。
武者の死体は、放置されたままでしたが、間もなく疫病が流行。
村人は「望月さま」の祟りと恐れ、信濃の見える峠に丁寧に葬りました。
峠には、今も「望月さま」と呼ばれる祠があります。
「望月さま」のことはすっかり忘れていましたが、
先日、中仙道の望月宿を訪れる機会があり、望月一族のことを知りました。
望月宿は、佐久市の千曲川と鹿直川が合流するあたりにあります。
古代から望月の牧と、呼ばれる有名な馬の産地で、
望月氏は、この牧を掌握した武士団でした。
歴史に登場するのは、源平合戦の頃。木曽義仲に従って京に上っています。
その後も、鎌倉幕府に仕え、勢力を誇っていました。
南北朝の動乱の頃、南朝方についたのが躓きのもと、次第に衰えて行きます。
新興勢力の武田信玄と戦って降伏。長篠の合戦に参加しました。
そして武田氏の滅亡後、間もなく、歴史から姿を消していきます。
私は、なぜか南北朝時代に活躍した後醍醐天皇の皇子のひとり、
宗良親王に関心があって、その遺跡を訪ねてきました。
都へといそぐをきけば秋をへて雲ゐに待ちし望月の駒
この歌は、宗良親王の歌集「玉葉集」にある歌です。
信濃国に住み侍りし頃、人々に歌よませ侍りし次に、駒迎のこころを
という前書きのある歌です。
信濃の望月氏に身を寄せていた頃に詠んだ歌でしょうか。
皇子の悲願は、戦に勝利して都に帰還することです。
望月氏の助力に感謝する心を込めて詠んでいるのでしょう。
望月さまと宗良親王が繋がっているとは思いもよりませんでした。
南北朝から戦国時代にかけては、日本の大きな転換期。
この時代に、古代からの名族の多くが滅んでいます。
そうした中で、見事に生き残った天皇家。
現代の天皇制の原点が、この時代にあるという歴史学者もいます。
そんな興味が、宗良親王への関心の根っ子にあるのかも知れません。